25;無責任な噂の真実は
あたしがそれを耳にしたのは本当に偶然で――偶然てコワイ、と思った。
無責任な女の子の噂話は面白い。あたしもときどきはそれに混ざるから、楽しさもわかる。それに、噂話なんてすぐにころころと変わる。真実が混ざっているのかもしくはまったく根も葉もない話なのか、それすらわからなくてもただ唇に乗せてさえいればいいのだ、女の子は。
トイレの個室を出ようとしたところで、隣が空いた気配がした。手洗い場で数人が喋っている輪へその人が混ざったのもわかった。複数の声が華やぐ。
すんなりとドアを開けなかったのは……亜矢の名前が聞こえたから。
昔から亜矢は女の子の噂の的になることが多い。わかってたし、亜矢自身も気づいてるけど気にしない、というスタンスなのを知ってからはあたしも気にしないようにしていたけど……今日は、違う。
「あたしも聞いたー! 笹木さんが別れたのはまあ予想出来たけど、まさかねえ」
「伏兵現る!だよねー」
きゃははははは、と無邪気な笑い声が上がる。
「別れるの待ってたのかなー」
「そりゃあさ、傷ついてるときに優しくされれば、ねえ?」
「良くあるパターン、王道〜」
「落ち込んでるところをつけこむってやつ?」
あたしの、こと――?
ごくりと唾を飲み込み、動かない手をじっと見つめる。笑い声はいっそうからからと高く上がり、そしてトイレからだんだん遠くなっていく。
声がすっかり消えて人気がなくなったのを確認してからドアを開け、手を洗いながらあたしは大きく深呼吸をした。
そうだよね。傍から見たらそういう風に見えておかしくない。それに……半分くらい事実かもしれないし。
自分が噂の槍玉にあげられているっていうのは初体験で、居心地の悪さにあたしは溜息をついた。ハンカチで手を拭きながら、あたしは鏡を見る。
亜矢、偉いなあ。こんな中でよく頑張っていられると思う。……あたしも、頑張らないと。
「ね」
鏡の中の自分へむかって念を押すように呟くと、あたしは今日、亜矢に言おうと決心した。
「よし」と言いながら教室へ戻る――途中で、亜矢に捕まった。
「ちょ、ちょっと結ちゃん! あたし……! あいたっ」
言いかけたところへ、担任教師が教科書で亜矢の頭を突っつく。
「いたーい! もう〜〜〜」
「授業終わったらいくらでも喋れるだろ、早く中入れ〜」
「あーもう! 痛いんだから〜」
担任に、教室へと押し込まれながら亜矢が頭をさすりながらぶつぶつと文句を言いつづけていた。
授業終了後、お昼休み。亜矢が真っ先にあたしに駆け寄ってくる。
「ねね結ちゃん、中庭行こうよ、中庭!」
日が差す中庭でのランチはときどきするけど、今日はちょっと暑いと思う……。
あたしの視線だけで言いたいことを感づいたらしい亜矢は、「大丈夫、日陰があるもーん」とお弁当箱を手にしてあたしを引っ張った。仕方ないかと亜矢についていき、中庭の端にある大きな木の陰を陣取る。さすがに涼しいとまでは言えないけど、まあ、耐えられなくはない。
「あのね結ちゃん、あたし……」
他愛ない話でお弁当を食べ終え、お茶を片手にのんびりしていると、亜矢が妙に改まった口調で切り出した。
「あたしのことはいいんだけど……」
ちょっと言いよどむその仕草で、あたしはぴんと来た。さっきトイレで聞いた噂、亜矢も聞いたんだ。
「結ちゃんのことまで悪く言われてるみたいなの、あたしのせいかもしれない」
「えっと……亜矢、あの……」
どうやら亜矢は、自分のせいであたしが根も葉もない噂を囁かれてるって思っているらしかった。
まあ確かに、亜矢の彼氏が変わるときはいつも亜矢を悪く言う噂が飛び交ってる。笹木さんがすごい我侭だったみたいよとか、単なる遊びだったって言ってたらしいとか、そのほとんどが根も葉もない、事実とはまったく違う話だった。
今回も確かにそういう話もちらほら聞こえていたけど、それにあたしを巻き込んだと思っているらしい。
「ごめんね。あたしと亮くんのことは、結ちゃんには何の関係もないのに」
「亜矢、あのね、聞いてほしいんだけど」
すまなさそうに謝る亜矢に、あたしはまずそう切り出した。切り出してしまえば、あとは言うしかない。亜矢がこくんと頷いてあたしの次の言葉を待っている。
「えっとね、あたし、と、本宮。あの……付き合ってるの」
亜矢の大きな瞳がより大きく見開かれ、みるみる顔が笑顔に満ちる。
「本当?! ほんとなの? 結ちゃんと亮くんが?」
嬉しそうに笑ってそう訊ねる亜矢に、あたしはこくこくと頷く。すると亜矢はにこっと笑って「良かったねっ」と言った。
たぶんその言葉に深い意味も裏もないのだ。亜矢は単に、あたしに彼が出来たことを喜んでくれているだけで。例えばそこになにか思うところや厭味など、まったく入っていない。そういう風にすぱりと割り切って考えられるのはすごいと思うけれど、誤解されることも少なくない。
ただ、あたしは亜矢と付き合ってきて、それを良く知ってる。亜矢は、本当に喜んでくれているのだ。
「うん……まあ、ね」
「びっくりしたなあもお! で、いつから付き合ってるの? あーでも教室じゃ全然そんな素振りないんだもん、気づかないよ〜、あ、希くんにも内緒なの? 朝とか一緒にくればいいのに〜」
にこにこ顔であれこれ質問を織り交ぜながら、亜矢は上機嫌だった。
予鈴が鳴ったのを機にあたしたちは腰を上げ、教室に戻る。亜矢があたしと並んで歩きながら、さらりと言った。
「噂なんて放っとけば飽きるから」
やけに真面目な声音だったせいであたしがまじまじと亜矢を見ると、あたしの方を向いた彼女はいつもの笑顔で「ね?」と笑った。
噂が流れているのを知っていると、人の視線やささやき声がわかるようになる。あたしは努めて聞いていない振りをしていたけど、その日の放課後、あたしがぶつけて倒した椅子が本宮に当たったことで周囲の視線が集まったのがわかった。
「ご、めん」
「いいよ、大丈夫」
本宮はちょっと素っ気無くそう言うと、無言で椅子を直してくれる。その素っ気無さで本宮の耳にも噂が届いてることを感じると、あたしは小さな声で「あの……」と切り出した。
けれど本宮はあたしにその先を言わせず、ちょっとこ強張った顔で一瞬あたしを見て「気にしないでいいから」とだけ言った。
それが椅子のことなのか噂のことなのか――判断がつきかねたあたしが返事が出来ずにいると、周囲の視線がふわりと揺れて、釣られてそっちへ目を向けると若原が近づいてきていた。
「亮輔、今日部活だっけー?」
あたしに軽く手を掲げて挨拶を寄越した若原は、いつもどおりだ。話してあるとはいえ、噂が耳に入らないことはないだろう。
「じゃ、あたし帰るね」
「おお、じゃーねー」
「じゃあな」
軽く挨拶だけすると、あたしは二人から離れて教室をあとにする。視線はもう散会していて、あたしはちょっとほっとした。
なんていうか……針のむしろ?
せめて直接聞くとか何とかしてくれたほうがラクなんだけどなあ、とちょっと溜息をつくも、あたしは亜矢のことを思い出して気にしないことにして、昇降口へ向かう。
向こう側から歩いてくる人に気づいたのはそのときだった。内沢さんと、そのとき目が合った。この間言われたキツイ言葉が蘇る。
また何か言われるか、とあたしはちょっと身構えていたけれど、内沢さんは完全にあたしを無視して通り過ぎた。その無視の仕方があからさまで、あたしはまだ彼女が何かを怒っているのに気づいてもう一度、溜息をついた。
もう……あっちもこっちもホント、面倒くさいなあ。