ザ・フライ
永凡寺は異様な熱気に包まれていました。そこに居合わせた者は十七、八人。上半身を晒している者、渡世人風の者、どこかの中元かと思わせる者、等々が、壺振りの動き、賽の目に視線を這わせています。
「駒出揃いやした。ようござんすね?――勝負!」
中盆の声と共に、壺振りがぱっと壺を上げます。
「五二の半!」
としの頃は、二十五、六でしょうか。黒い着流しの牢人の前へ、駒が動かされる。半方に張っていたのでした。男はそれを受け取ると、その半分を中盆に返して、
「今日は少し、勝ち過ぎたようだ。ま、祝儀だ」
静かに立ち上がり、賭場を出て行きます。
夏の盛り、暮四ツ(夜の十時頃)を過ぎても、じっとしていると汗が滲み出てきます。賭場を出た牢人者は、袖下に三両もの大金を落とし、帰途につく。
実のところ、この牢人者には、まだまだ勝てるという、見込みがあったようです。それなのに張り続けなかったのは、
――そろそろ曲賽が出てくるぞ。
この直感に他なりません。壺振りの腕自体は良い物でした。ですが、曲賽を見抜く者が恐らく居たでしょう。仮に居なかったとしても、曲賽を使われたのではたまらない。
――面倒事はごめんだ。
いつもの賭場とは違います。普段は本郷町の小山城址近くの、申香院という廃寺で開帳かれている賭場へ行っているのですが、今日は河岸を変えて城北の永凡寺まで足を伸ばしたのです。博打仲間の一人が永凡寺に腕のいい壺振りがいると言っていたのが気になってもいました。
とは言え、いきなりやって来て勝ちまくるのも、面倒のもとです。
そんな事を考えながら、住まい(と、言っても居候の身なのですが)まで、一町ばかりに迫った頃です。
「居たぞ! こっちだ!」
不意に野太い声がどこからか上がったかと思うと、曲がり角から人影となって躍り出てきた者がおります。
一見して武士でした。月明かりに透かしてみると、その武士はどうやら子供をおぶっているらしい。
牢人は歩を止める。
と、武士に遅れること数瞬して、四人ほどの人影が曲がり角から走り出てきました。彼らも明らかに武士のようです。
「待て!」
四人が叫ぶ。子供を負う武士は追われているらしい。
「父上!」
負われた子供も叫びます。逃げる子負いの武士の進路上に牢人の姿を見止めたからでした。武士は立ち止まる。
「挟まれるとは……」
「いや、わたしは――」
牢人者は懐手のまま、返答しようとしたところで、四人が追いつきます。
「観念したか」
子負いの武士は一旦振り向き、また牢人へ顔を戻すと、じりじりと道の端にさがっていきます。
「貴様も武士なら、潔く腹を括れ」追っ手の中の一人が子負いの武士に叫びました。
「やむをえぬ」
追われる武士は膝を折り、
「離れておれ」
負っていた子供を降ろし、立ち上がりざま言いました。
「お主の言うように、腹を括るしかないようだな」
と、刀の柄に手をかけます。それを見て取って、最前とは違う追っ手の一人が制します。
「貴様の腕では俺を斬れぬぞ? それでも抜くか」
「これでも武士の端くれ! 抜かずに死んでは先祖に顔向け出来ぬ!」
しかし、抜刀したはいいが、腰が落ち着きません。
――ふうむ……。放ってもおけぬな。
牢人は肚裡で呟いたものです。
「言ったはずだぞ? 貴様では無理だ」
「無理かも知れぬ。いや――無理であろう。だが……私は……」
ただならぬ決意があるようですが、刀も声も震えています。人に刃を向けるのは初めてでしょう。
「愚かな……」
制した追っ手は静かに口を開いて、これもまた静かに抜刀しました。途端、夜気に鋭利さが加わります。
月が出ているとはいえ、夜の闇の中です。それでも、牢人者が一目見ても、力量の差は明らかでした。かたや相当の遣い手、かたや児戯。武士が何をどうしたところで、一刀のもとに、が関の山です。
勝手に追っ手の一人と勘違いされたわけですが、それでむざむざこの武士が殺されてはさすがに目覚めが悪い。牢人はそう思い、一歩進み出て、
「まあ、待たれよ」
のんびりと発しました。
「む、なにやつ」
追っ手たちはそこでようよう、この牢人者の存在に気付いたようでした。
「名乗る程もないただの牢人。厄介ごとはご免だが、目の前で起こっては看過も出来ぬ」
「事情を知らぬ者は黙っているがいい」
追っ手の一人が切り捨てたが、牢人者も引きません。
「確かに事情は知らぬ。だが、一人を相手に四人だ。口を挟む理由には足りると思うが」
牢人は懐手のままなおも一歩、一歩と進み出ます。
「まあ、ここはその刀、納められてはどうか」
抜刀していた追っ手は何も答えない。が、混じっていた鋭利さは先ほどよりも幾分か薄れているよう。
「邪魔をするな」
が、追っ手の別の一人は牢人の前に進み出ます。間合いを測り立ち止まる。右手が柄にかかった瞬間――
「ふむ。水鴎流か。しかも生半の腕では無いようだ」
いきなり、牢人が看破。
「ぬっ――!」
水鴎流は三間与一左衛門景延を流祖とする、居合の一派です。
追われる武士とその追っ手に埋めようの無い差があるように、牢人とその相手にも差があるようです。一目で流派を言い当てられた時点で、言う所の鞘の中にあるはずの勝ちはすでになくなってしまいました。
「富樫、お前の敵う相手ではないな」
抜刀していた追っ手はそう言って、武士に注意を払いながら刀を下げました。
「お主が何者かは知らぬ。だが、お主相手では我らは生きてはおられまい。ここは我らの死に場でもなければ死に時でもない」
そのまま納刀します。
「命を拾ったな芝村。だが、忘れるな。貴様は藩を裏切ったのだ」
「井上! それは誤解だと、何度言えばよいのだ! 私はただ――」
「そう思われている事が問題なのだ!」
「……」
牢人は何も言わずに見守ったままです。
「ゆめゆめ気をつけるがいい芝村。次は問答無用で斬る」
井上と呼ばれた武士の言葉は、不思議にも牢人に向けられたようでした。
――ふうむ。やれやれ。厄介ごとは御免被りたいのだがな……。
牢人は井上某の真意を察して、肚裡で嘆息します。
「行くぞ」
井上某が踵を返しました。
「井上さん――!」
富樫某が戸惑い気味に井上に追いすがる。他の二人も同じでした。
四人が完全に去るのを見て、芝村某は長々と息を吐いてその場にへたり込みました。
「父上――」
芝村の息子が駆け寄る。五つ六つくらいかと、牢人は見当をつけます。
「数馬……無事か」
「はい。父上は」
「大事無い」
親子のやり取りに被せて牢人は言います。
「ま、無事で何より。さて……何からどうしたものか」
「あ、これは御無礼を……助けて頂きながらその礼もせずに――」
芝村親子は地べたに座り、居ずまいを正します。牢人は慌てて膝を折る。
「ま、ま。礼には及ばぬ事。気に召されるな」
「しかしそれでは」
「気が済まぬというのなら、場所を変えてはどうか。一町ほど歩けば、わたしが居候している剣術の道場がある。そこで聞きましょう」
牢人が居候している立花道場の一室で、二人はまず名乗りあいました。
「わたしは海老野風雷。ごらんの通りの痩せ牢人ですが、三年ほど前から、ここに居候して、近所の子供たちに読み書きを教えています」
「先ほどは助けて頂き、誠にかたじけなく。拙者は芝村左近。これは拙息の数馬と申します」
数馬少年は礼儀正しく頭を下げました。
「鳴子藩勘定奉行に勤めておりましたが、先頃、妻を亡くしました。前々から、藩には愛想を尽かしておりましたので、それを機に、暇を出しました」
「ふむ。裏切りだの、誤解だのとは、どうやらその辺りにあるようですな」
「時期が時期ゆえ、ある程度致し方ないとは考えておりましたが……」
風雷は少し押し黙ります。黒船が来航し、開国を迫っている時勢です。左近が何をどうして藩に愛想を尽かしたのかは判りませんが、奉行所の役人が辞職すれば、裏切り者のそしりを受けるのも仕方の無いことであるかも知れません。
「先ほど、井上某が申しておりましたな。裏切りと思われている事が問題なのだと」
そしりを受けるだけならばまだ解かりますが、命まで狙われるのは少々奇妙です。
「おそらく、何か秘密を握っておられるのではないかな? それを訊こうとは思わぬが」
風雷の言葉を、左近は否定しました。
「……確かに、拙者は上司の不正には気付いておりました。が、拙者はそれをどうにかしようとする気も無い臆病者。秘密を握るなど、とても……」
「上司の不正――なるほど、命を狙われるのも尤もかも知れませんな。かかる時局、幕府が崩壊するやも知れぬとなれば、計算高い者は知恵を働かせるのも無理からぬところ。面従腹背でどちらに転んでも良いようにとするには、懸念は無い方が好ましい」
「それで、拙者を?」
「そんなところでしょう」
風雷が断定すると、しかし、左近は渋面です。
「しかし……拙者は気付いているだけで、証拠を掴んでいるわけでは……」
「はは、芝村さん。一日の内には昼も夜もある。お手前はどうも、昼しか起きて来られなかったようですな。いや、それが悪いと言っている訳ではないのですが」
「いえ……」
「夜に起きているような輩には、昼の常識など通じぬものです。それに、不正が事実であろうと無かろうと、その噂が立つだけで困った事になります」
「……」
左近が押し黙る。と、その隣の数馬の姿が風雷の目に映りました。手はしっかりと膝の上に置き、鼻腔を広げてあくびを噛み殺しています。
――ほう……。やはり。
風雷になにやら直感めいたものが走ります。それでもそれをおくびに出さず、風雷は左近に訊ねます。
「して、これからどうされる?」
「妻の郷里が陸奥弘前ですので、そこを頼ろうと思っておりますが」
「ふうむ……」
風雷はしばし考えたのち、言いました。
「危険だとしか、言い様無いですな」
陸奥弘前に進路を取れば、日光街道を通り、宇都宮で奥州街道に入るのが普通でありましょう。そして追われる左近は普通過ぎました。少しでも追われている自覚があるのならば、そんな行程は踏まぬはずですが、裏をかいたつもりか、路銀が心細いのか。選択肢としてはまず壬生へ向かう、あるいは宇都宮城下まで行けば、水戸街道、奥州街道、そのまま進み会津西街道の三択、一旦戻るのならば、東山道に出る、または例幣使街道から会津西街道へ。小山の宿場はそれなりの大きさですが、街道の分岐がある訳ではありません。ここで追っ手に捕捉された今の状態では進退窮まっているし、今後、また見つかるような事があれば、井上某の言葉どおり、有無を言わさず斬られる事でしょう。
「ところで、芝村さん。もうお疲れでしょう。ご子息共々、今日はもう休まれるとよい。宿もまだ決まっておられぬでしょう。井上某の言葉もありますし、今日はここに泊まられてはどうか」
「助けて頂いた上に、誠にありがたいお言葉ではありますが、そこまでお世話になるわけにもいきますまい」
左近は断ります。それでも風雷は食い下がりました。
「気に召されるな。行くも戻るもかなわぬならば、いっそ、しばらくここに居てはどうかなどと、勝手に考えた次第。状況を考えるに、最適の選択だと思われるが? それに丁度、男手が欲しいと、ここの手伝いをしているお玉さんがぼやいておった。だから、どうだろう、芝村さん。ここで暮らしてみては」
「しかし……」
一晩の厄介から長逗留へと、いつの間にか風雷の提案が変わっております。事の急展開についていけない左近が何も言えないでいると、
「近くの子供たちに読み書きを教えているのは先ほどお話したとおりだが、そろそろ算盤も教えてやらねばと思っております。しかしながらわたしは、算盤はどうにも苦手。勘定奉行に勤めておいでになったのなら、わたしの替わりに子供たちに、教えて頂ければ……そんな打算もあるのですよ」
「海老野どの……かたじけない」
だが、やはり、そこまで甘えるわけにはいきませんと、左近は辞去を申し出ました。
「では、宿がお決まりになるまでお付き合いをいたしましょう」
「返す返すお心遣い痛み入ります」
「なに、乗りかかった船でござる。お気が変わられたら、明日にでもここにお見えになられると良い。向こうさまも日の昇っている内は手を出しますまい」
下野の国には、南に江戸、北に会津、東には水戸、西には中山道があります。特に、江戸から会津なり、水戸なりを目指す、もしくは、日光参詣から江戸へ帰る者が、必ずと言って良いほど通るのが、小山の宿であります。
その小山宿のはずれ、若木というところに、立花道場があります。道場主である立花外記は、天真正伝香取神道流、中西派一刀流、忠孝真貫流、更には愛洲陰流まで学ぶなどした一流の武人です。立花家は元々、花霞流という忍術を伝承する一族でありました。しかし、外記は情報収集術に特化した花霞流よりも、純粋な剣術を学びたく、家督を弟の内記に譲り、先に挙げた各流派の道場の門を叩き歩いたのでした。それらで、免許を皆伝した外記は、故郷に戻って道場を開いた、これが、右の立花道場でありました。この立花道場が、昨晩、風雷が芝村親子を伴った剣術道場でありました。
その立花道場は、剣術道場だけで無く、寺子屋という一面も持っています。当初、外記が剣術指南の傍ら、近在の子供たちを教育していたのが、花霞から仕事を頼まれるなどで忙しくなってきていたそんな折、ふらりとやって来た海老野風雷に、それを任せたのでありました。
子供好きだったのでしょう、風雷は二つ返事で了承しました。
左近との邂逅の翌日、風雷は、すでに道場から、門下生の威勢のいい掛け声が聞こえて来ていると言うのに、布団の中で夢を紡いでいます。
「先生! 芝村さまとおっしゃるお武家様がお見えですよ!」
道場の家事手伝いをしてくれているお玉が、恰幅の良い体を揺さぶって、言いながら風雷の部屋の襖をすばんっ、と開けました。
「ほらほら先生、起きて下さいな」
敷布団を両手で掴んで、引っこ抜きます。風雷はごろごろと横に転がります。
「……いつも思うのだが、もっと優しく起こして貰えぬものかね、お玉さん」
ねむい目をこすりながら風雷は大あくび。
「なにを言ってらっしゃるんでしょうね。この人は。もう四ツ半(昼十一時頃)ですよ。四ツ半まで寝かせてあげているのに、このお玉が優しくないとおっしゃりますか」
両手を腰に当てて、お玉がふんぞり返ります。
「すまんすまん。わたしが悪かった。それより、芝村さんが来たのだって?」
いつも、風雷はお玉に叩き起こされます。そしていつも寝坊癖をうるさく言われるのです。風雷が慌てて話題を変えると、お玉は思い出したようにまくし立てました。
「そうそう! なんでも先生にお会いしたいと。三十がらみの好い男ですねえ。お子さんも将来はいい男になるでしょうよ」
元来話し好きなお玉。風雷は少々辟易しております。
「わたしはこれから、師範にその人を引き合わせる。お玉さん、その間、芝村さんのご子息を見ていてくれぬか」
「そりゃあようござんすとも。正心館にお連れしておきましょう」
お玉が、どん、と威勢良く自分の胸を叩く。正心館とは、近在の子供たちに読み書きを教えている所です。と、風雷の脳裏に昨夜の数馬に対する直感がよみがえりました。
――いや、やはり……。
頬を膨らますお玉を背中に、風雷は芝村親子を伴って、外記の居る道場へ上がりました。
練心館と名付けられた道場には、二十人余りの門下生が稽古に励んでいました。殆どの者が竹刀稽古ですが、腕が上がると木刀稽古に切り替わる。外記の歳は五十を過ぎているが、竹刀を片手に門下生の中に混じっています。
「やあっ――!」
気合も高く、防具を付けた門人が外記に打ち込む。声もですが、根結い垂髪の姿が女と判らせるのです。外記は防具を付けては居ない。竹刀で受けた、と思うと次の瞬間、外記の竹刀は門人の面を捉えていました。
「はっはっは。お見事な打たれよう」
風雷が拍手すると、馬鹿にされた門人が声を上げました。
「先生! またそうやって!」
「いや、すまんすまん」
門下生が面の紐をほどき始める。若い女の、上気した色白の顔が現れました。
「だが、なんの。前に見た時よりも、腕は上がっていると見えたぞ、初音どの」
「先生が前にここに来たのはもう、三ヶ月も前です! 上達していない訳ありません!」
この初音という少女は、立花外記が一人娘です。年は十七。お百姓でも剣術を学べるこの御時世、それでも女が剣を習うのはまだまだ珍しく、立花の女剣士と、近在の者たちからもちょっとした有名人でありました。しかし有名人であるにはあるのですが、所詮は女の細腕、名が高ずるほどに腕はなかなか高じず、だからこそ本人は焦れてもいるようです。
風雷の言葉にぷりぷりする初音を尻目に、外記が風雷に訊ねました。
「それより、風雷、どうしたのだ? ……そのお方たちは?」
「ええ、そのことで少し、お願いがあるのですが」
外記は頷いて、師範代の所沢佐源太に後の指導を頼む。
「初音どのも、お願いしたい」
「わたしも、ですか?」
風雷は、「お願いいたす」と、微笑んだだけで、その場では事情を話しません。
住まいの奥座敷で、外記、初音の前に、風雷と左近、それに数馬が並んで座っています。
「仔細は判った」
外記が芝村親子に向かって穏やかに言いました。
「好きなだけここに居て下され」
左近が恐縮して、
「ですが、拙者は追われる身にござります。ご迷惑ではないでしょうか」
「なに、連中どもも今は頭に血が昇っておるだけでしょう。しばらくすれば冷静になることかと思われる。親子ともども、好きなだけ居て下され」
「かたじけのうござる」
平伏しました。数馬も、父に倣って頭を下げます。
「ところで、芝村さん」
風雷は数馬を見つめながら、口を開く。
「ご子息には、素質があると、わたしは見積もっているのだが」
「うむ」
と外記も頷きます。
「は? 素質……と申されると?」
左近は何を言われているのか、判らないようでした。
「やあとう、で、ござるよ」
と、風雷は置いた自分の刀をさする。
「まことか……いや、しかし、拙者が拙者だけに……」
信じられない、と左近は戸惑います。風雷の脳裏に昨夜の光景が甦る。
「鳶が鷹を産んだ、と言ったところですかな」
思わずそんな言葉が口をついてしまいました。
「先生」
と、初音が注意すると、
「あ、これは失言」
風雷は額を打ちます。
「とにかく、どうだろう。剣術を学ばせてみては。無論、数馬どのがお嫌ならば無理強いは出来ぬが……」
「数馬、どうだ? やってみるか?」
父親から促された数馬は、居並ぶ大人たちの顔を、一人一人見て、頭を下げたのでした。
「よろしくお願いします」
と、上げた顔は、期待に満ちています。
正心館で子供たちに左近を引き合わせ、授業が終了したのち、六ツ頃(六時頃)に風雷は往来に出ました。賭場へ向かうつもりです。
昨日行った賭場での帰り、芝村親子を拾い、今日は別の親子を拾う、などという事はさすがに無いでしょうが、永凡寺に足は向きません。
道場から申香院までの丁度中間あたりで、風雷はつと、歩を止めました。二町ほど前から尾けられている感覚があります。そろそろ通りの店も閉まろうかという時間ではありますが、人通りは少なくない。何が目的かは判らないが、すぐに仕掛けては来ないだろうと思われます。
再び歩き出す。と、風雷はわざと人の通りが無い道に入りました。数間歩いて、振り向き、そのまま佇みます。
やがて、尾行者が姿をみせました。三十がらみの大柄な武士です。太い眉と唇が、意志の強さを感じさせます。
「うぬっ――!」
尾行者は呻きます。
「やはり、尾けていたのはわたしか」
「さすが」
尾行相手に待ち伏せされながら、二言目にはすでに動揺の色が無い。なかなかに肝の据わった男のようです。風雷はその尾行者の声に聞き覚えがありました。
「お主……昨夜の井上某か」
「いかにも。鳴子藩士、井上首馬」
「して、何用か」
少なくとも、すぐに立ち合い、という感じは流れていません。
「海老野どのに折り入ってお頼みしたい儀がござる」
風雷の事は知っているよう。今日一日で町の者たちに聞き込んだに違いない。ならば風雷が名乗る必要はありません。
「お手前は、これから頼みごとをする人間を尾けられるのか。いささか変わった趣味をお持ちだな」
風雷は揶揄します。
「無礼は承知の上。望まれるならいかようにも謝罪いたす。しかしながら、拙者の尾行に気付かなければ、お頼みする意味も無いと言うもの。どうか、枉げてお聞き届け戴きたい」
口調はていねいですが、少しも悪びれる様子がありません。首馬のその言葉に、風雷は不穏な色を読み取る。
「わたしに何を期待されているかは知らぬが、お断りしよう」
風雷は背中を向けます。
「海老野どの!」
首馬は叫ぶ。
「思い違いで無ければ、わたしは昨夜、お主の思惑を汲み取った。これ以上の関りはご免被る」
「事はその芝村にまで及ぶやも知れぬ! どうか!」
引き止めるために、咄嗟に出た言葉か、風雷はそう感じましたが、昨夜の事を思えば、あながちでたらめでもない様に思えます。
風雷は数瞬黙考ののち、
「致し方あるまいか。聞くだけ聞こう」
「かたじけない」
首馬は頭を垂れました。
小半刻(約三十分)ののち、二人は申香院に姿を見せています。
「こう、客が少ないんじゃ、張り合いもねえってもので……。どうです、旦那がた」
頼んだ酒と漬物を届けに来た中盆が声をかけるが、「後でな」風雷はそう言っただけです。風雷と首馬の他、客は二人しか居ません。一人は砥師の勘一、もう一人は大工の喜助。二人とも風雷とはよく知った仲。
張るのが二人では盛り上がらない。案の定二人は張る事無く世間話をしています。
風雷と首馬は張り場から離れた場所に座ってい、そこなら勘一たちに話を聞かれる事は無い。酒の肴に漬物をつまみながら、首馬の頼みを風雷は聞きました。
「単刀直入に申せば、斬って頂きたい者がいる」
風雷にはなかば予想していた事です。風雷は無言で箸を動かす。
「その者の名は、伊夏 鱗虞。名前の通りの清国人でござる」
「……」
――伊夏 鱗虞!
風雷は肚裡で叫んだものです。伊夏鱗虞は六年前、風雷がまだ諸国を巡り歩いていた頃に出会った拳法家であります。ひょんなことからしばらく行動を共にしましたが、結局は果し合いになってしまいました。圏なる独特の武器を自在に操り、風雷を追い詰めたが、決着の着かぬままに別れた。できれば、二度と対峙したくない相手です。
だが、おくびにも出さず、風雷は首馬を促します。
「拙者と芝村は共に学問所で机を並べた同期でござる」
首馬も左近も代々鳴子藩に続く家柄で、江戸勤番を命ぜられていた。子供の頃、親交を結んだと言う。
元服後、二人は一旦国許へ戻り、鳴子藩勘定奉行 伊丹吉之丞の配下として働きはじめた。が、程なくして左近は上司である伊丹に疑問を抱き始める。自分をごまかし職務に全うしようとしていたが、妻の死をきっかけに左近は暇を請う。左近の疑念に薄々感づいていた伊丹は引き止めたが、決意は固い。もしやこの男は大目付 戸野間図所の指図で動いているのではないか。となれば江戸にいる藩主 武部秀重に内々に言上する可能性がある。
そこで、首馬ら四人が呼ばれ、左近を討つよう命令されたと言うのです。
「上司を悪し様に言うのは気が進まぬが、やはりどうかしていると言う他はありません。芝村がそのような事……。しかしながら、拙者らがどのように芝村を庇い立てした所で、伊丹さまは全く聞き入れては頂けず、斬るか、連れ戻すかとの事。詮方なくこうして追跡している仕儀でござる」
風雷は猪口に注いだ酒を一息に呑み、また注ぎながらやっと口を開きました。
「お手前は、芝村さんを斬るつもりは無いと申されるのか?」
もし、そうであれば、昨夜の出来事は腑に落ちません。首馬の思惑を汲み、左近を預かりましたが、あの場に風雷が居なければ、左近はまず間違い無く斬られていたでしょう。昨晩の首馬の剣気がそれを語っていました。
「海老野どの。察して下され。拙者は芝村を斬りたくは無い。が、立場上、斬らねばならぬ。上意なのだ」
海老野どのが昨夜居合わせた事は、拙者にとっても僥倖でござった、首馬はそう続けました。
左近を見つけた場合、首馬は、まずは説得と考えていたとのことです。ですが、仲間内で意見が別れました。最初から根気よく説得をするか、のっけに一発おどしをかけるかで、揉めたのです。
根気よく説得をしたところで、芝村の心は動くまい、なれば、多少殴りつけてでも、話しをつけなければならない、と。
「昨夜芝村を発見した我らは、その思いでござった。あにはからんや。芝村の子、数馬がいち早く我らに気付き、芝村は走り出した。そして、芝村は刀を抜いた……」
「わたしが腑に落ちぬのは、そこだ」
風雷は猪口を下げました。
「芝村さんを斬りたくないのであったならば、なぜそのような行動に出た? 上意なのは解る。だが、斬りたくないのであれば、見つかったものを見つからないと言う事も出来たはずだ」
「それは……我らが四人、全てが同じ立場ではござらん」
首馬ともう一人、風雷の前に進み出た水鴎流の剣士、富樫彦太郎は気持ちを同じくするが、あとの二人は少々異なると首馬は言いました。大槻市之進、神部十郎太の二人は、首尾良く事を成せば、出世の可能性もあるだろうと見ています。風雷の言うように、見て見ぬ振りをしようにも、その二人に口裏合わせが期待できない、と首馬は明かしました。
「芝村が抜き、拙者も抜いた。あまりにも頑なならば、いっそ拙者の手で始末をつけようと」
また、そうしなければ、大槻と神部は納得しなかっただろう、と首馬は付け加えます。
「それで? それと伊夏鱗虞なる者と、どう結びつくと言うのか」
「我らが不首尾の際に、その者が動く手筈となっているのです。そして先刻、その報告に大槻と富樫が国許へと戻りました」
海老野風雷という牢人の邪魔が入り、芝村左近を取り逃がした事、立花道場に草鞋を脱いだ事が、報告の内容です。
「ふむ……」
小山宿から鳴子藩まではおおよそ七日から八日の行程です。半月ののちには伊夏鱗虞が姿を現すでしょう。
「海老野どの、芝村がこの宿に留まるのならば、我らは手出しせぬ。伊夏鱗虞を待つ方が確実だろうからだ。だが、逃がせば、我らは追わねばならぬ。伊夏鱗虞は手練ですが、いっそ芝村にはひとつ所に留まり、海老野どのにこれを撃退して頂きたいのです」
左近の延命にはそれが一番良い方法だと、風雷も思います。ですが。
「仮に伊夏鱗虞なるのを撃退したとしよう。だが、第二第三の刺客が現れないとも限らぬ」
「尤もなご懸念でござる。しかしおそらくそれはありますまい」
「何ゆえに」
「伊丹さまの不正に気付いておるのは、藩内にも多いと言う事でござる。心ならずも拙者はこうしてここにいる次第ですが、大目付、戸野間さまなどが内密に伊丹さまをお調べになられておられるはず。さすれば必ず近い内に、伊丹さまの所業、明るみに出る。それに、恥ずかしい話ですが、藩内に伊夏鱗虞に勝る手練はおりません」
風雷はしばし押し黙りました。ふと、片唇に笑みを浮べます。
「お手前の話は分った」
「されば――」
「分ったのは、お手前を信用出来ぬ、と言う事だ」
「な……!」
「お手前は勘定奉行の配下として動く傍らで、大目付とも通じているな? なるほど、部下として上司の不正を糺すは武士の道なれど……お手前、なかなか策士だな」
すぐには言葉が出ず、首馬は風雷を見据えます。
「家中の者の多くが不正に気付き、大目付も動いていながら、当の奉行が安穏としているのは何故か。確たる証しが無いのであろう。そうであれば奉行の失脚にはなるべく多くの証言が欲しい。芝村さんを助けたいのもそこだろう」
「……」
「一方で奉行の配下としても、芝村さんを始末できれば、今しばらくは安泰。……どちらに転んでも、お手前には昇進が待っておろうな」
「海老野どの! それは誤解だ!」
「井上さん、腹を割られてはどうか」
「……正直に申し上げれば、多少なりともその思惑があるのも事実。だが、海老野どの、拙者はまことに藩と芝村を思って――」
本心だろうと風雷は思います。そうでなければ、大目付と通ずるはずは無いし、左近へ手心も加えないはずだから。
しばらく、話が途切れました。
風雷は黙考して杯をあおる。首馬は二杯目まで待っていましたが、三杯目には焦れたように口を開きました。
「海老野どの、まだ何か……」
「お手前のお仲間だ。まだ一人この宿にいるのだろう」
「神部のことですか」
「そう、その男。どうした?」
「どうした、とは?」
「互いに監視しておるのだろう? お手前一人がこう動いているのが、ちと、気になってな」
「それならば心配には及びません。女好きでしてな。飯盛り女は飽きたと申して、女郎屋に繰り出しております」
「ああ、左様か」
だとすれば、今晩は帰らないでしょう。
「して、海老野どの、返事のほどを」
「ふむ……」
渋るような態度ですが、実は風雷の腹は決まっています。武士は相身互い、むげに放り出す訳にもいかないし、風雷の苦手な算盤を、子供たちに手ほどきして貰わなければなりません。
それに刺客が伊夏鱗虞なら、どちらにせよ対峙する事になるはずです。かの男は中国拳法の大家に学んだが破門されたという。愛想の良い男で人好きしますが、受けた恩にも被害にも報いようとする義理堅くて少々厄介な男でありました。
「海老野どの……」
「刺客を斬れとの御依頼でしたな」
「左様でござる」
「依頼……であれば、相応の報酬があってしかるべきではないかな?」
「報酬……」
「芝村さんは大事な客人。わたしは主家の居ない身だが、客人がむざむざ殺されてはこの海老野風雷が名折れ。その為に敵が現れれば相手をするが、こと、依頼となれば話は別だ。わたしはその刺客を何が何でも斬らねばならぬのだからな。……まさか、わたしが全く要求せぬとでも思っておられたか?」
「いや、その、まことに……」
思っていたようでありました。つまり、だいぶ思い詰めていたようです。
「どのような報酬を望まれる」
ですがすぐに気を取り直して、首馬は訊きました。
「二百両。相当の手練なのだろう? 安いものだと思うがな」
「――! そのような大金、とても、今の拙者には……」
「左様か。では、この話は無かったことにして頂こう」
「海老野どの!」
首馬は思わず片膝をつきますが、風雷はその声に被せます。
「さっき申し上げた通りだ。お手前の依頼は受けられぬが、現れた敵の相手はする」
首馬は狐につままれたような表情を見せました。それでも、風雷の言葉の意味は通じました。同時に、自分の意を汲んで貰った事を理解しました。
「海老野どの……かたじけない。神戸には芝村を見つけても手は出させず、伊夏鱗虞を待つよう説得いたします」
礼を述べて首馬が去ると、風雷は張り場に向かいます。
「ああ、先生。難しい話は終ったんで?」
勘一が声をかけてきました。
「うむ」
短く答えて風雷は腰を下ろします。
勘一は江戸の研ぎ師の生まれですが、遊び人気取りで無茶をして勘当され、立花外記に助けられました。その外記の人柄に惚れて小山宿までやって来て、根を下ろしたのです。
「先生、先生。吉五郎から聞きましたよ。なんでも新しい先生がいらっしったとか」
喜助が待ってましたとばかりに笑いかけます。吉五郎は喜助の九歳になる息子です。
「うむ。算盤を教えてくれることになっている」
「それにしても、やっぱり祭りの前夜は寂しくっていけねえや」
「そうだな。まあ、明日は繁盛するだろう。ここから花火も見えるしな」
客は一向に増えていません。勘一も喜助も中盆や壺振りの平太郎までもがのんびり紫煙をくゆらせていました。
「ちげえねえや」
勘一は笑いました。
――伊夏鱗虞か……。
「平太郎」
風雷は不意に壺振りに言いました。
「へい」
「くつろいでいるところ悪いが、一つ振ってくれ」
「へい!」
風雷が中盆に一朱銀を渡して駒を受け取ります。次に平太郎から賽を受け取り、その賽を改めました。
「よし来た! 振り初めだ、景気良くいくべ! 勘一、お前さんもな」
「へへっ、合点よ」
「では、振らせて頂きます」
本日の振り初めであります。本来なら長々と口上を述べるところですが、「客は馴染みの三人だ。まあ、必要なかろう」風雷がそう言ったので省きました。
――勝てるだろうか。
六年前は決着がつきませんでした。風雷は右腕に傷を負ったものの、鱗虞の右耳を斬り落としました。
――死ぬことになるかな。
風雷は静かな動きで、丁に、いきなり持ち駒の全てを賭けました。
勘一は目を見開いて驚きます。そして鼻息荒く、
「先生ほど豪気じゃねえが、俺も元は江戸っ子でい!」
風雷と同じく丁に駒の半分を賭けます。
喜助は迷った末に半。彼も半分を賭けました。
「ようござんすね? 勝負――! ……一・二の半!」
「なんてこったい!」
勘一は叫びますが、風雷は黙って駒が動くのを眺めていました。心なしか口辺に笑みが浮かんでいます。
――やれやれ。全く、とんでもない厄介ごとを背負い込んでしまった。
とは言え、あと半月は安心できるのではあります。その間に、対策を考えれば良いのですから、気が楽と言えば楽でもありました。
翌日の明六ツ(朝六時頃)のこと。お玉の給仕で、立花外記と初音、芝村左近と数馬が朝餉を摂っておりました。海老野風雷の姿はありません。五人が食事を済ませても、風雷が現れないので、
「海老野どのはどちらへかお出かけか?」
と、左近がお玉に訊くと、
「あの人はいつもこうなのです」
素っ気無く初音が答えました。お玉が微笑みながら、少し鼻にかかった甘い声で、
「ねぼすけなんですよ。先生は」
「さ、左様でござるか」
「こちらが起こさないと、四ツを過ぎなきゃ起きて来ませんよ」
「さ、左様か……」
お玉の声色に左近はたじろぎます。
「こらこら、お玉。そのくらいにしなさい」
外記が苦笑しながらたしなめました。
「気になっていたのですが……」
と、左近は言っていいものかどうか、しばし悩んだようですが、思い切って訊ねてみました。
「海老野どのは、ご両親のどちらかは、異人ではありますまいか?」
「うむ。父親のほうがな」
と外記が頷きます。
「やはりそうでしたか」
「だが、本人は気にしておらんようだな」
外記はそう言いますので、左近は恐縮しました。しかし、気まずい思いをしているのは左近だけのようです。外記もお玉も、うまそうに茶をすすっています。
六ツ半(朝七時頃)を回ったろう。
「わたし、起こして来ます」
言って、初音が立ち上がりました。
風雷の部屋までの間、初音は頬を膨らませておりました。怒っていたのです。初音は今年十七になりましたが、正確には今日、十七になったのです。風雷は、その折には、朝稽古や夕刻からの祭りに付き合うと約束してあったのであります。道場ではすでに数人の門下生が雑巾掛けを始めていることでしょう。それなのに起きても来ません。これはやはり、初音との約束を、風雷が忘れていると見なければなりません。
昨日のお玉よりも、一際大きい音を立てて、襖は開きました。
にもかかわらず、掛け布団を抱いて、風雷はすやすやと鼻から風船を作っています。
「……」
初音はへなへな脱力する思いでしたが、己を奮い立たせると、とりあえず叫びました。
「先生!」
風雷に変化が見えました。と言っても、風船が割れただけですが。
「はあー……」
敷布団を引っこ抜いてやろうかと、初音が手を掛けた時、その敷布団がかすがいで畳に打ち込まれているのを発見しました。畳は駄目になりますが、風雷なりに、前日の教訓を活かした形なのでしょう。
「なんて人……」
初音は怒りを通り越して、呆れます。そのまま何の気も無しに、風雷の顔を観察しました。当たり前ですが、眠っています。彫の深い面貌が、確かに、異人の血を思わせる。いろいろと一言多い風雷ですが、初音は恋心を抱いているのでありました。と、風雷の眉がぴくりと動きました。
――起きる!
思った瞬間、初音の体は硬直しました。だが、風雷は起きません。ほー、と、安堵した刹那、
「お夕のからだは柔らかいなあ……」
風雷の口からそんな言葉が零れます。風雷はそんな言葉を零しながら抱いていた掛け布団に頬を擦り付けます。
「……」
つーっと、初音の右手が挙がったかと思うと。そこから思い切り風雷の顔に振り下ろしました。
その音の大きさといったら。掛け軸が落ちたほどであります。
「――だっ! な、なんだ!」
左頬を押さえて風雷は跳ね起きました。
「は、初音どの……」
風雷は初音を認めると、頬をさすりながら呟きます。
「今日は初音どのであったか」
怒りに震える初音の顔を見て、
「ど、どうしたのだ? 随分と機嫌が悪いようだが……」
「知りません!」
立ち上がって、初音は部屋を飛び出して行きました。
一人残された風雷は、頬を押さえたまま、
「なんなのだ、いったい。……それにしても、手荒な起こし方をする」
確かに、お玉の優しさが身に沁みます。
「月のもの、か? ……おお、痛え……」
九ツ(正午頃)に、誠心館で風雷は左近と共に、集まった子供たちに算盤を教えておりました。子供たちは、昨日紹介された左近に対して、全く警戒の色を見せませんでした。教え方が丁寧で、優しいとあれば、すぐになついたのも頷けます。
「左近先生は、博打するのー?」
大工の喜助の息子、吉五郎が訊いてきました。
「いや、私はやらないよ」
左近がそう答えると、吉五郎は、
「うそだー」
と、風雷を指差します。
「うちのとうちゃんも風雷先生もするのにー」
風雷は頭をぽりぽりと掻きます。左近は苦笑しながら答えました。
「大人が皆、博打を打つ訳じゃないのだよ?」
吉五郎の頭を優しく撫でながら、
「博打自体が悪い訳では無いが、吉五郎が大人になっても、あまり博打を打ってはいけないよ」
「どうして?」
「身を崩すかも、知れないからね」
「ふうん……」
何となく納得していない様な吉五郎の返事でしたが、子供なりに、解ったのでしょう、「わかったね?」と左近が訊くと、元気に返事をいたしました。と、今度はお百姓の子供であるお春が左近の袖を引っ張ります。
「あのね先生。今日ね、花火が上がるんだよ。あたい、おとおとおかあと一緒に見に行くの!」
お春のその言葉を合図に、子供たちが一気に騒がしくなります。
「あたいも見に行くんだ!」
「おらもー!」
これでは授業どころではありません。ですが、風雷も左近も目を細めて微笑んでいました。
今日はいつもより早く、八ツ半(三時頃)に子供たちを返しました。祭りの日なので、大人たちも早々に仕事を切り上げていることだろうだからです。
「今日が祭りでござったか」
左近が風雷に言う。小山宿の花火の見事さは江戸にも聞こえる大きなものでありました。
「芝村さんも、丁度良い時に来られたな」
風雷が笑うと、左近も笑いました。
「全くでござるな」
「数馬どのと楽しまれるのが良かろう」
「うむ。そうしよう。ところで、海老野どのはどうされるのだ?」
「うむ……」
風雷は腕を組みました。
「初音どのと約束はしてあるのだが……」
「ほう。初音どのと、か。どうされた? 浮かぬ顔だが」
「その初音どのの機嫌が、随分と悪いようなのだ」
知らず、左頬に風雷は手をあてております。
「ははは。昔から女心と秋の空と言うではないか。なかなかどうして、わかりませんぞ」
左近は気楽に請け負います。
「そうそう、芝村さん」
「なんです?」
「芝村さんは良い御同輩をお持ちですな」
「は――?」
「話して置いた方が良いと思って、お話しするのだが」
風雷はそう前置きして、昨夜、井上首馬とのやり取りを話しました。それでも、刺客の事はあえて話さず、近い内に勘定奉行伊丹吉之丞の不正が明らかになるはずだとだけ伝えたのです。刺客の事を話せば、左近が道場を去るだろうと思いました。
「そうですか……井上がそんな事を」
「うむ。まあ、一安心ですな」
しかし、左近は思案気な顔を見せます。
「……そうであれば、良いのですが」
二つの足音が近付いてきました。
「父上」
数馬と初音です。
「おお、数馬。どうであった?」
「はい。楽しゅうございました」
数馬は今日から錬心館で剣術を習い始めました。
そうは言っても、まだひたすら素振りをしていただけです。重心の取り方、足の運び、手の内を体に覚え込ませる段階、初歩の初歩であります。しかし、その初歩が完璧でないと、幾ら技を磨いたところで意味がありません。生兵法となってしまいます。
「そうかそうか」
左近が数馬の頭を撫でる。
「やはり父と先生の言った通り、数馬どのには、剣の天稟があるようですね」
初音は、言ってから風雷に顔を向けた、と思うと、つんっと、そっぽを向きます。
肚裡で風雷は苦笑します。
「今だに信じられぬ思いですが、やはり息子を誉められて悪い気はしません」
「お世辞じゃありませんよ」
初音が微笑みます。
「数馬、今日は花火が上がるそうだが、誰かから聞いたか?」
「はい。立花師範がおっしゃっておりました」
「父と行くか?」
数馬はみるみる目を輝かせると、
「はい!」
と返事をしました。風雷は何も言いません。いくら上意であっても、まさか大勢の人の見る前で行動を起こすとも思えませんが、思って思う事も出来なくはありません。井上首馬を完全に信用しているわけではありませんが、ひとかどの男であるのは確かなようでもあります。二言は無いでしょう。
しばらくして――。
「あー、初音どの」
左近と数馬が居なくなり、正心館には風雷と初音の二人きりになりました。
「なんでしょうか」
答えた初音の声は固いものでした。
――やれやれ。
「今日の約束の事だが、どうされるのだ?」
「どうされる、とはどういう意味ですか?」
「うむ……。初音どのが嫌なら、わたしは行かないが……」
「嫌と言ったら、先生はどうされますか?」
「うむ。まあ、のんびりと」
それとなく左近を護衛しようというのが風雷の腹積もりです。
「どうせ祭りの客を当て込んで開かれる、賭場にでも行くおつもりでしょう?」
「うん? ……うむ、まあ」
「先生が、どうしても、とおっしゃるなら、一緒に花火を見に行っても構いません」
「初音どの、約束は初音どのの方からでは、なかったか?」
「なにか言いましたか?」
「いや……蚊がいるようだと、申したのだ」
思川に大輪の花火が上がる。風雷は今、初音と一緒に土手で楽しんでいます。
提灯と花火の光に照らされる、初音の横顔は美しいものでした。ですが、どうにも出で立ちが気になります。稽古着のままだったからです。
――今日ぐらいは女らしい姿をして貰いたかったものだ。
風雷は苦笑します。
「海老野どの!」
と、風雷は声を掛けられました。
「芝村さん」
土手の下から見上げると、左近が数馬を肩車しています。
風雷にとっては好都合と言えます。取り越し苦労かは知れませんが、なるべく早い内に左近と合流したいとそう思っていたからです。
風雷が近付くと、左近が、
「どうやら、上手くいったようですな」
初音に聞こえないよう小声で言いました。風雷はまたも苦笑い。
「芝村さま、どうですか? 小山のお祭りは」
初音が微笑みます。
「楽しませて貰っております。……思えば、数馬とこうして祭りを楽しむのも、久しぶりだ」
左近は肩車している数馬を見上げます。
花火が上がりました。
「おお、あれはまた一際大きい」
大輪の花が闇の中に消えるのを待って、左近が口を開く。
「そう言えば先ほど、両親と一緒のお春に会いました」
「おめかししておったでしょうな」
「ええ。なにやら、海老野どのを探しておったようだが」
「先生を?」
「うむ。買って貰ったお面を見せたがっておりました」
「それならば、わたしも一つ買ってお春と見せっこするか。ははは」
水飴屋台の床机に四人が座って、花火を眺めます。
「活気がありますな」
水飴を片手に、左近が言った。
「藩外から見に来られる人も多いのですよ」
「うむ。拙者が江戸にいた折にも、噂を聞いたことがあります」
「江戸?」
初音は怪訝な顔をしました。
「ああ、そう言えばまだお話しておりませんでしたな。私の父の代、江戸勤番を命ぜられておりまして。元服まで過ごしておりました」
「そうでしたか」
しばらく、たあいも無い事を話していた時でした。
「先生ー! 海老野先生ー!」
と、立花道場の門下生が一人、走っている。だいぶ、慌てているようです。
「どうしたのだ、新之助」
風雷が立ち上がりながら新之助を呼び寄せます。
「先生! 大変なんです!」
「一体、なにが大変なのだ」
「お春が、お春親子が!」
新之助は自分がやって来た方向を指さしました。ただならぬ新之助の慌て振りに、風雷の顔も険しくなります。
「お春親子がどうしたのだ!」
「天誅組とか言う、がらの悪い五人ばかりの武士に言いがかりを付けられて――」
「先生!」
初音の顔も強張ります。
「向こうだな?」
風雷は新之助にそう言って、新之助がかくかくと頷くのを見ますと、床机に置いていた刀を取って、文字通り、押取り刀で駆け出したのでありました。
「どうか、どうかこの子ばかりはお助けを!」
「ならぬわ!」
「お願いでございます! あっしらはどうなってもかまやしません! ですから、なにとぞ!」
風雷たちの居た場所から、四半里ほど川を下ったあたり。町人たちが遠巻きに見守る中で、達吉とおさきは、お春を抱えて、立ち並ぶ五人の武士に懇願しています。武士五人とも、居丈高にふんぞり返っています。
「百姓ども! 刀は武士の命! それをなんと心得ておるか!」
真ん中に立つ、中年の武士はすでに抜刀しています。
事の次第は、お春の草履の鼻緒が切れて転んだ際、手にしていたべっ甲飴が、この武士の刀に当たってしまったのでした。ただ、それだけの事なのです。にもかかわらず、この武士は、「無礼者!」と許さなかったのです。
「何を申されるか! 言いがかりもいいところでござるぞ!」
たまたま目撃した立花道場の門下生、石田錬蔵が隣にいた新之助に、
「海老野先生と初音さまが来られているはずだから」
と探しに行かせ、自身は間に入って執り成していましたが、長くは保たず、だんだんと一触即発の様相を呈してきておりました。
「おのれ! 我らを愚弄するか!」
一際声高に、抜刀した武士が叫ぶ。
「我ら天子に仕えんと、志し高くする! 我らを愚弄するは天子を愚弄するも同じだぞ!」
それを合図に、残りの四人が抜刀します。
「もはやこれまで!」
錬蔵が呻きました。せめて風雷が来るまではと思っていましたが、やむを得ない。親子を護るために抜刀して、青眼に構えました。その構えた錬蔵の顔は蒼白です。真剣での立ち会いは初めてのことだったのです。
「達吉! おさき! お春を連れて逃げろ!」
叫んだ錬蔵に、右手から、気合も高く打ち込む武士。刀身が打ち合わされる。
「はあ!」
とその武士を押し返した錬蔵の目に、言いがかりを付けた武士が、逃げる親子を追うのが見えました。
――しまった!
「逃がさぬわ!」
と、言いざまにその武士はおさきの背中を袈裟懸けに斬り下ろしました。
「おさき!」
「おかあ!」
その光景に、錬蔵は注意を逸らしてしまいました。駆け寄ろうとしたその隙を、武士たちは見逃さず、錬蔵のわき腹をえぐります。
「ぐうっ!」
思わず足が止まります。その錬蔵の背中に、とどめだとばかり、容赦無い斬撃が浴びせられました。
「畜生っ! よくもおさきを!」
達吉は逆上して、無謀にも武士に掴みかかろうとします。
「おとお!」
「馬鹿め!」
と、武士が達吉の腹にその白刃を突き立てる。これで達吉は、事切れるまで地獄の苦痛を味わわなければならなくなってしまったのです。
「逃げろ! お春!」
それでも達吉が叫びました。全生命力を振り絞って、武士の羽織をその手に掴む。そのまま猛然と武士をお春から遠ざけようと前進したのであります。
「ええい! 離せい!」
渾身の力で武士が達吉を蹴り飛ばす。
「さあ娘! そこへなおれ!」
と、おさきの亡骸に泣きついているお春へ叫んで、近付こうとします。が、近付く事は出来ませんでした。
「待て! 待て!」
と、そこへ制止の声がかかったからであります。駆けつけた新之助、風雷と初音、左近と数馬が人を掻き分けて姿を見せます。
「邪魔立てするか、きさまら!」
武士が叫ぶ。風雷たちが帯刀しているのを見て、残りの四人も一斉に刀を二人に向けます。
「む!」
風雷の目に、仆れている達吉とおさき、そのおさきにすがりつくお春が映ります。
「先生!」
初音と新之助も錬蔵の変わり果てた姿を見つけたようです。
「一体これはなんの騒ぎか」
わなわなと肩を震わせて、風雷は武士に訊く。
「その娘が武士の命であるこの刀を、無礼にも汚したのだ!」
「なんだと」
「さらに! 言うに事欠いて天子への暴言! 許されざる所業!」
「無礼討ちだと、そうおっしゃるか!」
「いかにも! 邪魔立てするならば、其許らともどもなるぞ!」
その言葉の言い終わらぬ内に、風雷は抜刀しておりました。
「やるか!」
武士たちは殺気を走らせます。
「初音どの。芝村さん。お春を連れてさがってくだされ。新之助もな」
「はい」
「承知した」
三人がお春の許に駆け寄る。数馬も大人しくそれに従う。
風雷は大喝したものです。
「一斑を見て全豹を卜させてもらう! お手前らが京方だろうとなんだろうと、お手前らを飼っているような天子など、こちらから願い下げだ!」
「なんだと!」
「ええい! 斬捨ててくれるわ!」
意気をあげる武士たち。と、達吉夫婦を斬った武士が一歩前へ出ました。
「こしゃくなやつ。いいだろう! 三人目としてこの刀に、貴様の血、吸わせてくれる!」
風雷の眉根が吊り上った。
「達吉たちを許さなかったのは、その為だな! ふん。語るに落ちる! なんやかやと言いながら、試し斬りの口実だろう!」
「問答無用!」
武士は大上段に構えます。他の四人も上段や、八相にとっている。風雷はすーっと、地摺り下段左構えに持って行きました。
異様な気配が、風雷の剣から発せられる。
「先生の剣が、出ます……」
独り言のように初音は呟きました。
「むむ!」
風雷の正面に対峙した武士は、その異様の気に圧されます。
と――。
不意に油のはぜるような細かい音が、その武士の耳朶を打ちました。いや、その武士だけではありません。風雷を取り囲んでいた四人にも、初音や新之助、左近や数馬、そして、その場に居合わせた全ての者にその音は聞こえたのであります。消え行く花火の音ではない。
「面妖な邪剣の遣い手か!」
風雷の気に負けまいと、武士たちが更なる殺気を帯びた時、今度は香ばしい油の香りがその鼻腔をくすぐりました。
「こ、このにおいは……」
左近が呻きます。風雷から緊張の眼差しを外さず、初音が左近に解説します。
「先生の剣は、見る者全てに同じ音、同じにおい……そして同じ物を見せるのです」
「なんと……」
左近が呟くと同時に、狐色に浮かび上がる物がありました。風雷と、正面の武士の間に、何か、天ぷらの様な姿です。ただ、天ぷらと違って、衣の肌理が粗い。それが地面から徐々に形を結んでいきます。
左近はわが目を疑いました。いくら手で目をこすっても、それは消えません。
「父上! あれは海老の尾っぽではありませんか?」
数馬が声を上げます。確かに、いまや全ての姿を現したそれの上部には、海老の尾が見えております。
「うむ……。確かに、海老だ。……初音どの、あれは……一体……」
初音は何か重大な事を今から搾り出すような、言いにくそうな顔で、
「以前、長崎で先生の立会いを見た異人が、あれは『えびふらい』だと、言ったそうです」
「『えびふらい』とは?」
「南蛮の海老の天ぷらだそうです。……それまで、先生自身もそれがなんであるか、ご存じ無かったようです」
急激に、武士たちは、かぐわしい油の香りに空腹を感じました。遠巻きの者たちも、陶然とし始めている。正面に対峙した武士は必死に、風雷に集中する。だが、聴覚と嗅覚を支配され、さらには視覚まで掌握されているのです。これはもうこの武士の運命は分かりきったものと見るより外は無いでしょう。
「き、きええーい!」
ついに、動きました。いえ、動いてしまいました。奇怪な幻覚など、風雷を斬れば掻き消えるはずだと、エビフライの向こうにうっすらと透けて見える彼に飛びかかったのです。
しかし、それは、死への旅路でありました。浮かび上がるエビフライの位置は、風雷の間合いの入り口であったのでありました。
「せいやっ――!」
と、風雷が気合をほとばしらせました。左足を大きく踏み込み、白刃を一閃、右上に斬り上げる!
「がはあっ!」
武士の断末魔の悲鳴とともに、エビフライもまた、さくっ、と、耳に心地よい音を立てて、上下の中間を斜めに斬られていました。すうっと上部の位置がずれる。狐色の衣に包まれた海老の白い身が、目に眩しい。ぷりぷりの身からは湯気が立ち昇る。
ですが、果たして、その湯気は、斬られた武士の血煙でもあったのです。
どうっ! と、武士の仆れる音がしたと同時、エビフライはたちまちの内に掻き消えていました。
「ああ……」
どこからか、消えたエビフライを惜しむような声が上がります。
風雷は残った武士に向かって言い放ったものです。
「さあ! 皿に盛られたいやつからかかって来い!」
「うぬがあ!」
背後から拝み打ちに来る斬撃を躱して、今度は瞬時にエビフライが浮き上がる。風雷はそれを斬った。
そしてすぐに第三の敵の前に新しいエビフライが浮かび上がっているのです。
五人の武士たちを切り伏せた風雷はその後、達吉夫婦と錬蔵を並べて、
「すまぬ……」
と、悔しそうに三人へ謝りました。
「おとお! おかあ!」
お春が、両親の亡骸を揺らします。何度も。何度も……。
「お春……すまぬ。わたしがもっと早くに駆けつけておれば……」
風雷は拳で地面を打ちました。
「先生……」
風雷の隣に、初音が寄り添います。
「初音どの……その肩……貸してくだされ……」
「はい……」
そうして風雷は初音の肩に顔を埋めながら、
「達吉、おさき、錬蔵……すまぬ……すまぬ」
と泣きに泣いたのでありました。
「数馬……」
「はい、父上」
風雷たちを見守りながら、左近は息子に言い聞かせます。
「海老野どのこそがまことの侍ぞ。お前も剣を学ぶ身ならば、弱きを助けるための剣にするのだぞ」
「……はい。必ず」
花火が、最後の花火が上がりました。大きな華を咲かせます。一瞬のあいだ、達吉たちの死に顔を照らしましたが、すぐに闇夜に溶け込んでいきました。
揚春 まき、とか、アブラーゲ・エビデ・パン(風雷の父親)、とか、いろいろと考えたものの、僕にはこれ以上の物語を面白くする発想は無理でした。時代劇に、揚げ物って、意外に人名に落とし込めないのだな、と。
タグの通り、権利放棄してます。
もし一人でも「もっと続けられる」と思う方がいらしたら、キャラたちも浮かばれるかでしょうね。僕には無理です。