「魔王の娘は待っている」
いつもお読みいただきありがとうございます(=゜ω゜)ノ
終わりに向けてのカウントダウンは始まっています。
鬱病女騎士と引きこもり魔王の娘の迎える最高のエンディングを、どうぞお楽しみに!
~~~ラフィーニャ~~~
夜明けと同時に『陽だまりの樹』を出た。
部屋に備え付けの懐中電灯を持ち、リュックサックを背負って。
装備もきちんと調えた。
携帯食としてのチョコレートとスナック菓子、水分補給にはスポーツドリンク。
山歩き希望の客のための地図をフロントから拝借し、手には軍手、ゴスロリルックの下にはダサいけれどジャージを履いて、パンプスの代わりには長靴を履いて。
虫除けスプレーもきちんとして、準備は万端。
行程も順調だった。
休憩を挟み挟み、登山道を二時間弱。
目印となる東屋から獣道に入り、さらに三十分。
深い藪を抜けると、垂直に切り立った崖が現れた。
主成分は凝灰岩で、右に行けば古い採石場跡がある。
左に向かって少し歩くと、アマハトの岩屋が見えてきた。
「おお、これが……っ」
いったい如何なる者の手によって作られたのか、最長百メートルにも及ぶ広大な横穴である。
入り口にはトラロープが張られているが、くぐれば問題なく中に入ることが出来る。
「……と、危ない危ない」
ふらっと中に入りそうになったラフィーニャは、慌てて首を横に振った。
「風向きでガスが表へ出てくることもあるとキッコが言っていたな」
自らに言い聞かせるようにつぶやくと、さらに先へと進んだ。
「えーと、看板を過ぎたら小さな沢に突き当たるまで歩いて……突き当たったら浅瀬を選んで渡って、沢沿いに登って……」
ぶつぶつとつぶやきながら歩いていると、やがてぽっかりと開けた空間に出た。
「あ……っ」
ラフィーニャは思わず地図を取り落とした。
湾曲した岩肌に取り囲まれた円形の空間に、カスミソウに似た黄緑色の花──天若生が群生していたのだ。
「やった……これで……っ」
興奮しながらしゃがみこみ、さあ採取しようと思ったその矢先のことだ。
グゥルルルル……
低く唸るような声が聞こえてきた。
振り返ると、そこにいたのはエゾヒグマだ。
北海道にのみ分布する種で、全長は三メートル、体重は五百キロ近い。
基本は雑食だが、肉食を好む傾向がある。
「なんだ熊か」
その巨体を目にしても、ラフィーニャはことさら危険だとは考えていなかった。
なぜなら彼女は魔王の娘だから。
身の内から自然と溢れ出すマナが獣どもを恐れさせ、ひれ伏せさせるはずだから。
「──ってこら、入って来るなっ。願い事を叶えるにはもっと大量に必要かもしれんのだから、表に出ていろっ」
天若生を踏みしめながら近づいて来るのを見て、慌てて制止の声をかけた。
しかしヒグマは言うことを聞かない。
「入って来るなと言ってるのに……!」
ムカッとしたラフィーニャは、無造作にヒグマに近づくと、その前足を蹴った。
体重も武術の嗜みも無い子供の蹴りでどうにかなるわけもないが……。
「この! この! さっさとあっちへ……っ!」
渾身の力で蹴ってやろうと足を引いた瞬間、ヒグマがのそりと前に出た。
頭を下に下げ、すくい上げるような動作をした。
「ってうわああああっ!?」
何か特別な技を使われたわけではない。
鼻先で突き飛ばされただけ。
それだけなのだが、体重の軽いラフィーニャは凄まじい勢いで転がった。
後ろ向きにゴロゴロと数メートルも転がり、岩肌にぶつかる直前でギリギリ止まった。
「なんで……っ!? なんで逃げない……っ!?」
身を起こしてヒグマの様子を確認した──その瞬間、ようやく気がついた。
エルズミアのそれと違ってマナに慣れていないヒグマは、感覚器が十分に発達していないという事実に。
「鈍いから恐ろしさがわからないということか……!? で、でもそれだと……!」
──マナで従えることが出来ないのなら、自分はただの娘でしかない。
──つまりはただの餌だ。
状況を察したラフィーニャが全身を粟立たせていると、さらに二頭のヒグマが現れた。
合わせて六対の黒々とした目が、獲物として彼女のことを見つめてくる。
「ひっ……!?」
ラフィーニャは必死に走った。
もともと足の早いほうではない。
運動神経も無いに等しく、山中での行動に慣れたヒグマから逃げるのは不可能に近い。
ただひとつ有利だったのは、体の小ささ。
背が低く、体が細く、どんな隙間でもすいすいと通れることだった。
三頭の間を転がるようにすり抜け、沢筋を下った。
体のあちこちを打ち、擦り剥いたがそれは無視した。
頭は意外と冷静だった。
このまま下ってもどこかで追いつかれるだろう。
登山道まで出て誰かに助けを請うのが最上だが、速度的に叶わないだろうという判断も出来た。
そして、その判断は正しかった。
ヒグマの足は早い。急坂を下るのも問題無いし、平地なら時速五十キロを超す速度で走ることすら出来る。
まともな競争なんて出来るわけがない。
「ここだ……!」
ラフィーニャが隠れ場所として選んだのは、アマハトの岩屋だ。
立ち入り禁止の看板を無視して、トラロープをくぐった。
奥まで入って振り返ると、ヒグマたちがこちらを窺っているのが見えた。
トラロープによるバリケードなんて、ヒグマにとってはなんの意味もなさない。
だけど中に入って来ようとはしなかった。
鋭い嗅覚で、有毒ガスの存在に気づいたのだろう。
「……よーし、いいぞ。そのままだ」
ほっと一息つくと、ラフィーニャは岩陰に隠れて座り込んだ。
リュックサックの中からマスクとタオルを取り出すと、タオルを口に巻いて、その上からマスクを装着した。
有毒ガスに対してどれほどの効果があるかはわからないが、しないよりはマシだろう。
あとは呼吸を落ち着けること。
じっと焦らず待ち続けること。
ヒグマがいなくなるのを。
あるいは、助けを。
「……ふん、こちとら引きこもりだ。根競べでは負けぬわい」
自分で言って、自分で笑った。
ただの強がりだ。
今にも泣き出しそうなのを、恐ろしさで死にそうになったのを、なんとかこらえただけ。
だって、助けなんて来るわけがないのだ。
ここへ来ることは誰にも告げていないし、書き置きすらしていない。
「タカミチ……っ」
でも──ラフィーニャは、呪文のようにタカミチの名をつぶやいた。
勇者ではなく、タカミチと。
かつてレヴィンの森でそうしていたように。
「タカミチ……っ」
ひとりで、じっと。
彼が来るのを、待っていた。