いざ空想世界へ【前編】
☆
それはいつものことだった。
星宮慧、16歳が通っている高校から帰ろうとして正門を出た時。
彼はいきなりラチられた。
正門前にいかにもヤバそうな黒塗りの高級車が停まっていて、慧はその車に押し込まれたのである。
そして車は何事もなく発進。
その現場を何人かの先生や生徒が目撃していたはずなのに誰も騒がなかった。
警察に電話すらかけなかった。
その時のみんなは同じ気持ちだった。
『またか』
『まあ慧だから仕方ないよなー』
そんな感じだ。
星宮慧が拉致同然に連れ去られる━━それは本当に珍しいことではなかったからだ。
だから学校のみんなもまったく気にせず、あたたかい眼差しで慧を見送った。
☆
「はぁ」
慧がため息をしたのはこれで何度目だろうか?
ため息をするとその数だけ幸せが逃げていく━━そんな迷信があるがその迷信を信じるならここ1年は幸せと無縁な人生をおくるだろうな、と慧は思った。
他人事みたいに。
漠然と。
諦めたように。
いつものように慧が連れてこられたのは豪邸の前だった。
普通に生活をすれば間違いなく豪邸の中には入ることもできないだろう。
しかし彼は何度も訪れている。
それは子供の時から。
櫻井源蔵━━それがこの豪邸の主人だ。
そしてここは慧の幼馴染みの家でもある。
いつ見ても圧倒される大きな屋敷よりも慧には気になることがあった。
自分の腕にそれはもう気持ちがほわわ~んとする感触に。
やはりため息の数だけ幸せが逃げていくというのはただの迷信だったのか。
現に今、幸せを感じている。
いい匂いもする。
それに包まれたらどんなにいい夢が見られ━━そこまで考えて慧はハッとする。
危ない。
また美味な魔力に魅了されかけた。
かなり名残惜しかったが慧は涙をこらえて離れることにした。
案の定、そこにいたのは慧を拉致した黒服ではなきメイドさんが1人。
年齢は20代前半。
いかにもお姉さんという雰囲気でモデルをしてても不思議ではないスタイル。
名前は立野充希、慧の幼馴染みの専属メイドさんである。
何かとスキンシップを取ってくる彼女に慧は困りながらも家族のように思っていた。
「お帰りなさいませ。ご主人様」
「・・・・・・」
まあ、頭は残念かもしれないが。
「えと、充希さん。僕はご主人様ではありませんよ?」
充希の主人は慧の幼馴染みだし雇い主は櫻井源蔵だ。
「いえいえ。あなたは【あの時】から私のご主人様なのです」
あの時とはどの時のことだろうか。
「充希さん。俺はなぜ拉致されたんですか?」
「あらあら、人聞きが悪いですね。ご主人様。丁重にお迎えしたというのに」
「前から言ってますが何か用事があったら連絡してくれれば。黒塗りの車は目立ちますので」
「お気に入らないということですね。それなら次回からはメイド総出でお迎えを」
「遠慮します」
慧はきっぱりと答えた。
それこそ生徒や先生たちにどんな目で見られるやら。
個人的に【櫻井グループ】とつながりがあることを誰もが不思議がっているのだ。
平凡な学生生活が遠退きそうで怖い。
「俺に用事があるのは源蔵さんではなく結愛ですね?」
「はい。あと心愛様もです」
「結愛は分かりますが心愛ちゃんも?」
慧は首を傾げた。
「是非ともお願いしたいことがあるらしいです」
「・・・・・・」
「逃げないのですか?」
「結愛だけならそうしてますが心愛ちゃんもなら別ですよ」
「愛。愛ですね、ご主人様」
「興奮する要素あります?」
「私は分かってます。理解しているつもりです。ご主人様がたとえ幼女趣味の変態様でも私はお慕いしている気持ちはかわり━━」
「まったく理解してませんから」
慧は頭痛を我慢するように息を吐き出した。
「それじゃあ案内してくれますか?」
「はい。ご主人様・・・・じゃなくて、慧さん」
充希は「くすり」と笑って慧を屋敷に招いた。