火の星
黒、黒、真黒……暗黒。光の無い夜は何も見えない……闇。
十七歳のジムは屋根裏部屋から夜の空を見上げた。どんよりと厚い雲は、月や星の光を遮る。
目がさえて眠れない。父親が死んだ。伯父に引き取られた。住む所が変わった。学校が変わった。友達がいなくなった。意地悪なイトコと一緒に暮らす。どれも最悪なこと。
「最悪なことの後にはね。とてもいいことがあるのよ」
離婚した母が父の葬式に来てそう言った。それなら、僕を引き取ってくれればいいのに。これ見よがしに「父の違う妹・メグ」なんて紹介しないで。
電気は付けない。迷惑になりそうなことはしない。僕は、いないように生きるって決めた。文句を言われないように。非難されないように。
「アーロンのいとこってお前か?」
新しい学校に行き三ヶ月、声をかけられた。体格のいい三人組だ。アーロンより小さいが小柄なジムより大きい。
「おや、随分チビだねぇ。アーロンはでかいのに」
ジムは少しでも大きく見えるように、背伸びをした。その肩にボスらしい青年が手をかけた。
「死んだライバの社長の息子なんだって?あの火星移住計画って本当なのか?」
ジムは小さく頷いた。
「ふーん。火星なんて、何もないところだろう? しかも、初めは開拓しなきゃいけないなんて。誰が好きこのんで行くのかね」
彼は意地悪そうに取り巻きに相槌を求めた。取り巻きは感情のこもってない笑い声を大きくたてる。
「アーロンは家族で行くそうだけど、羨ましくないなあ」
三人はまた笑い声を立てた。ジムは驚いて後ずさりした。
(アーロンが家族で行く? まさか)血の気が引く。あの計画は父の生涯をかけた計画だ。ジムは誇らしげに語る父の顔を覚えている。
「種を飛ばすんだ。生命の種を火星に飛ばす」
父、マイクはロケットの模型を手に持ってジムに熱っぽく語った。
「この大きな宇宙船は小さな地球の種だ。生命の種はかつて火星から隕石に乗って来た。少なくとも私はそう確信している。今度は逆だ。いわば、母、……いや地球が母なる星なら、祖母なる星へ種を飛ばすんだ」
幼いジムは首をかしげた。マイクはジムの頬を愛おしそうになでる。そして、ジムの目の前にロケットを持って来た。
「さあ、ジム。見てごらん。この中には世界中の植物の種が入っている。そして、いろいろな動物の雌。それに受精卵」
「ノアの箱舟みたいに?」
ジムは父の顔をジッと見つめた。
「そうだね。ロケットの名前はノア号にしよう。いい名前だ。ぴったりだ。この中に地球の生き物を出来る限り入れたい」
マイクはジムの肩を叩き立ちあがった。ロケットの模型を机に置いて窓越しに外を見た。風が強く吹いている。砂が大きく舞っている。何日も雨が降っていないせいだ。冬だというのに日差しが熱い。
「年々気候がおかしくなる。なぜだか分かるか?」
「うん。父さんいつも言っているじゃない。環境破壊が原因だと」
ジムはうんざりしたように言った。環境破壊という言葉は、こちらからは入れない部屋の向こうにあるようだ。昔から聞きすぎて、新聞に書いてある文字と同じように心に響かない。
「環境破壊はもはや大きな波だ。経済の成長を世界が諦めない限りいずれ地球は滅びる」
マイクは遠くの風に舞う砂を見ながら言った。そのように言われても今の便利な生活以外の生き方をジムは知らない。
「僕はノアに乗れる?」
ジムはマイクの服を引っ張った。マイクはジムの顔を見て、難しい顔をしてから、噛みしめるように言った。
「もし、ジムが沢山勉強して、科学の分野で素晴らしい才能を発揮できたら乗せてあげよう。だが、普通の人間は乗せられない。残念ながら、そこまで大きい船じゃないんだ」
「沢山お金を出しても駄目なの?」
「お金じゃない。私が乗せたい人は、生物、地学、化学の分野で頭角を現している若者。火星を地球のように改良したいんだ。それから、ロケットの技術者、火星基地の技術者。働く人の為に心理カウンセラー、医者。いろいろな人種から選びたいな。遺伝子は多様性に富んでいる方が、過酷な環境に対応できる」
マイクの口調は、さらに熱を帯びた。
「じゃあ、僕は乗れないのかな」
「はっはっは。だめだぞ、ジム。最初からあきらめちゃ。勉強すれば、道も開けてくる。運も味方してくれる。運を持ち合わせていないと、火星では生き残れないからな」
ジムが思い出すのは開けっぴろげで、くったくなく笑う父の笑顔。そして、夢を語りながら遠くを見る癖。
その後、幾度となく、マイクはジムにノアの話をした。火星移住計画はマイク、つまり父の人生そのものだった。
アーロンが、伯父の家族と共にノアに乗り込む? 父が死んだ時、搭乗員は全て選ばれていた。すると、アーロン達は交代したのか? いや、それは無い。彼らは、宇宙飛行士の訓練をしていない。それに伯父は年を取り過ぎている。火星に行くのは、これから繁殖適齢期を迎える若者達だ。父は年齢には、とてもこだわっていた。とにかく確かめるしかない。
ジムは一番話しやすそうな伯母さんに声をかけた。伯母は父の実の姉だ。
「伯母さん達、火星に行くんですか?」
ジムは、学校が終わってすぐリビングにいる伯母に聞いた。
「アーロンが喋ったんだね。アーロンとジェイソンは行くらしいね。私は何もない火星なんか行きたくないね」
ジェイソン伯父さんとアーロンが……。二人が乗り込めば、他に行ける人間が減る。父の思いが踏みにじられた気がした。
父と伯父の共同経営だった会社ライバ。でも、元々は父が起こして、伯父は手伝っているだけだ。ノアは、父の夢だった。父は費用を自分の給料から捻出し、募金をつのり、ノアを造るライバ宇宙センターを軌道にのせた。
父が亡くなったら、会社だけでなく、ノアも伯父がのっとったのか。ジムは目を閉じて深く落胆した。ジムもノアに乗りたかった。計画が出来上がるのを横目で見ながら、勉強に熱中した。ノアの乗組員になれるように。父に認めてもらえるように。ようやく選考テストを済ませ、結果選ばれず、酷く落ち込んだ。それでも、もしかしたら……今でもライバ宇宙センターに通っているのは、そのときの為。
それから、二日たった。夕食後、屋根裏部屋にいると、伯父の怒鳴り声が聞こえた。ジムは耳をすませた。
「駄目になったんだ。仕方ないだろう。お前だって行かなくてもいいと言っていたじゃないか!」
「もう、みんなに(行く)って、言っちゃったよ!」
この声はアーロン。相変わらずの甘えを含んだ叫び。こいつは精神が年齢に追いついていない。
「人員オーバーなんだ!」
「父さんのうそつき!」
強く扉を閉める音。人員オーバーか。伯父さん、僕の父さんなら、きっとアーロンの方を乗せたよ。ジムは黙って目を伏せた。他の家のことだ。関係ない。ジムはただ夜を待ち眠りについた。
半月後だった。ジムは学校の先生に呼ばれて、校長室へ行った。
「おめでとう。乗組員に決まったよ」
心臓が強く脈打った。
「夕方には、ライバ宇宙センターに着いているように、すぐ帰って準備をしなさい」
それは、心の底から嬉しい。けれども、ジェイソン伯父さんのいるノアに乗れるのが不思議だった。そのうえ、そこまで急ぐ理由が分からない。校門には、屈強な男が一人いた。男はジムを車に乗せると家に急いだ。荷物をまとめるまで、その男が家の前で見張っている。(本当に僕は乗組員としてライバ宇宙センターへ行くのだろうか)ジムは不安に思い、何か信用できるものを探したが、見つからない。買い物から帰った伯母さんは唖然として荷物を詰め込むジムを見た。彼女はしつこく理由を聞いてきたが、ジムも、よく分からないから答えようがない。ジムは息が詰まるような動悸に襲われ、まるで自分ではない何かが体を動かしている感覚を覚えた。
再び車に乗り、運転している男を見た。この男、見張りなのだろうか? 無表情に前を向いている横顔が会話を拒否していた。ジムは大げさに咳払いして、男の注意をひきつけた。
「どういうことだか、教えてもらえますか?」
男は眼球だけこちらに動かした。
「何を聞きたいか、具体的に言え」
威圧的な命令口調にジムは、おそるおそる尋ねた。
「貴方の名前は? どんな役目を持っているのですか?」
「俺、ゴードン。あんた、ライバ宇宙センター、連れて行く」
片言、外国人か。
「僕が急に乗組員になった理由は?」
「余計なこと、言えない」
ジムはゴクリと唾を飲み込んだ。秘密が不安を大きくさせる。
巨大な白い塔が見えた。ライバ宇宙センターだ。玄関に着くと白衣を着た男が出迎えた。
「やあ、ジム」
アダム・ジョーンズだ。出会った頃は新入りで、ジムには兄のように接してくれた。今は、少しだが貫録も出てきた。ジムは恥ずかしそうにアダムの手を握った。
「来てくれて嬉しいよ」
人懐っこい笑顔だ。ジムはアダムに連れられて建物に入った。
「時間が無いんだ。すぐに任務につく準備に入ってほしい」
アダムは早足でジムを先導する。
「君の任務は重要だ。詳しくは後で話す。荷物をサラに預けて、別室で着替えてからBルームに入ってくれ。」
ジムはサラと呼ばれた髪の短い女に持っていた鞄を預け、更衣室へ向かった。
Bルームへは、更衣室からドアで繋がっている。プラスチック仕立ての無機質な部屋だ。壁テレビがアダムを写した。
「ここがどういう部屋か分かるかね? ジム」
「検査室ですか? 僕が病気になっていないかどうか調べる部屋」
「正解だ」
ジムが入って来た扉が開いて、丸みを帯びたロボットが入って来た。
「M一一八C号。通称Mだ。管理ロボットだよ」
「よろしくM。触れてもいいですか?」
「もちろん大丈夫だ。Mに注射を打ってもらえ」
「はい」
ジムは腕まくりしてMに手を差し出した。Mの体の側面が割れて機械の腕と二本の注射器、消毒薬が出てきた。Mの目が赤く点滅する。一本目の注射器は採血用。二本目は注入用。ジムはうつむいて体に入る液体を覗いた。
「オワリマシタ」
Mが最後の消毒を済ませて言う。
「話せるんですね。ありがとうM」
Mが目を点滅させて頷く。
「M、戻ってこい」
間髪いれずにテレビのアダムが言う。Mはクルリと向きを変えてもときた場所から去っていった。
「利口ですね」
ジムは端にあったベットに腰掛けて言った。とたんに大きなあくびが出た。
「ジム、君は今、猛烈な眠気に襲われているはずだ」
アダムが無表情で言う。
「はい。睡眠剤が今の注射に混ざっていましたか?」
「体力回復の為だ。興奮もしているだろうが、とにかく寝てくれ」
壁テレビのスイッチが切れた。そこは、ただの壁になった。部屋が闇に包まれる。
夢を見た。遊園地にいる夢だ。幼いジムは父と母の手を引っ張って、ジェットコースターに連れて行く。ジェットコースターが苦手な母が困った顔で父を見ると、父は母をいたわってベンチに座らせ、自分はジムと手をつないで二人で乗ってくれた。両親を困らせて、愛情を確認していたあの頃。困りながらも、いうことを聞いてくれた両親。コースターに乗る。体を縛る安全バー。揺すぶられて、面白くて。一緒に乗ってくれた父。出口で待っていた母。もう一度、もう一度乗りたい。騒ぐ自分。
目が覚めた。起き上がると反応して部屋の電気が点いた。呼び出しブザーを押す。金髪の女性が出た。この人も知っている。昔からこの施設にいる。
「キャリーよ。調子はどう? ジム」
「悪くないです。寝汗をかいています」
「今、着替えと飲み物を出すわね。食事はあと十分程待ってちょうだい」
Mが着替えと飲み物を運んできた。
「着替えのついでで悪いけれど、裸を観察させてもらいたいの。湿疹やアザができてないか調べたいのよ」
「今……ですか?」
ジムが恥ずかしがって言いよどむとテレビ画面が消え、声だけが聞こえた。
「今回はMが調べるわ」
ジムはホッとして裸になる。Mの目が強く光り、ジムを照らす。
「イッシュウシテクダサイ」
ジムがその場で一周すると、Mはガーと機械音を出した。検査が済み食事が終わるとMは出て行った。
「なんでもできるんですね、Mは」
遅い昼食を終えたジムが画面の中のキャリーに言った。
「そうね。頼もしいわ」
キャリーは手元に書類を集める。
「さて、私達の目的は火星を命の星にすることよ。ジムはその方法について、どこまで知っているのかしら?」
「えっと、火星上空にノアを固定させ、火星の大気、放射能、土、気温、諸々を細かく調べます。その後、おそらく充満しているであろう二酸化炭素を酸素に変える機械を地上に設置、有害物質を無毒化するバクテリアを地上に放ち様子を見ると同時に、地上に基地を建設。なるたけ火星の物質を使い、第二の地球に改造します」
「バクテリアを地上に放つ[もう一つの目的]は?」
「万が一、ノア計画が失敗に終わり我々が死に絶えたとしても、強い生命力を持ったバクテリアが火星で生き抜く可能性があるから……ですよね」
「そうね。でも同時にバクテリアが火星で変化して我々に牙をむく可能性もあるわ」
「僕を試さなくても分かっていますよ、キャリー。ノアは人類の為だけじゃない。地球の夢なんです。地球の種だから、地上の遺伝子が火星に着けば目的の一つはクリアしたことになるんですよね」
キャリーは満足そうに頷いた。
「十七時になったら、貴方を仲間に紹介するわ。右の画面を見てちょうだい」
右の壁に別に大きな画面が現れ六人の男女の写真が写った。ジムもキャリーもサラも写っている。写真の下には、年齢、性別、健康状態、専門分野が書いてある。ジムは、健康状態の記入欄にある赤い文字に驚いた。
「サラは妊娠二カ月と書いてありますが」
「ええ、火星まで彼女も種になるの」
「お腹の子の保障は? おそらく、最大のリスクは重力。宇宙空間では、遠心力による人工重力で地球上と同じ重力を再現できるでしょうが、離陸と着陸には、負荷がかかりますよね?」
「ジム。火星も地球と同じ重力ではないわ」
「モルモットですか?」
言葉に出しながら、ジムは血の気が引いた。
「彼女の他にも女性は乗るから、万が一の時でも大丈夫よ」
諦めを含んだ彼女の口調にジムは違和感を覚えた。
「どういうことです? 何か隠していますよね」
キャリーは自らに向けられる真剣なまなざしに、思わずクスリと笑った。
「その挑むような目つき、マイクにそっくりね。いいわ。貴方はもう、ここから出られない。事実を先に伝えた方が、混乱しないわね。あと三日後に地球に隕石が落ちてくるの」
「隕石が? 三日後に?」
「ええ、人工衛星からの観測データが出した答えよ」
「時間と場所が分かっているなら、対策も立てられそうですが」
ジムは不思議そうな顔をした。隕石は今の科学ではそれ程大ごとでは無い。来る前にミサイルで撃ち抜けばいい。
「残念ながら、隕石の大きさと数が許容量の範囲を超えているわ」
口の中が無償に乾いてきた。そこまでの想定外っていうことは、悪くすると地球の消滅を意味する。
「地球は?」
キャリーは無言で目を閉じ首を横に振った。
「どのぐらいの人間がこれを知っています?」
「ここの人間と……この施設と同じくらい高度なシステムがあるところなら気付いているかもしれないわ」
キャリーの後ろにアダムが映った。
「各国の施設は俺がデータを改ざんしているから無理だよ」
彼は、珈琲を片手に持ち、こちらを覗き見て、ウィンクした。
「ハッキングですか?」
ジムは言葉に非難を込めた。
「仕方ないだろ」
アダムは肩をすくめた。
「ノアは、前もって準備されていた。本来なら出発は半月後だった。だが、安心してくれ。準備はかなりの余裕を持って進められていた。三日後でも、何とかなりそうだ。だが、地球を脱出できるロケットはここにしかないんだ。知れ渡ると大変なことになる」
ここ……世界中の富と資源と金持ちが集まる我が国。税率が高所得者にとって安く世界中から集まって来た富裕層が育てた国。南半球の高緯度に位置し、過ごしやすく、自然も豊かなエデンの園。少し考えれば、一番大事なものがここにあるのが分かりそうなものだ。
「分かりました。三日前でも、僕が選ばれたことは幸運として、自分の責務はきちんとするつもりです」
ジムは不安を忘れるように力を込めて言った。
「乗組員は六人よ。そこにある通り、私も乗るの。よろしくね」
「伯父のジェイソンが乗る、と聞いたのですが」
ジムは不満を顔に出さないように気をつけながら聞いた。アダムの舌打ちの音が小さく聞こえた。
「ジェイソンは乗らない。お前が乗るんだよ、ジム」
アダムの言い方は少し怒りを含んでいた。
「あのね……」
キャリーが言いよどんで、アダムを見た。アダムは咳払いして、画面の前に出た。
「俺が乗るはずだったんだ。ジェイソンが席を奪った。俺を去勢して。だから、ジェイソンは乗せないことにしたんだ」
キャリーは戸惑い、ジムは言葉に詰まった。
「確かにジェイソンは金集めに一役買ってくれている。だが、俺達はお前を乗せることに決めた。キャリーの頼みでもあったしな」
キャリーは顔を赤らめた。ジムは不思議そうに彼女を見た。キャリーとは五歳違う。昔からキャリーを知っていたが、十七歳のジムにとっては憧れこそあれ、恋愛感情は無い。その上、彼女から、そのような雰囲気を感じ取った事は無い。それなのに、今の彼女は恋愛感情を絡んだ空気をはらんでいた。しかし、キャリーはすぐに元に戻った。
アダムが続いて説明する。
「ジェイソンには、ジムは手伝いで来ていることにしてあるが……あいつはあいつで、何か企んでいるようで、ここにはほとんど来ないから、あまり気にしなくていい」
「企みって?」
ジムが不安そうに聞くと、アダムは安心させるように、口調を優しくした。
「こちらも探りを入れているから、安心してくれ」
キャリーが画面の前にきた。
「貴方の素姓は、乗組員全員が知っているわ」
「……気まずいですね。でも名前にライバとついている以上隠しようがないですからね」
「気にしなくていいわ。皆納得した上で君が選ばれたの。ちなみに私も乗るから何か困ったことがあれば言ってちょうだい」
キャリーが微笑んだ。
十七時になった。ジムはMから最後の健康診断を受けて皆の待つ場所へ案内された。Mは大きな扉の前で止まるとクルリと回って扉を開ける為のパスワードを入力した。扉がスッと開く。
扉の奥は大きく広い空間だった。上には大きな天井がある。横の窓から延び始めた日差しが心地よく広間に入って来た。広間の真ん中に大きなロケット、ノアがある。本物は初めてだ。ジムは感嘆の声を上げた。ノアの製造が開始されてから、ジムはこの広間に立ち入り禁止になった。他の乗組員候補と公平に扱う為だ。奥にはノアが通れる程の大きな出入り口が一つ見えた。
一階部分、周りの壁には七つの部屋。二階にはノアが見渡せる広い食堂。目の前には色とりどりの目と皮膚をした若者達。女性四人、男性一人。小柄なジムが気にならない程、皆小さい。そうか、ノアに乗るのは、小さい人間……軽い人間でなければいけないのか。
アダムが話し始めた。
「紹介しよう。左から、ヘレン・ボナパルト。乗組員の心の健康を担当」
ヘレンは観察するような黒い瞳でこちらを見て笑顔をつくり、軽く会釈した。
「ウォン・リー。ロケットの整備、火星基地の設計と建設を担当」
ウォンはニッと笑いウィンクをした。明るい朗らかそうな青年だ。
「リバ・カワダ。化学のスペシャリストだ」
リバはブラウンの髪をかきあげて、ジムを小馬鹿にしたように見た。ジムは少なからずムッとしたが、表には出さなかった。
「そして、サラ・ワトソン。地質学担当だ。鉱物のことなら、なんでも知っている。ああ、あと、彼女は俺の子を宿しているんだ。特に大事に扱ってくれたまえ」
アダムは『特に』を強調して、ジムに茶目っ気のある表情を向けた後、彼女に対して愛情のある暖かな目を向けた。彼女はほんの少し頷き、目を交わした。アダムの恋人なのは、それだけで理解出来た。特に小柄な女だ。
「そして、キャリー・ジャクソン。キャリーはもう知っているな。ここでは皆をまとめる隊長兼医師だ」
キャリーは親しみのある笑みを浮かべ手を振った。
「そして、俺、アダム・ジョーンズ。情報担当……と言っても地球を出るまでだが」
アダムが努めて明るく言った。
「出た後はウォンが担当してくれる。彼はプログラムにも精通しているからね」
アダムはその後Mをチラリと見て頷いた。Mの紹介は特に無い。そしてジムの側に行き肩に手を置いた。
「皆、彼がジム・ライバだ。生物学担当。俺の交代要員だ。仲良くしてくれ」
ジムは、よろしく、と出来るだけ愛想よく挨拶した。リバは、ジムの前に進み出て、威圧的に話した。
「よろしく、ジム。貴方が使命に沿うような働きをしてくれることを期待しているわ。血筋で合格した、と思われないようにね」
アダムが軽く咳をした。
「リバ、あまり苛めないでくれよ。俺は幼い頃から知っているが性格もマイクに似ている。デリケートで優しいんだ」
「マイクの息子ね」
リバは含みのある言い方をして、元の位置に下がった。代わりにウォンが進み出た。
「よろしく、ジム」
ウォンが手を差し伸べた。温かいオーラが彼の周りを包んでいる。気品と余裕を兼ね備えた笑顔にジムはすぐに親しみを覚えた。サラは柔らかい笑顔で、ヘレンは形式的に、次々にジムに手を差し伸べた。
「さて、ノアを案内しようか。他の皆は各自任務に戻ってくれ。時間をとってくれて礼を言う」
隊員達はノアの周りにある部屋にそれぞれ戻っていった。アダムはジムをノアの入口に案内した。
「改めて紹介しよう。これがノアだ」
アダムとジムはノアを見上げた。太く大きな円柱だ。白く飾り気の無いノア。憧れのノア。
「ちなみに、ノアの先に見える大きな出入り口は発射台に続いている。あそこから、ノアは旅立つのさ」
アダムは誇らしげに大きな扉を指した。ジムも、ノアがそこを通る姿を想像して気分が高揚した。
「さあ、ノアに入るぞ」
アダムが入り口のボタンを押す。小さな扉が開いた。小柄なジムも少しかがんだ。
「隊員が小柄だから、ノアの扉も小さくしたのですか?」
ジムが少し狭く感じる廊下を歩きながらアダムに聞いた。
「荷物を多くしたかったから、生活スペースが狭いんだ。隊員が皆小柄なのもその為だ。ストレスが溜ると思うけど、移動中は我慢してくれ」
アダムが奥のスペースに入る。中はカプセルホテルのようなベットが六つあった。
「ここが、共用スペースだ。奥に操縦室」
アダムが指さした方を見ると、六つの席と大きな画面が見えた。
「研究室は火星へ着いた後、組み立て建設するようになっている。ノアにはもう詰め込んでいるが、仮死状態で冷凍保存された動物たちも眠っている。向こうで様子を見て順々に起こしてくれ。これで説明も大体終わりなのだが……」
そこまで、流れるように説明していたアダムの口が止まった。
「アダム?」
アダムは振り向き真剣な顔をしてジムを見つめた。
「君に……ジムにこの決定をさせるのは酷かもしれない。だが、ノアの発案者の子供だ。聞いていいか?」
ジムは戸惑いながらもゆっくり頷いた。
「ノアには、知っての通り、多くの生命の胚、精子、卵子が乗る予定だ。もちろん人類も。俺達は精子と卵子を選ぶにあたって、元気で受精率の最も良さそうなものを選んできた」
「今は、どの生物も精子、卵子が弱いと聞いています。選ぶのは大変でしたでしょう」
「ああ、俺達はいろいろな生き物の精子、卵子を選んだが、人類で悩んだ」
「どういうことです?」
「……理想的な精子が、犯罪者の精子だったんだ」
「それは……罪にもよりますが、どんな」
「強姦だよ。犯罪が分かる前は優秀なアスリートだったので、精子バンクに登録されていたそうだ」
「……」
「ジム、君ならこの精子を乗せるかい?」
「犯罪遺伝子というのがあります。彼の身内の犯罪歴は?」
「調べたよ。彼の父は軍人で多くの賞をもらっているが、弟は暴力沙汰を起こしたことがある」
「軍人ですか……戦争は強姦と殺人が日常になる世界ですからね」
「うん、しかし我々の先祖もまた、同じ事をしていたのだろう。それに、金持ちの人間は多かれ少なかれ、金や規則の隙間を利用し、法律をすり抜けて来ただろうし、国によっては、権力者は大概のことが許される。それに、人間以外の動物は素行の良し悪しにかかわらず、環境により適応した遺伝子、受精能力の高い遺伝子を選んでいるのに、人間だけ人物を見るのも……。君の意見を聞きたい」
ジムは暫く黙ったまま目を伏せた後、アダムを見つめた。
「僕は乗せません。人間とその他の生物では立場が違います。今回、人間は火星を生命の星にしなくてはいけません。どんな形であれルールを守れる人間でないと、使命を達成することは不可能に近いでしょう。遺伝子レベルでも、不安要素は排除しておくべきです」
「なるほど……では、俺はやはり乗らないでよかったのかな」
「えっ」
ジムは驚いてアダムを見つめた。
「アダム、まさか……貴方はそんな人じゃない」
「俺はしていないさ。だけど、実父は犯罪者で、俺は精子バンクを利用した試験管ベビーだ」
「……貴方に罪はありません」
ジムは後ろめたさを感じながらも首を横に振った。アダムは頷いて目を逸らし、呟くように語りだした。
「実父に面会した時を覚えている。彼は、俺と同じ目の色をしていたよ。とても澄んでいた。そんな犯罪をする人間に見えなかった。そして、父もそれが犯罪だと理解していなかった。……理由は話をして分かったよ。彼の育った環境は暴力で女性を支配する村だった。祖父は子供達に世界を見せる為、村を出て都会へ来た。祖父と父と叔父は村の外……つまり世界の常識を知らなかったんだ」
ジムはアダムの腕を掴んだ。
「それなら、アダムのお父さんも叔父さんもルールを知らなかっただけで破ったわけじゃない」
アダムは大きく息をついた。
「これが、俺にできる精一杯の弁護。彼がしたことは犯罪には違い無い。嫌がる女性に暴力を振るったのは、間違いなく父だ。ただ、怖いのは、狭いコミニティでは間違った常識がはびこることだ。ジム、火星では気をつけてくれ。それから、君の意に反して悪いが、サラのお腹の子も可愛がってくれよ」
ジムはうつむいた後、唐突に話出した。
「猫は……」
ジムが顔をあげてアダムの目を見る。
「猫は、子育ての場所を人間が荒らすと子猫を食べることがあるんです。つまり動物も、普通じゃない状態になると、異常行動を起こすんです」
「うん」
アダムは、優しく頷いた。
「上手く言えなくてごめんなさい。僕はアダムがどんな人の子供でも悪い人間とは思えない。犯罪遺伝子は本当にあるけど、環境によって犯罪者になる率は変わるし、犯罪遺伝子を持っていなくても、犯罪者になることはあるんです。もちろんサラの子は可愛がるし、それに、ノアの環境も良くしていこうと思います」
「よろしく頼む」
アダムはジムの肩をポンと叩き出口へ向かった。
「でも、なぜサラを妊娠させたんですか。精子としてなら、持っていくことも可能ですよね。およそアダムらしくない」
ジムは抗議より興味の気持ちで聞いた。アダムのことだ、自分本位の理由で妊娠させたわけじゃないだろう。サラを危険にさらしても妊娠させた理由があるはずだ。アダムは少し困ったように顔を横に向けた。
「旧約聖書に、『神はアダムの肋骨からイブをつくった』って話しがあるだろ……つまりそういうことだ。さて、その話しは終わりだ。火星への事で何か質問は?」
アダムはこれ以上触れられたくないというように話題を変えた。ジムもこれ以上聞くのは諦めた。
「ありません」
ジムが黙ってしまったので、アダムは再びジムの肩を軽く叩いた。
「怖いか? ジム」
ジムはゴクンと唾を飲み込んだ。
「少し」
アダムはジムの目を見てゆっくり頷く。
「俺も怖い。お前達とは少し意味合いが違うが、この安全な地球から去らねばいけないという意味では地球で死ぬことも、ノアに乗ることもさして変わらない。おそらく乗組員全員怖いだろう」
「アダム」
「その中で理性を保つのは難しい。だが、やらなければいけない。よろしく頼むぞ、俺と、地球に残る全ての生命の分まで」
アダムは背中を見せてノアの出口へと向かった。ジムはアダムの潔い言葉に感銘を受けながら、その背中を追った。
「さて」
ノアの外にある大きな空間へ出たアダムはジムの方に振り向いた。
「ここに七つの研究室がある。一つは君のだ。今機材を搬入しているあの部屋だよ」
アダムはMが指揮して、ロボットが造っている部屋を指した。
「今まで生物はリバが担当だった。乗せる種や受精卵もリバが管理している筈だ。後で、引き継ぎに行ってくれ。火星への準備が進むに連れ、相談しなければいけないこともでるだろう。個別にしてもらっても構わない。だが、全員の意見が必要な時は朝、昼、晩の食事時、2階の食堂で食べるのだが、その時に相談してくれ。そして、生活スペースだが、食事以外はトイレもベットも全て研究室内にある。何か質問は?」
ジムは首を横に振った。
「分からないことはその都度聞いてくれ。誰に聞いても答えてくれるはずだ」
アダムと別れた後、ジムは自分の研究室へ行った。搬入や回線の接続はロボットがやってくれる。指揮をとっているのはMだ。まるで人間のような判断力。人工知能もここまでくると、人間がノアに乗らなくても凍結胚だけでいいのではないか、と、さえ思えてくる。
ジムはリバの研究室をチラリと見た。正直気が重い。会った時のきつい態度は、自分の専門を一つ取られた怒りなのだろうか。だが、行かなくてはなるまい。食事は十九時だ。あと十五分ある。嫌なことは早く終わらせた方がいい。出発まで時間が無いなら、なおさらだ。
ジムはリバの研究室の門を叩き扉を開け、彼女に会釈した。
「時間をとってもらってもいいですか」
「ちょっと待って。データを持って行くから、一緒に食事に向かいましょ」
作業に区切りをつけると、リバは、ジムを手招きして、データチップを渡した。ジムはチップを自分の両手ほどの携帯パソコンに入れた。
「引き継ぎでしょ。とにかく、アダムも無理やりよね。なんで情報屋のアダムの代わりがこの坊やなのかしら、ああ、あなたはマイクの息子だものね」
ジムは気まずそうに俯いた。
「ここを見て」
リバは、ジムの携帯パソコンの画面を指した。
「ノアに乗せる種の候補はこれよ。凍結胚はこれだけ。判明している生物のDNA設計図はこのファイルに入っているわ。貴方が運べる荷物は多いようで少ないわ。ここまで絞り込んだのは私だけど、貴方もよくよく考えて選びなさい」
リバは冷たく言い放った。
「凍結胚、種を選んだ基準は?」
リバは馬鹿にしたようにジムを見て笑った。
「見たらわかるでしょ」
ざっと見たところ、かなり偏りがある。害虫、ばい菌、ウィルス系がとても少ない。おまけに同じ系統の生命でも、基礎となる形を持ったネズミの様な生物より、キリンやパンダのように、すでに一つの方向に進化してしまった生物を優先している。考え方がジムと根本的に違うようだ。
「少し選び直すかもしれません」
「ふーん」
面白くなさそうに言うリバは明らかにジムに敵意を抱いていた。
「時間があるといいわね」
リバは食堂につくと、わざと遠くの席に座りそっぽを向いた。乗組員にしては子どものような反応だ。性格よりも知識、年齢を優先させた結果だろう。ジムはムッとしたまま近くの席についた。ヘレンが、後ろから来て通り過ぎる途中、足を止めた。
「きっと、いきなりでリバも混乱していると思うの。時間が経てば、いつものリバになると思うわ」
ヘレンが小声で言った。ジムは軽く会釈して返事をした。
「ありがとうございます。気にしないようにします」
ヘレンがリバの方へ向かった後、ジムの隣にキャリーが座った。
「キャリー」
ジムは笑顔で挨拶した。
「どう? 自分でなんとか出来るかしら」
ジムは頷いた。
「分からないことがあれば、その都度聞きます」
「頼りの無い隊長でごめんなさいね。元々アダムが隊長だったの。彼の方がリーダーシップも判断力も皆をまとめる威圧感もあるでしょ」
ジムはキャリーの穏やかな顔を見て、聞きにくい事を聞こうと決心した。
「僕が選ばれたのは、マイクの子供だからですか?」
キャリーはジムを見た。ジムの目、鼻、口、髪の毛、胸、腕、手、そして再び目を。ジムはモゾモゾと体を動かした。Mが近くに来て食事を配膳し始めた。Mにも見られているようで落ち着かない。
「あとで私の部屋に来ない?」
キャリーは、ジムをじっと見つめたまま誘った。
食事の後、ジムはキャリーと共に部屋へ行った。キャリーの部屋は黄色を基調としている。そこに彼女らしくいたるところに花柄をあしらっていた。家具は、ベットと簡易テーブルと椅子が一つづつ。周りには大小様々なコンピューターが置いてある。ジムは勧められた椅子に座った。
「……正直に言う方がフェアね」
キャリーは座っているジムを寂しそうに見てベットに座った。
「貴方の言う通り、貴方がマイクの子どもだったからよ。私はマイクが好きだった。ようやく気持ちが通じ合えた矢先、ジェイソンがマイクを殺したのよ」
「伯父が父を?」
驚きが隠せなかった。何食わぬ顔で僕を引き取った伯父。憎しみより戸惑いが押し寄せてきた。
「本当なんですか?」
キャリーは深くため息をついた。
「証拠は無い。でも隕石の襲来がジェイソンに知られた日なの。乗組員は決まっていた。ジェイソンは急いでマイクに話をしに行ったわ。その後、マイクが転落死したの」
「……ジェイソン」
ジムの声が震えた。キャリーが立ち上がり、珈琲を入れた。
「私は紅茶が好きだった。でもマイクの影響で珈琲も飲むようになった」
ジムは手渡された珈琲に目を落とした。そうか、父は彼女と恋人同士だったのか。
「僕は父じゃないです」
「そうね……。でも、火星に無ついたら、私のパートナーになって」
下を向いているキャリーの表情は読み取れなかった。あまり考えないようにはしていたが、単純に女性が多い乗組員構成はおそらく、一夫多妻になることを前提としているのだろう。ジムは頭の中の下品な考えを振り払うように首を横に振った。
「まだ、分からないです」
キャリーはクスと笑った。
「そうね。忘れてちょうだい。さあ、部屋に戻って」
キャリーは立ち上がり部屋の扉を開けた。
「あの……キャリー」
側に立つと昔と違いジムの方が背が高くなっていた。綺麗な横顔は何故か消え入りそうに見えた。
「僕は父じゃないですが、支えになるというのなら、側にいます」
キャリーはジムの額に人差し指を押し付けた。
「生意気なこと言って」
キャリーはジムを見上げた。
「マイクはね。そんな痩せっぽちじゃなかった。髭のそり残しも無かった。それに鼻すじも、もっと綺麗だったわ」
そして悲しそうにつぶやいた。
「……私のものになる前に亡くなったけど」
ジムはキャリーと向き合いながら、不思議な気持ちに襲われていた。キャリーを可哀そうに思い、父を失った気持ちは同じ様に悲しい。でも同時に、こんなにも父を愛してくれる女性がいたことに深い喜びを感じていた。
次の日の朝だった。ジムはウォンの所に持っていく種の量を増やしてもらえないか相談に行った。ウォンはロケットの燃料の計算をしていた。
「火星への道のりは長いからな。なんとかしなければ、無駄を省いて最小限に」
ウォンはブツブツいいながら作業に没頭している。ジムは恐る恐る声をかけた。ジムの相談にウォンは困った顔をした。
「えっ? これ以上重量を重くするのは無理だなあ。種を増やす? データで代用できないのか?」
ジムも困って口を尖らせた。
「植物だって、無駄を承知で沢山の種を作るんですよ。第一、太古から生命は海から地上に出るときも、大量絶滅から生き残るときも、数で勝負してきた。人間だって精子までさかのぼれば、数の勝負ですよ」
「それは、生物学的見解かな」
ウォンはジムの反論に不快感を現さず冷静に聞いた。
「ええ、そうです。生物には、無駄が必要なんです。無駄なように見えても、無駄じゃないからです」
ジムは言いながら、どうしようもない制約にも気が付いていた。そう、火星に必要なものは山程ある。だが、それを整理して最低限にしないと、ノアも飛ばないのだ。
「ジムの言いたいことは分かるよ。だけど、僕の本来の専門は数学だ。火星に到着してから必要な物は、火星にある物を利用し精製することもできる。けれども、到着するまでに必要な燃料は途中で切らす訳にはいかない。まして、今回はどんな悪天候でも、ノアを宇宙空間へ飛ばさなければいけないんだ。悪いが種は増やす訳にはいかない。凍結胚の温度を一定に保つ機械も減らせるなら減らしたいのだが」
ウォンの目には、穏やかな性格に隠れた頑固さが見える。ジムは考え込んだ。
「宇宙空間は3Kつまりマイナス273度程度の温度です。そりゃ、太陽光のあたるところは300度になるでしょうが、なんとかノアの常に日陰になるところに凍結胚を置いて置ければ、もしくは……」
ウォンは暫く考えて、頭を横に振った。
「リスクが多いな。安全に持っていける保障はない。それに、結局ノアの外側に凍結胚格納庫を作らなければいけないだろう。ノアの重量も増える。申し訳ないが無理だ」
ジムは嘆息した。仕方が……ない。
昼食前、ヘレンとアダムはキャリーの部屋へ来ていた。
「気になることがあるんだ」
キャリーは作業を止めて二人を見た。Mはキャリーの部屋で忙しく立ちまわっている。
「隕石が地球に到達するのは二日後なんだが、隕石が近づけばさすがに、他の施設も分かるだろう。パニックの中、ノアを飛ばすのは危険じゃないか」
キャリーはハッとして手を止めた。
「確かに。隕石の衝撃波さえなんとかできる距離にいられれば、大丈夫と思っていたわ。時間が無さ過ぎて、頭が回らなかったのね。遅くとも明日には地球を出発しなければならないわね」
「ああ、今から一日……いや半日でもいい。早くするのは、難しいだろうか」
「そうね。早くする方が安全ならその方がいい。他の皆にも日程を考慮してもらうわ」
キャリーはテキパキと昼食にいく準備をした。ヘレンは申し訳なさそうにキャリーの顔色を見た。
「皆、作業が終わらなくてイライラしているわ。言う方も辛いでしょう。ただ、行かないアダムが言うより、キャリーが言った方が立場上もこれからも良いと思ったの」
「隊長はそれが役目だもの」
キャリーの側ではMが、目をチカチカさせていた。
その日の昼食時、キャリーは皆にこのことを伝えた。
「一日早くなるってことは、明日じゃないか。明日のいつ? 夜遅くにしてくれよな」
ウォンが言った。
「ギリギリまで粘るつもりよ。でも、ジェイソンには伝えないで。彼はノアに乗せないから」
キャリーは皆の顔を見渡した。話を聞いていたようにジェイソンから建物全体へアナウンスがきた。
「サラはいるかい?」
薄気味悪い声だった。サラは体を硬直させた。
「私の部屋へ来てほしい」
ほんの少しすがる様な視線をアダムに向けてサラは意を決したように立ちあがって部屋を出た。アダムはそんなサラを辛そうに見送った。
「やあ、サラ」
ジェイソンは薄い笑いを顔いっぱいに広げながらサラの手を取った。サラは悪寒を感じながらも、出来るだけ表情に出さないようにジェイソンの部屋へ入った。ジェイソンの部屋には大きなガラス張りの窓があった。そこからは、別の作業スペースが見える。覗くとロケットの前の部分がもう一つ作られていた。ジェイソンは能面のように笑っている。
「見えるかいサラ。君には初公開だ。あれが、私達のロケットだよ。打ち上げ直前にノアと入れ替えて、ノアのエンジンで飛ばすんだ。中はシャワーもあるし、酒や麻薬。豪華な食事も積んでいける。君の様に従順な女性がもう一人あそこに乗るんだ。三人で火星に行くんだよ」
サラは、驚きと共に異物を飲み込んだような吐き気を覚えながら、懸命に頭を落ち着かせた。
「ノアは片道切符よ。生命の種はどうするの?」
「タンパク質と遺伝子地図があれば、種などなくても大丈夫さ。遺伝子地図はマイクロチップに入っている。人が乗るより、コンピューターが乗った方がいい。生命なんぞ、設計図があれば、親が無くても作れるからな」
人間味を欠いた笑い。サラは心底気持ち悪いと思った。ジェイソンの手がサラに伸びる。サラは体を硬くして後ずさりする。
「妊娠中は手を出さない約束でしょ」
「……そうだな」
ジェイソンはサラの顔を観察するように指でなぞった。そして、顔を近づける。サラの顔が引きつった。
ピーピー。Mが机の影から出てきた。ジェイソンが手をとめ、振り返ってMを見た。サラはその隙を見てMに駆け寄った。
「Mがいるのね」
サラが逃げるようにMの後ろにまわった。ジェイソンは小さく舌打ちする。
「今、情報収集中だった。Mは私のスパイだからね。進捗状況を見ていたんだよ」
まさか……出発時間が早まることを……もう……?サラは、波打つ鼓動を抑えて冷静を装って聞いた。
「何か特別なことは出てきた?」
気づいているのか、いないのか……。ジェイソンは面白くなさそうに、横を向いた。
「別に……いつも通りだ」
Mのシステムはアダムが管理している。アダムなら情報を読み取られるような馬鹿なシステムは作らないだろう。それでも、Mがジェイソンの元へ行っているのは報告しなければ。
「それで、用事は何?」
サラは居心地悪そうに聞いた。
「ロケットの居住スペースができたから、君に見せたくてね。君の気持ちの確認だよ」
「私は、大丈夫よ。それだけなら、私も忙しいから」
サラは急いでジェイソンの横を通り過ぎ、部屋を出た。ジェイソンは彼女の後ろ姿を見ながらフンと鼻を鳴らした。
夕食で再び皆が集まっているときだった。
「遺伝子地図と材料、それに人工頭脳か」
アダムは目を閉じて頷いた。
「確かにその方が重さは軽くなる……」
「でも、アダム」
ジムが慌てて言った。
「機械は一つ不具合が出ると、何もできなくなります。電気が止まっても、機械が故障しても。けれども生命は不具合には強いです。一見無駄と思えるようなバックアップ機能が幾重にもついています。四十億年の生命の歴史には、数千年の人間の文明など、敵いません」
「ジムも種を……つまり遺伝子を直接持っていく考えね」
キャリーが満足げに言った。ジムはキャリーを見た。
「マイクがそうだったの。それで口論になったことがあってね」
「そうそう、俺とキャリーは遺伝子情報をマイクロチップにつめれば、荷物が軽くなるっていったんだよな」
ウォンが笑って言った。
「でも、マイクは頑固だった。(現物の遺伝子は環境に合わせて変化しながらでも残ろうとする意思があるけど、ただの情報にはそれが無い)って、言ってね」
ウォンとキャリーが目を合わせ頷いた。キャリーが懐かしそうに続ける。
「マイクは遺伝子に意思があるって考えていたのよ。食事すら、遺伝子が相手を取り込もうとする気持ちだと言ってね。(そのものを好きにならないと食べたいと思わないだろう)なんて、言って」
キャリーがマイクの物まねをした。マイクはよくそんな風に、遠くを見るように話した。
「現に食事から遺伝子が生殖細胞に取り込まれた例もありますしね」
ジムが付け加えた。ウォンが話を続ける。
「それで、遺伝子を持っていくことになったんだが、今でも僕としては、荷物は軽い方がいい」
ウォンの言葉にキャリーが穏やかに反論した。
「でもね、ウォン。火星はまだほとんど分かってないわ。現地でどんな危険があるか分からない。私達の目的が生命を火星に送り込むことなら、多様な遺伝子を持ちこむこと。遺伝子情報を持ち込んでも、火星で生命が作れる状態になれるか分からないもの」
「つまり、私達が火星に逃げても、生き残れない可能性が大きいってことよね」
リバが皮肉っぽく言った。
「それなら、火星に生命を送る意味なんてあるの?」
「送りたいってだけじゃダメですか?」
ジムが言った。
「自分が死ぬかもしれない世界に生命を送る。……人を好きになるって、結局、未来に生命を送ることかなって思うんです。未来は自分が死ぬ世界だけど、僕は生命を送りたい。それこそ、増えたいっていう遺伝子の意思だと思います」
「ふーん」
リバは理解できないというように鼻を鳴らした。リバにとって、今回の火星行きは、自分が死ぬのなら意味は無い。
「僕らはどうしますか? アダム」
期待を込めてジムが聞く。ウォンが考え込んでいるアダムを見た。アダムは少し唸るように顔を上げた。
「種か、機械か、どちらかに偏る必要はないと思う」
ジムはアダムを直視した。アダムは気を使うようにジムとウォンに目配せをして続けた。
「データを持っていくことで、持ち込む種を少なくできるならノアの燃料も多く持っていける」
アダムは皆を納得させるように語尾を強めた。ウォンは満足そうに同意した。
昼食後、ジムは思い切ってサラにジェイソンとの関係を尋ねた。サラは小さくため息をついた。
「私ね。ジェイソンに強姦されたの。ジェイソンは自分が若くない上に体が弱いことが怖かったのね。誰かに自分のコピーを残したかったのよ。そして妊娠。ジェイソンは喜んだわ。同時に私は中絶を決めた。いくらなんでもジェイソンの子は嫌、でも堕ろしたと知れば、ジェイソンは何をするか分からない」
「それで……どうしたのですか」
サラはうつむき話を続けた。
「ジェイソンの子は堕ろしたわ」
その後、サラが黙ってしまったので、ジムは聞きづらかったもう一つの疑問をぶつけた。
「お腹の中の子はアダムの子と言いますけどアダムは去勢されていますよね」
サラは怒ったようにジムを見た。
「アダムが去勢されたのは、アダムがジェイソンに抗議したからよ。アダムは、私が乱暴された事実を知ると、すぐにジェイソンに抗議をしにいったわ。その時、ジェイソンは杖でアダムの横腹を殴った。アダムは肋骨が折れて施設内の治療室に運ばれて手術をしたの。そこで、同時に去勢もされた。キャリーはその時、手術の助手をしたわ。そこで、取りだした折れた肋骨の欠片を取っておいてくれた。……ジェイソンに監視されていたから精巣は無理だったから。そして肋骨からDNAを取り出し、精子を作り、私の卵子と受精卵を作って私の体にもどしたのよ」
「なるほど」
ジムはサラをマジマジと見つめた。体細胞から精子を作る。単純に生殖細胞からよりリスクが高い。そのリスクをとってまで、好きな男の子供がいいのか。彼女だけなのか、それとも人間全てに言えるのか。なんと感情に支配される生き物なのだろう。
一方、アダムはキャリーの部屋にいた。キャリーの部屋にはMがいる。
「Mがジェイソンの部屋へ行っていたと、サラが言うんだ。いつから行かされていたのかわからない。キャリー、Mを調べさせてもらう」
アダムはMのコンピューターを分解した。キャリーは不安そうにMを見る。
「どう? 彼の大事な頭脳は侵入されてない?」
「大丈夫だよ。コンピューターは2重になっている。サラの言うとおり侵入された形跡はあるが、表面のみだ。底の大事な部分はきちんと守られている。機密保持にダミーのデータを入れておこう」
「ジェイソンはまたデータを見るのでしょうね」
「おそらく。だが、この定期的にMをジェイソンの元へ行かせるプログラムは誰が打ったんだ」
「ジェイソン本人じゃなくて?」
「そうかもしれない。が、あいつにこのプログラムを俺達に気づかれずに打つ力があるかな」
アダムが考えこむ。キャリーが空を見上げた。
「マイクは知ってるんでしょうね。教えてくれないけど。でも協力者がいるならジェイソンの性格からみて、女性……かしらね」
「いや、憶測で決めつけないほうがいい。考えにくいが、強力なハッカーがいて、どこからかデータを飛ばしているかもしれない。まあ、Mはプログラムで完璧に支配できるしろものではないがね」
アダムはMのコンピューターを閉じた。
「特に大きな問題は無い」
「アリガトウ アダム」
「一応、ウォンにも話しておくよ。俺の後は情報担当になるわけだから」
「彼は信用できる?」
キャリーは不安そうに聞いた。
「ジェイソン側についている可能性は低いよ。メリットが無い」
「スパイハ、ウォン、ジャナイ」
Mはそう言うと、部屋の外へ出た。キャリーはアダムと呆れたように顔を見合わせた。
「何を考えているのかしら」
キャリーの言葉にアダムは同意する。そして、部屋を出るキャリーをアダムは呼び止めた。
「キャリー……あんまりマイクにとらわれるなよ」
「私は、後悔したくないから、今、沢山、マイクを思っているの」
キャリーは部屋を出て行く。廊下でMが彼女を待っている。アダムはため息をついた。
夕食の後、ジェイソンは次第に準備が進められていくノアをカラス張りの二階廊下から優雅に眺めた。横には七歳くらいの少女がしがみついている。ここからは、ノアの全てが見える。安全の為、ガラスの壁が覆っているが、ついこの間まで、ここはただの柵しかなかった。
(マイク、もうすぐ宇宙船が完成する。私が乗る宇宙船だ)ジェイソンの脳裏にマイクがよみがえる。
その頃、二階の廊下と一階の作業場の吹き抜けの間はガラス張りではなく、腰あたりまでの柵で区切られていた。
「私達は乗れない。年を取り過ぎているからな」
マイクがジェイソンに厳しく言った。
「じゃあ、なんの為に作ったんだよ。逃げる為じゃないのか」
「生命の未来の為だ」
マイクは、ジェイソンに背中を向けて柵に手をかけ、組み立て途中のノアを見つめた。
「……ごめん、兄さん。私とは考え方が違いすぎる。そして、地球が滅亡する今、言い争っている時間は無い」
マイクの背中に手が伸びる。マイクの体が柵の下に消えた。潰れるような鈍い音。悲鳴が聞こえる。医療班が動く。だが助からないだろう。彼は誤って自分から落ちたことにすればいい。どうせ証拠は無い。
廊下に響く足音がジェイソンを現在に引き戻した。ジムだ。マイクに瓜二つの容貌がジェイソンをゾッとさせた。
「やあ、ジム」
ジェイソンの気持ち悪い愛想笑いがジムの心を逆撫でした。同時にジムは、ジェイソンの陰にいるうつむいた少女に気がついた。下を向いて顔はよく見えないが、彼女が目に入ったときからジムには嫌悪感と不安がまとわりついてきた。認めたくない……。だが、彼女が顔を上げると、ジムは逃れられない現実に打ちのめされた。
メグ……よりによってこの男、僕の妹、父の違う妹に手を出した。自分の体の半分が汚されたようだ。ジェイソンはジムの表情の変化に気がついてニヤついた。
「この子はメグ・ウィートン。君も知っていると思うが、私が預かっている娘だよ」
ジェイソンの勝ち誇った顔がなおさら憎らしい。僕はメグの目を、軽蔑を込めて見た。少し怯えているようにも見える。
「メグ……母さんはこのことを知っているのかい」
ジムは幼い妹に声をかけた。メグの返事の前にジェームスが割り込む。
「ジム、誤解しないでくれ。この子は両親から頼まれて預かっているんだ」
一瞬意味が分からなかった。その戸惑いが表情に出たのだろう。ジェイソンはゆっくり付け加えた。
「つまり、君の母親は、君の妹を(将来、私の妻の一人にしてくれ)と、頼んだのさ」
「親父を殺した貴方のか?」
ジムが憤った。
「そう思うのは勝手だが、証拠が無いだろう? まあ、君の母親も私を殺人者だと思ってはいたけれど」
裏切り者……母さんの裏切り者。ジムはうつむいてジェイソンの横を通り過ぎた。せせら笑うジェイソンの気配が心をざわつかせる。ジムの背中にジェイソンが大声をあげた。
「君の母親はイマイチだったよ。やはり年増はダメだな。味わって損したよ」
吐き気がする。悔しい。母親が憎たらしい。同じ遺伝子を半分受け継いだ自分が崩れそうだった。この気持ちを誰かに分かってほしい。
「あら、ジム」
キャリーは部屋のドアを開けた。ジムはキャリーの部屋の前にいる。父親の恋人だったキャリー。この人なら僕の気持ちを共有してくれるのではないだろうか。次々と湧き出る感情……ジムは言葉が見つからない。
「妹だったんだ」
ジムは脈絡なく苦しそうにつぶやいた。今は丁寧な言い方をする余裕は無い。キャリーはハッとして彼の手を取って部屋に入れた。
「カフェオレを入れるわ」
キャリーはベツトにジムを座らせ、お湯を沸かした。ジムはうつむいたまま黙っている。
「辛かったわね」
キャリーは後ろを向きながらジムに話しかけた。地球消滅の未来を知れば、敵に娘を預けても、生き延びさせようと思う気持ちもわかる。ただ、その母心を思いやる余裕は今のジムにはないだろう。
「キャリーは知っていたの?」
消え入りそうな押し殺した声でジムが聞く。キャリーは小さく頷いて、カフェオレをジムに渡した。今は何を言ってもジムの心には届かない。ジムはカップを握ったまま、涙をカフェオレの中にこぼした。そして、カップを側の机においた。キャリーはハンカチをジムに差し出す。ジムはその手を握って、キャリーを押し倒し……求めた。
やはり、マイクに似ている。キャリーはジムを見つめた。性急な強引さはマイクには無かった。若さゆえか、性格ゆえかは分からない。ただ、顔は似ている。目のあたり、髪の色、輪郭。ジムに強引に抱かれながら、キャリーは拒もうとはしなかった。仮にマイクと結ばれたなら、このような感じなのかしら。そう思うと身震いするような幸せを感じ、一方でジムが自分を抱いた感情が愛情ではなく、憎しみ、怒り、戸惑い、制御できない感情であることを知っているがために、ジムに強く同情した。
事が終わったあと、ジムはいろいろな感覚の混沌を味わっていた。キャリーに母を重ね、ジェイソンになったような感覚。征服感と嫌悪感。彼女が自分を蔑視しているように感じ、ジムはいたたまれなくなった。
「キャリー、ごめんなさい。僕、こんなことするつもりじゃ……」
いや、するつもりでキャリーの部屋にきたのかも。火星でパートナーになってと頼まれていたことを思い出し、この渦巻くどす黒い感情を性欲と共に吐き出したかったのだろう。
「仕方ないわ」
冷たく凍るような口調にジムの心は傷んだ。キャリーは立ち上がって、シャワーを浴びにいく。扉が開いて、Mが入ってきた。Mは裸のジムを見つけると、目をチカチカさせ、人間のようにクルリと回って戻ろうとした。シャワー室から出てきたキャリーがMを引き止める。
「M、頼んでおいた作業は、そのソフトなの。少し調子が悪くて……。検査してくれる?」
キャリーは振り返り刺すような口調でジムに言う。
「ジムは出てって」
ジムは何も言えず、服を身にまとい逃げるように部屋を出て行った。
キャリーはさっきまで抱かれていたベットに腰掛けると、カフェオレを一口飲んで嘆息した。
「マイク、ジムはジェイソンの連れて行く娘が妹だと知ってしまったわ。私は、彼を受け入れた。怒っている?」
マイクの声が聞こえる。
「いや。息子は限界だったんだろう。はけ口にされた君には申し訳なかった」
「私も、彼を貴方のかわりにしてたの。だからお互い様」
Mがピーと作業終了の音を出した。キャリーはMの側に行き、恋人のように優しくなでた。Mの機械の手がキャリーの手に優しく触れる。
自室のシャワー室から出たジムは、絡みつくような罪悪感を振り払った。キャリーにはいつか分かってもらえるだろうと、子どもっぽい理屈で無理やり心を覆い隠し、大人にならないとできない行為を正当化して目を閉じた。崩れそうな自分を(考えない)ことで守ろうとした。
夕食が終わった後、Mはキャリーの部屋を抜けだした。向かう先はジェイソンの部屋。
「さて、M。向こうは予定通りに進んでいるのかな」
ジェイソンはMからコードを引き出し、自分のパソコンにつないだ。Mは目をチカチカさせる。
「こちらは、勝手にデータを収集するよ」
Mはグルルルと大きく音を出した。
「どう? 何か変わったことはある?」
洗面所から女が出てきた。乗組員の女だ。
「いや、予定通りだな。君もそう聞いているだろう」
「まあね」
女は苦笑しながら髪を掻きあげた。Mが異常操作によるフリーズを起こした。
「まあ、情報収集は終わったからいいが、お前のプログラムの追加がよくなかったんじゃないか?サラの代わりにお前を連れて行くんだ。しっかりしてくれ。とにかくMを起動させて、キャリーの部屋に戻しておいてほしい」
女はMに近づき操作パネルを開いた。
「システムの専門家じゃないもの。貴方の部屋へ時間通りに来るプログラムだって難しいのよ。それに、終わったら証拠が残らないように自動で消えるようにしなきゃいけないし」
「私よりは分かるだろう」
ジェイソンは、しゃがんだときにできる彼女の服の隙間を眺めながらニヤついた。Mは比較的早く、通常起動に戻った。
「まつたく、この機械は、お前との相性がいいな」
ジェイソンの皮肉を背中に聞きながら、女とMは廊下に出た。
「M、貴方、意志があるの? 出発の時間が早まったことを隠せるなんて」
Mはピーという音を出して、素知らぬ顔で彼女を追い越しキャリーの部屋へ帰っていった。
夜中の二時を過ぎた頃、アダムの最後の挨拶が始まった。斜め後ろにはMが控えていた。アダム・ジョーンズは七人の顔をじっくり一人一人見つめた。ヘレン・ボナパルト、ウォン・リー、リバ・カワダ、ジム・ライバ、キャリー・ジャクソン、そして、サラ・ワトソン。
「皆、とにかく、幸運を祈る。そして……サラを頼む」
アダムが深々と頭を下げた。皆は頷く。皆、アダムの無念さを理解している。アダムは振り向いてMを見て頷いた。
ジムを含め乗組員達は、アダムとMに握手とハグをした。
「任せてアダム。僕らは必ず使命を果たす」
乗組員はノアに乗る。ノアは大きな音を立てて宇宙に飛び出す。
大きな爆発音と揺れでジェイソンは部屋の扉を開けた。まさかノアが……。後は乗組員が乗る前に自分のロケットにエンジンを移し替えて、乗ればいいだけになっている。
ノアのある筈の広間へ急ぐ。ノアが無い。発射台に通じる出入り口が大きく開いていた。約束していた筈の乗組員の女が……いや、乗組員全員が部屋にいない。もう一人、一緒に乗る予定のメグも広間へ来た。
「ノアが無いわ。出発してしまったの?」
上空から徐々に小さくなる低い音が聞こえる。二人は急いで発射台へ車で向かう。闇の中、光で照らされた空の発射台とそれを見つめるアダムの姿。二人は車を降りた。煙と出発後の火の残り香。空には闇に光を放つ一つの光。やはり出発したんだ。ジェイソンはその場にへたり込んだ。
「ねえ、どうするの」
ジェイソンの肩を叩きながら、メグがすがる。その声が雑音になってジェイソンの頭に響く。ピーピー、前方からMが寄ってきた。
「ジェイソン、私が分かるか。私を見ろ」
Mが突然、流暢に話し始めた。我に返ったジェイソンが立ち上がりMを叩いた。
「このロボットめ。今日出発だと知っていたな! ニセの情報を渡しやがって。ノアはどこだ。私の乗るはずのノア」
Mはチカチカ光る目をジェイソンに向けた。
「ジェイソン、義弟よ。お前は……私達はノアに乗れない。年を……とりすぎているからな」
Mの声は、マイクの声そっくりだ。ジェイソンが怯えて再びへたりこんだ。
「まさか、そんな。お前は……死んだはずのマイ……ク」
四角い箱がギーギーと笑いにも似た音を出した。目がチカチカ光る。ジェイソンの顔は蒼白になり、ひきつっている。
「ロボットの振りをして私を騙していたのか。私を……」
怒りと焦りと困惑の混じった焦点の定まらないジェイソンの目。Mはカタカタと笑うように震えた。
「ククククク。その顔が見たかった。私が死んだと思ったか?私は脳だけになって、この機械の中に生き残った。私に対するお前の操作は、私の知る情報になったが、私を動かすのは、私の脳味噌だけだ。お前に渡した情報は全て偽物だ。……お前に受けた裏切り、お前に復讐する為……なにより、愛する者の為」
冷たい鉄の手が伸びる。体をのけぞらせたジェイソンの腕を無理やり掴む。
「逃げられない。もう、逃げられない。お前は、私と一緒に死ぬんだ。ククククク」
マイクは感情のない機械の声で話した。その音は徐々に闇に戻っていく空に響く。そこには希望を託すように空を見上げるアダム。
30分後、無重力状態のノアの中で、ウォンはヘレンに話しかけた。
「ヘレン、出発前に捨てたのは、もしかして」
「そう。連絡用の通信機。相手はジェイソンよ」
「君だったのか。Mのコンピューターをいじくっただろう」
ウォンは目を大きくしてヘレンを見つめた。ヘレンは含みをもった笑顔をウォンに向ける。
「生き延びる可能性は大きい方がいいもの。情勢でどちらにつくか変えようと思ったわ。でも、もう飛び出してしまったものね。今更、私の代えは用意できないでしょ」
ウォンは皮肉めいた顔で笑った。
「いや、君を責めることは考えてないよ。むしろ、その[強かさ]が、未来の子どもたちにも必要だろう」
「モノの見方は考え方によって変わるものね。どんな考えを持っていても、女なら受け入れる。貴方も相当[強か]よ」
ヘレンはクスリと笑う。隕石が地球に近づくのが、逃げるノアからも見えた。
「僕達もいつ死ぬか分からない。生きるか死ぬかなんて、紙一重だな」
ウォンが言った。
運命の時、空から隕石が落ちてくる。青い地球が赤く染まっていく。そして……暗黒。離れて行く唯一の光、ノア。