シーズ・エレクトリック(1)
翌日の昼休み、賑わっている学食にて、目の前に座っている水瀬は大笑いしていた。
理由は他でもなく、俺が例の『狐塚コンコン倶楽部』なるものの一員になった、というのを告げたからだ。
「まあ、そういうこと」
そう言って、まだ笑っている水瀬に少し呆れながら定食の唐揚げを口に入れた。
「いや、悪い悪い。だって意外過ぎたからさ。だって、あの噂の『お稲荷さん』だろ?しかもお前が」
確かに、帰宅部を決め込んでいた人間が急に入った部としては振れ幅が大き過ぎたなとは思う。
しかし、そんな通称まで付いてるのは知らなかった。
「何だよ、結構有名な部なのか?俺は知らなかったけど」
「まあ、俺も先輩たちから何となく聞いた程度だけどさ。運動系なのか文科系なのか活動内容も謎で、でもれっきとした学校公認としてのクラブがあるとかどうとか。朱川さんがそこに入ったって聞いた時は、あの子なかなかセンスあるなって思ったけど」
味噌ラーメンの残りを啜りながら水瀬が言う。
「でさ、何で入ったの。ていうか、何で入れたの?基本、部員募集してないみたいだしさ、あそこ。入部断られたっていう物好きなやつも居たみたいだし」
「……まあ、俺は運がいい物好きだったんだろうな」
「何それ?」
言ってる俺もよく分からない。かといってこいつを納得させる上手い理由も出て来なかった。
「まあ、いいんじゃないの?面白そうだし。……ん。あの子も、確かそうだよな?」
水瀬が誰かの姿を見付けて俺に振ってきた。
「ああ、そうだよ。」
目線の先を見ると、なるほど。石沢が定食の乗ったトレーを持って席に座ろうとしていた。
ご飯のおかわり自由という、金は無くとも腹は減る育ち盛りの学生たちには心強いシステムが人気の定番メニューだ。
ちなみに金の無い教師たちにも大いに歓迎されているらしい。
席に着いた、と思ったら、石沢はトレーを置いてもう一度受付のある厨房の方に向かう。
すると今度は、カレーライスとチャーハンを両手に自分の席に戻って行った。誰かの分を頼んであるのかと思ったが、待っていそうな人物も居ないようなので、どうやらあれが一人分らしい。しかも、ご丁寧にそのどれもが大盛り仕様だ。
しかし、あれだと何か……、
「米、ばっかりだな」
率直な感想が口に出た。
「ああ。あの食べっぷりで学食じゃちょっとした有名人だよ。でもあの子、運動部の連中があれこれスカウトしたがってるみたいだけど。体力が半端ないんだってさ」
たぶんそれは、あのオーバードライバー抜きでの話なんだろうが、となると、そういうヒーローの素質、みたいなものがあの石沢にもあったということだろうか。
「ちょっと、挨拶してくるよ」
「ああ、俺も出るわ。お先」
お互いに席を立ち、水瀬は出口に向かい、俺は反対の方に向かう。
まだ混雑しているテーブルと椅子を掻き分け、席の近くまで行くと、もくもくとチャーハンを食べていた石沢は気付いて、正面に居た俺の顔を見上げた。
「……」
「あ、俺も今日はここだったんだ。見掛けたから、挨拶しとこうと思って」
「……そこ、空いてる」
「ああ、うん。気にしないで食べて」
促されたので席に座る。
しかし、これだけ量を盛られた皿が並べられてるのを近くにするとさすがに豪快だな。有名人になるのも分かる気がする。
見ると、定食の茶碗にも昔話の1シーンみたいに白米が盛られている。この量に加えて更におかわり自由システムまでも活用しているとは。
「……ご飯、好きなのか?」
つい聞いてしまったが、これで「実はパン党です」と言われたらこれ以上の量が並ぶテーブルの図が想像が出来ない。
まあ、好きだからこそこういうラインナップになるんだろう。
「……お米は」
「ん?」
「……日本の幸せ」
カレーライスのスプーンを動かす手を止めて、石沢は静かに呟いた。
どうやら、ただ胃に詰め込むだけの大食いなどではなく、何かしらの哲学を持って心から米を味わっているようだ。農家の人が聞いたらさぞ喜ぶだろう。
「……そうか。深いんだな、お米は」
「……深い」
何故か俺も米に対する感銘を覚えてしまった。
と同時に、石沢にとってこの時間は大事なものなんじゃないかと思えてきて、長居するのは何か悪いような気がしてきた。
「あ、じゃあ、俺行くよ。邪魔して悪い」
そう言って席を立つと、石沢はまだ手を止めたまま俺の顔を見ていた。
「……どうかした?」
何か言うことがあるんだろうか?部の伝達事項とか。
「……邪魔じゃ、なかった」
そう言葉を掛けられて、どこかほっとしたのと、嬉しさが混じった気持ちが少し湧いた。根は優しい子なんだな。
……いささか考えが読めないところはあるが。
「……そっか。じゃ、また、放課後に」
「……また」
そうして石沢は再びカレーライスに取り掛かり、俺は食堂を後にした。
「あ、真壁くん」
放課後、教室で蕾香さんに声を掛けられた。
おそらく用件は部活についてのことだと思うが、しかし、こうして話すことが増えるのは素直に喜んでいいと思う。
ああ、青天の霹靂。意味は知らないけど。
「あたし、日直の残りがあるから、先に部室開けててくれる?たぶんまだ誰も来てないと思うし」
「あ、うん。分かった」
「ありがと。じゃ、終わったらすぐ行くね」
そう言って蕾香さんは足早に出て行ってしまったので、ここに残る理由も無くなってしまった。
「今から部活?例の」
「そうだよ。お前も今からギターいじりだろ?」
水瀬が面白いものを見る顔をして近付いてきたので、そう返してやった。
ちなみにこいつは軽音部所属らしい。よくギターのケースを担いで登校して来たりしている。
「いや、ギターは叩くもんだ」
俺が音楽にそんなに詳しくないからなのか、時々こういうよく分からないことを言われる。
何度かCDを貸して貰ったりしたが、大抵そのほとんどが今まで聞いたことのない名前のアーティストばかりだ。
「じゃあな、お疲れ」
そう言って水瀬と別れて、昨日蕾香さんから教えてもらったように職員室で鍵を取り、部室に向かう。
旧棟に入ると昨日と同じように人影もまばらになっていく。
しかし、改めて思うが今まで無所属帰宅部一筋だった俺が部活に通うことになるとは。明日のことなんて分からないもんだな。
そうこう考えている間に部室の前に着いた。
蕾香さん曰くまだ誰も来ていないということらしいが、前回のこともあるので扉をノックしてみる。
……返事が無い。昨日と同じだ。
扉に手を掛けてみると、ここは昨日とは違い、鍵が掛かっていた。
ということはどうやら俺が一番に来たことになるんだろうな……たぶん。
少なくともまた同じような事態にはならなさそうだ、と鍵を開け、扉を開ける。
しかし、結論を言えば、部室はまた、無人ではなかった。
「るー……ふふーん……るー……」
目の前では、一人の女子が俺から見て背中を向けた状態で、何やら体を細かく動かして、手を振ったり伸ばしたりしている。
それがリズムに乗っているということに気付くのには、少し時間が掛かった。
「……もーにん、ぐろーりー……」
尚もリズムを取る女子の頭には、ヘッドフォンが掛けられている。
この条件から察するに、これはもしかすると、あれか、音楽を聴いていたらテンションが上がってエアギターをしている最中ではないだろうか。
制服を着ていて校内にいるということは当然うちの生徒、だろう。
で、この部屋にいるということはおそらくは正協、及び『狐塚コンコン倶楽部』のメンバーである可能性が高い。
うーむ……、
(多彩なキャラのいる部だなあ…………)
そんな考えが頭によぎったが、それよりも重要なことがある。
「らー……りりりりー……るー……」
今、この女子はまだ俺に気付いていない。
なので、今もエアギターに夢中だ。
そして、彼女が気付いてしまった場合、これは確実にこの場は気まずい空気になるだろう。
こういう時、見てしまうより見られてしまう方が気まずいと思うが、こっちの方の気まずさだって相当なもんだ。
今のうち、静かにこの扉を閉めて何事も無かったようにこの場を立ち去ってしまえば大丈夫、何も問題は無い…………。
はず、だったのだが。
「らー、らー、らっ、らーっ!!!!」
「いっ!?」
流れている曲がいいところに差し掛かったのか、女子が突然、大きくジャンプした。
蕾香さんよりは短いが、それでも十分ロングヘアーと言っていい髪が揺れ、それだけならまだ良かったが、あろうことか女子の体は跳んだ勢いをそのままに、180度反転した。
つまり、女子が床に着地した時には、俺達はばっちり顔を向かい合わせることになってしまっていた。
「ふう…………っ!?ふえっ!?」
流石に人が居るのに気付いたらしい女子の頭からヘッドフォンが外れて、そのまま首に掛かるようにすとん、と落ちた。
そこから漏れる歪んだギターの音が、やはり訪れたお互い無言の気まずい空間に響いていた。
いつまでも、いつまでも…………。
完
「あ…………」
という訳にはならず、沈黙を破ったのは女子の方だった。
少し間が空いて、やがて姿勢を正すと、ゆっくりと髪を指で整え、首にあったヘッドフォンを外して机の上に置き、平静を保つように深い呼吸をして、冷静な表情で俺の顔を見る。
無言ではあるが、「何も言うな」とでも言われているような、そんな感じ。
これはもしかすると、今のことは何事も無かったかのように、この場を収めようとしているのではないだろうか。
出来れば、俺もその方がいい。
それならば、今度は俺から声を掛けてみようか。
大丈夫だお嬢さん、俺は何も見ていないぞ。
「あの」
「あんた、誰よぉーーーーーーっっ!!!!!!!」
と思ったら、予兆もなく女子は怒りゲージを0から100へといきなり全開にして、二、三歩こっちに駆けた後、今度は俺の方に狙いを定めたように飛び跳ねた。
振り翳した右手を見ると、完全に平手打ちの形をしている。
ああ、俺、今からビンタされる。
すごい痛そうだなあれ。またこういうことになるんだな。頑張れるかな、俺の体。
既に諦めの境地に入っていたのは、女子の流れるような無駄のない素早い動きが、俺にはどうやってもかわせないと判断出来たからだ。
当たる、というタイミングで俺は目を閉じ、全身に力を入れた。少しはダメージがましになればいいという気休めだ。
……来る!!
…………しかし、予想していた衝撃が来ない。
何だ、寸止めにでもしてくれたのか?
「ふう……今度は間に合ったよ」
ゆっくりと目を開けると、そこには蕾香さんが居た。
俺の前に立って、女子の平手を両腕を交差させて受け止めている。
「朱川!?何、邪魔しないでよ!……っていうかこいつ、誰よ!?」
女子が蕾香さんに食ってかかった。どうやら二人は知り合いみたいだが。
「とりあえず落ち着きなよ、葵。説明するから」
葵、と呼ばれた女子を制し、蕾香さんはガードしていた両腕をゆっくりと解いた。
「新入部員の、真壁くん。連絡してたでしょ?」
「連絡?来てないわよそんなの……。あ、まさか昨日の石沢の電話って……」
「何だ、ちゃんと届いてるじゃん」
「あれで分かる訳ないでしょーが!!『明日、挑戦者現る』ってだけ言われても!!あの口下手に連絡任せないでよ!!」
どうやら、連絡の伝達に問題(主に人選によるものだろうか)があったらしい。
尚も二人は話を続けていたが、やがて、
「あー……もういいわよ」
そのうち、葵という女子も落ち着いたようだった。
蕾香さんは申し訳なさそうに俺を見て、
「またまたごめんね、真壁くん。……ああ、この子はね」
「いいわよ、自分で言うから」
と、蕾香さんが紹介しようとしたのを遮って、
「折原葵。一年」
と、まだいぶかしげな顔をしながら自分で名乗った。
「あ……どうも。真壁、周平です」
同じく俺も自己紹介する。初対面の時のインパクトもあってか、ちょっと腰が引けてしまう。
「……で、あんたも『適合者』なの?」
葵……いや、折原は相変わらずの表情でそう聞いてきた。
何のことかと言われれば、当然オーバードライバーを使えるかどうか、ということだろう。
「あ、いや、俺は特に、何も」
そう答える。……何か変に緊張するな。
「ふーん…………まあいいけど。足さえ引っ張ってくれなきゃ」
どうやら、あまりいい印象は抱かれていないことは分かった。
「もう、葵。ごめんね、口はこんなだけど、そんなに悪いやつじゃないから。気にしないで」
と、蕾香さんがフォローするように入ってきてくれたので、少し張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
「あれ、でも葵、どうやって入ったの?鍵、閉まってなかった?……あ」
尋ねながら蕾香さんは何かに気付いたようだ。折原は部室の上の方を指差すと、
「窓。取りに行くの面倒だったのよ」
どうやら、結構アバウトな性格らしいことは分かった。
「ダメじゃん。また怒られるよ?……あ、柚子」
「……毎度」
見ると、石沢が、何かの入ったビニール袋を両手に吊り下げてやって来たところだった。
「あ、石沢!あんた、連絡するならもっと分かりやすく言いなさいよ!」
すると、石沢の顔を見た折原がさっき話していた件で突っかかっていく。
「……連絡?」
「昨日の電話。あんなの意味分かんないわよ。」
「……分からなかった?」
「だからぁ!」
今度は折原と石沢の押し問答が始まってしまった。もっとも、折原が一方的に喋っているのを、石沢が相変わらずのポーカーフェイスで時折頷いたりしているような展開になっているが。
「じゃ、とりあえず入ろっか。残りの人達も、そのうち来ると思うし」
二人を横目に蕾香さんはそう言うと、てくてくと部室に入っていった。
「あー……まったくもう……」
喋り疲れた様子で、折原が呟いた。
その横を、石沢がビニール袋を両手にすたすたと部室に入って行く。
俺もそれに倣って中に入ろうとしたら、
「……ちょっと、待って」
呼び止められたので振り向くと、折原はさっきのビンタ寸前の時のような素早い動きで俺の襟首を掴むと、自分の顔を俺の顔がぶつかりそうな距離まで近付けて来た。
「……っ!?」
あまりに速過ぎたので、一瞬何をされたのか分からなかった。
「さ!」
さ?
思わず左?差?などと頭の中で無意味な漢字変換をしてしまい、本当に無意味だな、と思っていたら、
「さっきのこと喋ったら……殺すからね」
そう小さく俺だけに聞こえるように言って、手を離すとさっさと行ってしまった。
やっぱり、あの場面を見られてしまったのがかなり恥ずかしかったのか。
心なしか頬が赤くなっていたような気がしたのは……気のせいだろうか?
「……何だかなあ」
最後に俺も部室に入り、ドアを閉めた。
「……で、何これ」
折原が目の前のものを見て、率直な言葉を口にした。
部室に入って昨日のようにちゃぶ台を取り囲んだ俺達四人の前には今、人数分の丼物が置かれている。
石沢の持って来たビニール袋には、『庵団亭』と書かれてあった。
確か、学校の近所にある、昔ながらの佇まいの定食屋だ。行ったことはないが、なかなか美味しいと評判らしい。
「何って、歓迎会。真壁くんの」
「それは別にいいわよ。それで、何で丼なのよ?」
「……庵団亭、イズ、オイシイ」
何故か片言で、ポーカーフェイスだが確固たる自信を以て、石沢が折原に向かって親指を立てる。
「まあ、柚子のチョイスだからね。でも、こういうのもいいんじゃない?」
「それにしたって、もう少し他に無かったの、って話よ」
「……カツ丼がいい?」
「そういうことじゃなくて!いいわよ、天丼で」
そんなやり取りを聞きながら、俺は目の前の透明な蓋を被せられた親子丼を眺めていた。卵の半熟加減もいい具合で、その温かさはまだ保たれているようだ。
しかし、まさか歓迎会まで開いてくれるとは思わなかった。
当たり前だが、普通に嬉しかったりする。
「うーん……、まだ部長たちも来てないから、お茶でも入れて待ってようか」
蕾香さんはそう言って立ち上がると、お茶の用意をするべく棚の方に向かった。
「あ、手伝うよ」
俺も釣られて立ち上がろうとすると、
「ああ、真壁くんはゆっくりしてていいよ。今日は真壁くんの歓迎会なんだからさ」
そう促されたので、こういう場合はあまり無理に手伝ったりしない方がいいのかと思い、もう一度座り直した。
そう言えば、と庵団亭の袋を見ると、丼はあと二つ入っているようだった。
「部員の人は、あと二人なの?」
「え?うん、そうだよ。部長と、あともう一人。どっちも二年の先輩なんだ」
急須にお茶の葉を入れながら蕾香さんが答える。
昨日軽く話した時には聞いていなかったが、そうか、先輩のメンバーもいるんだな。
「んー、ちょっと怖そうな格好してる人もいたりするけど……、でもいい人たちだよ」
「怖そう?」
「うん、何かね……、尖ってるっていうのかな?」
尖ってる、か。でも、見た目が怖そうでもいい人なんだったら、大丈夫だろう。蕾香さんもそう言っていることだし。
「まあ、実際怖いと思うけど」
と思ったら、折原が誰に言うでもなく言葉を重ねてきた。
いや、どっちなんだ。とりあえず、マルかバツかならバツ寄りってことか?
……まあ、こっちが何か失礼なことでもしなければ怖い目に遭うこともないだろうが。
「……オーケー」
問題ない、という意味だろうか、石沢が例によって親指を立てる。どうやらこれは石沢のお約束みたいなものらしい。
「丼、冷めちゃうかな?部長たち、もう来ると思うんだけど」
「……問題なし」
と、蕾香さんの心配を取り払うように石沢は再び親指を立てて、
「……庵団亭は、冷めても美味しい」
それを聞くと蕾香さんはおかしかったのか、くすくすと笑い出した。
俺も何かおかしくなって、笑ってしまった。
折原も、やれやれという表情を浮かべている。
そんなような、どこか和やかな空気が流れた時だった。
「ごめんなさい、遅れてしまいました」
扉がゆっくりと開く音がして、穏やかな声が聞こえた。
「あ、雪緒さんだ。大丈夫ですよー」
蕾香さんがその扉の前の人物に声を掛ける。
……背の小さな、ぱっと見た印象では、小柄な、まるで小学生、のような。
しかし同時に、きっと自分よりは年上なんだろうな、と思わせるような、穏やかで大人びた、不思議な雰囲気を持つ人だった。この人が部長を務めているのだとしたら、何となく分かる気がする。
目が合うと、雪緒さんと呼ばれた人はぺこりとお辞儀をした。釣られて俺も同じようにお辞儀を返す。
しかし……この人からは特に尖った印象は受けないんだが。
「おいーす」
すると、扉の横からもう一人の人物が現れた。
「紫鶴さん、おいーす」
蕾香さんがその人に合わせて挨拶を返す。
ええと、ということは、この人が……。
180センチ近くはあるだろう、すらりとした体つきで、黒を基調にした制服、のようだけどそれとはまた違う服に、鮮やかに染まった髪と、耳には二重のピアス。
そして、冷たく、鋭い、目。
ああ、確かに……尖っている、のかもしれない。
「今日は雪緒さんと紫鶴さん、一緒だったの?」
「ええ、放課後廊下で会って、そのまま旧棟まで来たんですけど……」
そう説明する雪緒さんは、何故かまだ中に入ろうとしないで、廊下に立ったままだった。
何となく、困っているような感じだ。
「よっ、と」
すると、紫鶴さん、と呼ばれた人は何か大きな荷物をどさり、と床に降ろした。
「こいつがいきなり出て来て喧嘩売ってきたから、買った」
ここからは壁に隠れて見えなかったが、目の前に出されてそれが何か分かった。
「アンダーヒーローの方、みたいなんですけど……」
雪緒さんが補足して説明したそれは、顔及びその他いたる所を腫らして気絶している、人間だった。
黒革の上下に腰の辺りには銀色の鎖か何やらをぶら下げた、バイク乗りなのかロックンローラーなのかという出で立ちのその男の右手には、そんな悪者の武器の定番なんだろうか、『バールのようなもの』がテープでぐるぐると巻き付けられていた。
が、それも今では『かつてバールのようだったもの』として、前衛芸術みたいな曲線をあさっての方向に描きながら、本人と同じくズタボロになっていた。
今の話の流れからして、彼がこうなった理由は言うまでもないだろう。
「ほら、言った通りでしょ?」
折原がこっちの方を見て、やっぱり、というような表情と口調で言う。
「あはは、いい人、なんだけどね……」
ばつの悪そうな笑顔で、蕾香さんがフォローする。
蕾香さん、ものすごく怖い人だと思うよ。