ヒミツガールズ・トップ・シークレット(1)
翌日の朝。
寝起きは、随分と悪かった。思ったよりも体は疲れていたらしい。まあ、無理もないか。
それでも何とか勢いを付けて布団から体を引き起こし、いつも通りの行動スケジュールに従い着替え、朝食、その他をこなしていく。
そうしていると、昨日の事との落差に違和感を覚えたりもするが、今は深く考えないようにしておこう。今日の放課後には何かしら事情が分かる。らしい。
足早に家を出て、バス停に向かう。
雨が降った日ぐらいしか乗る機会が無いから、時刻もうろ覚えだったが、長く待たされることもなくバスは来た。
ちなみに、自転車は盗まれてしまった、ということで親には話を通しておいた。さすがに得体の知れない人斬りらしい男に一刀両断されました、とも言えない。蕾香さんにも秘密だと言われているからな。
車内でバス通学のクラスメートに「珍しいね」などと声を掛けられたりして、学校前のバス停で集団に続くように降りると、校門に隆々と掲げられた表札が目に入った。
『稲荷野市立狐塚高等学校』。
その昔、神の遣いの狐が何だかんだあってこの地に祀られてどうのこうの……とまあ、何やらありがたそうな由来の場所に建っている、何かご利益でもありそうな名前の付いた、普通の共学の公立校だ。
狐をモチーフにした校章が密かな人気なのと、便乗して作ったのか、狐の微妙なマスコットキャラクターを校内のポスターの隅に見掛ける度、どこか複雑な気持ちになる他には、校風も授業内容も、特に他の学校と変わっているようなところは思い当たらない。俺の感覚では。
黒塗りの鉄の扉を過ぎたところで、同じタイミングで登校して来た、知った顔と出くわした。
「おーっす、昨日はお疲れー。……って、あれ?今日はバスで来たの?」
水瀬光晴。席のすぐ後ろという位置関係をきっかけに、入学以来よく一緒に行動したりしている。
思えば、昨日こいつの家から帰った時から、あの事件は始まったのだ。
「おはよう。いや、何か色々あって……ふわあ……」
「何、今頃試験疲れ?昨日はああ、乗り切ったー、みたいな顔してたくせに」
欠伸混じりに挨拶すると、軽く呆れたような顔をされたが、ならばと俺が昨日あったことを事細かに説明したところで、まあ、素直に信じられはしないだろう。
正門から続く、校舎への整理された一本道を歩き、他愛無い雑談を交わしつつ教室に向かう。
半開きになっていた扉をくぐり、何となくいつも自然に目を向けてしまう方向……、つまりは蕾香さんの席の方を見ると、
「あ、おはよう!」
机に腰掛けていた彼女と目が合い、向こうから挨拶された。
何を言うまでもない普通のことだが、今日の場合、いつもと違ったのは、蕾香さんは単純に教室に入ってきたクラスメートを見て挨拶したのではなく、入ってきたのが俺だったのを踏まえて、声を掛けたという感じだった……ような気がした。
思い過ごしかも知れないが、目が合った時に誰に分かるでもないような、「昨日はどうも」みたいな、目配せするような顔を一瞬俺に見せたからだ。
それが些細なことだとしても、そこにはとても大きな差がある。蟹とカニカマくらい大きな差がある。
好きな女の子がその他大勢と違う反応をしてくれた、というのはかなり嬉しいこと、だったりしないか?君はどうだ?
そんなことを数秒の内に考えていたら、
「おはよ、朱川さん」
横から水瀬がさっさと蕾香さんに挨拶した。
あ、しまった。まだ俺が挨拶してない。
「お……おはよう」
内心慌てながら言ったら、ついどもってしまった。
……何をやってるんだか。
席についた水瀬を追うように俺も自分の席に座り、一時限目の用意をする。
もう一度蕾香さんの席の方を見ると、いつもと変わらず、隣の女子と話しているのが見えた。
早くも手元に返って来た答案用紙に悲喜こもごもしたり、初夏の少し暑いくらいの気候の中で体育の時間を過ごしたりと、何ら変わりない普段の日常の1ページだった。
同じく普段通りに世間話をしながら昼飯を食べていたりすると、やっぱり昨日のことが嘘みたいに思えてくる。
が、それでも現実はそう都合良く変わりはしない。
午後の授業をうつらうつらしながらやり過ごし、やがて放課後を迎えた。
例の、約束の時間だ。
HRが終わり一息ついて、蕾香さんに声を掛けておいた方が良いのかと思ったら、既に教室に彼女の姿は無かった。
部活に向かう水瀬と挨拶を交わして別れ、無所属帰宅部の俺はいつもなら、さっさと昇降口に向かって、この後の計画をぼんやりと立てながら帰るのだが、今日は正反対の方向に向かう。
待ち合わせの指定場所である旧棟は、この学校が創立して以来、未だにその姿を変わらず残しているという、レトロな三階建ての赤い木造建築だ。
昔ながらの造りには何か独特の雰囲気があって、今でも教室の幾つかはそれなりに使われているらしく、どこからか吹奏楽部の楽器が練習している音も聞こえてくる。
中に入り、目的の場所を探しながら歩いていると、しばらくして、二階に『第二資料室』と書かれたプレートを見つけた。
少し背筋を正して、一呼吸置いてから扉をノックしてみる。
……しかし、反応はない。
留守なのかと思ったが、中からは何か物音が聞こえる。無人、という訳ではなさそうだが。
扉に手を掛けて少し力を入れてみると、抵抗は無かった。鍵は掛かっていないらしい。
「もしもーし……」
無言で開けるのも何か気が引けたので、そう言いながら扉をゆっくりと開けてみる。
結論を言えば、部屋の中には、確かに人が居た、のだが。
「……」
壁際の古びた書棚には、何かのファイルや自分には縁のなさそうな本が並んでいて、確かにここが学校内の資料室であることを思わせる。
しかし、俺の目の前には、淡い色のカーペットが敷かれた上に、何故かいかにも年季の入ったようなちゃぶ台が置かれていて、更にその上には、旅館の和室で見掛けるような、煎餅や和菓子が入っていたりする丸い器と、それとセットであるかのような急須と湯呑み、そしてそれを前に座布団に正座している一人の女子が、書棚とは反対側の壁際に置かれているテレビを黙々と見ている、というこの場には不釣り合いな状況が同時に目に入ってきた。
「……さあ〜!オンドレ・ド・ベルサイユ、ここで得意の真紅の薔薇殺法に持ち込みたいところでしょうか…、どうですか大鉄さん!?」
「そうですねぇ、あれ喰らったらねぇ、その辺の素人だったらねぇ、たちまち青アザですよ!!」
どうやら、聞こえてきた音の正体はこれだったらしい。
観ているのはプロレスの試合のようで、映像がざらついた古そうな感じからすると、テレビの番組ではなく、DVDか何かだろうか。
……この場所で合ってる、筈だよな?
一応、聞いて確認してみようか。
「……?」
すると、俺に気付いたのか、彼女がこちらを向いて無言で立ち上がった。
運動部のエース、なのかは分からないが、一線のスポーツ少女というような健康的な体つきで、制服のブレザーの代わりに羽織った学校指定のジャージに、ショートカットがよく似合っていた。
しかし、顔はどことなく文化系っぽいなという印象を受けたのは、眼鏡を掛けていたからだろうか。
「……」
ジャージ女子はそのまま無言で表情も変えず、近付いて来た。
目が、合う。
その顔は同じ一年の階層で、何度か見掛けたことがあったような気がする。
そのまま歩みを止めることなく、彼女はどんどん近付いて来て、そのまま眼鏡のレンズに俺の顔が映り混みそうな、ギリギリまで近いところに来た。
とりあえず、挨拶はしておいた方がいいだろうか。
と、思ったら。
するっ、
と、俺の脇腹の辺りにその身を滑り込ませてきたかと思うと、
ぐぐぐぐいいいいいいいっ、
と、いきなり俺の体を折り曲げるように締め付けてきた。
「……っ!?……ぐ…っっっ!!!」
ぎりぎりと、上半身と下半身をあらぬ方向に締め上げられ、声が出せない。
痛みと息苦しさが、あっという間に全身を駆け抜け、更に加速する。
この技は、確か、コブラツイスト、とか言う、やつだったっけか?
いや、名前とかは今はどうでもいい!本当にどうでもいい!!
「あーっとぉ!!ここで出した、R・O・D!!ローズ・オンザ・ダイナマイトぉーっっ!!!!これは、立てない、たーてーなーいーっ!!!!」
「あー、これねぇ、決まったんじゃないですかねぇ!!」
どうやら、画面の中の試合でも何らかの必殺技が炸裂したところらしい。
今この部屋では、二元中継で技の共演が繰り広げられるという、臨場感溢れる場面をお届けしていることになるが、掛けられている当事者からすれば、とにかく、とにかくこの状態を何とかしてくれないだろうか。
「……誰?」
体勢をがっちりとキープしたまま、ジャージ女子は聞いてきた。
しかし、このまま笑顔で流暢に自己紹介出来る程、俺はタフな精神力は持ち合わせてはいない。
とりあえず、こういう時は、降参、すれば、いいのか?
「……ギ……ギブ、ア……」
何とか声を絞り出して、そう伝えようとした時、
「あーっ!!柚子、その人は普通の人!!」
蕾香さんの声だった。すると、あっさりと体に掛けられていた力が抜け、俺はその場にへたり込んだ。
「……違う?」
ジャージ女子はそう呟くと、足元の俺の方をじっと眺めているようだった。
「全然違うってば!……真壁くん、大丈夫?遅れてごめん!……体、どうにかなっちゃってない?」
顔を上げると、蕾香さんが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
どうにか……はなっていないようだ。
「あ、うん……何とか大丈ふ」
ふ、に濁点を付ける力が足りなかったようだ。
もう一度蕾香さんの顔を見ると、それがおかしかったのか、少し笑っていた。
「じゃあ、改めまして。この子は、石沢柚子。あたしたちと同じ一年生だよ」
場は同じく第二資料室にて、俺たち三人はちゃぶ台を囲んで座っていた。
蕾香さんが紹介した石沢という女子は、やはり同級生だったらしい。
「……」
目が合う。じーっと見られている。少しむずがゆい気分になる。
「……お茶」
すると、石沢はポーカーフェイスで湯呑みに注がれたお茶を出してきた。
「あ、ありがとう」
礼を言って、俺が熱いお茶を口にすると、石沢も、蕾香さんも自分の前に置かれていた湯呑みに口を付ける。
しばらく、各々がお茶をすする音だけが響く静かな時間が流れて、
「……ふう。さてさて」
先にお茶を飲み干した蕾香さんが話を切り出してきた。
「あのね。昨日のこと、なんだけど」
早速本題に入るようだ。
どこか空気が少し張り詰めるような感じがする。
「あたしね……実は、正義の味方……みたいなこと、やってるんだ」
少し照れくさそうに笑いながら、蕾香さんは言った。
正確には、昨日は『正義のお姉さん』と言っていたと思うが、まあ、大きく意味は変わらないんだろう。
とりあえず、蕾香さんは、正義の何か、なんだそうだ。
「うん……でも……あの、何で?」
とりあえず、率直な質問をしてみる。まだ全く話の内容が掴めない。
「そうだね、ちょっとややこしい話になるんだけど……」
そうか、ややこしくなるのか。と、こっちもしっかりと聞くつもりで、何となく正座などしてみて彼女の方に向き直った時、扉をノックする音がした。
「はーい、どうぞー」
蕾香さんがそう促すと、扉はゆっくりと開き、
「やあ……お疲れさん」
と、廊下に立つ人物が言った。
「あ、藤波さん」
蕾香さんが、応対する。
背の高い、がっしりとした体格で、片手にはアタッシュケースを手に、にこやかに笑ってこちらを見ていた。
あご髭を蓄えた端正な顔つきから察するに、年齢は40歳前後、くらいだろうか。
ハードボイルドだとか、ワイルドターキーだとか、そういう言葉が付いて回りそうな人だった。
「そこの彼が、例の同級生くんだね」
「うん、今から話そうと思って」
藤波と呼ばれた人が聞くと、蕾香さんはそう答えた。
「そうか、丁度良かった。じゃあ、そこから先は俺が説明するよ。こういうのは、こちらの仕事だからね」
藤波…さんは中に入って来ると、俺たちの座っているちゃぶ台のスペースの空いている場所に座り込んだ。
「どうも、失礼」
「あ、いえ」
別に怒られた訳でもないのに、大人のオーラとでもいうのか、何故か緊張してしまう。
「……お茶」
程なくして、石沢がまたもやポーカーフェイスで湯呑みを藤波さんの方に差し出した。なかなか気が利くんだなと思ったが、初対面の人間にコブラツイストを掛けてきたりもするから、何だかよく分からない。
「どうもありがとう。……ふう」
一口お茶をすすると、藤波さんは蕾香さんに、
「佐山は結局、姿を消したみたいだよ」
そう告げた。佐山って、昨日のあいつのこと……だよな。きっと。
「そっか。今回は仕切り直し、かな?」
「そうなるね…。だが、あいつは自分の仕事は確実に遂行しようとする。必ずまた現れるよ。そういう奴だ。……その時は、またお願いすることになると思う」
少し声のトーンが変わったかと思ったら、藤波さんは蕾香さんの顔を見て、
「いつもすまないね」
どこか複雑そうな表情をした。
「まあ、これも使命ってやつだし、ね」
すると、蕾香さんは笑って返す。
釣られるように藤波さんも少し笑って、今度は俺の方を向くと、
「ああ、申し訳ない。挨拶が遅れたけど、僕はこういう者だ」
と、名刺を一枚差し出してきた。
受け取って、眺めてみるとそこには、
国家正義保安協会 主任管理官
藤波 総一郎
そう書いてあった。