1部7話 魔王転生
怪物の様な何かと化したリーリアの視界に、一本の大樹が現れた。いや、厳密には逆だ。大樹が現れたのではなく、彼女が自分の身を大樹まで飛ばしたのである。
超高速で移動する時にも不可能な速度、というよりも空間移動を行って見せた彼女の身体は、何とか精霊達が支える事で形を保っていた。
「は、く……はぁ……あ、あぁぁ……」
自分が移動に成功した事を頭ではなく直感で理解すると、彼女は息を荒げて大樹へ身体を預ける。彼女の力と精霊の力が大量に使われた幹は、怪物達ですらそう簡単には浸食できないだろう。
そんな気に身体を寄りかからせた彼女は、何とか戻ってきた思考力をかき集める。
余りにも無茶だった。下手を打てば、いや打たなくとも即死している可能性の方が高かっただろう。だが、彼女は成功させてみせた。そうなるという確信があったのだ。
「ふ、ふ……小さい子の応援って、あんなに、効果がある、のね、ぇ……」
少女の自分を信じた目は、彼女の背中を押していた。馬鹿げた真似だったが、絶対に成功させるという意気込みがあった。そして、彼女は実際にやってのけたのである。
力を爆発的に使用した為か、もう羽は消えている。それでも彼女の身体は元に戻らずに薄ぼんやりとしていて、今も鈍く真綿で首を絞める様な苦しみを感じている。
そんな苦しみを自分の生きている証だと考えて、彼女は一変の悔いも抱かずに微笑んだ。すると、彼女の背後からどうでも良さそうな声が聞こえてくる。
「凄いね、精霊達を身体に取り込めるなんて」
「……まあ、ね」
「でも、そういう事をすると身体が壊れていくと思うんだけど」
見透かした様な少年の言葉を聞くに、彼女が何をしたのかを理解している様だ。もしかすると、リーリア自身にも分かっていない部分までも捉えているのかもしれない。
彼女に分かるのは、自分がその身に精霊を取り込んで、精霊達を構成する『何か』と自分を無理矢理一体化させたという事だけだ。それ自体を行えば何が可能になるかは分かっていたが、それでも自分の内部の事にまでは理解が及ばなかったのだ。
世界を構成する『何か』、この世界にありあまねく全ての物の中に存在する精霊と呼ばれる『何か』、その本質を理解する事など彼女には出来ない。だが、力の切れ端の更に一端を使うくらいは出来るだろう。それだけで即死しかねない辛さがあるのも、当然ながら事実だが。
その『何か』を知っている素振りを見せる少年の言葉に対し、彼女はゆっくりと呼吸をしながら返事をする。
「……覚悟の、上よ」
「そう。なら構わないね」
特に感心する訳でもなく、少年は納得した様子で彼女から視線を逸らす。
その間にも彼女は息を荒げ、今にも倒れそうな顔をする。呼吸など今の彼女には無用の物だが、癖はそうそう抜ける物ではなかった。
「で、立てる?」
「ええ、まあ」
少年の声を聞きつつ、彼女は足に力を入れて何とか立ち上がる。里の方へちらりと目を向けると、そこでは今も光の粒子が漂っているのが見えた。
羽は消えても彼女が消える訳ではない様に、その光が消える気配は無い。
「さて……ああ」
どうなるかを分かっていなかった為に若干の安堵を覚えたリーリアは、隣で周囲を見回す少年の声を聞いた。
この少年が何故空間を渡った自分と同じ場所に同じタイミングで存在しているのか。それを疑問に思わないでもなかったが、それよりも優先すべき事がある。
怪物達だ。この周辺に存在しているのは分かっている。リーリアは素早く『自分』を使い、光を振りまく事で怪物の存在を探ろうとした。
しかし、それよりも少年は早く怪物達の存在に気づいたのか、彼は薄い笑みを浮かべて『大地へと目を向けた』。
「……やあ、こんにちは」
言葉と同時に、地面から沸き出る様に現れた怪物が、少年の喉元に噛みついた。
「っ!?」
「……ふーん、食われるのは初めてかな」
鰐の頭に竜の胴体、両手両足は土竜の形をした奇怪な怪物が、少年の首を一心不乱に喰いちぎっている。
リーリアに助ける余裕は無かった。完全に不意打ちだったのだ、彼女が周辺を探ろうと動いた瞬間を狙っていたかの様に、その怪物は現れたのだから。
少年の喉が喰われる、だが、彼の声は声帯が破壊されても不思議と聞こえてきた。自分が捕食されていても、その声は当然の様に無機質な何かだった。
「ふーん……そっか……」
言葉を終えると同時に、リーリアの背中から生えた羽が怪物を遙か天の果てに吹き飛ばす。
支える物を失った少年は、力無く地面へと倒れ伏した。
「ジョン君っ!」
頭が狂ってしまいそうな激痛に晒されながらも、リーリアは勢い良く少年に駆け寄った。
その顔には怯えが見て取れる。ただでさえ他者の死に敏感になっていた彼女の心は、苦痛から来る狂気にも似た物と精霊と一体化した肉体の影響で不安定になっているのだ。
例えどんな生き物の死であっても今の彼女には我慢ならないに違いない。何せ、今の彼女が存在する空間では微生物ですら『死んでいない』のだから。
既存の法則性が、概念が彼女の願い通りに作り替えられている。しかし、少年が蘇る事は無い。さしもの彼女でも、それをするだけの力は、『権利』は無かった。
だから、彼女は少年が死んだ事を飲み込めずに居たのだ。
「嘘、嘘嘘、嘘よ……こんなの、嘘、私、私……私は……」
壊れた様に言葉を繰り返し、少年の体を抱き締める。首筋や顔から流れる大量の血が腕や服を汚したが、気にもならなかった。
その目には恐ろしい何かが浮かび始めていた。彼女は、リーリアは気づいているだろうか、自分が『楽しげな笑み』を浮かべている事を。
そう、気づいていないのだろう。自分が壊れていく事も誰かが死んでいく事も含めて、全てを楽しむ笑みを浮かべる何かへ変わりつつ、『戻りつつ』ある事を。
後数秒、もしかすると数分かもしれないが、このまま放っておけば彼女は壊れてしまう。それを防ぐ様に、誰かが彼女を背後から抱き締めた。
「っ……!? だれっ!?」
「……やっぱり、俺は精霊には嫌われる立場らしい」
自分の中の精霊が嫌悪を覚えた事を認識すると同時に、彼女は相手の腕を振り解きながら大きく後退し、相手の顔を見る。
その顔を見た瞬間、彼女の顔がひきつった物に変わった。それは、この場に居るべきではない顔だったのだ。
男はそれを見ると、心からリーリアの身を案じて眉を顰めた。
「その状態、戻れるのか?」
「どう、して……?」
男の存在を認識した瞬間から、彼女の羽が単なる光の粒子となって消えていく。それでも彼女の身体は朧気だ。その姿を確認して、男が悲しそうな顔をする。
リーリアの身の中に存在する精霊達の嫌悪が、男を貫く。しかし、彼はリーリアの背から羽が消えた事と、それでも元の状態には戻っていないという点だけを理解していた。
「……戻れないのか。エルフとしては死んだも同然、か……でも、死なせないぞ。君を死なせる訳には、行かないんだ」
永遠の愛を誓うかの様に、彼は堂々と言って見せた。その目には今まで隠してきた自分を全て晒す姿が見られ、余りにも強固な意志が全身からオーラの様な何かを発している。
しかし、リーリアは戸惑うしか無かった。目の前の男は確かに幼馴染みのエルフだった。筈だ。間違っても、『背後の怪物達が服従する対象』などではない。筈だ。
「え、え……どうして、なの……?」
「どうして、だって? 君に生きていて欲しいからだ。君を……永遠に、愛しているからだ」
「生まれて初めて言ってやったぜ、恥ずかしいなこれ」。そんな言葉を彼が小さく続けた事も、彼女の聴覚は正確に聞き取る。それは告白だった。心から永遠の愛を唄う告白だった。
普段のリーリアであれば、聞いただけで顔を真っ赤にしていただろう。もしかすると一日くらいは考え込んで、もっと顔を赤くして男へ小さく頷いて、ずっと一緒だった幼馴染みは夫婦になって。そんな未来があったのかもしれない。
だが、そうなるかもしれなかった二人の格好は対照的だった。
リーリアの全身から溢れる物が精霊達の明るく美しい気配であるならば、男のそれは邪悪でおぞましい物だった。彼女の背後に居るのが精霊であるならば、男の背後に居るのは山の様な数のテンダスや、他の怪物達だ。
「……どうして」
「答えを言わなくても分かってるんだろう」
同じ事を呟いた彼女の声に反応し、男が即座に答える。それ以上は精霊が敵意を向けて迎撃の姿勢に入っている為か、近寄れない様だ。
怪物達は、ひたすら男の背後で服従の姿勢を見せている。それらは、一様にリーリアへは殺意の欠片すら抱いていない。
男はそんな『配下』へ笑みを浮かべながらも、心から愛するリーリアへ向かって自分の正体を思い切り告白した。
「俺が、転生した『魔王』だからだ」
勿論、嫌われる事も激怒される事も、承知の上で。
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時間は少し戻る。そこは、長老と呼ばれた老人の家だ。まだ邪悪な光は現れず、部屋の中に異様な空気が流れていた時間の話だ。
その中に立つ少年が老人を呼ぶと、彼は自分の存在の正体を表すかの様にニィッと笑い、片目から血を流した。
「ほう、気づいていたか」
「優しくて賢いお爺ちゃんを演じていたつもりかもしれないけど……僕にはどうでも良い事だからね」
言葉通り、心底興味の無さそうな声だ。彼にとってはエルフの里も大都市も、等しく価値の無い物に違いない。どれだけの芸術家が手がけた物であっても、彼の心は動かないだろう。
そんな化け物の様な顔をした少年を見ながら、老人の形が瞬く間に変わっていく。いや、老人の内部から何かが現れたのだ。その存在は使っていた体を放棄し、どんどんと元の姿に戻る。
それは、テンダスと呼ばれた、巨大な犬型の怪物だった。他の者達と少し違うのは、その目には老人の時にも存在した確かな知性が有る事だ。
「さて、何故気づいたのだ?」
形を変え終えた老人が、今までの物とは大きく違う低い声で少年に尋ねた。
直接的に正体を見破られた訳ではないが、彼には少年が自分の形を見抜いているという直感があったのだ。それは正しかったのか、少年は薄い笑みのまま答える。
「『前は居なかった』からね」
「……何だと?」
意味の分からない返答を受けて、テンダスが器用に首を傾げる。
それを理解させるつもりなど無いのだろう。少年はただ誰かの真似をするかの様に笑うだけで、しっかりとした意味を告げる事は一切無い。
怪物は相手からの言葉を諦め、その巨大な牙を更に大きく見せつけながら、少年に向かって強烈な殺気を放つ。かろうじて顔だと分かる物は喜悦と残虐さを含んだ笑顔になり、今にも襲いかからんとばかりに腰を落としていた。
「何だか分からないが……だが、私は『魔王』だ。『勇者』の貴様は、私に殺されるべきだ」
「嘘だね、それは」
そんな怪物の邪悪な笑顔を、少年は軽い調子で否定した。
「何……」
「お爺さんが『魔王』じゃないのは分かってるよ。大方、死んでたエルフの長老の体を乗っ取ったんだよね?」
驚きに目を見開く怪物へ、少年の説明が届く。そして、それは全てに於いて正しかった。
床に転がる老人も、リーリアが物心着く前に死んでいた。老人がまるで死人の様な顔色だと言われるのも当然だ。何せ、本当に死んでいたのだから。
いや、そんな事などもう一つの物に比べれば軽い物だ。そう、この怪物は確かに『魔王』などと呼ばれる存在ではない。
そう呼ばれるべき者は、普段から何時もリーリアの側に居る。少なくともこの怪物はそう思っていた。幼い頃の『魔王』に偶然出会い、忠誠を誓った彼は、その事を至上の誇りだと考えていたのだから。
「……最初は、単に我が王の命令でジジイの死体を有効活用してたつもりだったんだけどな」
少年を誤魔化す事は出来ないと理解し、怪物は静かに語りだした。相手がそんな話を聞いていないと分かっていても続けるのだ。
「しかし、小さい頃からリーリアを見ているとな……いつの間にか本気で可愛い孫だと思っていたよ。ふふ、美しく育ってくれて、祖父代わりとしても鼻が高い」
言葉の中には、例え自分が怪物であっても心からリーリアを大切に考える老人の姿が見て取れた。
彼は少年を抱き締める彼女へ凄まじい勢いで飛びつこうとした。それは、少年から引き剥がして関係を絶ち、彼女が少年が原因で破滅する事を防ぐ為だ。
同時に、子供だからといって無防備になるリーリアを純粋に心配した祖父としての強い警告、という意味もあったのだが。
例え、それで自分が彼女に討たれてたとしても、悔いは無かった。そんな気持ちを乗せて、怪物は老人の様な顔をする。
「段々、我が王も孫の様に思えてね……お前が来なければ、このまま長老として生きていこうと思っていたのだがな」
愛しい孫達の成長を見守る目だ。
そんな目は、少年を見る時だけは凶悪で恐ろしい物へと変貌した。
憎悪と嫌悪と悪意がない交ぜになって、室内は世界の終わりを表す様な状態になる。それでも少年の眉一つすら動かす事が出来ず、怪物は吐き捨てるかの様に叫んだ。
「だが、お前は来てしまった! 何故だ、どうしてだ、何故、お前は私達を、私達のささやかな幸せを壊しに来たっ!?」
「いや、そんな事に僕は関係無いよ」
尤もな言葉である。少年はここに現れただけで、エルフを皆殺しに来た訳ではない。もしも彼に年齢相応の思考があったなら、その理不尽さに怯えていたかもしれない。
しかしながら、それを口にする少年も、それを聞く老人も、相手の言葉など一切気に留めていなかった。
「黙れ! お前は存在するだけでリーリアの命を奪う。いや、否! 魔王様はこう言った! 『奴を庇って、彼女は死んだ』と!」
それは、『未来からエルフに転生した魔王』が教えてくれた事だった。
もしも魂を見る事が出来なければ、そんな荒唐無稽な事は彼とて信じられなかっただろう。しかし、それは全くの真実だったのだ。
「少し疑った時もあったが、実際のお前を見ればすぐに分かるさ! お前は、人を無自覚に無意識に死へ、あるいは絶望へ送ってしまう、最低の化け物だ!!」
信ずるに足ると判断した魔王の言葉を、リーリアの死亡宣告を聞いて、彼は今までリーリアの命を守ろうと死力を尽くしてきた。
力の無い魔王だからか、離反者も出る。つい先程、魔王である男が言っていたのもそれだ。そういう物が出る度に彼は仲間を殺していた。リーリアを守る、その目的に向かう意志の前には、同胞すら単なる価値の無い廃棄物でしか無い。
「お前は、私など比べ物にならない! 私の方が、魔王様の方が人としての精神構造を持っているだろう!」
老人は叫びながら、自分が次にやるべき事を考えて、体の内部を即座に動かしている。
計画を、実行するのだ。山々に少しずつ散布させて、隠れさせていた怪物達を一気に呼び出し、里へ突撃させる。後は、怪物を従える『魔王』の仕事だ。
少年を牽制する様に殺気を放ちながら、この怪物は全身から凶悪かつ深い気配を発した。
「お前の様な力を持つ存在が、世に在って良い筈が、無いのだぁぁぁ!!!」
雄叫びと同時に、怪物の全身から光の柱が爆発した。
これは、狼煙だ。その光は狙い通りに天井を貫き、天空の果てにまで向かっていく。孫を守る祖父の気持ちを胸に、彼は全身全霊を使って山中の怪物へ合図を送ったのだ。
「で、それで?」
しかし、そんな姿を見ても少年の顔は変わらない。興味の欠片も無い態度で、その場に立っている。その目は虚空を見ていて、この場に居る物の存在を認識しているかすら怪しい。
挑発的に見えるかもしれないが、表情が無気力過ぎてそうだとは到底思えない。が、怪物は悔しそうに声を上げた。
「ふん、私には貴様は殺せまいよ。狼煙も上げてしまったのだから、力など残ってはいない」
それは事実だ。これほど巨大な光の柱を発生させていては、さしものテンダスと呼ばれた種であっても戦闘は難しい。殆どの力を柱の生成に使ってしまっているのだから。
この怪物は他のテンダスよりは強く、意志も持ち合わせていたが、それだけで戦えるならば誰も苦しむ事など無いのだ。
「だが、お前を消耗させるくらいは……出来る」
それを分かった上で、怪物はかろうじて不敵な笑みだと分かる表情になった。
勝てないからと諦める気など、その顔からは欠片も見て取れない。絶望的な戦況だと分かっていても、この怪物には強い意志があるのだ。
少年はその姿を視界に入れつつも、一歩も動いていない。何の目的が有るにせよ、襲いかかるには好都合だ。手段は選ばない、孫と魔王を守る為に怪物はこれから死ぬのだから。
その事実に、思わず楽しげな笑みを漏らす。長くを生きた怪物が、あるいはエルフの長老が死ぬには、本当に良い日だった。
少なくとも、本人にとっては。
「お願いしますよ魔王様! 必ず、我が孫を助けるのです! そして、願わくば……!!」
いつか、孫の顔を見せて欲しい。
そんな気持ちを抱いたまま、リーリアの祖父でいたかった怪物は、一種の清々しい笑顔で少年へと突撃していった。
実のところ、2章の最後までは書きあがってるんですよねーこれ。
2日1度縛りなので、一挙投稿出来ないのがちょっと辛い。