1部5話 怪物が来たりて
その日の夜、山々とエルフの里はとても静かだった。あのジョンと名乗った少年に対する怯えも眠気には通用しないかったらしく、里の雰囲気はそう悪い物ではない。
しかしながら、妙な異物感が有るのも事実だった。静けさの奥に何らかのおぞましさを覚えさせる物が潜んでいる気配が有るのだ。その正体を知る者など、この里には殆ど居ないが。
そんな里の中央部に建つ長老の家の中には、二人の男が居た。
片方は老人だが、片方はまだ青年と言ってもおかしくない顔をしている。この里の長老と、リーリアの幼馴染みである男だ。二人は深刻な顔をして話をしていた。
「山に出たら、襲われたよ……」
「……ふむ、まあ、そういう事もあるさ」
男は表情を暗い物にしている。少年の前で見せたのと同じ濃い感情を室内に撒く姿は、凄まじいまでに強い物を感じさせた。
だが、老人は全く動じない。同じくらいに、いやそれ以上と言えるかもしれない程の雰囲気を全身から放出し、男の言葉に対して軽く頷いている。
彼らの他に話を聞く者は居ない。精霊達ですら男を嫌って近寄ろうともしていないのだ。
「ああ、あの少年はどうしている?」
「まあ、今は寝てるよ。ぐっすり就寝中だ。ぶっ殺してやりたいが、俺の実力じゃ無理だな……それでも、やるべきだろうが」
肩を竦め、男が苦笑する。
少年は確かに眠っていた。それは先程男自身が確認した事だ。寝る真似をする気など毛頭無い類の人間だと分かっているので、本当に寝ていたのだろう。
年相応の寝顔を見たリーリアが微笑ましそうにする所を思い出して内心での怒りが微笑ましさに変わる事を理解しつつも、彼は表情の暗さを変えなかった。
そんな顔を見て、老人が小さく笑う。
「ふっ……」
「何だよ」
「いや、意志の強い事だと思ってね。並の者なら彼女を過信してしまう所だよ」
「……」
それは、この男も何度か考えた事だった。彼女は極力一人で行動していながら、今まで致命傷に近い怪我をした事が無い。傷を受けても精霊達が、そして彼女自身の自然治癒力が簡単に治してしまう。
肉体が生き物としての動きに従っているというだけで、その能力は最早生きている生物と同じには扱えない程なのだ。それでも彼女にとってはまだ足りないというのだから、恐ろしい話である。
「氷で足を滑らせるくらいの事はするらしいがね」
「そうなのか?」
「うむ、まあそうだ」
「微妙に見てみたかった気がするな……それ」
どこから見ていたのか、老人はリーリアが氷の膜で転んだ事を知っていた。
それを聞いた男の目が興味深げな色に染まるが、すぐに真剣な物へと戻る。
「ともかく、あいつも時々は『やっちまう』時があるんだ。俺が過信して安心して、それであいつが死んだら洒落にならねえよ」
男の脳裏には今までのリーリアの姿が刻み込まれていた。
二人が生まれてから数十年、長命なエルフとしてはまだまだ若い二人だが、思い出の量だけであれば同じくらいの外見の人間のそれを遙かに上回る物だ。
それを踏まえて、男は決意と覚悟に溢れた瞳で老人を見つめ、自分の心からの気持ちを口にした。
「例え俺があいつに殺されたって、恨まれたって、俺はあいつに生きていて欲しい、駄目か」
「いいや、駄目ではないさ……個人的には、二人には結婚して欲しい所だが……お爺ちゃんとしてはそろそろ孫の顔がみたいと思っていてなぁ……」
一瞬だけ、老人は気圧された様に一歩引く。が、すぐに立ち直ると冗談らしき何かを言って、場の空気を緩ませる。
が、言われた男は数秒間硬直していた。心なしか顔が若干赤い、『その時』の光景を想像してしまったのだろうか。それはエルフの年齢としては相応の表情で、今までの狂気にも似た強固な意志を感じさせない物だった。
老人はそれを見て緊張を完全に緩める。長らく二人を見ていた彼にとっては、目の前の男もまた孫同然の存在となってしまっているのだろう。
そんな視線から居心地の悪さを感じたらしく、男は若干身じろぎをして逃げる様に背を向けた。
「……そろそろ帰るよ。リーリアが様子を見に来たら困るからな」
どう聞いても言い訳でしかなかった、夜更かしを咎められる彼は子供ではない。今まで老人と会話を続けていたのだから、別に問題は無い筈だ。
それでも男は逃げる様にして去っていこうとする。悪戯っぽい顔をした老人は追撃を仕掛けて彼を困らせるのも面白いと考えたが、現状はその様な話をしている場合ではないと気づき、代わりに別な言葉を口にした。
「自分自身とリーリアの為に」
「……ああ、自分自身とリーリアの為に、な」
男は振り向く事も無く、だがはっきりとした声で答えた。
自分勝手に、自分の為に、大切な者の命を助ける。例えそれが本人の意志を無視した物であってもだ。二人の声からは、そんな気持ちがしっかりと伝わってきた。
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男が去っていくと、室内には長老と呼ばれた老人だけが残された。
強烈な決意の光を放っていた男はもうこの場には居ない。しかしながら、室内に漂う空気は重苦しく、普通の人間であれば気絶してしまってもおかしくは無い物だ。
余りにも邪悪で、余りにも恐ろしい。感受性が高く人を疑う者であれば、里を覆う異物の気配が老人から発せられている事に気づくだろう。
「……すぐに計画を実行に移さねば。最早、一刻の猶予も無い」
誰も居ない空間で、老人が残酷極まりない恐ろしい顔をする。リーリアなどは、そんな表情をした老人を見た事が無いだろう。だが、これこそ彼の素の顔なのだ。
それはこの里では殆どの者が知らない邪悪な知恵を感じさせている。普段は温厚で優しげな老人である彼のこんな顔など、誰が想像するだろう。
恐ろしい顔をした老人の雰囲気だけで部屋の全てが腐っていきそうだ。
「……む?」
そんな老人は、何かを感じたのか唐突に声を上げた。その声もまた、腐肉から発せられた様な異質さの存在する物だ。
老人が部屋の中を舐る様に見回す。視線だけで物を壊してしまいそうな程に集中した物である。その目に射抜かれただけで、心臓が止まってしまうかもしれない。
その目が、部屋の隅で止まった。
「……何をしに来た」
何も無い場所へ老人の声が響く。視覚的には何も存在しない空間だが、彼の眼は何かを捉えているのだろう。猛禽の様な鋭い目が向けられている。
すると、何も無い空間から煙が溢れ出す。異質な空気とこの世の物とは思えない色をしたそれは老人の周囲に毒霧の如き勢いで迫り、それはやがて一体化して少年を空中へ沸き出させた。
無気力で恐ろしい雰囲気を纏った少年は、地面に降り立ったと同時に敬意を表しているとも思われる礼を行った。
「やあ、お爺さん」
親しみの欠片も感じられない笑みを浮かべたままの少年が、老人の前に立つ。
声の中には、全てを理解している雰囲気が感じられた。あらゆる感情を無価値とする眼の前では何の誤魔化しも嘘も通じない様に思えるのだ。
実際には通じないと言うより、単に嘘を吐く意味が無いだけなのだが、どちらにしても同じだろう。
その為か、リーリアから長老と呼ばれた男は一瞬だけ肩を竦めて見せ、自分の存在を表すかの様に……
ニィッ、と、邪悪に笑った。
とても短いですが、ここまでです。
この話がスイッチみたいな物で、次から話が物凄く進みます。