1部3話 おぞましくも恐ろしく、名状しがたい気がしないでもない何か
だが、少年が喰い殺される事は無かった。
巨大な壁の様な何かが発生していたのだ。犬型の怪物は少年に辿り着かんとする寸前で勢いよくそれに追突し、大きな音を立てて動きを止める。
神速の怪物の突進を受けても、壁には何一つ傷が入らなかった。真っ白い壁はこの世ならざる物質の雰囲気が漂い、やはり一切の生命を感じられない。
怪物は自分の力をそのまま受けた為か、余りの痛みに唸り声を吐き出す。犬のシルエットをしたおぞましい怪物だが、その鳴き声は単なる子犬の様だ。
それでも怪物は起き上がり、雄叫びを上げながら壁を避けて、少年へ飛び込んでいく。
再び超高速の世界に入った怪物は、少年の首筋にめがけて牙を出す。その瞬間、凄まじい勢いで矢が迫り、怪物の目を貫いた。
「……」
呻きながら怪物が残った目で矢の飛んできた方向を見る。そこには、エルフの女が這い蹲ったまま弓を構えていた。
怪物は女へ苦しげな声を吐き出す。それは明確な隙だった。目の前に居る少年にとっては、特に大きすぎる隙である。
「うるさいよ」
声が聞こえたその瞬間、犬の様な形の怪物は足の上から先が一気に膨れ上がった。
まるで風船である。その身の中に空気が発生したかの様な状態になり、怪物は自分の肌が引き裂かれる感覚に恐怖を抱く。その間にも体が膨れ、痛みは更に強くなる。
怪物の声は助けを求める悲鳴の様だ。それを聞いて我慢が聞かなくなったのだろう、少年の側にリーリアがふらふらと近寄っていき、彼を制止しようとした。
「……もういいの、やめてあげて?」
「そう、止めれば良いんだね」
彼女の言葉を聞き、少年はどうでも良さそうに怪物へ視線を送る。すると、怪物の体は今までの現象がまるで無かったかの様に元の形へ戻る。
大きく息を吐き、怪物の目が微妙な色を宿してリーリアへ向けられる。
彼女は弓矢を構えていて、目には必殺の意思が宿っていた。もしも再び少年に襲いかかれば、一瞬の内に葬られてしまうだろう。
この場で少年を殺害する事は不可能だ。
「……仕方、あるまい」
そこで初めて、怪物は諦める様に人語を発する。
小さな小さな呟きは、それでもリーリアの耳に入った。彼女は驚く様に目を見開くが、すぐに相手との会話が可能な事を理解して、少しだけ表情を弛めた。
「諦めてくれますか?」
「……ああ、助かったよ」
怪物はリーリアに助けられた事へ礼を言い、彼らから背を向ける。犬型の怪物だからか、尻尾を振りながら去っていく姿は動物らしさを感じさせた。
「……」
そんな姿を見つめつつ、リーリアは黙り込んで思考している。あの怪物に何が起きたのか、それは全く解らない事だったが、少年が何事かを起こしたのだという事だけは解る。
壁が現れ、怪物の体が膨れる。余りに意味不明であり、理解の及ばない現象だった。それを起こした少年は平然とした様子で彼女へ近づいていき、その肩を軽く叩く。
「大丈夫?」
「え、ええ……ありがとう」
気遣う様な、だが何とも無感動な声を受け、彼女は内心の唖然とする自分を押し殺す。
彼女が落ち着いた為か、山々の精霊達が心配と安堵を織り交ぜた状態で近づいてくる。それらは彼女の幼馴染みの護衛を頼んだ物達だ。
心配されている事を理解し、彼女は精霊達を撫でた。
「うん、平気よ。心配してくれて助かるわ」
「精霊と喋れるんだね」
「そうよ、感受性が高ければ誰でも出来ると思うけど……ああ、彼はもう里に着いたのかしら?」
少年の声に軽い返答をしながら、彼女は精霊達へ尋ねる。精霊に嫌われた幼馴染みを心配する気持ちが感じられ、彼が安全に帰る事が出来たのかを心から案じる声だ。
そんな彼女に対し、精霊達は自分が怒られるのではないかと微妙に怯えた様子で返答した。
「……え?」
それを聞き、リーリアが驚きの声を上げる。同時に、山の木々を避けながら一人の男が視界に現れる。
男はリーリアの幼馴染みだった。どうやら彼女を追ってきたらしく、安堵した様子で笑みを浮かべている。相当な距離だが疲れは感じていないのか、特に汗を流す事も無く彼女へ向かっていった。
「居た居た。大丈夫か?」
「あ、あなたどうして……!?」
「君が心配で探しに来たんだよ。でも悪かったな、好意を無駄にしてしまって」
自分へ嫌悪の目を向ける精霊達を一瞥しつつ、彼は心からの謝罪を口にする。
だが、それは一方でリーリアを強く心配していた事の現れでもあった。自分の身が安全であっても、彼女が危険なら意味が無い。その目がそう言っていた。
「精霊共は君の心配を無駄にしたのが余程気に入らないらしい。でもなリーリア、心配したんだぞ?」
「ごめんなさい、でも、戻っていた方が安全なのに……」
「君が安全じゃないのに、自分だけ逃げられるか」
男は何とも力強く頼もしげな笑みを浮かべ、自分が頼れる者である事を見せようとする。
それを見たリーリアは若干残念そうな顔をして、困った風に笑って見せた。幼馴染みが自分を心配している事も、若干の見栄を張っている事も、彼女にはしっかりと伝わっていたのだ。
ただし、彼の行動が愛情から来る物である事には一切気づいていないのだが。
「……こう言うと悪いけど、私はあなたに守られる程弱くないつもりよ?」
「……まあ、それは確かに」
残酷な言葉が男の胸に突き刺さった。ただ、それは本人も認める通りの事実である。彼らの種族の中では相当に劣った者である男が、彼女に頼られる筈も無い。
もしも彼女の言葉が心から来る物で有れば、彼はその場で倒れ込んでいただろう。
だが、違う。彼女はわざとそう言って、自分が原因で彼が危険に晒される事を避けようとしているのだ。自己嫌悪で眉を顰めている所からもそれは明らかだった。
空気が重くなる。男の心配とリーリアの自己嫌悪がない混ぜになって、まるで深海に居るかの様に彼らの体が押し潰される気分を味わっているのだ。
それを払拭しようと考えたのか、男は一度咳払いをして先程からじっと立っていた少年へ目を向けた。
「彼が、『勇者』か?」
「え、ええ。そうよ。名前はジョン君らしいわ」
リーリアもまた空気の重さに気づいていたのだろう。男が話題を変えた事にこれ幸いと乗り、少年を紹介する。
「そうか、よろしく頼むよ、ジョン君」
「よろしく、お兄さん」
張り付いた様な笑みのままで会釈する。男の名前を聞く事すら無く、その目はひたすら虚空を見つめていた。
男は彼女を危険に晒した少年を睨み付けた。
殺気すら感じる瞳だ、だが、少年にそれが届いた様子は無い。無駄を悟ったのか、男はすぐに彼女へ向き直って明るく微笑む。
「さてっ、里に戻ろう」
それはリーリアが無事である事を心から喜ぶ、狂おしいまでに強烈な恋心と愛だった。誰がどう見たとしてもそれは明らかで、隠す気など微塵も感じられない。
百人居れば百人がそれを見抜けるくらいあからさまで明け透けで、何も誤魔化していなかった。無気力そうな少年にすら伝わる程だ。
「そうねっ、帰りましょうか」
ただし、肝心な彼女自身には伝わっていないのだが。
+
人間が『エルフの里』と呼ぶ場所は、山の麓にひっそりと存在している。
麓とは言っても山々に囲まれた間に出来た場所だ。余程の用事が無ければ行商人などの類も入り込む事は無いだろう。人が来るとしても、精々が狩猟人や旅人が迷い込んでくる程度だ。
よって、この里の住民は全員がエルフと呼ばれる種族である。ただ、里の姿は精霊や自然と戯れるエルフという人々が描く様な幻想的なイメージとは異なり、『現実にある普通の村』だ。
「人間を余り見ていない子も居るから、ちょっと視線が気になるかもしれないけど……」
「大丈夫、奇異の視線には慣れてるから」
里の目の前でリーリアが少し心配そうに、心の奥底では分かりきっていた事を確認する様に少年に話しかけていた。
里の住人の中には人間を軽視する者も居るのだ。石を投げられる様な事は無いだろうが、それでも子供には辛い視線を受ける事もあるだろう。
ただ、この少年がそんな程度の事で動揺するとはとても思えなかったのだが。
「ま、俺に比べれば人間なんて異種族なだけまだ良い扱いを受けるだろう。俺なんて、な」
「そういう事、言わないの」
自虐的な事を言う男に対し、リーリアが悲しそうな目をする。彼女もまた、幼馴染みがその様な扱いを受ける姿を子供の頃に何度も見てきたのだ。
彼女は心から悲しんでいた。それは男にとっては致命的なまでに辛い事だったのか、彼はしまったと眉を顰める。自分が受けた侮蔑の視線など、それに比べれば何の価値も無い。そう言わんばかりに。
「悪い、でも事実さ。俺が横に居れば人間の方がよっぽど良い扱いを受けるね、俺は雑魚だが、こいつは凄いんだからな」
「近くて劣ってる人は蔑視され、近くて優れている人は嫉妬され、遠くて劣っている人は同情され、遠くて優れている人には敬意が向けられる。そういう事かな?」
「……そうだろうな、ま、この里じゃ蔑視されるのが俺だったってだけだよ。後、一つ訂正しろ。リーリアは嫉妬されてない、隔絶的に凄すぎて崇められてる」
少年の言葉に男は肩を竦めて同意したが、リーリアの話に関しては心からの否定を口にしていた。
それには彼を嫌悪する精霊達も同意見なのか、リーリアの目には彼らが大きく頷いている事が見える。その様な自覚の無い彼女は、ひたすら目を白黒させて首を傾げる。
「そんな風に扱われた記憶は無いけれど……」
自覚の無い彼女の返答を聞き、二人の男が小声で話し出した。
「……鈍感はね、罪らしいよ?」
「そういう所も良いと思うんだよ、俺は」
「ふーん……ま、頑張って」
心からの愛情を感じさせる男に対し、ジョンと名乗った少年の反応は淡泊でどうでも良さそうな物だった。
その反応を半ば予想していた男だったが、それでも嫌そうに眉を顰めて舌打ちをしそうになり、リーリアが側に居る事に気づいて止める。
二人の行動の理由も察していないらしく、彼女は鈍感極まる表情で幼馴染みと『勇者』の少年の顔を見比べた。
「……? よく分からないけれど、とりあえず……あら?」
話の内容を聞き取っても怪訝そうにしていた彼女は、不意に里の方を見て目を軽く見開く。
その先から、誰かが走ってきているのだ。小さな小さな人影は余り早くない足を一生懸命に走らせて、リーリアの元へ向かってきている。
それが小さな少女の物であると、リーリアは即座に理解した。彼女の目は人影の明確な形まで完全に捉えていたのだ。戦闘時の集中している時程の視力は無いが、それでも彼女は十分過ぎる程の目を持っているのである。
人影の正体を察した彼女は、少女の元へゆっくりと歩き出した。
今はただの歩行であるが故にそれほど早くは無いが、近づく毎に少女の笑顔が少しずつ明るくなっていく所が見えるのは彼女にとっても一種の癒しである。
リーリアが少女から後数歩の距離にまで接近すると、少女は喜色満面で彼女の胸元へ飛び込んだ。
「リーリア、おかえりっ!」
「ただいまっ、帰りを待っていてくれたの?」
「うんっ!」
勢い良く飛びついてきた少女を絶妙な位置で受け止め、彼女は優しくその背を抱き締める。柔らかい肌の抱き心地はとても良く、怪物を殺してしまった彼女の心が暖かくなる。
リーリアの手つきは可愛い妹を愛でる姉のそれだったが、その少女とは別に血縁関係でも義理の妹でも無い。単に、里の子供の一人だ。
特に特別な関係ではないが、リーリアという女はその身の暖かな雰囲気からか、子供には好かれている。若干、羨ましそうな顔をする男は置いておくべきだろう。
少女は一通りリーリアと頬を合わせると、満足したのか彼女から離れる。そこで初めて彼女の周りに二人の男が居る事に気づいて、首を傾げた。
「あれ? あの子は……?」
「ああ、この子?」
少女が興味を持ったのか、じっと少年の方を見る。男の方へは目を向けない。里では余り良い扱いを受けない彼は、子供にすら関心を持たれていない様だ。
「……」
「リーリア、俺は気にしてないから」
エルフなのに、精霊に嫌われる。それはこの里では不気味で恐ろしい事なのだ。彼女と長老が庇わなければ、里を追われていてもおかしくない。分かっていても、リーリアは納得していなかった。
彼女がそんな風に悲しげな顔をしている間に、少女は少年を興味深げに見つめている。この里では見ない類の服装もあるが、何より人間を見たのはこれが初めてなのだ。
子供の無遠慮な視線を受けて、少年はその少女へ機械的な反応で目を向ける。
どろりと濁った黒い目に、魂を覗き込まれる要素が見られた。
「ひっ……」
少女の口から震えと怯えの声が響く。
邪悪とも言えない、沼地の底の様な目だ。その隔絶的な空虚さは普通の子供では耐えられる物ではない。
「リ……リーリアぁ、この、この子怖い……」
少女は、思わずリーリアに抱きついて瞳に涙を浮かべた。この場で一番に頼りになる女性の側に居るからか、幸いにも錯乱する程怖がってはいない。
無理もない、そんな事をリーリアは頭に浮かべる。何せ、彼女もその異質な空虚さには若干の恐怖を覚えたのだ。
これ以上、この子をこの場に居させるのは不味い。彼女はゆっくりと少女の頭を撫で、しゃがみ込んで目線を合わせた。
「しっかり、ね、大丈夫よ?」
「……うん」
少しは落ち着いたのか、少女は静かに答えた。もう決して少年の方を見ようとはしない。
次に視界に捉えれば、発狂してしまうかもしれないだろう。それを察したリーリアが即座に少女を退避させる事を決め、同時に里での少年の扱いを考えた。
「私の事も、あの子の事も……長老に話しておいてくれるかな?」
「う、うん……じゃ、じゃあ行くね!」
少女は彼女の言葉を聞いてとても大人しく頷き、逃げる様にして『長老』の住む、里の中心へ走っていった。
必死に逃げているのか、来た時よりも足が速い。それを見届けたリーリアは幼馴染みの方へ顔を向け、申し訳無さそうな顔をする。
「悪いんだけど……」
「俺の家に連れていけば良いんだろう?」
彼女の言葉を察していたのか、彼は大きく頷いて見せた。彼の家は里の外れに有る、人を隔離しておくにはこれほど良い場所もあるまい。
自分が彼の辛い境遇を利用している様で彼女は少し苦しい気持ちになったが、そうも言っていられる状況ではない事も分かっていた。
想像以上に、少年は怖がられている。自身は耐え、幼馴染みは平然としていた為に分からなかったが、少年の空虚さは逃げ出す程に恐るべき物だったのだ。
「ごめんなさい」
「里の真ん中に置いておく訳にもいかないからな、分かってるって」
申し訳なさそうな顔をするリーリアの肩を、男が気にしていないとばかりに叩いた。気楽な表情だ、自分の事など、彼女の前では何の価値も無いのだろう。
他のエルフ達は、男女問わずに遠くから嫉妬と侮蔑を込めて男を見ていた。リーリアはこの里で、いや恐らくはエルフの中でも有数の実力者である。そんな彼女の幼馴染みが、この男なのだ。
皆が皆長い耳をした彼らは、それ以上に目立つ美しい顔が印象的である。だが、どれほど人形めいた美しさを持っていたとしても、喜怒哀楽をしっかりと持っているのである。彼らの暗い感情が、それを際だたせていた。
「ふーん……変わらないなぁ」
そんな姿を、少年は至極どうでも良さそうに眺めていた。彼にとっては男がどう見られているかなど関係も無く、興味も無いのだろう。
彼はこの世界を見ていなかった。いや、どこの世界も見ていなかった。五感は正常に機能し、肉体は健全に動いている。だが、少年の目や耳はあらゆる出来事を無価値な物として流していたのだ。
リーリアと男が自分の扱いについてひっそりと相談している事も理解していたが、少年にとっては意味の無い事だと認識されていた。
少年の目的は、たった一つなのだ。
「……ま、どうでも良いけどね」
ドーモ、ドクシャさん。サクシャです。
投稿しました。里まで行く気は無かったんだけどなぁ。
多分、次の次くらいから一気に物凄いぶっ飛びます。今は起承転結の「きしy」くらいの部分なので。
ちなみに、サブタイは……うふふ(意味深)
ちなみに、こんな詰め込んだ感じの文体になってるのは理由がありますよ。だから、2章以降はまた違った、もっと読みやすい感じになってると思います。(本当は日記形式でラヴクラフト御代レベルの文章が書きたいと思ってたんですが、私の手じゃ無理でした)