エピローグ部8話 八宙那由
寝呆けた様な声を上げながら、イクスが目を覚ました。
「あ…………んぅ……?」
ずっと眠っていた様な気分でイクスは目を擦る。欠伸の混ざった声は完全に寝起きの物であり、どう見ても本当に寝ていたとしか思えない状態であった。
しかし、自分の記憶を探ったイクスは眉を顰め、自分が決して眠っていた訳ではない事を理解する。
「……記憶の欠如、またか」
自分の胸に手を置いて考え続けると、彼女は溜息を吐いた。どうしても直前の記憶が存在しなかった様だ。
そんなイクスに向かって、声をかける存在が一人だけ居る。それは男であり、彼女の背後に立っていた。
「『戻った』か」
「ひぃっ……! き、君は?」
自分の背後に立つ存在が『人間』かつ『凶悪』な男だと理解したイクスの口から、隠しきれない悲鳴が上がる。
それを聞き取ったナガレが困った顔をして、軽く頭を掻いた。
「いや、別にお前をどうこうするつもりは……いや、有ったのか」
「……っ!」
シュ=オートスノムの町を襲撃した事を思い出したナガレが口を滑らせると、イクスは瞳の奥に怯えを浮かべて逃げようとしていた。
通常の相手なら隠す事が可能なのだが、余りにもナガレが強過ぎて恐怖を抑える事が出来ないのだ。
少なくとも今は何もする気の無いナガレは、軽く頭を下げて戦闘の意志が無い事を見せた。
「今は何もしないから安心してくれ」
「……そ、うか。分かった、分かったよ」
言葉に詰まりながらも、何とかイクスは平静さを取り戻そうと必死になる。
その姿を僅かに見たナガレが立ち上がり、イクスから背を向けた。
「で……お前も『勇者』だろう?」
「ああ、うん、その通りだが」
伏し目がちに、イクスが頷いている。彼女の身体は一部分が黒色に『戻って』いて、本能的にナガレから距離を取っている。
そんな対応には何も思わず、ナガレはじっとその場所を眺めている。そこからは生来の暴悪的な性格が窺えず、『理解してはならない物』を前にした人間の弱さが見え隠れしていた。
ナガレの指が周囲の空間へ向けられて、静かにイクスへと尋ねる。
「……じゃあ、これに見覚えは……有るか?」
「……ああ、有るさ。『勇者』は皆これを知ってるだろう」
同じ様に周囲を見たイクスの表情から、怯えの類が一瞬で消える。
真実人間ではない女の複雑な顔色だ。そこから伺える感情の動きは、人間では理解する事も出来ないだろう。
そこには、『勇者』達にとっては絶対に忘れられない光景が広がっていた。
大地と、満天の星空だけが存在していた。それらは荒れ果てたとしても美しく、汚したとしても素晴らしい。あらゆる存在にとっての理想郷に近い風景である。
しかしながら、そこに在る物は奥底で虹色に輝き、全てに笑い声をあげている様に思える。
「……こんな感じだったか」
「ああ、確かに」
二人は記憶に存在する光景に息を呑んでいる。そこは余りにも非常識かつ既存の概念では理解の及ばない場所であった。
ナガレとイクスには化け物の様な顔でおぞましい空間を眺めている。そこが、『勇者』達が誰しも最初に見る所なのだと、二人は完全に理解していた。
そんな二人からは少し離れた場所で、少年がじっと虚空を見つめている。
「……エィストさん、出てきたら?」
少年が、虚空に向かって呼び声を口にする。
その瞬間、あらゆる物が異様に歪み、混沌とした何かが壊れながら蠢き出す。それ以上は言葉にする事も出来ず、その必要も存在しなかった。
見覚えは無いが、見覚えの在る現象である。ナガレやイクスが来た時は、こんな派手な登場はしなかったのだ。
星空は『勇者』達の反応を放って一つの人型を大地へと落とす。それは虹色の髪をしていて、享楽的に笑っていて、何よりも青年だった。
「こっんにっちはぁぁぁっ!」
地の果てから明るく馬鹿らしく声を響かせて、青年がその場に現れた。
それは確かに人の形をしてはいたが、到底人間と表して良い存在ではない。余りにも奇妙で壊れた『何か』である。
「みんな、久しぶり、今さっきぶり、今ぶり、先ぶり! ……寒鰤!? 美味しいのかな! 実は魚類が大好きさ、食べる意味じゃなくてね! あ、でもでもっ、人間が一番だよっ! 食用も含めてっ!」
二重の好意を口にして、虹色の青年ことエィストの声は美しく響く。余りにも聞き取り易く、訳が分からなかった。
そんな意味不明の楽しげな人格こそ、何よりもそれがエィストである事を示していると言えるのだ。
「……うっへぇ、本当にお前だったか。邪神の奴の百倍は嫌な感じがするぜ」
「ま、あの子は娘だからね、負けてあげる気は無いよ、うん」
ナガレの言葉通り、エィストの雰囲気はあの『嘲笑する邪神』に近い物があった。
違う点をあげるとすれば、悪意も善意も全てが『楽しい』という、言語化可能だが遙か遠くに存在する『何か』で纏められている、という点くらいだろう。
「……で? 私はどうして此処に居るんですか、虹色の怪物さん」
「ん、イクスちゃん。来てくれたのは嬉しいよ」
相手が人間で無ければ何でも良いのか、イクスはエィストに対して何の遠慮も無く声をかけていった。
圧倒的な存在と相対しても特に怯える様子は無く、気にも留めていない事がよく分かる目をしている。
「だから、何故私が此処に居るのか、と聞いているんですが?」
「あはは、そうだね……君なら、どんな反応をするかが気になったから?」
嘘を吐いている様子は無く、その挙動からは真実だけが見て取れる。
だが、例え真実であっても意味が分からなければ無意味である。イクスにはエィストの言葉が理解出来なかったのか、彼女は首を傾げていた。
「何ですか、それ」
「すぐに分かるよ、すぐにね? ……よし、ジョン君! おいで!」
煙に巻く様な返答をしつつ、エィストは少年を手招きをする。
少年は振り向いてエィストの側に行こうと動く、すると、その身体は一瞬でエィストの腕の中に移動していた。
「よーしよし、そんなに八宙さんに会いたいのか、もう、青い恋心って奴? 素敵だなぁ、面白い子だよ本当に」
「……エィストさん、痛い」
「わっ、ごめんなさい。そんなに痛かった?」
「いや、愛が色々と重くて痛い」
少年の身体を優しく抱き締めつつ、エィストはコロコロと表情を変えながらも、結局は愉快そうに笑う。
その姿は何時の間にか少女の物となっていた。可愛らしくも死体の様な青白い顔が特徴で、それに何よりも片目が無かった。
背丈は少年と殆ど同じくらいだが、服装は入院患者に使う様な白い、だが異様に引き裂かれた服で覆い、部分的には虹色のインクが散りばめられた包帯で隠している。
身体のあちらこちらから夥しい量の出血をしていて、まるで恐ろしい殺人鬼に襲われた後の様だ。
「えへへ、暖かい。君の心は冷血以下の絶対零度の癖して、子供っぽい体温だよね。うんうん」
「……」
死体の如き姿からは想像も出来ない笑みを浮かべ、エィストは少年を抱き締め続け、遂には胸元に顔を埋め始めた。
恐らく、妙な外見の正体は特殊メイクの様な物なのだろう。エィストの表情に変化は無い。
思わず視線を逸らしたくなる惨状の少女を両目で捉えつつ、ナガレは面倒臭そうに息を吐いた。
「はぁ……大方、そうだろうと思っていたが……やっぱり、お前が黒幕か」
「え? 私が?」
意外な指摘を受けた、とばかりにエィストが顔を上げる。余程気に入っているのか、少年を離そうともしない。
少年の手を取ると、エィストは本当に楽しげな声音で返答した。
「黒幕? 私が、黒幕なの? うふふ、黒幕かぁ……素敵な響きだね。操って扱って導いて、誰かの背後に居るのも楽しいからね。でもでもでぇーも、私がそんな黒幕なんて大それた物だと思うのかな? 思うー?」
くるくるくるり、ひたすらに踊り回る。
ダンスのパートナーなのか、少年は振り回されていた。エィストの身からは動く度に血が飛び散って、少年の全身に付着している。
視界に入れただけであらゆる感覚と魂が狂い、吐き気がこみ上げてくる踊りだ。その恐ろしさと来たら、イクスですら眉を顰める程だった。
「……気持ち悪いな」
「えっ!? そ、そっか。気持ち悪いかぁ、地味にショックだよくへへ、でも貴女に言われるとマゾっ気というか被虐趣味的なアレが目覚めちゃいそう! 踏んでください!」
唐突に踊るのを止めて、エィストは青白い顔を僅かに紫色に染めた。
はにかむ様な笑顔は、生気の有る顔であればきっと太陽の花の様だっただろう。実際には死体同然の少女であるが故に、何処か恐怖を感じさせる笑顔である。
そして、発言自体もイクスの心理的な距離を引かせるには十分過ぎた。
「……うわぁ」
「あはは、冗談っぽい本気らしき何かを言ってみた所で、残念ながら私は黒幕なんて凄くて面白そうな何かじゃないよん。良い所で、黒幕の欠片の欠片の欠片の欠片の世界型の怪物を更に人型の能力に落とした雑魚中の雑魚さ」
その場の全員から自分が馬鹿にされていると気づいているエィストは、饒舌に『黒幕』の正体を口にしている。
かなり明確で嘘の無い発言を、ナガレは逆に怪しんだ。何せ相手は『勇者』を『異世界』に送り出している存在である。無限に警戒をしても足りないくらいだ。
「……随分と具体的な話だな」
「でしょう? でも事実だよ。この世界はね、実験場なの。『彼女』の反応を試す為のね」
軽く舌を出すと、エィストは少女の姿のまま少年から離れた。
名残惜しそうにして、感触を確かめる様に手を握っては開いている。余りにも人間的な行動であるが、何処か胡散臭い。
ナガレの凄まじい視線が少女に向けられた。
「その割には、あの『世界』には妙な物が多いがな」
「あはは、趣味的な部分も沢山反映されてるんだ。ダンジョンとか、色々な部分にねー」
「じゃあ、その『彼女』って奴は……やはり、奴か?」
らしくない不安や恐怖の様な物を滲ませながら、ナガレが額に汗を浮かべて尋ねる。『外れて欲しい』という気持ちが見え隠れしていた。
だが、そんな気持ちを受け取ったエィストは悪戯っぽく笑い、相手を絶望させる事が目的であるかの様に頷く。
「まあ、そうかもね」
「っ……! そうかよ、あいつか……」
盛大に眉を顰めて、ナガレは人生で一二を争う程に嫌な顔をした。その瞳に浮かぶのは嫌悪と敵意であり、驚くべき事に『畏怖』でもあったのだ。
「……話が見えて来ないな、『あいつ』とは、『あの人』とは誰の事だ?」
隣に居る男の様子があからさまに変わった事を察知して、イクスが疑問を投げかける。
彼女は、『それ』とは何の関わりも無かったのだ。
「……あ、イクスちゃんは知らないんだっけ?」
今、気づいた。そう言わんばかりにエィストが頭を掻く。肉体が腐っているのか、それだけで血管が崩れて落ちた。
だが、誰もその姿を見てはいなかった。
何時の間にか、エィストの背後に一枚のカーテンらしき物が有る。
そこから発せられる虚無という言葉すら無意味と化す『何か』の気配が、それこそエィストのあらゆる雰囲気を消し去っているのだ。
「うん、あのねっ。君達を呼んだのは他でもないんだ、ジョン君にお城を建ててナガレさんにも来て貰った理由はさっ」
エィストの行動は稚気と享楽を感じさせた。きっと、エィストとはそういう物なのだろう。
しかしながら、殆ど死体の形をしたエィストがカーテンに手をかけた瞬間には、『勇者』達、ナガレとイクスは全身が爆発したかの様な動きで攻撃を仕掛けていた。
虹色の閃光と悪夢的な黒色が混ざり合いながら全てを浸食してカーテンに迫り、ナガレの有形無形のあらゆる攻撃がその先に『居るかもしれない何か』へと向けられる。
射程に入っていたエィストにも巻き込まれる形で攻撃は直撃し、その少女の死体らしき体は即座に四散して消し飛んだ。
だが、しかし。あらゆる攻撃はカーテンの先に『居ない何か』には無意味でしかなかった。
イクスとナガレの生涯で最も強烈かつ凶悪な力は、『それ』に対しては微風程度の効果すら見られず、虚しく消える。
そして、少女の腕らしき物体だけがカーテンを掴んだまま、虚空に浮いていた。
「この人を、見て欲しいからなのっ」
何処かから、満天の星空と歪む大地、そしてあらゆる全てからエィストの物と思わしき声が聞こえる。
同時に、少女の腕が大げさなくらい乱暴にカーテンを引いた。
+
ナガレがその姿を見たのは、二度目だった。
だが、しっかりとそれを観察するのは今回が初めてだ。前回は全力で逃げる余り相手の顔すら見ていなかったのだから、ナガレは今度こそ逃げずに立ち向かう。
覚悟を決めると、ナガレは黙って相手を睨んだ。
「……」
カーテンの先に『居ない何か』は、人間で言う女の形をしていた。癖の強いショートボブにした髪と薄ら寒い笑みがとても似合う、綺麗で恐ろしい女性である。
丈が足首まであるワンピースを着ていて、腰には大きめのベルトをしていた。特に意味は無い筈だが、それも一種の『作り手の趣味』だと思われた。
そして、その印象は白だった。
髪色も肌も、服の色もベルトの金具に至るまで、あらゆる部分が白で構成されていた。まるで、その『無』を象徴するかの様に。
だが、黒目に当たる部分だけは違った。それは明らかに赤色だった。
「……っ!」
『それ』を認識してしまったナガレが、自分の仲で起きた困惑や苦しみに抵抗しようと必死になる。
怯えは勿論、恐怖すら微塵も無かった。『見てはならない物』を見てしまった事への精神的な負荷は全く無く、印象に関しては人形の様に美しいだけの人間と変わらない。
いや、真に異常だったのは……何も感じなかった事にあった。
女は美しかったが、それに対しては何も意味を見て取れず、ただ視界に入れるだけで『これを見てはならない』と警告が頭に響くというのに、精神に異常を受ける事は無かったのである。
だが、ナガレは同時に納得していた。
生命体如きが、たかが生き物如きが『それ』に対して何らかの感想や感情を抱くなど、全くの馬鹿馬鹿しい事でしかないのだから。
女の形をした『何か』は黒色の椅子に座っていて、白い自分の姿とのコントラストを作り上げている。挑発的に組まれた足は、しかし何の感情も見て取れなかった。
「なん、だ……これは……これは……『そういう』言葉で表してはならない存在、だぞ……?」
ナガレの隣ではイクスが震えながら女の姿を捉え、今にも壊れてしまいそうな程に小さな声を発している。
『あの視線』を受けた時は訳の分からない物でしか無かった『何か』が、近くに存在しているのだ。彼女は、一瞥するだけで女の根幹を見て取った。
そう、イクスは人間ではない、化け物なのだ。生命体の要素を持っていても、本来はこの世の存在に分類して良い物ではないのだ。
しかし、必ずしも理解出来る事は良い物ではなかった。人型のイクスは顔をひきつらせ、黒色は未知なる感情を恐れて震え上がっている。
彼女の視界の先に居る女は『神』や『悪魔』などと呼ぶ事が許される物ではなかった。それどころか何らかの概念や意志で計る事は出来ず、ただ奥底に有る『無』だけが広がっている。
イクスは人間に対して恐怖を覚える性質の持ち主である。しかし、今だけは『女の形をした無』に対する猛烈で絶望的な怯えを抱いていた。
それは仕方の無い事だろう。彼女の本質的な部分が幾ら化け物であろうと、『無』に対しては無力でしかないのだ。
二人の『勇者』にとっては、その女が現れた。いや、『現れた様に思える』事は不幸の対象でしかなかった。
ナガレは血が流れる程に拳を握り締め、イクスは肩を震わせながら『無』を捉えている。それは恐怖を抱く対象ですらなく、ただ虚無である。
だがしかし、この少年だけは違った。
「……うわ、うわぁぁっ……あぁっ」
少年が奇妙な音を口から漏らし、全身を震わせる。
肺の奥から漏れる様な声は、悲鳴の要素を持ち合わせていたが、強烈極まる歓喜の声であった。
そう、少年は憧れの、初恋の女性と再会したかの様に喜んでいたのだ。
「やっと、やっと会えた。僕の、僕の大好きな……八宙さん……」
それは何もかもに無関心で無気力だった少年の表情ではなかった。何処にでも居る普通の子供が感極まっている様子と何も変わらない。
少年は勢いよく走り出すと、すぐに『女の形をした無』の側に寄り、女の手を握り締めた。
それに反応したかの様に、女は無意味でしかない瞳を少年へと向ける。それすらも少年にとっては歓喜の対象だ。
「大好き、大好きぃ……っ……」
少年の瞳は潤んでいて、涙が流れる寸前の状態となっていた。
少年と女、その二つの性質は似ている様に感じられる。どちらも奥底に有るのは『無』だ。しかし、女のそれは姿形や存在にすら及んでいるのだ。
そこで女はイクスとナガレへ目を向けて、恭しくも無意味な挙動で一礼した。
「さて、皆さんには初めまして……かしら?」
声は、冷たくも美しい物だった。例えるならば、限りなく純粋な水から作り上げられた氷の様だ。奥底に有るどうしようもない『無』が、その印象すらも消し去っているのだが。
「八宙那由、よ。よろしくお願いするわ。今は、だけれど」
女、いや、『八宙那由』は冷笑のままで名乗る。どこまでも機械的で事務的な挨拶だった。
執筆活動を始めるより前から設定だけは有ったけど、結局登場させる機会に恵まれなかった『八宙那由』の登場です。




