エピローグ部6話 死すらも死なない勇者
「んっ……」
ナガレと少年の力が激突した瞬間、エルフの形をした女が振り向いた。
急に声を上げた女に向かって、側に居るイクスが眼を向ける。
「どうした?」
「え? ああ、何かしらね。『はじまった』気がするわ」
漠然とした言葉で女が何かを表そうとしている。分かり難い発言だったが、彼女は確かに何事かを理解している様だ。
イクスは首を傾げているが、その間にも両手は部屋を探っている。
二人は城の一室に居た。隅に大きめだが使われた形跡の無い豪華なベッドが置かれていて、女はそのベッドの上に座り込んでいた。
「『はじまった』って、何が?」
「そう……力がぶつかった感じかしらね、酷い事になりそうよ」
イクスの疑問に女が答える。やはりハッキリとした言葉ではないが、その中には確信的な感情が存在した。
女はシーツを強く掴んでいて、その目は虚空を見つめている。そんな姿を見たイクスが、訝しげな顔になっている。
「よく分からないが……とりあえず、何かが起きているという認識で良いのか?」
「ええ、そうよ……わふっ」
軽く頷いて、女は枕を抱き締めながらベッドに寝転がった。かなり材質の良いベッドなのか、彼女の身体は僅かに沈み込んだ。
「……そうか」
それを尻目に、イクスは部屋の隅々まで探り当てようとしている。精霊達も調度品の形状や中身を見ていて、一片の汚れも埃も見逃すまいとしているのだ。
そんなイクスの目は、部屋に刻まれた何かへ向けられていた。
「此処にも、これが書かれているのか」
イクスが触れているのは、やはり文章だった。
壁に直接彫られいた文字は、明らかに廊下で見た物と同一である。今度は翻訳する事は無く、イクスはじっと文字を撫でている。
文字が欠けている様子は無いが、もう彼女に読むつもりは無い。が、彼女はふとベッドに居る女へ聞いてみる事にした。
「なあ、この文章なんだが……」
「んんっー……?」
「……もう寝ているのか?」
「え? ん、起きてるわよ。ちょっとね、このベッドの寝心地が素晴らしくって。後で一緒に寝てみる?」
誘惑するかの様に女が腕を広げる。そのベッドは確かに柔らかそうで、イクスも思わず寝転がりたくなる。
しかし、イクスは壁に刻まれた文字の方を優先する事にした。
「寝るのは良いね。でも、それより先にこれを見てくれ」
「ええ、分かったわ。で、どれを見るの?」
「これだ、どう思う?」
名残惜しそうにベッドから離れて、女がイクスの指さす方向へ近づいていく。文字を見つめる瞳はとても綺麗に輝いていて、緩やかに微笑んでいた。
数秒間程、文章を眺めていただろうか。彼女はゆっくりと口を開く。
「『それを知る事は許されない、止めるべきだ。恐ろしい事だ、止めるんだ』」
「なっ……!」
「『虹色と無色こそが世界の本質である。最悪の存在でありながらも、必要不可欠なのである』」
イクスが驚愕で声を上げている間にも、女の言葉は続いている。彼女は透き通る様な声で『翻訳されていない』文章を読み上げていた。
「『それは時間すら届かぬ無であり、無の前には死すら死とはならない』……へぇ」
言葉を止めて、女は感心とも呆れとも取れる声を漏らしている。
イクスにはその文字が読めなかったし、その内容を理解する事も出来なかった。だが、エルフの形をした女は文章の内容を理解したかの様だ。
イクスは驚きで目を白黒させながら、じっくりと女の顔を見つめた。
「……読めるのか? 多分、これは古代文字か何かだと思うんだが」
「ええ、色々な文字を読む事が出来るのよ」
軽く頷き、女は文字から目を離す。
特に恐ろしい知識を得てしまったと思っている様子は無く、『名前』を口にしなかったからか、何らかの視線がやってくる事は無かった。
イクスは困惑と驚きから抜け出さないまま、女に対して質問を続ける。
「もしかして、どういう意味かも分かるのか?」
「……書いてある通りだと思うわ。文面自体は幾分……古代都市の遺跡か何かに書かれていたのでしょうね」
僅かに考えて、それから女が微笑んだ。
イクスの知らない事を女が知っているのは、明らかだった。彼女が生命体ですらないとイクスは理解していたが、それでも驚く程の知識を持っている。
「それにしても、あの子はこんな物まで見ていたのね」
賞賛と呆れの籠もった声で呟き、女はベッドへ戻る。口元に浮かぶ笑みは何とも愛らしく、慈愛に満ち溢れた物だった。
「……あの子、ね」
イクスは自分には読めない文字を視界に入れて、じっと女の存在を目に焼き付ける。
生き物ではない彼女の姿は本当に神秘的で、イクスにとっては好感を覚える物だ。それにしても、度を超えて不思議な女ではあったのだが。
「さ、ベッドに寝てみない?」
「ん?」
ベッドに戻った女は手招きをしてイクスを呼んでいた。
寝転がってはいない。ベッドの上に座り込み、面白がる様にシーツを撫で回している。若干の妖しさの含まれた姿だ。
ほんの僅かに嫌な予感を覚えて、イクスは軽く首を振った。
「……いや、私は寝床には拘らない方なんだが」
「そう? でも、いい感じよ。横に座ってみたらどう?」
イクスは遠慮する様に断ったが、女はそれでも自分の横を軽く叩いて呼んでくる。
その度にベッドは彼女の手を飲み込む様な弾力を表し、眠気を誘っている。
「じゃあ、ちょっとだけ……」
少しだけ誘惑に応じる事を決めると、イクスは素早くベッドに居る女の隣に座り込んだ。瞬間的にふわり、とした感触が伝わってきて、爽やかな気分にさせている。
ベッド自体は無価値で無意味な空気を漂わせていたが、その感触は間違いなく素晴らしい物であった。
「おお、これは……」
「ね?」
思わず感嘆の声を上げたイクスの顔を、女が嬉しそうに覗き込む。
二人の位置は心の距離を表すかの様で、僅かに動かせば互いの手が触れ合う距離にまで近づいていた。
「確かに良いね、暖かそうで寝心地も素晴らしい感じだ」
「そうよね。凄いわ、これ。きっとかなりの高級品ね」
二人は互いの顔を見て、機嫌良く微笑みを交わした。両者は何故だか仲が良く、とても先程初めて会ったとは思えない空気を作り上げている。
「持って帰りたいくらいね」
「確かに。これなら一生使い続けたくなるだろう」
「何なら、本当に持って帰ってみる?」
「それは……感触が良くても、印象が悪過ぎるさ。こう無価値な感じだと眠れる気がしない」
イクスは首を振っているが、そのベッドの感触だけはとても楽しんでいた。
女の方もイクスの事を気に入っているのか、とても明るい声で話しかけていた。
「ふふ、貴女の部屋の安いベッドじゃ比べ物にならないでしょ?」
だが、女が『口を滑らせた』事で、空気は僅かに硬直した。
そんな空気を纏っているのはイクスの方だ。目を丸くして女をじっと見つめ、何とも言えない表情でシーツを握り締めている。
「……何故、君が私の使うベッドを知っている?」
この二人は、先程会ったばかりなのだ。
「あ……その、えっと……」
「どうして、知っているんだ?」
イクスの身体が部分的に人型を失い、黒色の何かが現れる。その奥底に有る虹色までも、何処か責める様に女を見つめている。
女の目が泳いだ。それが何よりも怪しく、イクスは更に警戒を込めて女の挙動に集中する。
何とも形容し難い沈黙がその場に広がった。じっと見つめるイクスの目が、怪しい女の姿を確かに捉えているのだ。
そして、女は目を見開いた。
「……っ危ない!」
言葉と同時に、女がイクスに覆い被さる。
床が抜ける様な感覚と共に、全てが打ち砕かれた。
+
ナガレと少年の戦いは凄まじい物だった。
いや、それは最早戦いと呼べる物ではなく、どちらかと言えばこの世の破滅と表すべき物だろう。それこそ、究極の悪夢である。
風は吹かず、音は鳴らず、生命は消し飛んでしまう。少年が僅かに力を行使して、それらの存在は完璧に崩壊していった。
「く、くは、ははははっつっ!! こいつは、ははっ、すげえ!」
それでもナガレは止まらなかった。
足場という足場がマグマの様な熱を持ち、大気から生きていくのが困難な程の毒素が現れ、果ては世界がナガレの存在を否定するルールを『発生』させられたが、それでも止まる事はない。
むしろ、その顔は少年が恐ろしい事をする度に喜びを強めていく。空間が一瞬で歪み切れて崩壊していくが、ナガレは強引に『空間ではない場所』を移動した。
空気は引き裂かれるよりも早く消滅し、一瞬の間にナガレは少年に向けて強烈な一撃を放っていた。
腹部に拳が炸裂し、少年の身体は軽々と飛んだ。内臓と骨が潰れる音が聞こえ、衝撃が背中を貫通して背後の壁を破壊したが、それでも少年は痛み一つ覚えた様子も無く、空中を吹き飛ばされている。
壁に叩き付けられるかと思われたが、壁は少年の身体を軽く飲み込んだ。
「ほう、だが……誤魔化すのは無理だなっ!」
少年の姿が壁の中に消えたのを確認すると、ナガレは自分の背後へ裏拳を放つ。そこでは丁度少年が床から飛び出した所だった。
防ぐ暇も無く、少年の胸部に拳が刺さる。比喩ではなく、本当に突き刺さっていた。だが、一瞬もしない内にその身体は泡の様に消える。
少年の身体はナガレから少し離れた場所に『発生』していた。
「凄い能力だな、お前に能力をくれてやった『虹色のあいつ』は何を考えていたのやら」
紛れもない賞賛を口にしながらも、ナガレは既に動いていた。
時間も空間も通り越したナガレの攻撃を防ぐ事は不可能だ。少年は防御の体勢を取る事も許されず、凶悪かつ暴力的な蹴りを顔で受け止める。
しかし、少年は攻撃を受けて尚、平気な顔で力を使った。
防御不能なのは、何もナガレの攻撃だけではない。少年の攻撃、いや『発生』も予備動作が一切無く、何が起きるのかは推測する事しか出来ない。
結果、全身の血管が破裂したかの様に、ナガレの身体から血が噴水の様に飛び出した。
「ふ、ふははは! おもしれぇなあ畜生!」
自分という存在を構成する肉体が破滅した事を理解しながら、ナガレはそれを笑い飛ばす。人知を越えて常軌を逸した男の笑い声は、それだけで『常識』を弾き飛ばす。
今や、彼は肉体や魂が滅んだ所で終わらない存在となっていた。
「こんなにも恐ろしくて面白い敵と戦ったのは、何時ぶりだろうなああ!」
喜色満面でナガレは拳を振るい、少年の顔を物理的に吹き飛ばした。
だが、物質的に脳が無くなった『程度』では『勇者』は、『力を完全に使いこなした勇者』は滅びない。首から上の消滅した少年だったが、即座に再生する。
「……チッ! 馬鹿らしくなるじゃねえか!」
その姿を見て、ナガレは思わず舌打ちをする。
ナガレには、少年を倒す方法が無かった。
少年の『発生』させる力はまるで世界を自由に操っているかの様な物であり、攻撃を受ければ自分の命や肉体を『発生』させて再生し、相手の防御を簡単に素通りしてみせるのだ。
――だが、何とかして、どうにかして倒してやる。
一意専心、ナガレは少年を倒す事を決め込んでいた。
その脳裏に存在するのは、一つの『女の形をした何か』である。そう、ナガレはその存在に破れ、自信を喪失したのだ。
『女らしき何か』は、特に何もしなかった。何もしなかったが、ナガレは負けてしまったのだ。理由を理解するよりも早く、物を考えるよりも早く。
「絶対に、勝つ。今度こそ、なぁぁ!!」
そして、その怪物は何よりも誰よりも――この少年よりも、『無』だったのだ。
もう、ナガレは『無』に負けるつもりは無かった。
「うぉぉおおおぉぉらぁぁっっ!!」
雄叫びを上げて、ナガレが少年の頭を掴む。
頭部は簡単に弾け飛んで、血飛沫と肉片がナガレの顔面に降り注いだ。だが、肉体や魂や存在を傷つけても、少年には通用しない。
「やっ、っってやろうじゃないかよ!!」
知った事かと言いたげに、ナガレの空いている手が理解不能の課程を経て巨大化し、少年の胴体を掴んだ。
本来のナガレにはそんな芸当は出来ない。間違いなく、『勇者』の力による物だった。
「倒す、覚悟しろ! ……痛いから覚悟して、ああ、楽しいなぁジョン君っ!!」
ナガレの口から、別の誰かの言葉が響く。
ナガレの身から噴き出す血液が、何時の間にか虹色に変わっていた。
「ああ、そうか」
それを見た少年が、納得した様子で頷いた。
その虹色の正体は、『勇者』が転生する時に渡される力だった。つまり、その力とは。
「『勇者』の能力って、みんなエィストさんが渡すんだもんね。『エィストさんの一部』を能力として渡したなら納得だ」
『勇者』という物の真実の一端を口にしつつも、少年の身体は握り潰される様に圧迫されていく。このままでは上半身と下半身が物別れになりかねない。
しかし、何かを『発生』させようにも、纏い付く虹色が動きを封じていて、少年は何も出来なかった。
「うぐ……」
「苦しそうな顔も素敵だねぇ、ずっと見ていたいけれど、うんうん、仕方ないか」
どんな事でも楽しむ虹色の『何か』は、肉体的な反応で苦しむ少年の姿を眺めている。
そのまま少年の胴体を握り潰す様に力を籠めると、虹色は途方も無く残酷な笑みをナガレの顔に浮かべた。
「さよならジョン君! ちゃんと、死に顔は楽しんで、堪能してあげ……」
それは、全てを楽しく愛する、混じりっ気の無い化け物の笑顔だった。
「……る、訳が有るかぁ!!」
だが、少年が死ぬ寸前にナガレは腕の力を緩め、少年の身体を床へ落とした。
少年はまだ生きている。それを確認すると、誰よりもナガレは腹立たしそうな顔をして、虚空に向かって罵声を浴びせかける。
「お前なんぞに誰が頼るか、馬鹿畜生クソ野郎が!」
自分の中に存在する虹色へ恐ろしいまでの殺気を放ち、ナガレは自分を操っていた『何か』を追いやった。
余程怒りを覚えたのか肩で息をしていて、今にも怒りを爆発させてしまいそうだ。そして、それは十分な隙でもあるのだ。
結果的には助けられた少年だが、その顔には安堵も感謝も無い。
「あは、助かったよ。まだ死ねなくてね!」
『楽しげな』言葉が紡がれると同時に、床に転がる少年の全身から虹色の『何か』が発生した。
ナガレのそれと同じく、虹色は少年の全身を染め上げる様に広がっていく。それはあり得ない程に絶対的で、最果てよりも最果ての力だった。
「お返しだよ、それは法典だよ! 滅びには滅びを、終わりには終わりで虹には虹で……お返しをしなくちゃ、いけないんだよ!」
よく分からない事を叫んで、少年の中に居る虹色が行動を開始する。
それに少しでも触れれば、完全な敗北がナガレを待っているだろう。『勇者』と、その力の大本である虹色の間には絶望的な差が存在した。
しかしながら、ナガレは元々からの強者である。ここで負けを認める事は無い。
「……負けるかよぉっ!」
生まれついて持ち合わせていたあらゆる全てを込めて、ナガレが虹色に立ち向かう。石と星程の差が有ると分かっていても、彼は無謀を承知で飛び込んでいた。
このまま行けば、ナガレは間違い無く死ぬ。だがしかし、彼の中に居る虹色がそれを見逃す筈も無かった。
――もう、無茶ばっかりして!
ナガレの身体をまだ覆っていた僅かな虹色が、無謀なナガレを守るかの様に動く。
それは誰が反応するよりも早く、少年の放つ虹へ接近した。
そして二つの虹色は、真っ向から衝突し――
音も無く、全てが打ち砕かれた。
『それは時間すら届かぬ無であり、無の前には死すら死とはならない』
分かる人には分かると思いますが、『其は永久に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの』を意識しました。




