間の章 愛と幽鬼と無関心による非現実的な物語
「こうしてシュ=オートスノムは平和になりましたとさ、ってね」
林檎のタルトを口の中でもごもごさせながら、エィストは幸せそうに話を止めた。
その背景はまた変わっている。今度は、何も無かった。上下左右という概念が存在せず、また空間という物が有るのかも定かではない。
色も存在せず、ただ人型が『二つ』だけそこに在る様に見えている。その中でエィストは虹色を光らせ、好奇心と馬鹿馬鹿しさを大爆発させているのだ。相手をするのも面倒になるくらいには鬱陶しく輝いていた。
手の中に有るタルトは何時の間にか苺の物に変わっている。上下の概念が存在しない中で虚空に浮かぶグラスには、フルーツ牛乳らしき何かが妖しく入り込んでいた。
「んぐんぐ、もふ、もぐ……むみゅー、美味しいねー」
夢中でデザートを貪っている青年の姿からは、その本質が『何』なのかを感じられない。
虹色の髪が何故か数本だけ異常に伸びてハート型などの形を作り上げる。その不定形ぶりは彼の、あるいは彼女、いいや『コレ』を象徴するかの様だ。虹色こそ、コレを表すのだろう。
瞬く間に苺のタルトを食べ終えると手には人間の頭程もある白い板チョコが握られていて、それを青年型の何かが口にしていた。
「うっふっふ、これを見て余りの甘さに吐きそうになるか、病を内包しても影響されない私を羨むかで甘党的時空位相に存在できる時間が……っていうのは冗談として、ホワイトチョコは美味しい」
何を考えているのか、何故かエィストによく動く尻尾が生えて消える。ホワイトチョコレートの美味しさをアピールしている様だ。
きっとこの姿を見れば、尾が二つ有る猫であってもチョコレートが大好物になるだろう。
先程から、エィストはデザートの感想しか口にしていなかった。あるいはその享楽的で人……生……? を全力で楽しんでいる姿勢こそ、この『何か』にとって固有と呼べる人格の基礎になっているのかもしれない。
そんな風に真剣に考える事を放棄したくなるくらい、エィストは馬鹿っぽいのだが。
「……ああ、そうだそうだ。忘れる所だった。あー……イクスちゃんの事だった?」
数秒で巨大な板チョコを食べ終えたエィストは、やっと思い出した様に話を戻す。
かと思えば少し手に付着したチョコレートを舐め取っていて、真剣に話をしようとする気配は微塵も無かった。
「あの子をこっちへ連れてきたのは最高の判断だったと思うよ。いやぁ、あの子を連れ込んだ時は余りに嬉しくて狂喜乱舞、思わず椅子を偉大な種族に変えちゃって……何の事だって? 気にしない気にしない、未来に行っちゃっても気にしない」
恐らく、彼がふざけきった態度を改める事は永遠に無いだろう。
いや、万が一の可能性を考えるならば、この態度こそ一介の知的生命体には計り知れない『何か』にとっての正しい行動なのかもしれない。
勿論、それは気のせいである。
「そんな私が楽しいと思ったイクスちゃんの正体は……うへへ。本来は世界に大幅な干渉を可能とする類の凄い種なんだよ。生命という物を完全に逸脱した存在、それが生命体を恐がる理由なんて本来は無い筈なんだけどね」
心から楽しげにしながら、エィストは頭上にイクスの姿を浮かべた。勿論、視覚的な意味である。
「……そう、ギャップがいいよね! 人間と喋る時の恐怖と怯え、それに人間以外と喋る時のあの幸せそうな、殆どどこかの異次元に行っちゃってる、別名トリップしてる感じも有る表情! 見ていて楽しく操って面白い! あれほど人型を使い慣れてるんだもの、本人も自分の取るべき姿なんて興味が無いんだろうね」
独り言の中に何やら邪悪な内容が含まれている様だが、本人としてはどうでも良いのかもしれない。頭上のイクスの顔が一瞬だけ真っ黒な物へ変わり、すぐに人型のイクスへ戻る。
そんな時、エィストの表情はどこか、ほんの僅かにだが真剣な物へと変わっていた。
「……人間というのは特別な物じゃない。大きく見れば一つの星に居る単なる生物が特別だなんて、あり得ないだろう? いや、宇宙も世界も、どれだけ大きく強大でも、特別なんて事は無いんだよ。特に私はその筆頭さ」
価値観を口にしつつも、その顔にははっきりと別な感情が浮かんでいる。事実を言葉にしているだけで、彼自身の気持ちは別な所にあるのだ。
「まあ、それはさておいて……最高だよね! 私人間大好き! 喜怒哀楽なんて面白くってたまらないし、嬉しいし、楽しいし、ああ! 素敵だね人間、最高だね知的生命体! 絶滅するなんてもったいない! 保護するよ、保持するよ、楽しく慈しみと享楽を持って大事に大事にだいっじにっ! するんだよ!」
エィストは急激で爆発的なまでにテンションを引き上げて、人間の形をした別の何かとしての本性を微かに沸き出す。
今までの話は何だったのかと思いたくなる程に鬱陶しい人間への愛がそこに有る。どんな形でもある『コレ』の知的生命体への愛は猛毒の様だった。
「私の人格はベースを人類、根本を『楽』、それ等を元に『私』を私として変質させる事で作り上げたんだから、ね! 人間大好きなのは当たり前だから親近感と親愛をあげよう! 返品は受け付けないから受領書は自動筆記でよろしくぅ!」
この世にこれほど要らないと言いたくなる親愛が存在するのだろうか。一部の狂人と変人、ついでに物好き以外は間違いなく突っ返すだろう。
「そうさ! 人間はこの世界に限っては特別なんだよ! 私が作った、この世界ではね!」
エィストの手の中に球体が現れる。眼の良い者であれば気づくだろう、その中では大陸らしき物が存在していたのだ。
それが、この理解不可能な存在の手に有る。その事実だけで精神を病み、世を儚んでしまうだろう。
そんな哀れな者達にはもう一つの真実を教えるべきだ。元々、その世界はエィストだったのだと。
「何せ、此処はあの為だけに存在する。その為だけの世界なんだもの。ああ、貴女の事は『私』絡みなので置いておくとして……」
エィストはあっさりと、誰かに向けて『世界』の真実の一端を口にしていた。だが、それを理解する気が在る者も理解する知性が存在する者も居なかった。
エィストの独り言はそこで終わる。ほんの僅かに静寂が訪れ、空間ですらない場所は平和となっていた。
ただし、エィストがまた喋り出した瞬間に平和は崩壊する。
「さて、話はこの辺で……うふふ、練習に付き合ってくれてありがとうございます。今度から誰かを迎える時の対応はアレで行きましょう」
目の前の存在へ、慇懃で見事で愛情と優しさと敬意の籠もった一礼を向ける。
そうだ、エィストが見て来た『勇者』の話を聞いていたのは決して『勇者になる予定の存在』などではなかった。そんな物とは無縁の、存在とすら呼べない何かである。
エィストの目は虚空を、いや、全てを見ていた。そう、全てだ。何もかもだ。異様に機嫌の良いエィストの声だけが、嫌に響く。
「さあさあ、来ますよ来ますよ皆が! 連れてきますよ私が! どうしてこの三人の『勇者』を話題に出したかって、それは勿論、今から彼らに会うからです!」
尋常ではなく楽しげなエィストが腕を広げ、歓喜に身を震わせる。
そしてエィストは目の前に存在していると仮定された何者かへ抱きつき、存在しえない肉体と扱われている物を無理矢理に、ギュウっと抱き締めた。
「さあ、お客さんを迎え入れましょう! ねぇ……『八宙那由』さんっ!」
エィストが延々と話しかけて、抱き締めて、目の前で散々食事をする様子を見せつせた相手の顔と思われる部位が、ゆっくりと笑顔と呼ぶべき物へと変わった。
『思わず椅子を偉大な種族に変えちゃって……何の事だって? 気にしない気にしない、未来に行っちゃっても気にしない』
つまり、『イスの偉大なる種族』。いや、この場合は単に椅子が偉大な何かに変わっただけかも……?




