3部最終話 シュ=オールトスノムの影
「私を食べるのは止めてくれるかな?」
包丁が肉の身を切るその瞬間、イクスが目を開いて声を上げた。
だが、包丁は急に止まらない。脇腹に包丁が刺さり、その体が刃を半分まで飲み込んだ。
血は一滴も流れない。僅かに見える傷口には黒色だけが存在する様に思えた。
「お、起きてたんだ……」
「人間の気配には敏感でね、私は。さっきから起きていたよ」
包丁を握りながら、少年が冷や汗を浮かべる。
どうやら、イクスは最初から起きていた様だ。しかも、その上で少年が襲い掛かってくる事を放置していたのだ。
「私を食料にするなんて、面白いな」
「いや、その……えっと……」
にこやかに笑いつつも、その目の奥は決して楽しげではなかった。
少年は今にも気絶してしまいそうな青い顔になる。何せ殺して食べようとしたのだ、一分も言い訳も出来ず、殺されても文句の言えない状況である。
距離を取ろうとして、少年は身動きが出来ない事に気づく。イクスの両足が少年の体を包む様に捕まえていた。上半身を起こす事も許されない。
「逃がさないよ」
「あの……ごめんなさ」
「君には私は食べられないさ、いや、食べる必要は無いというだけか」
少年が謝罪の言葉を口にするより早く、イクスは何もかも分かっている様に語り出していた。
「そう、必要が無いんだ。君はこの町の人達とは致命的に違う。私はシュ=オートスノムの住民は好きだけど、人間は嫌いだ」
「それは……どういう?」
「まあ、聞けよ」
よく分からない話に少年は身を硬直させる。
それ以上聞けば自分の人生に致命的な影響を及ぼす、そう分かっていても、少年は言葉を止めさせる事が出来なかった。
「私は、君が人間じゃないならもっと優しく扱っていたよ……」
一瞬、イクスは言葉を止めた。だが、すぐに決定的な一言を放つ。
「そうさ。君は、人間だから」
それを聞いた瞬間、少年の全身に悪寒が走った。
「僕は……でもっ!?」
「私の見立ては間違ってないよ」
「そんな、そんな、違うっ!! そんな訳ない!」
口では否定しながらも、彼女の言葉が本当であるならば、と少年は恐怖に震える。
そうだ、彼女はこの町に入ってからずっと、少年にだけは、人間である少年にだけは余り機嫌の良い態度を取らなかったではないか。
どう足掻いても彼女の言う事を嘘だとは思えなかった。そもそも、獣の提案で彼女はこの町を訪れたのだから。
何より、少年自身が言ったのだ。『自分は拾われた子だ』と。
ならば、と。少年は考えた。ならば、あの夫婦が人間を食べなくなった理由とは、つまり……
「違う! でも僕は人間を食べたいと思ってた! この町の空気も好きだ!」
「……生まれた時からの経験は、人を食人鬼にするさ」
「……っ!!!」
思わず叫んだ少年を奥の奥では怖がりながら、それでもイクスは軽い調子で返答した。
少年の震えが段々と強くなっていく。そんな変化を無視して、彼女は少年の首筋辺りに鼻を寄せる。
「ふんふん……ふふっ、君は良い臭いがする。怪物の臭いだ。大事に大事に育てられたんだね。しかも怪物に……羨ましい」
本音を口にしつつも、その顔には不敵で、この状況には不適切な笑みが浮かんでいた。
「…………そう、だよ」
「っ……良い目だね」
眉を顰め、泣きそうになっていた少年は深い溜息を吐き、次の瞬間には強い目でイクスの瞳をじっと見つめていた。
『人間』の強い感情を直に受けて、イクスの顔が隠しきれない恐怖を僅かに漏らす。だが、少年は無視して自分の気持ちだけを口にする。
「僕は、僕は大事に大事に育てられたんだ。もし、食用だったとしても、僕は喜んで『そう』なる」
少年の覚悟が現れた言葉だった。
自分が『人間』だという事を納得した少年は、その事実に怯えながらも即座に結論を出したらしい。体がどれほど震えても瞳が揺れる事は無い。
そこには両親への感謝と、尊敬と、何より深い愛情が有った。
「ふ、ふふ。素敵だね、君は。私が人間にこういう事を言う日が来るなんて」
紛れもない賞賛をイクスは口にする。人間にそんな事を言うのはこれが最初で、きっと最後になるだろう。
包丁の刺さった黒色の奥で、虹色が嬉しそうに微笑んだ。ほんの一瞬だけ、その目が扉の方を向いた気がしたが、すぐに元へ戻った。
「まあ、それとこれとは話が別だけどね」
そんな包丁を自分の体から引き抜いて、イクスはそれを床へ置いた。傷口を瞬時に消し、捲れ上がった服をすぐに直すと、そのまま少年を解放する。
足で挟まれていた少年は軽い安堵の息を吐き、逃げる様にイクスから離れた。
「……じゃあ、僕はこの辺で」
「待て、まだ話す事があるだろう?」
部屋から出ようとした少年だったが、イクスの体から出る圧力の様な物で動きを止められる。
「君がどれだけ覚悟を決めようが、私を食べようとした事は事実だ」
彼女は目を逸らさず、真剣に少年を見つめた。
試されている。そう感じた少年は怯える自分を無理矢理押さえ込み、強い目で応える。
「さあ、殺される覚悟は出来ていたりするかな?」
「それは駄目」
即答だ。
少年は決して目を逸らさず、決意の固まった表情になっていた。その余りにも強い感情は、少年が絶対に自身の死を許容しない事を表している。
強固な精神を見せつけた少年に対して、イクスは怯んだ様に息を飲み込む。それでも不敵な笑みは忘れず、興味深げな様子を維持した。
「……へえ、それはまたどうして?」
「僕が死んだらお父さんとお母さんが苦しむ。これは僕が人間だろうが、関係無い」
逆に言えば、それは『両親が居なければ自分は生きている必要が無い』という宣言とも取れた。言葉は紛れもない本気を表していて、少年は微塵も迷わない。
「そう、か……く、くく……あ、く、あ、あはははは!」
何が彼女の心を刺激したのだろうか、虚空にイクスの笑い声が響く。その声は透き通る様な美しさと、人間らしさの感じられない恐ろしい何かを含んでいた。
しかし少年はもう何にも動じない、例えイクスが何であろうと彼には『関係無い』のだから。
「君が、それを言うか! さっきも散々親を心配させておいて、君に言う資格が有ると思ってるのか!」
「うん」
白々しさすら感じる態度で少年が思い切り頷く。
「即答か! ふふ、君は面白いなぁ。そうかそうか、うんうん。私は人間が大嫌いだが……それっ」
「わうっ!?」
側に立っていた少年の体に、イクスが思い切り抱きついた。
それは同好の士、または弟でも扱う様な友好的な態度であり、今までイクスが少年へ向けたどんな感情よりも優しげな物だ。
「ああ、素敵な事に私も同意見だ。親から子を奪うのはいけないね、親が人間じゃないなら尚更だ。君は良く分かってるよ、私が人間に共感する日が来るなんて」
何度も頷きながら、イクスは腕に込める力を強める。
身長差が有る為に彼女の腹部から胸部の間に少年の頭が埋められていて、『食欲』とは関係無い意味で少年の何かが刺激されたが、幸福な事に二人ともそこには気づかない。
少年が心から沸き上がる未知の感情に戸惑っている間に、イクスは微笑みながらもう一度頷く。
その顔は何故か、扉の方へ向けられていた。
「ふふ、お二人も、そろそろ出てきては如何かな?」
扉の先に居る存在をイクスの視線が貫く。すると、その扉はゆっくりと開かれ、到底人間とは思えない存在が現れた。
「……」
「……」
二つの存在はかろうじて人型だったが、その外見は全く人間とは呼べない物だった。爬虫類と両生類をベースに、既存の何とも合致しない生命体で塗り固められた様な外見だ。
視界に入れただけで発狂を免れない程の異様な外見のそれ等を、少年の目が捉えた。が、特に狂気に陥る訳でもなく、ただ純粋な驚きを口にする。
「お、お父さん、お母さん……」
そう、二つの人型は少年の両親だったのだ。
「…………後で説教な」
人型の内、雄と思わしき方が目らしき物を細めて少年を睨む。普通なら気絶するが、気の小さい少年は慣れていた。
むしろ、これからまた説教を受けると知り、少年は肩を思い切り落とす。
「え、えー……また説教なの……」
「ふふ、優しい親御さんだね、私が君を殺そうとしたら、即座に私を殺せる様に準備していたんだよ」
少年を横から抱き締めて頬を擦り合わせつつ、イクスは賞賛と喜びを口にする。その場に人間ではない物が居る為か、今までより遙かに機嫌が良い。
「馬鹿野郎、良いって言っただろうが」
「でも、でもお父さん、全然食べてないじゃん……僕、心配なんだよ……」
イクスの頬から来る未知の感触と感情に戸惑いながらも、少年は素直な心を口にする。
すると、二つの人型が揃って悲しげな雰囲気を纏う。彼らも分かっているのだ。人間という食料を接種しない事が『彼ら』にとってどれだけ異常で、どれだけ体に悪影響を及ぼすかを。
少年が何を言った所で、人間の少年を息子にしてしまった二人には、もう人間は食べられない。
「お願いだから、僕を食べても良いから、お願いだよ……」
「……ごめんなさい、でも食べたくないのよ」
空気が一気に重い物となる。外見がどれほど違っていようが、三人が親子だという事を疑う余地は無いだろう。
「んんっ! 親子仲が良い様で何よりだよ。さて、それは良いから私の提案を聞く気はないかな?」
羨ましそうに親子愛を目撃していたイクスだったが、気まずくなって来たのか咳払いをして、三人の視線を自分へ向けさせる。
「何ですか?」
「ふふ、君達の悩み、私なら全部解決してあげられるなって思ってね」
少年の母親の言葉に、イクスが軽い調子で応えた。
にわかには信じ難いその言葉に少年が目を見開く。
「……え?」
「騎士があんなになってしまったんだから、この辺りの国が総力で町を滅ぼしに来るのも時間の問題だろうね、そこで、私だ。ああ、人間を食料とする種族なのに人間を食べられない、それも私が解決できる」
イクスは何時の間にか少年を抱き締める事を止めていて、少年の両肩を掴んだ状態で距離を取る。
「この町を守るついでに……君の事にも手を貸してあげよう。食欲不振な御両親を健康にして、ね?」
「それっ……本当!?」
「本当」
イクスは少年、いや人間と殆ど目を合わせなかったが、それでも強い説得力を感じさせた。側に居るだけで信頼に足る程の万能な力を思わせる姿は、彼女の言葉が全て当たり前の様に実現可能な事なのだと表しているのだ。
少年は、理屈も理性も越えて理解した。イクスとは、つまりそういう事が出来る存在なのだ。そして、彼女は本心から協力を申し出ている。
断る理由は無い。元々、少年は両親の為であれば何でも出来る。側に立つ両親の顔を見るまでもない。
「ありがとう」
「君の為じゃないさ、照れ隠しじゃなくて、本当にね。でもほら、君のご両親は『人間ではない』から」
完全なる人外である少年の両親へ目を向けて、イクスは笑みの質を変えた。
満開の花よりも華やかで爽やかな微笑みは清涼な空気をその場に作り上げて、町のおぞましき雰囲気を変えてしまう。
その中で、少年は首を傾げた。人間ではない物を好むという趣向は理解しても、それほど執着する気持ちは分からないのだ。
彼にとっては両親が人間だろうが『何か』であろうが、親である事は変わらないのだから。
「……どうしてそこまで、人間じゃない事に拘るの?」
「ああ、それは……」
少年の疑問を受けたイクスは、軽く口を開いて舌を出した。
悪戯っぽい動作だが、それはとても恐ろしい光景だった。薄皮一枚の先に有る黒色がのたうつ様に暴れ、イクスという人型の口から姿を覗かせているのだ。
「私も、人間では無いからね」
四人の姿を扉の隙間から見ていた『虹色の瞳』の獣が、満足げで楽しげな低い鳴き声をあげる。
シュ=オートスノムと名付けられた町を、イクスという名の影が覆った瞬間だった。
(『シュ=オートスノムを覆う影』終わり 『エピローグ:那由他の果てに無価値を求めて』に続く)
サブタイトルが『オールトスノム』なのは、『インスマス』と『インスマウス』みたいな微妙な違いだと思ってください。はい。
さて、個人的には一番お気に入りの中篇『シュ=オートスノム』ですが、あらゆる面でクトゥルー神話の影響を強く受けています。特に『インスマスを覆う影』(暗黒神話大系の方)を直前に読んだ為か、タイトルまでオマージュです。
実はこの作品、本当は前話の旅人の話と同時進行でイクスの話を続けて、『宇宙的恐怖に翻弄される旅人と、それを喜ぶイクス』という図にしたかったんですよね、でも、良いプロットが思い浮かばなかったのでこういう形になりました。
イクスの正体は人外にするか普通の人間にするか迷いましたが、結局はこの形で落ち着きました。それ以外は割とプロット通りに行きましたよ、少年がカニバ未遂する所もね。戦闘シーンとか騎士絡みは殆どアドリブでしたが。




