3部7話 虹色の享笑
彼女の体が分断されて地面に落ちると、騎士達は何とか正気に戻って歓声を上げた。
「いよっし!!」
「流石隊長!」
悪夢の様だった女を斬り捨てた存在、いや、自らの隊長に向かって騎士達が賞賛と尊敬を向けている。その奥底に有るのは安堵だ、恐怖から解放された事で肩の荷が下りたのだろう。
「俺、隊長を信じてましたよ! 一騎当兆のとんでもねえ人だって! 絶対に助けに来るって!」
「いやぁ、怖かった。怖かったぜ。死んだと思っちまった」
「……あいつ、無茶しやがって。人質なんて下種な手を取るから……」
「ああ……馬鹿だったな……」
騎士達は安堵と寂寥を感じさせる雰囲気を纏っていた。仲間を失った事を心から悲しみながらも、このおぞましき女を倒せた事が嬉しくて仕方がないのだ。
「お前等、黙ってろ」
周囲の喧騒を鬱陶しく感じたのか、隊長と呼ばれた男が眉を顰める。
イクスの不意を打つ事に集中していた彼の顔には大量の冷や汗が浮かび、加えて肩で息をしている。
今にも倒れてしまいそうだ。あらゆる気配を部下の騎士達にすら気づかれない程に殺し切っていたのは、彼をして偉業と呼んでも差し支えのない事だった。
「……」
「……」
そんな男の疲労を察知した騎士達はすぐに黙り込んだ。だが、その目に宿る感謝や尊敬は微塵も薄れてはいなかった。
部下が全員黙った事を確認すると、隊長である男は深く呼吸をして、顔を上げる。
「さあ、まだ仕事は終わってないぞ。コイツは確かに危険だが、コイツを倒すのが任務じゃないんだ」
男は何とか頼もしげな笑みを浮かべた。
イクスを倒しても、彼らの仕事は終わらない。まだまだ殺すべき町民は沢山居て、今も何人かの部下達は町民を斬っているのだ。
こんな場所で立ち止まっている訳には行かない。男は部下の騎士達に指示を出そうとしていた。
「町の連中はまだ居る。追いかけて、全滅させ……」
「あはは、うふふ」
だが、笑い声が響く。
空気が凍り付いた。それは聞こえる筈の無い声で、理解の及ぶ世界から現れた言葉ではない様にすら思えてしまう。
思わず、その場の全員が地面に転がった女の分断された肉体を見つめる。
「いててて……何だ何だ、人質に不意打ちなんてそれでも誇り有る王国の騎士かい? 情けないなぁ情けないなぁ」
すると、それは何らかの力によって空中に浮き上がり、意味の有る言葉を話し始めた。
体が二つに分かれた状態だというのに、女はやけに楽しげな笑みを浮かべている。不敵さとは無縁の明るい笑顔だ。
「それで、大丈夫? ……あ、そっか。あの子は親が連れ帰っちゃったんだっけ」
少年がこの場に居ない事に気づいて、女らしき存在は軽く肩を竦める。
明らかに様子がおかしい。
いや、体が分断されている状態で当たり前の様に喋っているのもおかしいのだが、彼女は『勇者』だと名乗っている。ある程度の非常識と無茶は当然だ。
しかし、態度や纏う空気はまるで別人の様に変質していて、先程までを遙かに上回る程に不気味な嫌悪感を覚えさせるのだ。
「くく、あははえへへ。それが楽しさか。嬉しさか、喜びか。この町は私の娘が作った場所でね、あんまり酷い事はされたくないって言うか……ね?」
当たり前の事を確認するかの様にイクスが騎士達の顔を覗き込む。そう、人間から一瞬も目を逸らさない。
「くく、観客が居なくなっちゃったんだね。やばいなぁ、テンション凄く上がってきちゃったよ。困っちゃったなぁ……本当に、都合が良すぎて」
より一層面白がる様子で笑い声を上げて、イクスは寒気がする程に凶悪な笑みを浮かべて見せた。それだけで周囲の空気が凍り付き、騎士達は自分という存在が揺るがされてしまう様な予感を覚えてしまう。
「……お前、誰だ」
たった一人、剣を握って敵意と警戒を向けていた騎士達の隊長は、じっとイクスを見つめながら口を開いた。
彼は、側に居る女が今までと同一だとは欠片も思っていなかった。浮かぶ肉体は何者かが遙かなる高みから操っていて、今まで居た女とは完全に別物だと、そう考えたのだ。
それは確かな確信として周囲の騎士達に広がり、彼らは自らの常識が汚染される感覚に対して一様に震え上がった。
「おやおや、見る目の有る子も居るんだ」
「黙れ、お前は……何者だ」
女の肉体を操る何者かに向けて、騎士の隊長は強烈な威圧と共に剣を向けた。
そんな物、今のこの存在にとっては微風と小枝にすらならない。分かっていても、恐怖を堪える為にはその行動が必要だ。
それを分かっているのか、女の中に在る謎の何かは自分の胸元で両手を握り、愛おしそうに体を撫でた。
「……この子は恐がりさんだから、この世界に連れてきた時、私は『私』を突っ込んだんだ。そうじゃないと、この子は人間の中で生きていけないから」
「……何だ、何を言っている……?」
『何か』が語り出す。だが、その意味を理解出来る存在はこの場には居ない。訳の分からない独白としか受け取れる事が出来ず、全員が困惑している。
「解る必要は無いから、ただ聞いて欲しいね。この子が自分に授けられた能力だと思っているのは、『私』という存在を植え付けられた事の副産物さ。でも突っ込むって、植え付けるって、何だか卑猥だね……キャっ! えっち!」
両手で顔を覆い、『何か』は女の頬を赤く染めた。
それと同時に外見からは想像出来ない挙動で体をくねらせていて、可愛らしいのを通り越して不気味に見える。
騎士達の心には危険性よりも困惑や嫌悪感が浮かんだ。女の体を操る何かは道化の様に馬鹿らしく、悪魔の様に邪悪だった。
「さてて、君達は片づけてあげないと。この子が寝ている間にね」
しかし、困惑と嫌悪を上回る筆舌し難い更なる恐怖が周囲を覆い尽くした。
「大丈夫! 死んでもちゃんとその後があるからさ! 『私』が作ったんだもの、未来永劫楽しく幸せにしてあげるからね!」
言葉と同時に、彼女の身が虹色に輝いた気がした。その虹はあらゆる要素を兼ね備えた支配的で無限にして無制限な概念らしき物を内包しているかの様で、理解の及ばない何かである。
女らしき物が腕を広げて、同時に虹色が広がっていく。肩から分断された体が別々の物の様に蠢いて、何らかの前兆を覚えさせる雰囲気を含んでいる。
そして、前兆の様な何かが一瞬だけ何事も無かったかの様な状況になり、女は口が裂ける程に笑った。
「さっあ! この子は余りやりたがらないけど、ちょっと頑張って『崩れ』ますか!」
女の虹色が薄れ、黒色が吹き出す。
分断された体の断面から、何らかの影らしき物が現れている。それはまるで人を喰らう怪物の様に動き出し、どんどんと巨大な物へ変わっていた。
「あは、あはは! さよならを君達に、バイバイを君らへ、また会おうを諸君へ送る! あっはっははは!」
影を吹き出す女から高笑いが響き、影らしき黒は更に勢力を伸ばしていく。
「た、隊長……コイツは……」
「なん、なんだこれ……数で例えて良い物じゃ、ねえよ……」
カタカタと、騎士達の防具が震える音が響いた。
恐怖、そうだ、恐怖だ。その黒色は夜よりも深すぎる闇であり、既存のどんな怪物よりも暴悪で危険な力が存在していて、騎士達はそれらを視界に入れると同時に震え上がったのだ。
「……くっ…………!」
今にも膝を屈しかねない騎士達を視界の片隅に置きつつも、彼らの隊長は理性を保つ為に柄を潰しかねない力で剣を握り締めた。
余りにも洒落にならない存在である。古代より復活した邪竜とでも相対しているかの様な、最低最悪の気配だ。
勝てない。騎士達とこの怪物の前には絶対的な差が存在する。確信として、絶対に勝利し得ない相手なのだと直感してしまう。
「……撤退だ!」
勝てない事を理解すると、隊長である男は雄叫びに等しい声を上げた。
「撤退しろ! 俺が時間を稼ぐ!」
決死の覚悟を決めた男が、再び声を上げる。
騎士達からすれば、それは隊長から下された絶対的な命令だ。本当は背く事も出来るのだが、恐怖から逃れたいと願う彼らにとっては従うしかない命令なのだ。
その凶悪極まる恐怖は、人の絆を打ち砕く程に超越的な物だった。
「……すまねえ」
「悪い、隊長……! 撤退する!」
「絶対、応援を呼ぶからな! 呼んでやるからな!」
自らの隊長を見捨てる事になると解っていても、彼らの足は勝手に逃げていた。
逃がすものか、と言わんばかりに影らしき物が逃げる騎士達の背へ伸びる。
だが、影が騎士達を捕らえる寸前で男が飛び込んでいき、影を切り裂いた。
「成る程……斬る事は出来るんだな」
「まあね、でも凄いよ。普通は斬るなんて出来ない筈なのにさ」
女の肉体は黒色の何かを垂れ流しつつ、感心を口にする。その色が空にまで届き、何れはシュ=オートスノムの町を食い尽くすだろう。
この町が滅ぶだけであれば、騎士は気にしない。どの道、この町は『無くなる』運命だったのだから。
しかし、影が襲わんとしているのは彼の部下達だ。
「……足止めはさせて貰う」
そうはさせない、と男は剣がへし折れる程に力を籠める。
男の視界で動いていた物が一気に停止する。超高速の世界に入り込んだ彼にとっては、空気の揺らめきすら止まって見える。
女の中に居る『何か』だけは時間を無視して笑みを動かし続けている気がしたが、男は気に留めなかった。元々、相手が超越的存在だという事は解りきっていたのだ、それくらいで動揺はしない。
「ふぅぅっ……」
男は内心のあらゆる感情を統制し、大きく息を吐いた。
合わせて、男は一歩目を踏み出す。それだけで受ける重圧と嫌悪感は一気に強くなったが、それでも男は足を進めた。
狙うは、黒色を発し続ける女の体である。
今表に出ている存在が『何』であれ、操られている体は人間だ。体を粉微塵に切り刻めば死ぬだろう。
あるいは、この影らしき怪物も撤退させられるかもしれない。淡い希望だったが、男はそれを信じる事を決めた。
「あああああっっ!」
声を上げながら、男は一気に黒色へ接近する。周囲の空間は彼が動く事を認識すら出来ず、空気は遅れて動いている。
常識を遙かに越えた超高速である。平均的な超高速の世界を遙かに越えるそれは人間の体には耐えられる物ではない。が、男は気合いと意地で無理矢理に押し切った。
そんな彼の耳に、同じく超高速に入った者の声が届いた。
「隊長、そいつはマ……」
声の主は男の部下だった。『マジ』という言葉が口癖の異世界かぶれな面の有る男で、騎士の中では『それなり』の実力者だ。
一応は超高速の世界を認識出来る騎士だが、隊長である男の速度には及ばない。よって、声は男の元に届かなかった。
だが予想は出来ている。恐らく、この騎士は女の形をした『何か』の危険性を、戦う事の無謀を口にしているのだろう。
『だが、そんな事は、百も承知だ』
心の中でそう呟いて、男は剣を振った。既に女の体は目の前に有る。精神的な重圧は一瞬でも気を抜けば崩壊を起こす程の物だが、そんな程度で折れる筈が無い。
「おぉぉぉっ!!」
剣が勢い良く振り下ろされ、女の肉体ごと『何か』を斬ろうとしたその瞬間、女を操っていた虹色の何か……いや、虹色の髪をして享楽的に笑う青年の姿が見えた。
青年は、超高速の世界の中で男よりも早く、剣よりも遙かに早く、女の体の中へ消えていく。
女の体から虹色が消える。だが影は、黒色は止まらない。剣は女の体を腹部まで斬ったが、それでも黒色の放出は止まらない。
――おい。
『何か』がそこから消えても黒色が納まる気配が無い。
男は、最悪の予感を覚えた。
――まさか。
あの虹色が女の代わりに喋っていただけで、この黒色はもしかすると、この女の、この女から……
――まさか!?
「そいつは人間じゃない!!!」
やっと部下の声が届いたが、その時にはもう遅かった。
暗雲の様に、黒色が町へ広がっていき……
イクスは、生まれた瞬間から人間を恐れていた。
それは何故なのか。様々な回答が出来るだろうが、あえて真実の一つを上げるならば……
彼女は、最初から人間とは違う生き物だったのである。
「人間とは違う知的生命体が、人間の支配する星で生まれる……人間の中で、生きていく……」
「そりゃ、怖いよねー。ま、私には無い感覚だけど」




