3部4話 醜悪な形をした異形が闊歩する町の夜にて
その日の夜、町はとても静かだった。
人どころか虫の声すら聞こえる事はなく、その静寂はある意味では異質とも取れ、ある種の邪悪さすら覚えさせる光景となっている。
勘の良い物であれば誰であっても気づく。静けさの中には何らかのおぞましい存在が潜んでいる様な予感があった。触れれば一体化してしまいそうな恐怖であり、少しずつ近づいてくると感じられる最悪だ。
世界の奥底に潜む邪悪が、この町を基点に現れようとしている。そう言われたとしても納得出来るだろう。
「それもまた、良し……」
それでもイクスは小さく呟いて、嬉しそうに笑みを浮かべている。
彼女は相変わらずベッドの上に寝転がっていた。やはり上着は脱いでいたが、今度はシャツを脱いではいない。シーツを頭に被せ、その体から力を抜いていた。
どこか馬鹿らしくなる姿だが、だらしないと怒る者は居ない。部屋の中には彼女以外に誰も居ない為、という訳ではなく、彼女の目には常人には視認出来ない存在が捉えられている。
「君達を見ると……この世界に来て良かったと思うね」
彼女の目に写る上着には数体の精霊が座っている。何となくこの町では姿に力強さを感じさせないが、確かに人間ではない精霊が彼女の側には存在するのだ。
どこかのエルフの様な精霊には及ばないにせよ、イクスは精霊達から好かれている様だ。彼らは四足歩行の動物にも似た外見の上にスーツを着込んでいて、外見を彼女の好みに合わせている事は間違いない。
邪悪な気配にあてられた為か、周囲を回る精霊達は微妙に弱っている様に思える。が、それでも彼女に対して好意を抱いている事を見せつける様に飛び回っていた。
「ふふ、ありがと……さて、そろそろ行こうかなっと」
精霊達の好意を素直に受け取りつつ、イクスがベッドから立ち上がる。精霊の宿っているスーツを素早く纏っていて、精霊達は彼女の身の中へ消えた。
彼女が身に纏う他の物には精霊は宿らない。何故なら、それらは『この世界の物』ではないからだ。羽織ったダークスーツだけがこの世界で売られていた物である。
「よしっ……」
そんな彼女は何度か周囲を確認し、あらゆる感覚を使って家の中の物音や気配を探った。それは僅かに一瞬の事だったが、彼女が探知を終えるには十分な時間だ。
すぐに顔を上げ、彼女は虚空を見る。彼女が確認したのは、家の中に居る少年とその両親、それに獣が就寝したか否かだった。
「……彼らは寝たね」
言葉通り、全員が眠っているのが分かって、イクスが安堵の息を吐く。
それとは別に手は勝手に窓枠を掴み、体がカーテンの内側に入っていた。窓も既に開けられていて、これから彼女がやりたいと思っている事を何よりも強く表していた。
窓の外へ身を乗り出して、彼女は深呼吸をする。それはこの世界とこの町の異質で異形な空気を全身で感じようとしている事がよく分かる姿だ。
「……悪いな、私は天の邪鬼でね」
頭の中で微かに少年の警告を思い出して、彼女は相手に聞かれていない事を承知の上で謝罪を口にする。
しかし、その体は一切悪びれる事を知らないと言いたげに窓の外へ飛び出していて、言葉が終わる頃には数軒離れた家の屋根へ足が着いていた。
「っと、よっ……ふ」
素晴らしい脚力と人外めいた跳躍で降りたって、更に身を崩す事も無い。その道を極めた物でもどうしようも無い程の身体能力と技術を披露している。
「これも……こちらへ来た恩恵かな?」
ぼそり、と。ただ聞き取りやすい声でイクスが呟く。
元の世界での彼女にはそんな怪物的な身体能力や技能は備わっていなかった。が、この世界ではこの通りだ。一体その体に何が起きているのか、少なくとも彼女自身は全く知らない。
ただし、その理由を見せつけるかの様に好奇心と興味が虹色に輝いていた。勿論、傍目から見ればの話である。当人しか居なければ何の意味も無い微かな発光でしかないのだ。
「さあ、探索しようか。この町を……この気配はやっぱり、そういう事なんだろうね」
そんな事を言いながら屋根の上を飛んでいく彼女の中に存在する『何か』。それがどんな変化を与えているのかは、誰も知らなかった。
+
数分も散策すれば、彼女の足は自然と止まっていた。
見るべき物が無い訳ではない。町の様子をその目で見る度に彼女の顔は明るく輝き、喜びに彩られるのだから、それは明らかだ。
「くぅぅ……ああ、素敵だぁ」
どこか別の世界に行ってしまったかの様な――いや、実際に此処は別の世界だが――声が彼女の肺の奥底から響く。
彼女は心から感動していた。直に吸う町の空気はあまりのおぞましさに吐く程の強烈な醜悪さを持っていて、悪臭ではないというのに鼻を塞ぎたくなる。
勿論、彼女には関係の無い話だ。むしろそんな汚れた空気を清浄な物だと言わんばかりに何度も深呼吸をしている。
その足下には町が広がっている。夜になった為か、そこには暗闇が存在するだけだ。人影の一つも無ければ、不思議と家の中にも光源が存在するとは思えなかった。夜とはいえ、まだ起きている者が存在する筈だというのに。
「それもまた、という訳かな」
それが良い、とイクスは屋根に腰掛け、足を空へ投げ出した。
今にも鼻歌を始めそうな上機嫌さだが、夜である為の配慮なのか、一向に音が奏でられる事は無かった。代わりとばかりに煉瓦造りの家を指でコツコツと叩き、騒音にならない程度にリズムを刻んでいる。
瞳の中の虹色は大人しくなっていて、今の彼女からは破滅的な享楽主義の香りはしない。生来の人間以外の者への愛情が露わになり、その顔は喜びに満ち溢れていた。
「ああ、本当に良い町。人間の臭いよりも邪神の空気が強いね」
もう一度深呼吸をして、空を見た。この世界の空はどんなに光の有る場所でも、闇しかない場所でも、見える物は殆ど変わらない。
恐らくは、この先には何もないのだろう。そんな予想がイクスの中で沸き起こる。
彼女が元居た世界には自分の住む星以外にも沢山の星が有り、その何処かに居るかもしれない異星の存在に彼女は幼い頃から胸をときめかせていた。元居た世界では、暇さえ有れば彼女は宇宙と深海へ心を向けていたのだ。
「でも、この世界の宇宙は……違うね」
思わず、自分の内心をイクスは呟いていた。
深海は知らないが、この世界の宇宙に対しては彼女が心をときめかせる事は無かった。何故か、そこには生命体が存在しないと確信出来るのだ。
まるで惑星一つ分の生態系を作った時点で満足して投げ出してしまったかの様な、自分の作った者が楽し過ぎて我慢し切れずに遊んでしまったかの様な。
イクスは知らないが、宇宙や平行世界、それ以上の訳の分からない『何か』にまで影響を及ぼせる存在が、彼らにとっては『空気中の微生物よりも気にも留める価値の無い』人間という種族を嘲笑する事を楽しんでいるという事実もあるのだ。
まるで、そんな役割を与えられたかの様に。
『制作途中で面白くなり過ぎて満足した箱庭』そんな言葉が自然と頭に浮かんで来て、イクスは思わず笑みを浮かべた。
「それは、私の考える事ではないか……大体、そんな事に私が気づく必要も無い」
この町を極楽の様に感じている彼女にとっては、この世界がどんな場所であるかは心の底から『どうでもいい』事でしか無い。
無駄な事に思考を費やしてしまったとイクスは軽い溜息を吐いていて、心から興味など無いと言いたげだ。自分にそんな予測が出来たという事実に対する疑問すら、気に留める事ではない。
「あぁぁー……無駄な事は考えないでおこう。癒されるぅぅ……」
息を整えた彼女は、大きく深呼吸をしてまた町の想像を絶する邪悪な空気を吸い込んだ。
どれほど気持ちの悪い空気でも人体に有害という訳ではない事は既に理解している為、平気な顔をしている。いや、例え有害だとしても無害な物に変えて彼女は同じ様に町の空気を吸い込むだろう。
少しずつ彼女の存在感が町の中へ溶けていく。体が無くなる訳ではないが、そこに彼女が居るという事は本人以外には理解できなくなりつつ有るだろう。
その為か、屋根の上を慌てて走ってきた男がイクスの存在に気づいたのは、すぐ目の前に来てからの事だった。
「うおっ!?」
「んー……? ……げっ!」
自分の側に来ていた男の姿を捉えて、イクスがとても嫌そうな声を上げる。
それは誰の耳へも届く事は無く消えたが、彼女が一気に不機嫌な顔をしたのは誰の目にも明らかだった。その反応を見れば分かるだろう、この男は人間なのだ。
その様子は見るからに不審で、見えない何かに怯えきっている風に思えた。
「お、おまえ、いやあんたは……!」
男はイクスの顔をじっと見つめ、町の者ではない事を確認して緊張を若干和らげた。
「……君は確か、彼らに歓迎されていた連中の一人かな?」
その顔を数秒だけ見ていた彼女は、記憶の何処かから男の姿を引っ張りだしてきた。それは、町の中で歓迎されていた旅人らしき集団の中に居た男だ。
他の旅人が居ないのは気になったが、男はそれどころではないと言う表情で震えている。
「あ、あんた、あんたも……!」
肩で息をしながら、男はイクスの前で怯えの余り倒れそうな顔を晒す。
それと同時に男は首が飛ばんばかりの勢いで周囲を見回したが、彼女以外には誰も居ない事を理解して息を吐いた。
だが、すぐに顔色を変えてイクスの方を見ると、今にも崩壊せんばかりの精神で叫び声を上げた。
「あ、あんたも早く逃げろ! この、この町に居たら……!!!? あ、ああ、うぅぅぅああぁ……!」
その叫びが最後まで続く事は無かった。
言葉の途中で何か見てはならない物を見てしまったかの様な顔になったかと思うと、男は言葉を終える事を忘れたかの様に喉から想像を絶する恐怖と怯えに包まれた声を発したのだ。
そんな絶望的な声を上げたまま、男は何処とも無く逃げていく。歪みすぎた余りにも恐ろしい形相は近寄る事を許さない程に酷い物だった。
「……」
勿論、イクスはただ黙って男の醜態とも取れる姿を眺めていた。様子のおかしい男の態度に内心ではオドオドとした逃げ腰の気持ちになっていたのだが、それが前に出る事は僅かにも無い。
ただ、振り向く事も無く逃げ去っていく男の姿を両目で捉えて、何とか不敵な笑みを維持するだけだ。
「私の前から消えてくれてありがとう」
見る見る内に消えていく男の背中へ向けて、イクスは冷酷とも取れる口調で礼の言葉を告げた。勿論、皮肉などの類ではない。真剣な気持ちである。
心から人間を怖がる彼女にとっては、あの様な男の叫び声は逃げたくなる程に怖い物なのだから。
そんな彼女の元へ、新たなる音が届いた。
「……! ……!!」
何かを話しながら、それらはイクスの足下に広がる町中を走っている。暗闇に姿を隠しているが、彼女には無意味な事で、その姿形をしっかりと捉える事が出来た。
「……おやおや、ふふ」
その存在の姿を見たイクスが嬉しそうな、楽しそうな顔をする。
それらは二足歩行で町中を走っているが、決して人間ではない。爬虫類と軟体動物と、既存のどんな生き物とも合致しない醜悪な姿をしている。どれほどおぞましい進化を繰り返せばこの様な恐ろしくも混沌とした形になるのか、想像すら及ばぬ邪悪な意志が関与しているとしか思えない悪意の塊の様な存在だ。
どんな生物も真似出来ない悪夢的なその形。それは間違いなく、この世界に於いて『怪物』という呼称を付けられた存在だった。
「奴……絶……逃……!」
「追い……国……報告……絶対に阻止……」
彼らは小さな声で話し合いながら何かを追いかける様に走っている。
その言葉は町中に溶けてしまう程度の声量だったが、イクスの耳には届く。本来、人間には理解できない言語だったのだが、彼女の耳はそれを理解出来る様になっているのだ。
しかし、彼らの声はとても発声器官から取り出した物とは思えない。まるで地獄に満ち溢れた苦痛の全てを具現化したかの如き、思わず鼓膜を破りたくなる物である。
とはいえ、イクスにはまるで関係の無い事だ。
「……」
イクスが黙り込み、耳を澄ませて言葉を取り込もうとする。
彼女の耳にも断片的にしか聞こえていないが、彼らがたった今逃げていった旅人らしき男を探している事は理解できた。
それがどの様な理由であるにせよ、捕まればあの男は生きてはいられまい。殺される前に自害する可能性も存在する。
「畜生……食……!」
「騎士……呼ば……い!」
それらの醜悪極まりない『怪物』達は、何やら悪態の様な物を吐いている。一度立ち止まって周囲の空気を読み取ろうとしているのか、鼻と思わしき部分が動くのが分かった。
だが、屋根の上に座る女の姿に異形の者達が気づく様子は無い。今も彼女は屋根から足を投げ出しているというのに、その形は捉えられる事すら無いのだ。それもまた、彼女の力による物である。
悪夢の様な者達が近くに居るというのに、彼女の心が恐怖に悲鳴を上げる事は無い。異形の怪物達に対しては欠片も恐ろしいと感じないのが彼女の凄まじく偏った精神の表れと言えるだろう。
「……」
むしろ彼女は旅人の行く先を教えたくなったが、自分が姿を現す事は悪手に思えた為、それを実行はしない。今この場で彼女という人間が彼らの前に表れるのは害にしかならない、そう感じられたのだ。
その為に、彼女はただ黙ってじっと彼らを見つめた。視界に入れる事すら躊躇する化け物共の姿がそこに在るが、イクスにとっての恐怖とは人間という存在だけである。
「行……! 逃が……な!」
「ああ! 絶対……食……」
そんなイクスが少しばかり観察していると、異形達は旅人を追いかけて何処かへ走り去っていった。
流石は怪物と言うべきか、身体能力も常人のそれを遙かに越える物だ。遙か先に逃げていった旅人も、運が悪ければ捕まってしまうだろう。
ただ、彼らは優れた能力にも関わらず最後までイクスの存在には気づかないままだった。だが、それは仕方の無い事だろう。
「がんばってねー、っと」
彼らの背中へと適当な励ましの声を向けて、イクスは屋根の上で立ち上がる。
異形の影は瞬く間に消え去り、辺りに広がるおぞましき空気だけがそれらが確かに実在した事を表していた。
「よしっ」
イクスは掛け声の様な物を発すると同時に、屋根から勢い良く飛び降りる。
通常なら骨折しかねない高さだが、彼女は着地の姿勢に入る事すらしないまま、当たり前の様に地面へ降り立った。
「ふむ……ああ、良い。素敵だ、やっぱり怪物は素晴らしい」
怪物達が蠢いていた場所に立つと、彼女は深呼吸をして嬉しそうな顔をする。非人間的で非生物的な邪悪さは彼女の心臓を破壊するかの様な負荷が存在するが、壊れたとしても彼女の能力であれば心臓を復活させる事が可能だ。
彼女は吐き気を覚える事すら無く、その場でのんびりとくつろいでいる。余りにもリラックスし過ぎて体が溶けてしまいそうだ。
流れる川を思わせる綺麗な黒髪は、淀んだ空気を物ともせずに風になびかれている。闇色の町中に黒く輝く髪は、何とも魅惑的な美しさを放っていた。
彼女の目に宿る物は常人には狂気とも取れる絶頂の如き色が宿っている。視界に入れただけで惹かれる物を感じ、何らかの感情を刺激される事だろう。
そんなイクスに、勢い良く話しかける声があった。
「もうっ! やぁっと見つけた!」
声変わりのまだ訪れていない、高めの声がその場に響く。怒りを覚えているのか、その声の調子はかなり高い物だった。
聞き覚えのある声音だ。そして、イクスはその声の主を知っている。
「バカバカ! 心配したんだよ! 夜は駄目って言ったのに!」
声の主である少年は勢い良くイクスの目の前まで走っていき、怒り狂った様子で声を荒げた。
余程焦って探していたのだろう、その肩は震えている。部屋にイクスが居ない事に対して相当に動揺を覚えたに違いない。
「君が殺されちゃったら、僕は、僕は……!!」
「……ああ、悪いね」
流石に悪いと思ったのか、イクスは素直に頭を下げた。
ただし、その目に宿るのは不満の色である。彼女としてはもっとこの町を感じていたかったのだ。
「だけど、まだもう少し……」
まだ此処に留まろうと口を開く。が、その前に少年が腕を掴んできた。
「もう……本当に心配だったんだから……戻ろうよ、ね?」
「……分かった、本当に悪かったよ」
妙に押しの強い少年の態度を受け、イクスは諦めて軽く息を吐いた。
「うん、じゃあ……帰ろっ!」
少年はその腕を掴んだまま引っ張る勢いで走っていく。彼女に文句を言わせる余裕を与えない動きで、殆ど疾走と呼ぶべき足運びだ。
やけに押しの強い少年の態度に、イクスは引っ張られていく。視界には少年の背中が存在していて、彼女を必死で家に連れ帰ろうとしている事が何とも分かりやすい。
イクスが夜の町へ出てしまった事を心から心配していたに違いない。
本当に、そうなんだろうか。
本当にそれは、単なる心配なんだろうか。
少年は安堵を浮かべ続け、その奥底に在る感情を窺う事を許さなかった。
+
イクスが少年の家に戻っていた頃、町を覆う森は決して静かとは言えない状態になっていた。
いや、物が動く音や人の気配は存在しない。そういう意味では素晴らしき静けさと呼べるだろう。だが、勘の良い物であれば気づく筈だ。この森の中に潜む、何人もの人影に。
「……慎重にやれ、夜に気づかれれば命取りになるぞ」
「悪いな、隠密行動は苦手なんだ」
「嘘吐け、お前がそういうの大得意なのは知ってるぞ」
それらの人影は木々の間を慎重に進みながら、何らかの会話を交わしている。気配も音も殺していながら、話し声は存在しているのだ。
木々に囲まれている為に月の光は一切この場へ届く事はなく、その人影の正体を見る事は出来ない。だが、もしも目の余程良い物がこの場に居たとすれば、彼らが軽装の騎士達だという事を理解するだろう。
重い鎧は森を行くには邪魔なのか、彼らは皆一様に簡単な防具を身に纏っている。しかし、それらは見かけを遙かに越える堅牢さを持っている様に思えた。
「なあ、木を切っていく訳には行かないか?」
「当たり前だ馬鹿、切り倒す音で『奴ら』に気づかれるだろう」
「間抜けか、お前は」
「……そこまで言わなくても良いだろ?」
「いいや、お前は馬鹿だからマジで言わないとな馬鹿」
「そうだぞ馬鹿」
「……本当に馬鹿になるぜ、仲間の姿と敵の姿の区別もできねえ馬鹿になるぜ、良いのかよ、駄目だって言ってくれよ」
他愛ない雑談を交わしつつも、彼らの足は当然の様に音を立てずに進んでいく。一体どんな技術だというのか、地面に転がる小枝を踏んだとしても枝が折れる音は無い。
周囲から馬鹿だと言われた騎士にしても、それは同じだ。むしろ他の者達よりも素早く、完璧に身を隠していると言える。
彼らの姿はこの暗闇の中で尚、誇り高く強く存在している。例え姿を隠し気配を断ち、音を消し去ったとしても彼らはその優秀な騎士としての自分を無くしてはいなかった。
「……これから行く町……シュ=オートスノムだったか? 『奴ら』、どれくらいの強さなんだ?」
その騎士達の一人が声を上げる。彼の疑問も当然の事で、この騎士達は夜中からこの森の中へひたすらに進軍しているのだ。いい加減、疑問の一つも浮かぶだろう。
他の者達も同じ疑問を抱いていたのか、彼らの半分近くが情報を持っているであろう仲間へ目を向けていた。
「噂程度の物で良ければ知ってるが……『奴ら』も色々と個体差があるらしい。一体で国を滅ぼす奴から、人一人殺すにも手間取る雑魚までな」
「そりゃまた、酷い差だな」
「人間だって大して変わらないだろ。俺達なら都市二つまでなら皆殺しに出来る。やらないけどな」
「違いない、俺なら大木を剣で吹き飛ばせるが、お前には無理だよな」
「何を言うか。俺は一人で万軍に匹敵すると言われた……」
「はいはい、冗談はやめろって」
何故か、彼らは自分達の強さについて話し始めていた。
彼らの会話はそのまま妙な方向へと進んでいく。だが、その声は不思議と遠くまで響く事は無い。まるで、音が届く範囲を限定して喋っているかの様だ。
その優れた隠密性は、少し離れた場所に居る動物達ですら何の反応もせずに騎士達を通り過ぎていく程である。
「やあやあ我こそは……!」
「いいや俺が一騎当千の男だ! お前等は頭を下げな、いやマジで、マジで下げてくれよ」
「そういやマジって言葉は『勇者』伝来だったか? 『勇者』と言えば最近あの化け物みたいな強さの奴を見かけねえな」
「確か……ナガレ? あいつは海を六分割したそうだぜ、気合いでな。人間じゃねえな、化け物どころか神か悪魔かって感じだよ」
「しかしながら一騎当万の俺の敵では無し! 何故なら俺が逃げるからな! ……マジおっかねえ」
「戦わないのかよ、逃げるのかよ、いや俺も逃げるけどな」
「最近現れた魔王も『勇者』らしいな。何か、『勇者』は害悪なのかよ、って思っちまいそうだ」
「おい、それ言ったら俺達の国の王だって『勇……」
「……」
「……『勇者』は良くも悪くもすげえ奴等って事で良いか?」
「そ、そうだよな! ああ、俺があんな事を言ったって法廷で証言しないでくれよ、首を飛ばされそうだぜ物理的に」
彼らの会話は斜め上どころか天空まで飛んでいってしまいそうな程にズレていた。まるで意味の有る会話をしておらず、全員が間抜け面を晒しているのだ。
こんな森の中であってもそんな馬鹿な事を話す余裕を持つ彼ら。しかし、それは空元気なのかもしれない。町から漏れ出す邪悪な空気は此処にまで及んでいて、確実に騎士達の心に入り込んでいるのだから。
とはいえ、馬鹿な会話は演技という訳でもなく、延々と続いていくだろう。
「お前達、そろそろ黙れ」
が、その騎士達の中央を行く男が小さく呟くと、それらの会話は一瞬で消え去った。
「あ、マジすいません」
「申し訳ない。ほら、お前等も頭下げろ」
「すいませんでしたぁ!」
騎士達が慌てて頭を下げて、真面目な表情に戻った。
彼らから敬意を向けられる中央の騎士は、どこか清涼な気配を纏っている。しかし顔には幾つかの出来たばかりの傷が有り、何らかの強力な攻撃を受けた事を表している様だ。
その男は騎士達の中で最も静かに、寡黙に進んでいく。腰に下げた剣が頼もしさを発揮していて、手に持っ短刀は鋭く光っている。
彼こそ、この騎士達の頂点に立つ隊長である。他の者達を遙かに凌駕する見事な気配の消し方で進んでいく為か、騎士達は彼が側に居る事を先程まで忘れていた程だ。
「やっぱ、隊長半端じゃないよな」
「まったくだ。隊長を吹っ飛ばしたっていうのはどんな化け物だよ」
自らの隊長の事を二人の騎士が小声で話していた。
この隊長である騎士は、昨日の昼間にこの森に居る者を攻撃し、返り討ちに遭ったらしいのだ。厳密には助けに入った『何か』に吹き飛ばされたとの事だが、どちらにせよこの隊長と呼ばれた騎士が何も出来ずに倒された事は確かだった。
彼らにとっては、殆ど信じられない事である。この隊長がどれほどの実力を持つかを知っているだけに、敗走する姿を想像する事すら困難なのだ。
「……確かに、この森から追い出されたのは確かだ」
配下の騎士達の囁きを聞き取った男は、悔しさの含まれた声を上げていた。
それだけでも、彼がどれほど自分の敗北を無念に感じているかを察する事が出来る。少なくとも、それを聞いた騎士達が思わず黙り込む程度には。
「……良いから、進むぞ」
そう呟いて進んでいく隊長の背中は、部下達の目にも若干弱々しく感じられた。
「……」
その心の中に有るのは、自分が攻撃を受けた時に見た虹色の光だった。あの、世界を揺るがさんばかりの凶悪かつ享楽的な力は一体何だったのか。そんな疑問ばかりが彼の中で働いている。
虹色に対して妙に嫌な予感を覚えて、男は内心だけで眉を顰める。表情に出せば部下に悟られて、不安にさせる恐れがある為だ。
「そういや、どこかの町で最近、誘拐がマジで増えてるらしくて……」
「黙ってろって、隊長が見てるぞ」
「……」
「マジすいません、殺さないでください」
話を始めようとする部下を一睨みしつつも、彼は頭の中で考える。
正直な所を言えば、この隊長と呼ばれた騎士は帰りたい気分で一杯になっていた。勘の鋭い彼は森の奥から流れる邪悪な気配を他の誰よりも強く感じていて、吐き気すら覚えているのだ。
それでも逃げないのは、部下を残しておく訳には行かないというプライドが原因だろう。
「あの……隊長、町の連中はどうします?」
己の隊長の様子がおかしい事に気づきながらも、騎士の一人が尋ねる。心配するよりも、仕事の話をした方が元気になるという期待があった。
彼らの向かう先に存在する町へ攻撃を仕掛ける。それが今回の騎士達が任された任務だ。
言葉だけであれば凄惨な虐殺を想像する所かもしれないが、その町がどんな恐怖を飲み干しているかは彼らも当然の様に知っていた。この森の周囲に住む者であれば、半ば常識なのだ。
「……そう、だな」
騎士の期待は正しかったらしい。男は部下の言葉に一度だけ目を泳がせたが、次の瞬間には強烈な覇気と共に、決意と覚悟の感じられる声を吐き出していた。
「……全員、斬れ」
「なっ……でも、俺達の任務は」
「ああ、町に太古から潜む怪物への攻撃だ。だが、あんな連中を生かしておく訳にはいかん」
決意を秘めた隊長の言葉を聞いて、部下達が僅かにどよめいた。
敵であっても弱者には甘いのが彼らの隊長である。しかしながら、今の発言にはそんな雰囲気も、迷いすらも全く存在しなかったのだ。
「しかし、それは……」
「『奴ら』を一体でも残しておけば、必ずやこの世界を狂わせる。例えその中に本当の人間が居たとしても……だ」
覚悟と決意が見て取れる顔で、この男は部下の顔を見る。この決定をする時には悩んだのかもしれないが、躊躇出来るタイミングは既に過ぎてしまったのだろう。
「成る程、了解……」
それを察した騎士は静かに頷いて、自分の持つ剣へ無意識に手を置く。
心の準備などせずとも、彼らは人型の物を斬る事が出来る。相手が現れた瞬間には切りつけられる為、事前に剣を構える必要も無い。
しかし、彼らは剣の鞘を握り締めて、何時でも抜ける様に準備をしていた。自らの隊長が深刻そうな表情になっている事で、彼らの中でも警戒心という物が強くなっているのだ。
「危険な奴が居るかもしれん。昼でも警戒を怠るな」
そんな部下達の変化に、この男は当然気づいている。だが、彼の神経は森の中に今も存在するかもしれない『虹』へ注がれていて、変化に言及する余裕は無かった。
森は今も静かである。だが、その静けさの奥に潜む何かが今にも牙を晒け出すのではないかという不安は常に付き纏っているのだ。
「……」
隊長と呼ばれた男は無意識の内に剣を抜いていた。目指す先にはまだ少し距離が有ると分かっていても、本能は強烈な警告を発している。
その正体が『虹色』なのか、それともこれから滅ぼす町に潜む影なのかは分からない。どちらにせよ、この男に出来るには抵抗し、戦う事だけだ。
その感情を受け取って、部下の騎士達も動き出す。今度はふざけた事を話し出す様子は無く、皆が皆一様に隊長への敬意を表した態度で付き従ってくる。
良い部下達だ。そんな気持ちを抱いた男は、口元に努めて笑みを作り上げた。恐怖を煽らない様に、または自分が恐怖に飲まれない様に、と。
「行くぞ、『奴ら』が本性を現すのは夜だけだと聞く。どうあってでも明日の陽が沈む前に決着を付けるのだ。朝になれば、即座に襲撃を仕掛けるぞ」
勇ましく剣を握り締め、彼らは進んでいく。
彼らが行く先にある『シュ=オートスノム』には、まだ少々の距離があった。
切る所が見つからなかったので、今回は長いです。




