2部最終話 人生は楽しいのが一番なのだと邪神は悟った
見事に地上まで戻ったナガレは、一人で歩いていた。
堂々とした足で進む姿には何の弱みも感じられない。完全なる強者の圧倒的な雰囲気に呑み込まれる様だ。
側を歩む動物達はその気配を感じただけで逃げ去り、震え上がり、消えていく。精霊達も決して例外ではない。
そう、今も昔も彼の隣には誰もいない。強烈な力を感じさせる背中が何とも頼もしく、凄絶だ。
武器の一つすらも持っていないが、彼にとっては関係無い。ただ腕を振るだけでどの様な怪物達であっても瞬時に滅ぼされてしまうだろう。
「……ああ」
そんな男の口から、小さな声が漏れた。何事かを言おうと口を何度か動かして、少しだけ唸る。
やがて言葉にする事を決めたのか、彼はぽつり、と呟いた。
「……あれは、邪神じゃない」
口にするまでは迷いが感じられていた。が、その言葉の中には全く疑いの念を抱いていないのが良く分かる。
「邪神の配下だ、見れば何となく分かる。奴は最初から騙されてたんだよ、踊らされたのさ」
ただ歩いて行きながらも、その声は止まらない。
端からは独り言の様に聞こえるだろう。だが、男にとってはどこかの誰かに尋ねているかの様に虚空へ向かって話しかけていた。
その相手となる存在の姿は見えないが。ナガレには理解出来ているのだろう。彼はゆっくりと息を吸い、不敵な笑みでその存在を呼んだ。
「違うのかよ、邪神さんよ」
返事は、無い。彼の声は草木の間を通って揺らすだけで、誰の耳にも届いていない、筈だったのだ。
相手が言葉を返しては来ない事を理解して、ナガレは全身から凄まじく凶悪な威圧感を放ち、『世界』を脅しかける様な力を放った。
「最初から分かってた訳じゃないが……俺の不意を打てる奴が、訓練を受けた『ただのガキ』には思えなくてな、そうだろう?」
――私ね……邪神なの
概念的で、とても形容出来ない闇の様な何かがナガレの周囲に広がっていく。
暗黒の底から現れる、などという次元の話ではない。この世界から無尽蔵に溢れる全ての邪悪な力を束ねたかの様な物だ。
「くっ、くくく……くひひひっ」
闇の中から声が響く。それはまさしく嘲笑であった。あらゆる全てに向けられたその感情が余りにも印象的だ。
その闇は、少しずつ何かを形作っていった。人型の何か、屈強そうな男……いや、小さな少女だ。
「よう、ガキ。邪神なのにガキかよ」
ナガレが軽く手を挙げて、自分を此処へ連れ込んだ少女へと挨拶の言葉を向ける。
すると、少女は愛らしい顔を異形へと歪め、おぞましい顔で一礼を行う。敬意など欠片も無い、悪意の塊が無理矢理肉体を操っている様な不安定感があった。
「この外見は便利だ。ガキの方が人は操りやすい」
「酷い性格だな。信者の気持ちまで踏み潰すかよ」
間違いなくあの鳥の怪物よりも凶悪で、間違いなく邪神だと断定出来る存在だった。
だが、そんな邪悪かつ強大な存在に対してナガレは平気な顔で呆れて見せる。その扱い方は少女に対するそれと大差無い物だ。
邪神と呼ばれた少女、いや少女の形をした邪神もそんな扱いを受けるとは思わなかったのか、その大きく円らな瞳を見開いて、だが即座に笑い声を上げた。
「っふ、くく……私を信仰し、私の寵愛を受けようと努力する人間の姿は、それが踏み潰される姿は……ああ、何とも滑稽で、楽しいぃぃっ……!」
邪悪極まる声のまま、少女は紅潮した顔で絶頂に身を震わせる。あの信徒の女と同じ様な顔をしているのは、やはりこの存在が邪神として女を導いたからなのだろう。
勿論、導いた先が祝福ではない事は明らかだった。そんな邪神をナガレが見つめていると、彼女は顔を上げて男へ感謝の言葉を告げた。
「君は、本当によくやってくれた! アレは私が選んだ中でも最高の部類に入る神官でね、私の性質の全てを信仰していた素晴らしい信徒だよ。娘になってあげたいくらいにね! ……私の母であり父である物はたった一つだが」
「ああ、その辺は嘘ではないんだな」
「うん!」
邪神の声が一瞬だけ少女の物に戻った。だが、すぐに雰囲気は元の邪悪な存在へと戻る。
「何年も何年も、私への信仰を捧げようと生きてきたのだ。だからこそ、見返りは絶望であるべきだろう? 何せ、私の信徒なのだから」
最初からその為に信徒にしたのではないか。そんな風にすら感じてしまう言葉だ。
とはいえ、ナガレには関係の無い話である。ただ隣で悦に浸る邪神に向かって、彼は呆れ混じりに尋ねた。
「その為に、俺を呼んだ訳だな」
「ああ、その通り! だが、正体を見抜かれてしまうとは。残念極まるよ、君は自分の弱さに絶望していた、自分を強いと言う少女を守るという思いで立ち上がってくれさえすれば、それを裏切った時は面白かっただろうに」
「だろうな、だが、俺にそんな甲斐性は無い」
とても残念そうな少女の言葉を適当に弾き、ナガレが遠くを見る様な目をした。隣に立つ者の邪悪さはまさしく世界と同化した巨大さだが、この世界での強者たる彼にとっては恐れる程の物でもない。
そんな彼の目が捉えているのは、この邪神の先に居る存在だった。
「お前に良く似た奴を、俺は知っている。ああ、お前は凄いさ、確かに邪神と呼ばれるのも納得だ」
目を丸くした邪神が、興味深げにナガレの顔を覗き込む。
それには一切答えず、彼は少女の形をした存在に向かって片腕を向けた。
「……お前は嘲笑するだけだ。笑わない『何も無い怪物』に比べれば、全てを笑う『有なる怪物』に比べれば、ただ嘲っているだけだろう、がっ!」
その腕が、少女の目の前で縦に大きく振られる。
それは少女の体には一切触れなかったが、凄まじい衝撃はその体に叩きつけられ、その身は簡単に真っ二つとなった。
「ほほう、衝撃だけで肉の身が斬られるか。剣が必要無いというのも納得だ。なるほど成る程、私の見た通り、君は強い」
縦に両断された少女だったが、その顔にあるのは嘲笑である。断面は黒く塗り潰されたかの様で、血の一滴すらも落ちてこない。
邪神は死なないのだ。それ故の嘲りである。
「私が、この程度で死ぬと思うのかな?」
「思ってないさ、ほれ、後ろを見ろよ」
だが、そんな事はナガレも承知の上だった。彼は静かに少女の背後を指さして、面白がる様な笑みを浮かべている。
少女の形をした邪神は、肉体とは違う視点で背後を見た。ダンジョンは山中に作られていた。だからこそ、そこに有るのは山である。
だが、その山は両断されていた。完全に、呆気なく、完璧に両断されていたのだ。
「……わお」
「あー……やっぱり長い事『本気』はやってないからな、中のダンジョンだけを潰すつもりだったんだが、ふん」
ナガレが肩を竦めた。彼の一撃はダンジョンの内部を破壊する筈だったのだが、手元が狂ったらしい。
何の事も無く山を破壊した男へ、邪神が微妙な目を向ける。勿論この邪神も山一つ如きを破壊するくらいの事は簡単だが、それを成したのは単なる人間なのだ。
目を丸くしながらも、邪神は男へ嘲笑を向けた。
「……あれは、本当に私を封じた場だ。これが山ごと完全に破壊されたとなれば、私は全力を使う事が出来る」
「だからどうした、これは俺の復活祝いだ」
両断された山の中から闇色の力が邪神の元へ飛んでくる。それは山中に封じられていた力が全て戻っているという確固たる証拠だ。
が、ナガレは鼻で笑っていた。邪神に力が戻って世界が滅ぼうが、思う存分に生きる事が出来るなら、例え地獄であっても問題は無いのだから。
「それに……力が有ろうが無かろうか、お前は誰かの背中をそっと押すだけだ。そうだろう?」
そう、『誰か』の様に。
笑い続ける男は、言及せずとも目でそう告げた。
それを聞いた邪神は、少女の姿のままで数秒程黙り込んだ。何かを考えているのか、それとも考えていないのか。
どちらにせよ、邪神は数秒後には大きく笑い声を上げていた。
「……く、くくく!! ああ、なんて面白いのだろうなお前は! 最高だ、楽しい!」
両断された少女という姿のまま、邪神は心から愉快そうに笑い続ける。発声器官など持たないが、そんな事は関係ない。空間を自分の物の様に振るわせて、笑い声を上げている。
何がその存在を笑わせているのだろうか。この邪悪さの溢れる空気の中では冷静に考える力など有るまい。
とんでもない声で邪神は笑い、笑い、そして笑った。呆れた顔をして去っていくナガレの姿など、邪神は既に見ていなかった。
「ああ、お母さん! 貴方の言う通りだ! 生とはっ、楽しいっ!!」
邪神は、天へ届けとばかりに大声を上げる。その姿は、親に新しい発見を自慢する幼児の様だった。
(『邪神の異形な祝福』終わり 『那由他の果てに無価値を求めて』に続く)
以上です。
5話のタイトル『馬頭の蝙蝠羽』、その意味は……ジャージーデビ、ではなくて、分かる人には分かるし、あれが『邪神』……ではないのは分かるでしょうね。
タイトルの元ネタは
『物語に終わりがあってはならないことをキャロルは悟った』です。
さて、2部は色々あってこんな短さですが、次の『シュ=オートスノムを覆う影』は140kbくらいはあるので、これの2倍近い文章量です。
ちなみに今は最終章の最後辺りを書いているのです。
さて、次回更新は『間の章』を入れて1話に入ります。




