1.高椿邸の華やかな宴
from "HP; The Road of Wolves"
登場人物
高椿 精司 子爵
東野 葵子 小間使い
梅小路 琴音 令嬢
柳原 志乃 七竈亭女将
猫谷 庄一郎 行商人
土方 晃暉 陸軍中尉
菊川 六郎 蝋燭職人
飯村 和弥 書生
蕨崎 千恵子 子守娘
望月 浩然 小説家
目次
【第一部】
1.高椿邸の華やかな宴
2.世にも稀なる奇病
3.煩雑極まらぬ村の掟
4.偽善者同士の腹の探り合い(初日、日中)
5.大蛇の襖
【第二部】
6.恋に焦がれる人物(初日、日中)
7.避けては通れぬ真っ向勝負(初日、日中)
8.今宵の生贄はどなたになさいますか?(初日、日中)
9.闇夜に徘徊せし魔物たち(初日、夜)
10.抵抗を企てる能力者たち(二日目、日中)
11.青蛙の襖
【第三部】
12.生き残るための駆け引き(二日目、日中)
13.牙を剥く吸血鬼(二日目、夜)
14.全てが順調に……? (三日目、日中)
15.蛞蝓の襖
【第四部】
16.取り返しのつかない大失態(三日目、日中)
17.ついに土壇場に追い込まれたか?(三日目、日中)
18.水鳥の羽音(四日目、日中)
19.決着(四日目、夕刻)
20.エピローグ
本編は、多数の人物が登場し、それぞれの考えに従って独自の行動をとってゆきます。彼らがする発言や行動の順番などのひとつひとつが、読者が真相にたどり着くための貴重な手掛かりとなっています。しかし、その情報は複雑かつ膨大なものであり、とても頭で覚えきれるものにはなっていません。
そこで、読者の皆さんには、ノートなどのメモ用紙をご用意いただき、気が付かれたことを逐次書き留めながら、本編を、地面をはうがごとく、ゆっくりと読み進めていただくことを推奨いたします。(作者)
「えっ、鵺でございますか?」
瞬きする間も介すことなく、事の真意を私は問い質していた。
「そうだ、なにか不満でもあるのか?」と、我がご主人高椿精司子爵は、肘掛け椅子に腰をかけたまま、きょとんとされている。私の発した黄色い声が、よほど意外であったのだろう。
「いえ、滅相もございません……」
ひとまずここは引き下がっておくしかない。いくら説明を加えたところで、この件に関する私の率直な思いがご主人さまに伝わることはないのだから。
高椿家では、鶯、鷺、鵺の三種の衣が、下女のために用意されており、普段の正装は鶯、特別な来客があれば鷺、というふうに使い分けられている。しかし、ここに仕えて一年あまりになる私ですら、鵺の衣は未だかつて身に着けたことはなかった。
たかが使用人ごときに選択の余地などあろうはずもない、といってしまえばそれまでだが、この鵺と呼ばれる衣は、明らかにご主人さまの個人的な趣向だけで仕立て上げられた、実用性からはほど遠くかけ離れた無用の長物なのだ。
それは、上下が一体となった黒い西洋風の袴で、胸元が不必要に大きく開き、肌にまとった絹の下着があらわに露出する構造になっている。本来、汚れを防ぐ目的で着けるはずの純白の前掛けは、どこから見ても、煌びやかに飾られた装飾品と化してしまっていた。いかにも悪趣味この上ないフリルが付いた袖に、強制的に巻かされる黒い蝶ネクタイ。まるで意味が分からない。想像するだけで鳥肌がたってくる。
しかし、私がとりわけ我慢ならないのが、前頭部に装着するよう命じられた髪留めだ。そこには、猫の耳を模った怪しげな突起物が二つ付いている。少なくとも正常な感性の持ち主に、およそ着用できる代物ではないことに、間違いはなかった。
「それから、客人がやって来る前に、シャワーを浴びておきなさい。お前は、もともと綿雪のような美しい肌をしてはいるが、今日はとりわけ大切な宴なのだから、化粧も念を入れておくようにな」とご主人さまはお一人で勝手にご満悦であった。
それにしても、なにをいわんとされたのであろう? ときおりご主人さまには、これから砂漠へ行って釣りをしてくるよ、とでもいいたげな意味不明のご発言が飛び出す癖がおありになる。
時は昭和一三年の八月一四日。川中島の戦いで有名な千曲川の上流に位置する長野県南佐久郡鬼夜叉村――。かつての小諸城主大道寺政繁の血筋を引き継いだ由緒ある豪族の末裔高椿精司子爵のお屋敷では、盆の迎え火を終えた翌日の晩に、毎年恒例となった夜宴が盛大に催される。村の有力者たちを集めて、これ見よがしに豪勢な食事が振る舞われるのだ。
手っ取り早くいえば、この宴は、村の二大勢力である村長梅小路家と高椿子爵家との見栄の張り合いから生じた荒唐無稽な行事に過ぎない。盆の忙しいさ中に呼び出される村人からしてみれば、はなはだ迷惑な集いであることに全く疑問の余地はないのだが、そこで振る舞われる料理と美酒のおかげか、はたまた高椿家の絶大な財力に気圧されているせいなのか、これまでに不平御託を並べた者は現われていない。
本日の宴に招待された村人は、村長の梅小路権蔵と、その一人娘梅小路琴音、蝋燭作り名人の菊川六郎氏、陸軍のエリート将校である土方晃暉中尉に、村唯一の宿屋七竈亭を営む女将柳原志乃、そして最近になってようやく売れはじめてきた作家の望月浩然氏、以上の合わせて六人であった。
ご主人さまから命じられた身づくろいをようやく終えた頃に、萌黄色の着物を纏った七竈亭の女将が、二人の見知らぬ男性を引き連れて姿をあらわした。柳原志乃は、年は四十を超えているはずだが、細身の美しい容姿と子供っぽい性格のため、実年齢をいささかも感じさせない。三年前に夫を病で失って、その後は一人で宿の切り盛りをしている。見た目よりもずっと芯がしっかりとした女性だ。連れの二人は、一人が大風呂敷を背負った軽薄そうな中年男、そしてもう一人は細面の美青年であった。
「あらあら、子爵さま。この度は華やかな夜宴にお招きいただき、ありがとうございます。あっ、ここにいる若い男の子だけど、あたしの甥に当たる飯村和弥さんです。姉の忘れ形見なのよ」
紹介された青年は黙ったまま軽く会釈をした。
「えっ、ということは、綾乃さんのご子息ですか。なるほど、綾乃さんの美しい面影を見事に受け継いでいますねえ」と凛々しい燕尾服に身を包んだご主人さまが、ひたすら感心をされている。ちなみに綾乃さんとは、ご主人さまにとって幼い時代のあこがれの女性であったらしい。
「ふふふ、そうでしょう。それから、こちらは行商人の猫谷庄一郎さん。うちのお得意さんなんだけど、今日の子爵さまの宴のお話をしたら、どうしても連れてけと、あんまりしつこいんで……。ご迷惑をおかけしますけど、本当にごめんなさいね」
すると、紹介されたばかりの猫谷が、両手を擦り合わせてのこのこ前に出てきた。
「ということで、お初にお目にかかります。俺さまは――、いや、手前は、越中、飛騨、信濃の三国を中心に全国都々浦々を行脚する、通称さすらいの行商人――猫谷庄一郎と申します。
つくば山麓に生息する幻の四六の蝦蟇の脂汗を煮詰めた万能膏薬をはじめ、どんな難病奇病にもたちどころに効果を発する妙薬を、お手ごろなお値段でご調達いたします。
なにかお困りのことがございましたら、いつでもどこでもお声をかけてくださいませ。今後とも、どうぞお引き立てのほど……、はい、よろしくお願い申しあげやす――」
猫谷が長々と口上を述べている途中、背後より軍服姿の大男が飛び込んできた。彼は松本駐屯地所属のエリート将校――土方晃暉中尉である。
年の頃は三十路を超えている感じで、肩の筋肉が異様に盛り上がっており、厚手の軍服を介しても、その形状がわかるほどであった。右の胸には二つの勲章が燦然と輝いている。
「本日は、このような素晴らしい宴席に呼ばれ、光栄の極みである」
急いでいたのかおおらかな性格だったせいなのかはよくわからないが、口上を述べていた猫谷に気づかぬまま、傍を通り抜けようとした将校の強靭な身体は、ほんの一瞬だが猫谷につっと触れてしまった。かと思うと次の瞬間、小柄な猫谷の身体は、硝子戸にへばりついたヤモリのような恰好で、宙を舞っていた。
「痛ててっ……。なんてえ乱暴な野郎だ!」
地面にいやというほど打ち付けた腰のまわりを、猫谷が痛そうに押さえている。
「おお、これは誠に申し訳ない」と将校は振り返って、とりあえずは詫びを入れたものの、本心は黄金虫でもうっかり踏み潰したくらいにしか罪悪感を抱いていないようであった。
正面の玄関前に黒い外国製の自家用乗用車が急停車した。後部座席からは、杖をついて苦しげに咳き込む老人と、茜色の着物を纏った美しい娘が降りて来た。娘は、老人の丸まった背中を心配そうに擦っている。
「おやおや、これは梅小路村長さん。わざわざ、我が慎ましやかな宴の席に、足をお運びいただき、実に恐縮です。琴音お嬢さまもよくいらっしゃいました。さあ、歓迎いたしますよ。どうぞ楽しんでいってください」
ご主人さまは、具合がことのほか悪そうな村長の姿を見て、むしろ嬉しくてたまらないといったご様子だった。
「まあまあ、子爵さま。本日はこのような素敵なパーティーにお招きいただき、嬉しゅうございます。この通り、父は体調が少しだけよろしくないんですけど、今宵の宴はほんに楽しみにしてましたんよ。だから、担当医には内緒で、ここに来ましたの」と令嬢は女学生らしい振る舞いでぺこりと頭を下げた。村長の方はというと、招待主を目の当たりにしても、口も訊けない状態であった。もっとも、体調がすぐれていても、村長の方から頭を下げることは決してないはずだが……。
それにしても、梅小路村長の老け込み様は、度が過ぎている。あんなに弱々しい老人であっただろうか? 私は、昨年の宴の席にて、ご主人さまをやり込めてほくそ笑んでいる権蔵翁のかつての勇姿を思い起こしていた。
宴が開始されるぎりぎりの時刻になって、二人の男性が姿をあらわした。一人は和服姿のでっぷりとした中年で、暑さが我慢できないのか、せわしげに扇子でパタパタと仰いでいた。もう一人は、逆に、背広をきちんと着こなしてじっと立っている。見ているだけでこちらが暑くなってしまいそうだ。さらに気味が悪いことに、背広男は包帯で顔面をぐるぐる巻きに覆い隠していたのだ。
「いやはや、どうにか間に合いましたかな? わたしはつたない作家を生業とする望月浩然です。どうぞ、よろしく」と、はじめに和服男が自己紹介をした。
「職人の菊川です。よろしく」
包帯男は、蝋燭作りの名人菊川六郎氏であった。彼が作る赤蝋燭は、ことのほか評判が高く、遠く美濃や尾張の国からも注文があるほどだ。ただ噂では、無愛想であまり人との会話を好まない人物と聞いている。
招待客が全員屋敷に入った途端、空には降って湧いたようなぶ厚い暗雲が立ち込め、やがて鋭い閃光とともに大地をひっくり返すような雷鳴が轟き、滝のような豪雨が降り出した。あまりの天候の豹変ぶりに、私はただ圧倒されていた。
「こら! ここは物乞いが入っていい場所じゃないぞ。とっとと失せろ!」
突然、一人の使用人の怒号が館内に響きわたった。驚いて声のした方を見ると、みすぼらしい姿をした少女が、ずぶ濡れのまま呆然と立ち尽くしていた。私はすぐに駆けつけ、手拭いで髪を拭いてやった。
「まだ幼い子供でございます。どうかお許しくださいませ」と少女を抱きかかえながら、私は平に謝った。
「ふん、どうせ裏に捨てた残飯を漁っていたに違いねえ」と使用人もすんなりとは引き下がらない。やがて、騒動に気づいたご主人さまが近寄ってきた。
「葵子のいう通りだ。こんなひどい嵐の中に発哺り出すわけにもいくまい。着替えを用意して、食事を取らせてやりなさい」
さすがは寛大なお心を持つ我が主さま……。
「どうやら、ご主人さまのお許しが出たみたいよ。よかったね」と私がいうと、
「うん、お姉ちゃんって、いい人ね。それに、とってもいい匂いがするわ。清潔そうな匂い――」と、どろまみれの顔をした少女が白い歯を見せた。
匂い……か、変なことをいう娘だ。
とにかく、私は少女をシャワー室に連れて行き、温かい着物と食事を与えてやった。
「お腹空いたでしょう。遠慮なく食べていいのよ」
「ありがとう。あたい、千恵子っていうの」
「へえ、千恵子ちゃんね。お家はどこなの?」
「家なんてないわ。子守りしてお駄賃もらって暮らしているのよ」
どうやら相当に気の毒な境遇の娘ようだ。鬼夜叉村の住民は、梅小路家と高椿家を除けば、裕福な家庭はないのが現実だし、そこでもらえる子守りの駄賃なんて、たかが知れている。
外の嵐は、増々酷くなっていく。そんな心配を露ほども感じていないのか、招待客たちは銘々が楽しそうに話に興じて、宴は滞りなく進行していった。