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残酷な表現が少しあります。
次の夜、念のため一美に電話を掛けてから宮下は仕事帰りに薬を持って一美のマンションへ向かったが、昨夜立ち去った男について考えていた為に足取りは重かった。
あの後、自分が帰った後にあの男は戻って来たのか?病気の妻の元には勿論、普通なら戻りそうなものだが、一時間近く居たが戻って来なかったのは、自分が居たからなのか?
答えが出る訳でも無い思考をしているうちに、一美のマンションに着いた。
ドアを開けた一美は昨夜よりは顔色が良かったが、訊けば何も食べていなかった。昨夜の冷蔵庫の状態では、買い物に出なくては食べる物が無かった、だが買に行けなかったってところだろう。
宮下は、ここへ来る間に考えていた最悪の答えに愕然として、一美夫婦の関係を疑わずには居られなかった。独身の自分には理解出来ないが、病気の妻を置き去りにした男と家族だと言えるのだろうか、長く夫婦をしている間には、そうせざる負えない場合もあるものなのかと思うしかなかった。
「俺、何か買って来るけど、食べたい物あるか?食欲はどうだ?」
「..ごめん、じゃあ甘えさせて貰おうかな。夫はまだ出張から帰ってなくて、1人だとつい作らなくなって冷蔵庫に何も無いのよ」
笑顔でお願いポーズをとる
少し説明染みた台詞に聞こえなくもないな、じゃあ昨夜の男は旦那じゃなかったのか、と思ったが結局、宮下は薬と差入れを渡し、この夜も一美に昨夜見た事を訊けずに帰って行った。
一美も、「コーヒーでも飲んでいかない?」と言いたい処だったが、昨夜の夫の言動が引っかかていて、宮下と二人きりの場に現れでもしたら..或は、宮下が出入りするのを外で見られていたら..そう考えると、差入れまでしてくれたのに早々に帰すしかなかった。
翌日には回復し出勤したが、ナースステーションで記録を書いていても申し送り中でも、ついスタッフの顔を一人づつ探るように睨んでいた。
この中に、私の今月のシフト表を夫に見せた人物が居る。
先ずは、夫と面識のある人物だ、これは限られていて、美樹、朋子、香しかいないはず。でも、この三人に夫との浮気の疑惑は考えたくない。じゃあ、全く予想外の人?では、間接的にでも私の勤務予定を入手出来る人が相手なのだろうか。誰?誰、誰?
浮気。浮気?浮気を前提に考えてた?私。
浮気だとは限らないのかも。私の今月のシフトを知っているからと言って、教えた人物と浮気してるとは限らない。たまたま、教えて貰っただけかもしれないのよね。あの人が家を出て行く前は、お互い仕事の時間が合わなくて擦違いが多かったけど、他所に女が居る気配は無かったし感じ取ることも疑う要素も無かったのだから、家を出た理由も私の勤務予定を教えた人も浮気じゃない!
きっと違う。たぶん違う。...違って欲しい。違うって誰か言ってぇ..。
もう泣きたいよぉ私。
何時の間にか目の前に樫尾母さんがニコニコしながら座って私を見ていた。
「どうしたの?さっきから難しい顔していたかと思ったら、泣きそうな顔になったり、最後はガックリと項垂れたり。何か、悩みでもありますか?無料で聴いてあげますわよぉ」
「..いっ?!」
私ったら、顔に出てた?
適当に言い訳して樫尾母さんから逃げる、仕事中は気を付けなきゃ。
この日の帰りは、夜勤を変わってくれた為に激務をさせてしまった香に夕食を御馳走する約束になっていた。
「ホントに気にしないで下さいね。私が病気になった時には今度は一美先輩に代わって貰いますから。今回の事はホントに気を使わないで下さいね!あ、ワイン追加オーダーしていいですか?」
「何でも好きな物頼んで頂戴。」
香は少し調子の良いところもある子だが、年末年始や世間の連休等には子供の居るスタッフや、地方出身のスタッフに休みを取らせて帰省させてあげ自分は勤務をするといった気を使う子なのだと、一美は知っていた。だから、あの夜勤も気持ちよく変わってくれたのだ。
「ありがとうね、香」
「ん?ふふふ」香は笑顔でワインを飲でいる。
「ところで、美樹は何で烏龍茶なの?飲まないの?」
先程から楽しそうにしている美樹が烏龍茶しか飲んでいない
「あ..バレちゃった。私バイクなの」
「「 バイク!? 」」
「僕この前見せてもらいましたよ。真赤なピカピカのスクーターでした。バイクは詳しくは無いけどカッコ良かったなぁ」
「何時の間にバイク買ってたの?何時から乗ってるの?ってか、免許持ってたんだ自動二輪の」
看護学生時代からの長い付き合いなのに、美樹が救急外来に異動になってから会う機会も減ってた所為なのか、一美は全く知らなかった。
「買ったのは先月、免許は看護師の国試終わった直後の取ってたの!」
美樹は自慢げに右の親指を立てて見せた。
「「 おお..!カッコいい 」」 香&宮下が拍手と羨望向ける。
一美は何故か複雑な気持ちになり、真顔で美樹に向かい
「何で突然バイク買っちゃったの?」
香と宮下に笑顔で答えていた美樹が、振り返り
「..え?!何?一美?」
三人で談笑してて一美の話なんて聞いていなかった
「どう云った心境の変化でバイクなの?」
今度は少し怒って見せながら一美は改めて訊き直した。救急外来で沢山の交通事故の患者さんを見てる美樹がバイクとは、どう言った心境なのか!?
「バイク買った理由?ああ..それね。聞きたい?」」
宮下が香と先日見た美樹のバイクの格好良さや乗ってる姿に憧れる等とアレコレ楽しげに話してる隣で、美樹は静かに語りだした。
「少し、真面目な話になるけどいい?」
「聴きたい」
「実はさぁ…救急外来に移動になって……なかなか慣れなくてさあ。今でもまだなんだけどね。」美樹は手にした烏龍茶が半分減ったグラスに話しかける様に語り,それを一美は黙って聞いていた。
「毎日が戦場の様にバタバタと忙しくて。初めのうちは目を背けたくなるなる様な場面ばかりで………上手く身体が動かなくて、オロオロしたりしていて...」
美樹はグラスの外側に付いている水滴で遊んでいた手を止め、言葉に詰まった。
「…凄い…場面って?」
美樹の表情を読むように、落ち着いた声で促した。
ゆっくりと長く息を吐き、視線をグラスから自分の手に移して
「交通事故で運転してたお母さんが意識がない状態で搬入されて…軽傷だった中学生の娘さんが泣き叫んでたり。彼女と喧嘩して4階から飛び降りた彼氏が運ばれて来て、彼女は呆然としてるし。毎日…毎日…胸が締め付けられる出来事ばかりで…」
何時の間にか宮下と香も聴いていた。
「…そうだな、それまでの病棟勤務とはかなり違うよな…」
「うううっ、ダメ私にはあそこは無理!移動するとしても救外は無理!」
三人とも、救急外来の現場の状況や惨状は知っていたし、話してる画面も容易に想像出来たので、美樹の置かれた現状が如何に苦しいか理解出来ていた。
「なんで、それでバイクなの?」
「え?なんで?って。何となくゥ…かな?」
今度は少し笑顔で答えた。
「何となく?!」
真剣に聴いていた一美は、美樹の返答に少しだけ呆れもしたが『納得出来る答えを話しなさいよ!!』と目で怒った。
一美の表情を察して慌てた美樹は先を続けた
「え、ああ。 その意識のないお母さんの横で一人で泣いていた娘さんの傍に居てあげたかった、せめて家族が駆け付けるまで居てあげたかったのに、次の救急車が来て..カーテンで仕切った空間にお母さんと二人にしちゃったの、家族をケアする専門の先生が来るまでの短時間だったんだけどね。自分が冷たいい看護師になった気がして辛かった..」
「中学生にはきついね。でも、次の救急車来ちゃったんだし、ケア専門医だって直ぐに来くのだから、ねぇ」
香が顔を歪めながらも一応励ましてる。
「勤務が終わって家に帰っても、取り乱した家族の泣き叫ぶ声とかが耳から離れなくて、家にそのまま何かを持って帰ってるみたいで、自分の部屋に居るのに勤務が終わった解放感がないの。」
「分かるな..私もナースコールの幻聴が聞こえるもん」
香は頷くが、一美は最近は夫に振り回されていて家に帰ったら仕事なんてスッキリ忘れてるので無言するしかなかった。
「色々やったのよ、帰りにジムよって限界まで身体苛めたり、コーヒーショップ寄って気分を切り替えたり...。で!ある時バイク屋さんのウィンドウで一目惚れして...これに乗ったらエンジンの振動や冷たい風が気持ち良いだろうな..って気付いたら買ってたの」
「ステキ!一目惚れ?!」
「俺も自動二輪免許欲しい!」
「バカじゃないの!?危ないじゃない」
「気持ち良いよ。バイクで家まで帰ると途中で身体に残った仕事のモヤモヤが、風で何処かに飛んでちゃうの。スッキリよ、跡形もなくスッキリ!だから見逃して、ね一美。そんな怖い顔しないで、ね」
満足そうに笑う美樹を一美は理解出来ないとばかりに睨んでいた。
店を出るとそこにピカピカ光るバイクが、主を待っていた。
側にいるだけなのに身体に伝わるエンジンの振動、美樹本人が満足ならそれでいい。
誰にも話さず一人で苦しんでいたなんて、そんな素振りを見せずに居たから気付いてあげられなかった、ごめんね。
苦しんでいた美樹が今の自分と重なる、自分なりの出口を見つけたみたいに私も何時か解決して、あんな風に成れるのだろうか。でも、まだ出口は遠すぎて一点の光も見えてこない。
夜の街道に小さくなっていく自身を取り戻したような背中を、羨ましく見送った。
私もスッキリと笑える日を、早く迎えたい。
寝ていた一美の携帯が突然鳴ったのは、その夜遅い時間だった。
病院の状況は施設によって違うと思いますが、あの辺はさら~っと読んでください。




