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今朝も、夜明け前に目が覚めた。
起きるには早いし、今日は夕方から夜中日付が変わる頃までの仕事なので、早く起きる必要はないが、
コーヒーでも淹れて新聞を見ようかと、まだ薄暗いリビングに行く。
夜が明けるのを窓から眺めながらコーヒーを飲む。
今日は珍しくまだ眠い。
もう少し寝ようかな...。念のため、目覚まし時計と携帯でタイマーをセットして眠ることにした。
ピピピピッツとタイマーがなってる。
明かない目を片方だけ明けて、時計を止め、また、眠ってしまった。
暫くするとププププッと違う電子音がなる。
起きられない。頭が重い、何だか寒気もする。手を伸ばして鳴っている携帯を探すが見つからない。
携帯の電子音が頭に響く、頭が音と同じリズムでガンガン痛む。
「これって、もしかして私、具合悪いのかな」
なんとかベッドから這い出てリビングに出て、体温計が入っている引き出しを明ける。
身体が寒さでガタガタと震え、歯もカタカタと音を立てて震える。
「悪寒で身体が震えてる。うわ..この後で熱がかなり高く上がってくるんだ。如何しよう、これじゃ準夜勤いけないよ」
震える体で体温計を持ってベッドに戻ろうとするが、身体が言うことを聞かない。
立ち上がった途端に一瞬目の前が暗くなり、近の椅子に捕まると椅子ごと転んでしまった。ガクガクと震える膝で立ち上がると、テーブルに積み上げていた夫宛ての郵便物が、バサーッと音と共に床に散らばった。
倒れた椅子と床に広がる夥しい数の郵便物を、置き去りにしてベッドに潜り込む。
体温計は35.7度。
まだだ、熱が上がってくるのは悪寒が終わってからだ。寒い寒い、ベッドで布団に包まってもまだ寒い。
やっとの思いで、病棟師長に勤務に行けない旨を電話し、深い眠りに墜ちる。
「アレ?吉田さん、準夜?今日、日勤してませんでした?」
帰る前に病棟の様子を見に来た宮下が準夜勤務をしている吉田香に驚いた。
「日勤してましたよ、私。でも、一美さんが熱を出して準夜出来なくなったって電話があって。勤務開始一時間前に、突然休むって言われても、困っちゃいますよね。で、急遽代わりに夜勤できる人を探したんですが、休みの日に急に今すぐ夜勤に来れるスタッフなんか居なかったんです!」
「それで、吉田さんが準夜勤務を?」
「そうです!日勤から準夜を通してやるんですぅ!」
「はあ..」
「分かりますか、先生?今朝の8時半から夜中の1時までです!17時間勤務です!」香は自から準夜勤を引き受けていたが、宮下に態と言ってみたかったのだ。
「山崎さんが熱を?」宮下は初耳だった。
「かなり辛そうだったみたいでしたよ。師長が電話受けた時は、悪寒の真最中だったみたいで、何を話してるのか聞き取れなかったって。」
昨夜は、特に具合が悪い様子はなかったのに、と宮下は昨日の一美を思い出していた。
(あ…確か、ご主人は出張で留守だと言ってたな。出張から帰ってきてると良いけど、もし一人だったら…)
「宮下先生ェ、熱をだしてる一美先輩が心配なのは分かりますが、日勤と準夜勤を続けるなんて、有り得ない仕事してる私を哀れに思って下さいよ」
宮下と話しながらも手だけはテキパキと仕事をしていた香が、顔を上げて宮下に笑いかける。
「分かった分かった。下のコンビニで何か買って差入れするよ。だから頑張って」つられて宮下も笑い返す。
この病院の一階ロビーには、某大手のコンビニが入っている。そこでは、患者だけではなく、職員も絶えず訪れている。
宮下が店に入ると、斎藤美樹が雑誌を見ていた。
日勤の終わる時間にしては少し遅い。多分、夕方に2台続けて救急車が来ていた為に忙しくて今の時間になったんだろう。
本当に疲れた顔をして雑誌を見ている。開いたページを読んでいるのか、眺めているだけなのか、ただ、雑誌を開いて立っているだけで焦点が合ってない様にも見える。
今迄とは全く違う救急外来の業務に、まだ馴染めず疲れ切っているのだろう姿だ。
そんな美樹を見て宮下は、一人きりで心細い思いをしているだろう一美が無性に心配になった。
自分に向けられた視線に気付き我に帰った美樹は、長身の白衣の宮下を見上げて、罰の悪そうな顔になった。そして、持っていた雑誌をラックに戻し
「お疲れ様でした」と力ない声で軽く会釈をし宮下の横を通り過ぎた様とした瞬間
「あ、あの。さ、斎藤さん、待って」宮下は咄嗟に、呼び止めてしまった。
美樹は、今は誰とも会話もしたくない程疲れていたので、無言で振り返り宮下と目を合わせた。
「清水..山崎さんが熱をだして準夜を休んだんだ。」
「一美が?」美樹がやや驚いた表情になった。
宮下は、昨夜の山崎との件と、もしかしたらご主人が出張から帰ってなくて1人で居るかも知れないと美樹に話した。
それを聞いた美樹は、すぐに一美の携帯に電話を掛けたが、眠っているのか電話にはでなかった。
念のため、家電にもかけてみたが誰も出なかった。
「ご主人まだ帰ってないのかな?」
「私も同じ方向なので、行ってみますか?先生」
今日はバイクで来ている美樹とは、自宅近くの駅で待ち合わせ一美のマンションに向かう。
「斎藤さんのバイクって、新車ですか?」
美樹のバイクは、ピカピカの真赤な250ccのスクーターだった。
「はい!衝動買いです」今一番のお気に入りのバイクの話に、全開の笑顔で答えた。
外から確認する限りでは、一美の部屋は明かりが点いていなかった。念のため、もう一度電話を入れてみると、聞き取りにくいカサカサの声で一美がでた。
バイクを適当な場所に置いてから行くので、先に一美の部屋に行って欲しいと言われ、1人で先に部屋に入った宮下は入ったリビングの惨状に驚いた。
食卓テーブルの横に倒れた椅子と床に広がる沢山の手紙やDM。
フラフラしている一美をベッドに戻るように告げ、宮下はそれらを片づけたが、手にした郵便物が全て一美の夫宛てだった事から、出張がかなり長期なのを予想した。
後から入って来た美樹が
「山崎さん、もう大丈夫ですよぉ、優秀な看護師と医者が来ましたからね」と言いながら、一美の世話を始めた
宮下は手持ちの薬を飲ませたり水分補給をさせる為に、一美に断ってから冷蔵庫を明けて、言葉が出ない程驚いた。
冷蔵庫の中は、ほぼ空だった。
とても、既婚者の冷蔵庫には見えず、幾らご主人の出張が長期でもこれはないだろう、という程の空っぷりで、調味料とビールが数本あるのみだった。
着替えや清拭等の一通りの世話を終わらせた美樹は帰るが、宮下は一美に与える為の飲み物などを買いに行く事にして、一美からマンションのカギを借りて部屋を出た。
「疲れてるのに付き合わせて悪かったな」
「何言ってるんですか、一美は友達ですから」と笑った
疲れてるだろう美樹を帰したが、病院のコンビニで見た美樹の様子が気になりマンションで見て驚いた事については結局話せなかった。夜道でもキラキラと反射する赤いバイクを見送り、宮下は近くのコンビニへ向かった。
買い物から歩いて帰って来て一美のマンションが見えて来たその時だった。
一美のマンションのドアから背の高い男が出て来た。
宮下の足が止まった。
「清水の旦那か?帰って来たのか?」そう宮下は思ったが、男の手には例の郵便物の束が抱えられているのが確認出来た。
男から見えないだろう位置でそれを見ていたら、その男は足早に車に乗り込み立ち去ってしまった。
「俺..財布だけ持ってきて来ちゃったぞ。リビングにカバン置いて来た...何だか勘違いされてなきゃ良いけど」
悪い事は何もしていないが、直ぐに部屋に入る事を躊躇い、あの男が戻ってくるのではないかと、宮下は暫くはその場を動かず様子を窺っていた。




