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一美が逃げるように外へ出た頃には、空は明るくなり始めていた。
ジョギングをする人とすれ違ったり人々が一日の活動を始め出している路を、一美は行くあても無く歩いていた。
今日は朝から勤務の宮下はあの後、一美が部屋に入るのを見届けてから帰宅したのであろう。一美が外へ出た時にはそこに姿は無かった。冷静を取り戻すために入った二十四時間開いているファミレスで、熱いコーヒーを前に虚ろな顔で座っている。
寒い訳でもないのに身体の中心部が小刻みに震えている。熱いカップを両手で包み持っても、指先は温まらず一美の回りだけ色彩のない世界に感じていた。
夜勤帰りに持っていた鞄だけをそのまま持って出て来たが、中にはあのレコーダーとあの時の離婚届がはいっている。鞄一つ持って飛び出したつもりでいたのに、脇に置いた鞄から見えるそれらに、我ながら冷静なものだ...と苦笑した。
もう、あの人のところへは帰れない。
夫婦ってものは、喧嘩をしたり色んな大きい障害や問題を乗り越えていくものだと覚悟はして結婚した。だけど、信頼できなくなってしまったら私にはもう無理だ。
私にも悪い処や直すべきところもあったけど、言葉にして伝えなくちゃ分かり合えないじゃない。話し合いってものが必要でしょう?我慢の限界が来る前に...家出をする程に許せなくなる前にしなくちゃいけないことがあったじゃない。
覚悟を決めた一美には悔し涙も出ては来なかった。
それもりも、決心した事で今後の自分を考える方に、少しだけ気持ちを切り替える気になっていた。
さて..これから如何しようかと考えて、窓の外を眺める。
空は急速に明るくなり、澄み切った青空になって来ていた。
美樹の病室のドアを少し開けて、一美は中の様子を窺ってみた。
面会時間には到底早い時間で普通なら許されない時間だが、職員特権とでもいうか病室に入れて貰うのを黙認された。たまたま、この時間の勤務看護師に看護学校の後輩が居たのが幸いだった。
まだベッド上で上手く身体を動かせない美樹が、有り得ない時間の面会者に驚いている。
「どう..したの?こんな朝早くに..」
身体を動かすと何処か痛いのか、思うように自分で動かせないのか、一美の方へ向けるのに時間がかかってる美樹が、笑顔で迎えてくれる。
美樹が身体を動かさなくても、互いの顔を見ながら話せる場所に椅子を置いて一美は座った。こんな朝早くに来たら何事かと思われるので、極力いつもと変わらない感じを装う。
「ん...今日は休みだから..。美樹のお手伝いに来たつもりなんだけど。」
「何それ?何してくれるの?」
ぱぁっと笑顔を返してくれた親友に居心地の良さを感じ、緊張が解れていく。
「何って..。先ずは洗面をして身体拭いてェ、着替えたりリハビリに付き添って。あ!今日は髪を洗ってあげるよ」
「まるで実習生だね。一日中いる気なの?」
お互いの顔を見て吹き出した。笑い声が段々大きくなって止まらなくなって、笑い続けていた。
美樹が笑うと一美も笑顔になれた。
笑うと幾らか軽くなる。心の奥の重たい物が軽くなる。
美樹が朝食を食べる介助をしながら一美も一緒にコンビニで買って来た朝食を食べた。食事の後は洗面と洗髪をして、さっぱりしたところでリハビリに付いて行く。
「斎藤さんおはようございます。あれ..?何だか今日は調子が良さそうですね」
「そうでしょ?なんたって今日は、思いっきり我儘をきいてもらえる付き添い付きですから」
美樹が乗った車椅子を後ろで押している一美に気が付いた理学療法士が、何かを思い出したような表情をする。
「ああ..。何だか私服だと感じ変わりますね」
幾ら大勢いるからと言って同じ病院の職員だ、話した事がなくても名前は知らなくても三人ともお互いの顔くらいは知っている。だがユニフォームを脱いだり、結んでいた髪を下ろすと別人の様に雰囲気が変わってしまうから、分からなくなるものだ。
「今日は休みなので、一緒に来ました。見学しててもいいですか?」
「見られていると、なんだか僕が緊張しますね。]
そう言いながら美樹の車椅子を押して理学療法士は、奥にあるマットへと行きリハビリを始めた。一美は他の患者さんの邪魔にならない位置で見学をすることにした。
美樹は理学療法士と体調や今後のリハビリの計画について話しながら身体を軽く動かしていた。
自分の思い通りに動かない身体を一生懸命に動かしている。眉間に皺をよせ額に軽く汗をかいて、寝たきりで筋力の落ちた足を動かしている。骨折していた腕は、指の細かい動きを取り戻そうと必死だ。
少し離れた椅子に座って見ていた一美は、ぼんやりと眺めていた。
美樹は頑張ってる。
以前の日常生活を取り戻すために、毎日リハビリを頑張ってる。
このまま身体が不自由なままだったらどうしよう、社会復帰出来なかったら...以前のように仕事をすることが出来なければ、生活が成り立たなくなる。今迄と変わらずに一人暮らしをするどころか、誰かの手を必要とする人生になってしまうのではないか。
この先、年老いていくであろう親に心配はかけたくない。
不安や焦りに押しつぶされそうになっているであろうに、それを言葉にださずにリハビリに励んでいる。
美樹の抱えているそれに比べると、自分の身がなんと幸せなことか。
ふと..胸の前で組んでいた腕に視線をやると、昨日から着替えてない事に気付く。一美はそこで初めて先を考えずに出て来たことを思い出した。
――― あ...着替え、どうしよう。
着替えどころではない、今夜どこへ帰るのかさえ考えてなかった。




