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夫が家出しました  作者: 籠子
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早朝と呼ぶにはまだ早いが夜中とも違う、空が闇色を薄め始めている時間に、一美は自宅玄関の前に立っていた。


重苦しい空気が部屋の中から流れて来てる雰囲気があり、ドアを開けるのを戸惑わせている。


――― このドアの向こうに、私の何があるのだろうか。

修復が難しい溝なのか、出口の見えない冷たい闇か、それとも努力に似合う幸せなのか。


夜明け前の住宅街にあるマンションの廊下は静まりかえっていて、一美の息遣いや重っ苦しく締め付けられている心臓の音までが響き渡りそうだった。


不意にタクシーが走り去る音が聴こえて下を見ると、先ほど一美が降りたタクシーは既にそこに無く、人も車の気配もない通りに宮下だけがこちらを見上げ立って居た。

振り向いた一美と視線が合うと、六階からでも分かるように大きく頷くのが見えた。

それは「俺がついている」の意味なのか「一人になってて出て来い」なのか「大丈夫だから行け」か、とにかく一美の背中を押し勇気を与えているように感じた。




室内は灯りが付いていて、慶司が起きてるのかと思いながらドアを開けてみる。

ひんやりとした気配のするリビングで、スーツのままソファで慶司が座った姿勢で眠っていた。どうしたものかと考えてる一美の視界に入ったテーブルには、全く手をつけられてない夕食が残っていた。


 ――― 食べてもらえなかった...?何時もの習慣で、外で食べて来たのかも...


別に..元通りの夫婦仲に戻りたくて、慶司の好きな物を作り置きした訳じゃない。会話の切欠を作りたいとか、少しは改心した私を見て欲しいとか、そんなんじゃないけど。食べて貰えないままテーブルに置き去りにされ冷えきった夕食は、あの日この部屋に一人にされた自分を見ている様で嫌な感情が湧く。これって...慶司は、何かを示唆しているの?


これが、今のあなたの気持ちなの?


起こさない様に注意しながら慶司の寝顔を覗き込むが、酔って帰ったのか起きる気配はなく、深い寝息をたてていた。


答えが見つかるかと思って暫く顔を眺めていたが、一美の心には何も湧いてさこなかった。あんなに待ち焦がれていた存在が此処に在るのに、何だか遠く感じていた。このままの関係では居られないから、二人の気持ちをはっきりさせたいのに、決めるのが怖くて、有耶無耶にして逃げている自分が嫌で堪らなかった。


ゴトッ...っと、鈍い音をさせて何かが床に落ちた。


音のした方で一美が見た物は、それまでこの家で見た事ない物だった。それは、掌にのる程で鈍い銀色の四角い金属物。

それを拾い上げ手の中で確認する様に回し見ると、直ぐに何だか分かり背筋にゾッとするものが走った。


「ICレコーダー...?」


まさか...考えたくないが可能性はある。

盗聴器の次に...レコーダー..。

ザワザワとしたものが全身を襲ってきた。夫がそんな人だったとは考えたくないけど、この中にそれがあると思わずにはいられなかった。


この中に、ある。


手の中にあるこの中に何が録音されているのか、知りたい。

今迄の一美なら夫の携帯を見ようなどと考えたこともなかったが今度のは確かめずにはいられなくて、寝ている夫から離れたところで再生ボタンを押してみた。


『..ぁ...ん..』


いきなり聞こえて来た女のか細い鳴声と、何がか動き回っているガザゴソとした音。


5秒..聴いていられただろうか、耐えられなくなり再生を止めたがムカムカとした物が喉に上がってくる。

自分のあの声を聞いたことはない。でも分かる。この声は自分だ。

振り返って見ても夫に起きる気配はない。今迄も時にこれを再生して聴いていたのか、何かの時に聴かせようとしていたのか、こんな物を隠し持っていたなんて。


全身を包むザワザワとしたものと、胸にこみ上げて来る吐気から逃れようとしてるのに、呼吸がはあはあと荒くなっていく。指先がしびれてきて握っていたレコーダーを持って居られなくなって来た。落ち着こう。ゆっくりと呼吸をして、落ち着こう。


ゆっくりと大きく息を吐き慌てないでゆっくりと吸って..どの位続けていただろうか、次第に指先の痺れ感がなくなり正常な状態に戻って来た。気が付くと、涙を流し床に座り込んでいた。


これは処分してしまおう。

そして...

もう...この人とも終りにしよう...


この先、時間を掛けて修復したところでギクシャクした感情が薄らぐ私達じゃないし、私の行いは消える訳じゃない。


涙が止まらなかった。いったい何の涙なのだろうか。悔しいのか、悲しいのか、怖いのか、寂しいのか...理由の分からない涙が止まらなかった。


「もう...終わりにして、自分をやり直したい....全てから逃げたい。」


まだ空は明るくなってない時間の、薄暗いリビングの隅で一美は声を押し殺して泣いていた。





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