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その日の夜慶司が帰宅すると、当然だが夜勤に出てる一美はいない。
照明を落とした部屋に独りで居ると、どうしても一美のことを考えてしまう。
長く留守にしていた所為なのか、自分の家なのに居心地が悪い。慶司の手にはICレコーダーが握られている。
この部屋であの男と...、そう考えると苛々と怒りの感情が込み上げ、手の中のレコーダーを潰れそうな程強くギリギリと握り締める。
――― この中に自分の知らない妻が居る。
眠れずに夜遅くまで起きていた妻、上手く聴き取れていないが誰も居ない部屋で独りで何か呟いていた妻.....知らない男の声と聴いた事のない軽い笑い声の妻、俺の知らない昔話をしてる妻、そして...聴きたくなかった妻の啼き声。
――― こんな気持ちを抱えたまま、この妻を受け入れてまた一緒にくらせるのだろうか...。
慶司は迷っていた。
一美との暮らしに疲れただけ。お互いの生活にズレが出来ただけ。暫くの間、互いを見つめ直そうとして生活を別にしただけ。あのまま一緒に居続けたら、気持ちを整理できなくて一美に何をしていたか...。だけど嫌いな訳ではなくて、これからのお互いを大切にしたかっただけなのだ。
そして、また、手の中のモノものをぎりっと握ったが、手の中の一美の過去は握り潰せなかった。
振り返ると、食卓テーブルに食器がセットされて布が掛けられている。メモには、冷蔵庫に食事がある事と、温めて食べて欲しい事が書いてあった。
冷蔵庫にあるのは、何年も前に、美味しいと褒めた料理だった。慶司は覚えていたのに、一美は忘れてしまったのか、あれ以来食卓に乗らなかった料理で、忘れてたのではなく、あの頃の二人を思い出したいといった一美の気持が伝わってきた。
朝、慶司を送り出してから一美は仮眠をとったが、何度も目が覚めて良く眠る事が出来なかった。玄関を出て行く夫の穏やかで、それでも戸惑った表情が、一美を眠りから引き揚げた。
あれは何を意味していたのだろうか...。
これまでは夜勤のとき慶司は夕食は外で済ませて来るのが常だったが、今夜は夕食を作って冷蔵庫に入れた。レンジで温めるだけで美味しく食べられそうな物で、ビールにも合いそうで夕飯にもなりそうな物を用意して家を出る。
夫に夕食を用意して夜勤に行くのは一年以上していなかった。何を作ろうか悩んだ末に、以前褒められた料理を思い出し作ってみた。
今日の夜勤は、琴世とだ。
皆が誘ってくれた琴世のお祝い会には行けそうにない。だから何時か、きちんと「おめでとう」と言って「応援してる」と伝えなくてはと考えていたので、今夜は時間が取れたら勇気を出そう。
しかし、今夜は予想以上に忙しくて食事をする時間を作るのがやっとだった。それでも帰り際に休憩室で二人で向かい合って座った時に、一美から声を掛けた。
「体調は...?仕事..終わってから訊くのも今更って感じだけど」
「..特にこれと言って...」
「そう...」
会話が続かない。沈黙が怖いので、いい加減な所で席を立ち帰りたいが、そのタイミングも掴めなくなった頃に琴世が口を開いた。
「...私のやってる事って、許せない?」
琴世の言葉に一美は視線を手元から動かせなくなった。前に座る琴世が、射るように自分を見ているのが分かる。
許すとか許せないとかそんな気持ちは今は無い、ただ今の琴世を受け入れたいだけだ。
一美が戸惑って言葉を出せないで居ると、ふ...と琴世の雰囲気が変わる。
「私達が付き合いだした頃...先生は長く別居しいて..お子さんとも会えなくて、修復不可能な書類だけの夫婦だったの..。」
琴世が静かに語り出した。
「先生の家庭は...色々あってチョッと複雑..って程じゃないけど、まぁ..自分の事じゃないから詳しくは話せないけど...で、...考え抜いての別居だったんだけど。......先生は子供の為にもお互いの為にも、離婚しようとて弁護士を入れたり調停も..だけど、なかなか応じて貰えなくてね...私と付き合いだした頃には、離婚行動に疲れて意欲が萎えていて...話し合いも進んでいなかったの。...それでも、最近は私との関係を大切にしてくれようとして、弁護士と話してたんだけど今度は私の存在が...奥さんの感情に..」
「こ..琴世さん。いいです止めて下さい。」
「夫婦の気持ちが離れた隙に、他に好きな人が出来たなんて..よくある話でしょ?」
―― よくある話し...
自分と慶司と、宮下と...。
でも違う、私と慶司は気持ちが離れた訳じゃない、少し距離を置いただけなんだ、今朝だって...。
修復不可能な関係じゃないし、宮下君とも...琴世さんの言うそんな関係じゃない。
それでも琴世さんの言葉が胸に刺さる。気持ちの離れた夫婦と他に好きになった人って、琴世さんも私も、やってる事は大差ないって事なの?
「琴世さん...あの..私.あの夜の事は大人気なかったって思ってます。」
あの頃は、家に帰って来ない夫には女が居るんだと思っていた。しかし、実際にはそんな女は存在してなくて、夫婦二人の関係性だけの問題だったのに、あの時は琴世に当ってしまったのだった。
「もう気にしないで、あれは事実だから。それに、私が作ろうとしてる家族の姿は、世間的には良く思われてないのは分かってるし。」
「...琴世さん..私、そんなつもりじゃ...」
「....だから、私達は...しっかりと幸せにならないといけないの。この子を立派に育てて、世間の評価に負けない位に、凄く幸せに」
琴世は僅かに笑顔を見せて席を立ち、一美の肩をトンっと叩いて帰って行った。
琴世と別れてから更衣を済ませ病院を後にした一美は、タクシーを拾う為に通りに向かって歩き出そうとして、目の前に立っている人物と眼が合った。
目の前に宮下が立っていた。
「驚いた...どうしたの?」
「俺は..。俺には何の相談もしてくれないのか...」
無表情と低い声で、宮下は一美へと近づいて来る。
「あ...その事なら...」
その事なら ――― 現状を自分でも整理しきれないのに、何を相談するのかと言いそうになった。お願いだから、そっとしておいて私達二人で解決する問題だから、と心で叫んだところで宮下には伝わらない。
「清水...」
突然、宮下に包み込まれる様に抱きしめられた。
「みっ..宮下くん?」
一美の身体は硬直し鞄とトートバックを両手に落とさない様にしっかり握って状態で直立になってしまった。気が付けば一美の頬は、宮下の肩の上にあった。
「清水..旦那と何か有ったんだろ。こんな事になった原因は俺にもあるんだろ?」
――― あぁ、宮下君。心配してくれてたんだ。ごめんなさい
もぞもぞと身体を動かして宮下の肩から顔を離した。一美の返答は、この姿勢では話しにくい。
「...何もない。有ったとしても、私達夫婦二人の問題なの..。あの事を...心配してるなら、私達の問題はその前に起きたことだから、大丈夫よ」
「じゃあ何で俺を避けるように仕事するんだよ。」
「それは...」
宮下は一美の背中に回していた腕を弛めて、一美と視線をあわせられる距離をとり言葉を続けた。
「後、半年もしないで俺はこの病院を移るんだ。多分、大学に戻る。だけど、数年先には実家を継ぐ事になるんだけど...」
腕を掴まれ宮下が真剣な眼差しを注いで来る。
「俺と行かないか?一緒に」
「え?...」
「仕事辞めて、俺と...」
今何て言ったの?と考える隙も無く宮下の腕に抱込まれる。
髪に顔を埋めて耳元で宮下が優しい言葉を掛けて来る、俺と一緒に...。宮下の腕中の一美は宮下の肩に頭が乗せられ、宮下の体温が伝わって来る。暖かくて心まで癒される宮下の腕と胸の中で一美は、この優しい温もりに自分を委ねたら新しい自分になって違った生き方が出来るかもしれない...と一瞬考えてしまった。
しかし、宮下の腕の中は何かが違った。
この腕の中は何かが違う。
頭に降って来る顎も耳元で囁かれる感触も、額を預ける肩の高さも包み込む腕の安心感も、何もかもが違う。
今、一番安らぎをくれて一番欲しいと願ってる何かと違う。
「あ…」
「考えてみて欲しい…俺とのこと。ゆっくりで構わないから、俺がこの病院から移動してからでもいいから。」
一美を抱く腕は優しく、背中を撫でられると不思議な安らぎに包まれてるようだったが、本当に欲しい安らぎの腕とは違っている。
一美の安らげる腕の中では、一美の頬は肩ではなく胸の中で...一美の頭の上には彼の顎が乗り、腕と顎に包まれ完全に包み込まれる...慶司の腕の中。
「宮下..くん。私..いまは。」
そう言って宮下の身体を引き剥がそうとした一美は、宮下の肩の向うの景色に小さな人影を見た。
それは小さくて暗い人影だったが、よく知った人であった。
見開いた一美と視線が合う寸前に背を向けて立ち去ってしまったが間違えなく、先に帰ったと思っていた琴世だった。




