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朝。
眠いながらも頑張って起きて朝食を作る、夫を見送った後で再び寝ようと考えると何とか気合で起きられるものだ。慶司の朝食は和食が基本だがコーヒーだけは自分で入れたい派で、自分で淹れたコーヒーと新聞が朝の日課だ。
慶司の大きな手と長い指がコーヒーカップを繊細に持ち新聞に視線を落とす姿を一美は見ていた。長身で手足が長く当然指も長い慶司が、手を動かす仕草は一美の好きな景色で、この姿を見るのは何時振りだろう...と、思いながら眺めていた。
朝日が眩しい食卓で、こうして夫と向かい合って食事をしてコーヒーを飲む。なんて、幸せな時間なんだろう...何時もの食卓で簡単な朝食なのに、コーヒーの香りと共に胸一杯に広がる暖かい何かを感じていた。
しかし、一方でこの会話のない朝食に息が詰まる感じもしていた。
久しぶりだと感じているのは慶司も一緒だった。
以前の一美なら準夜勤の後の朝は何時も寝ていたのに、今朝は食卓に座って一緒にコーヒーを飲んでいるこの状況は、出勤前の慶司の心を穏やかなものにしていた。胸に沁みるコーヒーの香と共に暖かいものが広がっていく。
そして、出勤時間に食卓から立ち上がった瞬間に何気なく
「じゃ、行って来る」と発してしまった。
言った本人が驚いて一瞬動きが止まってしまったが、言われた方も咄嗟に
「あ....行ってらっしゃい...」と無意識に答えて驚いていた。
その時、眼が合った慶司の口元は心なしか笑っていた様に見え、玄関まで見送りに出た後で慶司がいなくなったドアの前で一美は涙が止めどなく流れるのを止める事が出来なかった。
一美は、慶司との生活を失いたくないと思っている自分がいる事に気が付いた。
出て行った切り帰らない夫に苛々して過ごした日々や、盗聴器で監視された日々、そして今の会話と行動の自由のない生活、考えてみてもとてもじゃないが互いの信頼を取り戻すには、かなりの時間と努力が必要に思える。
なのに、何故…
夫と一緒の時間を失いたくはないと思ってしまうのか…一美は混乱のなかにいた。
出勤の為に自宅を後にした慶司は、1人になりたくて今朝は電車ではなく自分の車に乗り込んだ。
車のドアを閉めると、外部と遮断され静寂と独りの空間に一度だけ目を閉じ深呼吸をする。
自分を必要としない生活に疑問を感じて家を飛び出した、そして一美に男が出来たことを知り、気持が完全に離れた。
――― 言葉にして伝えなくても、結婚前から数えても付き合いの長かった一美となら感じとってもらえると思っていた...言葉よりも...
一度は離婚を決めた慶司だったが、再び一緒に暮らし始めてみたものの一美を許すことが出来なくて、一美に背中を向けるしか出来なかった。
――― それなのに、何故…今朝はあんな…
慶司は唇を噛み、気持を打ち消す様にエンジンを掛け車を出した。
その日の夜慶司が帰宅すると、当然だが夜勤に出てる一美はいない。
照明を落とした部屋に独りで居ると、どうしても一美のことを考えてしまう。この部屋であの男と…、手にはしたICレコーダーのボタンを弄んでいた




