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夫が家出しました  作者: 籠子
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怖い。


軽く息苦しさを感じる手前まで首を絞めつけたかと思うと、頬を撫で髪の毛先をその細く長い指で弄び愛しそうな目を向けて来る。異常感漂う夫の雰囲気に逃げる事も抵抗する事も無く、ただ身体を硬くして立っていた。


「お前の、あの男...何って言ったけか?....あああぁ、宮下だったか?」


やはり宮下の名が出たかと、覚悟を決める。宮下とあれ以上の関係はない、慶司が家を出た事とも関係ない。


「か..関係ないでしょ。貴方が出て行ったのとは関係ないでしょ!」


「何時からだ、あの男とは。俺が居なくなった途端に、ここに入れたか。」


「違うって!関係ない!」


一美の顔をがっちりと両手で挟み、変形するまで撫で回していた手は首筋まで降りて来て、細い首を撫でたり軽く締めつけたりしている。苦しいと感じる程ではないが首を絞められると、ゾワリっとしたものが背中を這う。

穏やかな口調だが笑わない座った眼で、首を強く撫でられたり締めつけられたり髪を下から掻き上げるように持ち上げられ両側から頭を締めつけたりされると、一美は恐怖を感じて、手で夫の腕を引き剥がそうとしたが男の力に叶う訳も無く、逆に一美の力に抵抗する慶司の腕や首を絞める力は一層強くなる。

苦しい...呼吸は出来るのだが首を絞められている感覚と恐怖感が、苦しいと思わせていた。呼吸が苦しいと言うのは異常な危機感を起こさせる、生命の危機を予感さえする。一美は壁伝いに何かを探し始める、逃げなくちゃ。


「あの男とやるのは良かったか?」


慶司の口から出た言葉に、はっとして一美は大きく瞳を見開いた。絞められてた首のことなど全く気にならなくなり、全身が凍りついて背中に冷たいものが流れる。

何か抵抗しなくちゃと、考えても絞められた所為なのか絞められたことへの恐怖なのか、宮下を庇おうとして言葉を選ぶ為なのか声が出ない。一美の引きつった表情に、くくくっ...と慶司は笑い出した。


「お前は本当に欲張りなんだね…俺の他に彼氏も欲しくなったんだ」


「なっ!...」


背中を壁に追い詰められた一美に慶司は身体を寄せてきて、密着する。慶司の声を耳元で聴かされる。


「仕事が出来て。家庭もあって。家事と仕事を両立して。他に..男もか」


息がかかる程の距離の顔。喋る慶司の唇が時折、一美の耳に触れる。


「後輩や若い子達は、お前みたいな女を身近にみて育っていくんだな...お前の職場は。んん..ああぁお前もそんな先輩を見て来たから、こんな女になったんだな」


何の事をいってるのか分からず反射的に、慶司の方に顔を向けた瞬間、唇が触れそのまま舌で食まれる。

逃げたい。

逃げ出そうとして何かを探ってる一美の手の動きに気付いた慶司は、その手首を握った。男の力に叶う訳もなく握り絞められた手首はぎちぎちと絞められていくが、唇は慶司に優しく塞がれていた。唇を硬く閉じ顔を背け背中を丸くして、慶司の腕から逃げようと抵抗する。その様子に慶司が、ふふ..と笑う。


「俺から逃げる?」


「さっきから、何を訳の分からない事言ってるのよ」


「えぇ...?俺の言ってる事って、間違ってないよね。長年、お前と一緒にいて視ていたら分かるだ

ろ...大体。それに、色々と教えてくれるお友達もいたぞ」


慶司は上唇を舐めると、顔を背けた事で露になった一美の耳を眺めながら話し続ける。顔を肩に着くまで横に向け硬く眼を閉じていた一美は、慶司が何処を見ていたかなって気付いていない。


「不倫相手の子供を生むなんて、なぁ?」


慶司が誰の事を言ってるのかは直ぐにわかったが、何故その話を知っているのかの方が問題だ。

一美は、夫の腕で締められてる苦痛と疑問と驚きの眼をむけた。


「ん?俺がここを出た後の話なのに、何故知ってるのか…って顔だな」


「どうせ…盗聴してたから知ってたんでしよ」


精一杯睨みつけながら慶司に初めて『盗聴』の言葉を突き付けてみた。しかし、慶司は全く意に介さずっと言った感じで眉ひとつ動かさず、未だに盗聴器を設置した事実を認める発言はしていない。明言はしていなくても犯人は夫であると一美は考えている。


「だから。お友達が教えてくれたんだよね。」


「誰よ」


「名前..何だっけ?ああ...吉田さんだぁ。病院の職員玄関でお前を待ってたら、都合よく吉田さんと会ってね」


「...私を..待ってた?嘘でしょ..香は何も言ってなかったわよ!貴方に会ったなんて、今まで一言も聴いてない。それに、私を待ってたなんて..この部屋で待てばいいのに、何故?」


「ふぅーん。別に。俺は口止めなんて頼んでないし。ここで会うと話が長くなるのも嫌だったから、あそこで待ってただけだ。そしたら彼女が出て来て、お前は今日は勤務じゃないと教えてくれてシフト表を見せてくれたし、他に少し話したら色々と面白い事も教えてくれた。」


「まさかと思うけど..貴方、ここを出て香と..?」


慶司が眉の間に皺をよせ表情が険しくなり、一美の腕を握る力が更に強くなる。痛さのあまり腕に気を取られ、痛った...と言葉が出た次の瞬間、一美の耳を慶司が舐めていた。


「お前は、隙だらけなんだよ。俺が出て行った途端に、お前は自分の好き放題な生活をして、簡単に男も出来て。俺は、お前とは違って普通なんだよ。同じ職場で簡単に不倫したりは、しないんだよ」


一美の耳朶を舐めながら話し続ける。


「俺が居なくなってから、毎月のシフトをカレンダーに書かなくなっただろ。あれは寂しいな...『居ないなら教える必要ない』ってことだろ?この部屋の中も、自分一人が寝に帰るだけの様に変わって行ったしな、冷蔵庫も空っぽで俺が何時帰って来てもいいですよ...って感じじゃなかったしな。」


一美は慶司から逃げたくて、せめて耳を舌から解放したくて必死に頭を振り、身体を捩り曲げ抵抗した。その時、一美の手が奇跡的にドアノブに届き、最後の力を振り絞ってドアを開ける。


ドアは二人の身体で押し開ける形になり、隣の部屋に勢いよく倒れ込んでいくと、その勢いと衝撃で、一美の腕を握っていた慶司の手が取れた。

急いで起き上がりリビングに戻り、逃げられるように玄関に続くドアの近くに行く。その様子を追いかけることもせず慶司はリビングのソファに座り直し、遠くをみながら話し始めた。


「俺が居なくても生きて行けるんだよ。独りで生きて行けるんだ...お前は。」


「え...?」


「一緒に居る頃から...何時頃からだろ...この家に男が二人いると感じたのは…。」


「男が...?」


「仕事と友達との付き合い...勉強だか研修だか知らんが...それが生活の中心のお前は収入もあって...」


「そんな事無い...考え過ぎだって...」


本当は、痛い処を言われていた。

確かに普段から『主婦っぽくない』とか『仕事をさせてくれる理解のあるご主人』等と友達などに言われて来た。でも、仕事も家庭も順調で若い後輩には目標でもあった。

一美はそれを自負していたが、慶司の告白に足元から崩されて行く。


「お前は...収入がそこそこあるだろ...ウチの会社の同世代の女の子達よりはかなりある...。この時代、年俸が上がりにくいから俺は必死だったよ。」


最後の方は強い口調で睨んでる、一美は言葉と目線だけで足が動かなくなっていた。必死だった...の言葉に胸が締め付けられる。


「ウチの会社が合併をする度に相手方の社員が配置換えされたり、リストラされたりするのを見て来た。ウチの会社が買収されたら...と考えたら、怖かったよ。何時か...お前に負ける日が来るんじゃないかって...怖かったよ!!」


絞り出すように話す慶司の心の叫びは、一美には衝撃だった。夫がそんな思いを持ちながら一緒に暮らしていたなんて、思ってもいなかった。


「...話してよ、何でも話そうって...。話してくれなきゃ分からない、独りで悩んでないでよ...」


「言える訳ないだろ!それだよ!その態度だ!」


いきなり大きな声で怒鳴られた。一美の身体が硬直する、今まで一度だって大きな声で怒ったりした事のない夫だ。次は何をされるのか怖くなり自分が玄関に近いドアの横に居る事と自分のバッグの位置を確かめた、いざとなったら逃げよう...そう覚悟を決めた。


「それだよ、俺が一番気に食わなかったのは。その上からモノを言って来るような態度だよ!俺の収入が奥さんに越されそうで心配です..会社がどうなるか心配です...?そんな事を言えるわけがないだろ...資格を取ったりとか俺だってやってたさ、だけど..。俺の努力では如何にもならないこともあるんだよ」


慶司の声が泣いていた。

一美に言えずに一人で悩んで、仕事も人生も楽しんでいる一美を見ていたくなくて、家に帰れなくなったのだ。一美は震える足で一歩づつ慶司へ歩み寄り、頭を抱えて下を向いている夫の前で膝を着く。


「あなた..仕事は?もしかして...辞めたの?」


「辞めてない。今時、次の仕事なんか簡単に見つからない、そこまで馬鹿じゃない」


「ごめんなさい...私、あなたに何て謝ったらいいのかしら...」


夫の手を両手で包み込むみ語りかけるが、夫からの返事はない。


「御免なさい...何も気付かなくて...自分の事しか見えてなくて...」


一美は慶司の頭を抱きかかえて誤った。

自分の立場しか考えてなかった私。夫が悩んでる様子に気付けなかった私。夫が望む家庭が解らなかった私。二人が安らげる家庭について話し合えなかった私。


御免なさい...涙を流す夫の肩を抱いても、一美の心は褪めていた。

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