29
離婚届
誰も居ない部屋のテーブルに置かれていた白い封筒から出て来たのは、初めて目にする紙だった。これをここに置いて行った人物の決意が、本人のサインと捺印から読み取れる。
一美は茫然とその離婚届を手にして眺めていた。何度見ても、何処を見ても、間違い無く夫の字で署名がされている。
――― 今夜、ここで私と会う約束をしていたのは、最初からこれを渡す為だったの...?
今夜は話し合いになるものだと思っていた一美だが、やり直すのはもう無理かもとは..多少思っていた。しかし、いきなり離婚届が出て来るとは少しも考えていなかったので、かなりの衝撃だった。
以前のような仲の良い夫婦に戻れる自信は無かったが、今夜は暖かく迎え入れようと準備をして来た。夫が望むなら、またここで夫婦を続けても良いとも考えていた。時間を掛ければ、ぎくしゃくした関係も良くなるとも考えていた。
一美は、目を閉じて深く胸一杯に息を吸い込み、顔を上に向けてから目を開け大きく息を吐いてみる。ソファに背を預けて眺める景色は、見慣れた慶司との夫婦の部屋だったが、手の中にある物だけは、とても違和感のある物『離婚届』だった。
何度見ても夢では無く、現実に離婚届だ。
どの位の間こうしていただろうか、それを手に持ったままソファに深く身体を預けて、視線は何処に向けるともなく...
ふと我に返ったとき、手にしていた紙が変わらずにここに存在する。夢ではなく現実なのだと思い知らされて、グチャグチャに握りしめて壁に叩きつけてやろうかとの衝動にかられた。
――― 最初に、勝手に出て行ったのは慶司だ。その後、電話やメールにも返事をくれずに、何処で如何してるのかさえ全く分からなくして居たのも慶司だ。まるで、私を捨てたみたいな状況に置いておきながら、盗聴器で監視までして。最後は、離婚届だけって...。これで、私が納得するとでも?
髪を搔きあげて、何度目かの溜息をはき、頭の中はもうグチャグチャだ。
始めは大きな衝撃だった胸の中は、その後の慶司の行動などを思い出していると腹立たしいものに変わって行った。しかし、それの感情をぶつける相手がここに居ないことにイライラが募り、次第に段々考えるのが面倒になって来て、全てが如何でもよくなって来た。
このまま離婚届を提出してしまおうか...。
今夜、慶司はこの方向で話し合いたくて、サインまでした離婚届を用意してきたのだ。ここまで決心を固めた人と関係修復をしても、離婚を先延ばしにするだけだろう。
一美は疲れていた。
夫が出て行ってしまってから精神的に辛い日々があったが、ここ数日間に色々な出来事がありすぎた。
――― もう、何もかも全てから逃げ出したい...
一美はそのままクッションに顔を沈める様に眠ってしまった。
人の気配がして意識が浮上してた...誰かが髪を触る感触にハッとして目を開けると、付けた記憶のないテレビの音がしている。
咄嗟に起き上がると、何時の間にか来ていたのか隣に慶司がいた。
離婚届を突きつけて来た夫に髪を撫でられていたのだ、それも、優しく。
「...なっ...!」
「お?起きたか」
慌てて慶司から距離をおいた位置に座り直すと、髪を撫でていた手が空で止まったまま残念そうな表情をした慶司が此方を見ていた。
離婚届を渡された途端、急に夫が遠い存在に思えて来た一美には、その行動が理解出来ない。
「なっ...何してたの..ここで」
「何って、酷いなぁ。自分の家で奥さんの髪を撫でながらテレビ見てた..だけだよ。悪いか?」
悪びれもせず軽く言って来る夫にイラついた感情が湧いてくる。
――― 何を言ってるのか解ってるんだろうか...この男。私に離婚届を突きつけておいて、何を言ってるんだ。
慶司の表情に比べて一美は冷めていた。
「何時来たの?」
「...ん?...料理ある?少し飲もうよ」
一美の言葉を無視して立ち上がり冷蔵庫から、一美が用意した覚えのないワインを出して来た。一美は理解出来ない夫の行動を、ただ眼で追うしかなかったが、今日こそ言いたい事を言わなくては!と気を取り直して
「ねぇ!ちょっと、これ、如何いう事?」
ややきつめの口調で、離婚届を慶司へ突き出した。が、慶司はチラリと視線を向けて見ただけで、ワインの入ったグラスの片方を一美の前に置く。
ワインのボトルからコルクを抜く動作、グラスにボトルを傾ける手つきが相変らず色っぽい。仕事帰りなのかネクタイを軽く緩めたスーツ姿だったが、顔が小さく姿勢が良いので何をするのも動きが綺麗だ。そんな仕草が好きだった...のを、一美は思い出しながら夫を眺めていた。
うっかり見入ってしまった一美だったが、視線をそこから振り切ると手には現実が握られていた。
「よくも...こんな時に飲む気になれるわね!」
「...?」
慶司は一美の言っている意味が分からないといった顔でワインを飲む。
一向に自分の話を聴こうとしない夫に苛立った一美は、夫の手からグラスを取り上げた。
真剣な表情の一美に睨まれて、前髪をかき上げ漸く真面目な顔で向かい合った。
「私と、別れたい...って?離婚して欲しいのね」
落ち着いた低めの声で、極力感情を抑える様に意識して一美は切り出した。揺らぐことなく、しっかりと慶司に向けられた眼からは強い意思が伝わる。
慶司は一美の強い眼差しから逃げる様に視線を外す
「...ただ....一緒に居るのは俺には...」
ハッキリしない夫に声を張り上げそうになるのを堪えて、一美は夫が出したワイングラスを脇に寄せて続ける。
「一緒に居るのは、何なのよ ―――無理なのね、もう嫌だってことね」
「...」
無言なのは肯定の返事なのだろうと判断した一美は深く息を吸って優しく、理由を問いかけた。相変わらずグラスを眺めたままの慶司は、やがて重い口調で語り出した。
「...何時からだった?一緒に夕食を摂らなくなって随分経つな。何だか、起きて顔を会わせることも少なくなって、俺は家に帰ってもお前の寝顔ばかり見てた気がする...」
「何言ってるの?そんな事無いでしょ!明け方に仕事から帰っても、貴方が出勤する時には起きて見送ってた!!残業で遅くなる貴方を起きて待ってたこともあったじゃない!帰りが遅いのは、貴方じゃない!!」
落ち着いて話そうと心掛けていたが、自分が思っていたのと違うことを感じていたと言われてしまい一美は感情を抑えられなくなって来た。
「....たまに..だろ?お前が明け方帰って来た朝は起こすのが可哀相だから、起こさない様に気を使って独りでコーヒーを淹れて仕事に出る日が殆どだったぞ。それに、俺の残業の夜に起きて待ってたって?笑わせるなよ...」
「...!そんな事ない!」
「起きて待ってたんじゃなくて、友達と飲んで帰って来たから、あの時間に残業帰りの俺と起きて会えたんだろ?そんなの一回や二回じゃないだろ..?」
「毎回みたいな言い方しないでよ!貴方だって家で夕飯食べないじゃない、だから作って用意して待ってても無駄になってたじゃない!」
二人が言いあっているのは日常の些細な出来事で、他人からしてみたら...。
落ち着いた話し方をしていたのは慶司の方で、一美は痛い処を突かれたのか段々感情的になって来ていた。
夫の言っている内容に心当たりがない訳ではない、だけど、何時も何時もそうだったみたいな言い方が気に入らない。不規則な仕事をしてるのだから多少の生活時間のズレはあったかもしれないが、それだけで家を出て行ったとも考えられない。
「家に帰ってもお前は寝てるか酔ってるか...たまに素面で起きてても、PCに向かって勉強か論文書いてる。だから、気を使って外で食事を済ませて帰ってた。笑わせるよな..寛ぐための家庭に気を使って...」
後半は半笑いで一美に向けられていた。一美は首を左右に振り、違う!と否定した、確かに夫は間違った事は言ってない、言ってる事は事実だ、しかし、でも、違う!と声にならない叫びを上げていた。それは夫の勝手な言い分だ。
「それで...外に女を作って出て行ったの?!」
「なにぃ?」慶司の片眉が上がる。
「それで、帰りたくなくなって..女の処に?」
「お前と一緒にするな!!」
その瞬間、一美のすぐ側の壁でガラスの割れる大きな音がした。
慶司は手にしていたグラスを壁に叩きつけていた。物を投げるなんて、今までの慶司には考えられない行動だった。
一美は夫の投げつけたグラスの残骸へゆっくり視線を動かすと、そこにはワインのシミが雫となりガラスの欠片と共に下へ流れていた。
慶司は薄笑いを浮かべて立ち上がり一美の方へ近づいてきて、両手で一美の顔を包み込み強く撫で始めた。眼が笑ってない。
「お前と違うんだよ。俺は。え?」
近づきながら顔を握られ、夫の身体が密着する。夫の興奮を含んだ低い声と息使いが髪にかかる。
一美は後退りしながら夫から逃れようとしたが、どんどん追い詰められる形になり壁際まで追い込まれ逃げ道がなくなった。




