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一美は、慌ただしくマンションを後にして駅に向かっていた。重態の親友の側に早く行きたい一心で、どうやってここまで来たか、部屋の鍵はかけたのかなんて覚えていなかった。
落ち着いて行動しなくちゃと思っていながらも、早歩きになったり同じ行動を無意味に何度もしてしまう。
マンションの前の通りを駅に向かっていた時だった、一美の携帯が鳴る。朋子から美樹の急変を知らせる電話かと思って、直ぐにでると意外にも相手は宮下だった。
『今どこ?』
「え?あ…宮下君?あのぉ、ゴメン私…今急いでて…の病院に向かっていてるの」
『病院に向かってる?って、斎藤さんのところにか⁈清水...おまえ...今夜は、旦那はいいのか?』
「...」
『俺、今病院の帰りなんだけど、そこから動くなよ今いくから』
程なくしてタクシーが一美の近くに止まり、ドアが開くと中に宮下が乗っていた。
「斎藤さんのところに行くんだろ?乗れよ」
宮下の顔を見て張り詰めていた緊張のいとが緩んでしまい、素直に乗り込む。何から話していいのか分からずに居ると、宮下が僅かに震えていた肩を抱いて来た。今まで緊張と恐怖感で固まっていた身体が緩み、宮下の肩に頭を預けると安堵感が湧いて来た。
「斎藤さん…俺が帰る時にはICUにいた...命に別条はないみたいだったよ」
「...ぁ良かった。」
まだ美樹の顔を見るまでは安心出来ないが、今すぐ命が危険な状態ではないと聴いて「早く側に駆け付けなくては!」と胸を締め付けていた思いが緩まった。
「それより、如何なった?旦那の方は」
緊張のいとが緩まった心が再び固まった。
これまで忘れていた訳ではないが、肩を抱いてくれている宮下からは今は聴きたくなかったのだ。でも、現実だ。放置しておいて良い夜ではないのだ。
「...まだ...会ってない。...その前に朋子から電話来て...出て来ちゃった」
「それでいいのかよ!」
それまで優しく包み込むようだった宮下の口調が強まる。
「美樹の顔を見たら帰るし、それまで事情を話して待って貰おうと思ってたんだけど...そのまま、出て来ちゃって...」
夢中で飛び出していた。取り合えず病院へ向かって、途中で夫に電話を掛けるつもりだった。
しかし結果は、電話よりも先に宮下の乗ったタクシーに拾われた。だから電話をする余裕が無かった。そう、言い訳をしていた。
気が付いたらここに居た。宮下の腕の中に。
一美と宮下の乗ったタクシーを慶司が某然と見送っていた事も、慶司が自分を呼ぶ声なども全く聴こえずに....。
病院についたところで宮下は乗って来たタクシーで、そのまま帰った。一緒に美樹の様子を見てくれるものだとばかり思っていた一美に、困った様な顔をして見せて
「この時間に一緒に居たと思われると…だろ?」そう言って帰って行った。
立ち去る車を見送ってから一美は夫の携帯に電話を入れた。もう既にマンションに帰って来てるだろうか...美樹の様子を見たら直ぐに帰るからと一言言いたかったが、慶司の携帯は留守電サービスに切り替わってしまった。
深い溜息をついて慶司にはメールで要件を伝える事にして、院内の職員玄関から入って行く。
ICUのベッドで沢山のチューブに繋がれて美樹は横たわっていた。血圧の値と心電図の綺麗な波形がモニターに流れているのを見て少し安心するが、手のかすり傷が痛々しい。
しかし、名前を呼んでも手を握ってもピクリとも反応を示さない。そして、指先に痛い刺激を与えても、美樹は瞼を一つ動くことはなかった。
「み...樹...」
意識がないとは聞いていたが、ここまで反応が無いとは...ショックで言葉もでなかった。
気がつくと側に町田が立っていた。
「さっきまで、出水がここで山崎が来るの待ってたけど、会えたか?」
一美は頭を横に振っただけで、やや冷たい美樹の手を握っていた。
「いったい何があったの?事故の詳しい様子って、町顕は聞いてる?」
「ああ...斎藤のバイクに気付かずに車線変更して来たトラックの側面とぶつかったらしいぞ」
「トラックと...?...美樹、よく命が助かったね...怖かっただろうね...でも、運よくウチの病院に運ばれたんだ」
「詳しくは知らないけど、美樹と顔見知りの救急隊員がいたらしいぞ。まぁ...たまたま、ウチも受入可能だったみたいで」
「そうだったんだ...偶然が重なったんだ...美樹...よかったね」
呼びかけても手を握っても全く反応はなかった。血圧や心電図など美樹の生命反応を映すモニターだけが、生きてる美樹だった。
「とりあえず、今は落ち着いてるから帰ったらどうだ。何かあったら出水に連絡しとくぞ」
離れ難かったが何時までもここに居られないし、何よりも一美には帰らなくてはならない約束がある。それでも、握った美樹の手は離せなかった。
「な?山崎。今日のところは一先ず帰れ。」
一美の気持ちに関係なく、帰らなくてはならない時間になってる。
美樹...頑張って明日また来るから...と願いを込めて握った手に力を込めると、ゆっくりと、ゆっくりと手を離した。明日、また、この手を握ることが出来るのを願いながら、ゆっくりと手を離した。あの夜、キラキラした笑顔で夜の道をバイクで立ち去った美樹を思い出しながら。
一美がマンションに戻ったのは日付が変わる少し前だった。
慶司にはメールで知らせていたが返信はなかった、それが気懸りだったので恐る恐るドアを開けるが、部屋の中に人の気配はなかった。
暗く寒々とした部屋に帰るのには慣れてた、しかし、今夜は違う。誰も居ない部屋は「誰かが居たが、帰ってしまった後」なのか「元々、誰も居なかった」のかで意味する処が全く違って来る。
――― やはり、待って居て貰えなかったか...
一美には、「夫は、今夜は来ない」という思いは無かった。
部屋の中は、何時も通り一美が出掛けたときのままだったが、部屋の明かりを反射させるやや大きめの白い封筒が存在感を放っていた。
テーブルの上に、きちんと置かれた封筒。
椅子に座った者に、どうぞと言わんばかりな姿で置かれていた。それは、如何見ても一美に中を見て欲しいと置かれている。
これを置いて行ったのは、慶司の他に考えられない。
ならば、開けるのは一美の他には居ないだあろう。
封筒は、厚みが無く薄く封はされていなかった。
一美は中身が紙であるのが想像でき、手紙..?と思いながら引き出した。
中から出て来たのは、薄い紙が一枚で、広げると...既に夫のサインと捺印がされた、初めて目にする離婚届だった。




