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途中でスーパーに寄り買物をする。
――― 買物...どうしようかな。週末くらいは一緒に居られるって考えていいのよね...。そのつもりで用意して構わないのよね...。
夫の為に食事の準備をするなんて何ヶ月ぶりか...そう思うと嬉しい気持ちにもなった。先程まで憂鬱な気分で帰り仕度をしていたのに、宮下のあの一言で今は清々しい気持ちでもある。
夫はあの日、「帰る」と言った。「会って話そう」ではなく「帰る」と。それが何を意味するのか解らないが、以前の二人に戻れるとは到底考えにくいし、一美自身が夫を以前のように受け入れる事が出来なさそうだ。
――― この週末に十分に話し合って決めよう。盗聴器の事も訊いてみよう....
盗聴器...と、考えたところで思考がとまる。盗聴器を訊けば必然的に自分と宮下を追い詰めてしまう。そこは、向うの出方をみてからだ、先ずは家を出た経緯を訊いてみようと。
これまで、自分達夫婦はお互いの仕事や個人的な事には干渉せずに、尊重しあって暮らして来たと思っていた。一美の休みの日に、慶司が何をしていたのかも訊かない。勿論、携帯がそこに置いてあっても見たいとも思わない。慶司という個人を大切に暮らして来たつもりだったと、一美は振り返る。
だけど、今日は違う。全てを訊いてみたい、盗聴器の件以外は...と、一美は買い物袋を提げて一歩づつ軽くも無い足取りでマンションに着いた。
鍵を開け恐る恐るドアを開けると、中から人の気配や物音も聞こえない。玄関で息を殺して中の様子を窺ってみるも、やはり誰も居ないようだった。大きく息を吐き肩から力が抜ける。
慶司が居ない事にほっとしてリビングに入って部屋の中を見渡すが、昨夜出勤した時と何も変わっていなかった。どうやら、慶司はあの夜の電話以降、この部屋には入って居ないようだ。
買って来た物を冷蔵庫に入れ、シャワーを浴びる。濡れた髪を拭きながら窓を開けると、気持ちのいい風が部屋中に吹き込んで来る。この窓の下が、一美達が借りている駐車場だ、もしかして...と下を覗き込んだが慶司の車はまだ停まっていなかった。
慶司が居ない事に、悉く安心している自分に笑えて来る。
――― 慶司は夕方以降に返って来るつもりなのだろう、それまで少し寝ておこう。慶司が居た頃の生活リズムでは、深夜明けの日は昼頃に寝て夕方に起きて夕飯を作っていたのだ。多分、慶司はその起きる頃を見計らって帰宅するつもりなのだろう。
夕方まで独りだ。
取り合えず、今は寝よう。今夜は何があるか分からない...だから、ゆっくりと寝よう。眠って...起きた時そこには、きっと欲しかったものがある。
深い水の中に引きずり込まれる様に眠った。
夕方には起きるつもりだったのに、目が覚めると外は薄暗くなっている時間だった。寝起きはスッキリしていたが、いよいよ慶司が返って来る時間が迫って来たと思うと気は重い。はぁ...と重い溜息をついてベッドから這い出る。
慶司が着たらどう接したら良いんだろうか。昔みたいに、おかえりなさいと何事もなかったように迎え入れて良いのだろうか。それとも、話し合う目的で来るのだから暖かく迎え入れる必要はなく、食事の準備などは要らなかったのか…。
慶司を迎える準備が整い何もする事がなくなった一美は、ベランダに出て空を見上げていた。暗い空に雲が流れてる、それを眺めながら、この先の自分をかんがえてみた。
全てを水に流して、昔のように一緒に暮らす事になったら。
若しくは、別の道を生く事になったら。
そんな事は幾ら考えても答えはでないし、どちらの道を行く事になるか今は解らないのだ。
気持ちを切り替えて、身支度をして夕飯を作り始める。
魚介類のカルパッチョと一美の得意料理のローストビーフ...と、何やら慶司の好きな物を用意している自分が情けなくなって来て涙が出て来る。テーブルに並ぶ皿を眺めながら、本当は慶司と元の生活に戻りたいのか戻りたくないのか、解らなくなってきた。
徐に時計に視線を向けると、何時に帰るのかの約束をしていなかったことに気が付く。
早く...会いたい....? 会うのは..こわい..。
――― 在り来たりではあるが「心の何処かでは、まだ彼を愛してる」って心境はこれなのか...?
一台の車が駐車場に入って来た。聴きなれた夫の車のエンジン音は、六階の室内でも窓を開けている状態なら、いつもの一美には聴きわけるのは容易だった。
しかし、それを遮るように一美の携帯が鳴った。
――― !!慶司?!
素早い勢いで携帯を手にして、相手を確認せずに電話を耳にあてる。でも、「待っていた」と思われたくなくて、静かに深呼吸してから落ち着いた発声をする。
「..もしもし?」
『一美?!!』
しかし、聞こえて来た声は予想を裏切り、慌ててる様子の朋子だった。
『今どこ?家?』
「..なに..どうしたの?」
『しっかりして聞いてね、美樹が事故って運ばれたって!』
朋子が早口で言ってる内容が頭に入って来るのに、幾分時間がかかった。
美樹が何?どうしたって?事故って?
『もしもし?聴いてる?バイクで事故ってウチの病院に運ばれたけど意識がなくて刺激にも反応ないって、今、病院の町顕から電話来て。私はこれから病院に向かうけど..一美どうする?』
「美樹って実家、遠かったよね...」
『だから、直ぐに駆けつけられるのって私達だけなの。ねえ..一美』
朋子は泣き出す寸前なのか、突然の出来事で怖いのか声が震えている。
これから、慶司が帰って来て、大事な話をするって大切な日に何て事だ...。美樹の元は駆けつけたいのだが...と電話を持ちながら食事の用意が出来てるテーブルへ視線を回した。
ごめん...私、今夜はちょっと.......言いたいけど言えない言葉が頭を過る。
何時の間にか携帯を持つ手と膝が震えていた。詳しい容態は解らないが、朋子の様子から察するに美樹はかなり厳しい状態みたいだった。
美樹と最後に話したのは今朝、何時もと変わりない笑顔だったのに。実家は少し遠い地方だったので、両親が駆け付けるのは今夜遅くか明日かだろう。それまで、私達の誰かが側に居て手を握ってあげたかったが...一美は慶司の為に作ったテーブルと重態の親友と決めかねて居た。
――― 待って居ても何時来るか分からないなら、重態の美樹が優先だ。親友の命の危機なんだから慶司には途中で連絡をして、事情を説明したて分かってもらおう。
取る物も取り敢えずとは、こういうことかと考えながら鞄だけ持って部屋を後にする。
胸の奥がザワつく。焦るせいか、靴に上手く足が入らなくて何度も脱げてしまう。
――― 落ち着かなくては。病院に着く前に自分が怪我をしてしまう。
小刻みに震える指をギュっと胸の前で握る。
それは、親友の今にも消えそうな命の灯がそうさせるのか、又は、妻の裏切りを知りながらも久しぶりに帰って来る夫を待って居られなかった自分に対する後ろめたさなのか。そんなことを考える余裕も無く、とにかく病院へ着くまでは落ち着いて行動しなくてはと、自分に言い聞かせてる。
慶司は、駐車場に車を入れてエンジンを切ると、一気に静寂の中に置かれた。車内から六階の部屋の窓を見上げると、明かりが点いていた。部屋の中に一美が待っているのが伝わる、昔ならその窓に見える明かりが暖かく迎え入れてくれる幸せに灯りだった。
しかし、今は自分の家なのに入るのが躊躇われる、勇気がいる。
――― 何故こんな事になってしまったのだろう...
慶司は、数ヶ月前から家に帰らなくなってしまったその前へ思いは馳せていた。
あの頃、仕事から帰った夜の家に一美はいない事が多かった。月の半分は夜勤の為に、慶司が帰宅した時間に一美は居なかったが、それは結婚前から解っていた。それでも、夜勤明けで貫徹だったとしても日曜日には会う時間を作っていたし、残業続きだった慶司のアパートを片づけてくれたり、不規則な仕事でもそれなりに時間を作り幸せだった。
だったのに結婚後、何時からか...互いへの努力を怠ったとしか言えない暮らしになっていた。残業で遅くなって帰宅すると、夜勤でもないのに妻が居ない日が増えた。
独身時代の「若手看護師」から最近は「中堅」「指導者・リーダー」へと妻の仕事上の立場が変わり、休日を使って仕事関係の研修に行ってしまったり、家を留守にすることがあった。
同じ頃から、慶司も昇進や責任のある立場へと変わり仕事量とストレスが増えていた。
――― こんな筈じゃなかった。暖かく互いを癒し敢える家庭を作りたいから、結婚したんだ。
慶司は、点けただけ無駄だった何も聞こえて来ない盗聴器の受信機のスイッチを消した。
――― 発見されたか...
車内も身も一人になった。一美と同様に慶司も心に重いものを抱えている、二人にとって長く苦しい夜が始まろうとしていた。
ガチャっと質感のある音をさせて、ゆっくりと車のドアを開け外の空気に身体を出した。一歩一歩踏みしめるように建物へと歩いて行く。
慶司は、駐車場の角を曲がったところで、通りを駅方面へ走る人物を見る。
マンションから飛び出るように駅へと向かった一美だった。
「...一美...?!」
車から出て歩いて来た慶司は、目の前を自分に気付かずに走りさる一美に声をかけるが、一美は気付かず行き過ぎて行った。
「おい!一美!」
慌てた様子の妻に、今度は聞こえるようにはっきりと大きく名前を呼んでみると、妻の携帯が鳴りだした。立ち止まっても落ち着きのない様子で電話に出る妻を、数メートル後ろで後を追う脚を止めて窺うと。
「もしもし?あっ宮下君。これから向かうとこ...え?今?え...とマンション出たとこで駅に向かってる」
――― 誰と話してる?宮下?...あぁ...あの男か...。
「え?どこ?..。?!」
当りをきょろきょろと見渡す一美の近くに、一台のタクシーが近づいて停まり、乗っていた客の男が一美を中に招き入れ走り去って行ってしまった。
――― はっ?! 何だこれは?
慶司は状況が解らないまま、妻を目の前で連れ去られた。
意を決して来た夜に、目の前で、声を掛けた夫に気付かずにだ。




