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それまでの数日間は長かった。
土曜の朝、仕事帰りに更衣室で着替える手は重く、白衣の上着のファスナーを降ろしては溜息をつき、脱いでハンガーに掛けると手が止まる、髪を梳かすブラシが重く感じる、なかなか着替えが終わらない。このまま家に帰ったら、土曜なので仕事が休みの慶司は既に家で待ってるのだろうか...それとも、夜勤明けの私に気を使って仮眠から起きるであろう時間を見計らって、家に帰って来るのだろうか...。どちらにしても、あれ程願っていた慶司の帰宅である、それがこんなにも重苦しく感じとは皮肉である。いっその事、逃げてしまいたかった。
このまま家に帰る気にもなれず、職員休憩室でコーヒーを飲んでいた。今一美がいる棟の最上階にある休憩室は、流石に土曜に朝に居る人は疎らである。友達とお喋りするグループ、数人で集まり資料を広げて話し合いか勉強をしてる者達、深刻そうな顔で話しこむ人達などがいた。皆それぞれに楽しそうだったり目的に向かって前進する為にだったりしている、しかし、一美はこの「まま時間がゆっくりと進んで欲しい」「帰りたくない」等、前に進むことを拒んでいた。
誰にも知られていないと思っていた宮下との関係が、夫に知られていた。この事実は、二人の関係をぎこちない物にしていた。仕事上では普通にしていられるが、それ以外の会話が上手く出来ない。知られているのは夫だけの筈だが、周囲の人間に知られ噂をされている気がする。とにかく、職場では細心の注意をした。
一方、宮下は自分の予想で間違い無ければ盗聴器を仕掛けた人物は一美の夫で、怯えていた一美の様子から自分との情事が盗聴されていたのだろうと考えていた。山崎一美夫婦の間に何があったか知らないが、熱を出した一美を訪ねた頃には既に家の中の様子に違和感があった。しかし、盗聴器とか物騒なものを取り付ける切欠を作ったのは、自分かも知れないと考えていた。今の一美の状況を作った一端は自分にもあるので、何とか力になりたいと思っているが、何せ夫婦の問題だ、部外者の宮下には如何する事も考え付かなかった。
一美の傍に居るからと伝えたくて、毎晩メールや電話をしていたが、帰ってくる返事は簡単なものであった。
なかなか、帰る気になれず持っていたコーヒーが冷めかけた頃だった「おはよう」と声をかけられる。
顔を上げると前の席に美樹が座ってきた。
「深夜明け?座ってもいい?」
「美樹も明け?」
「私は看護研究のアレ」美樹が指差す先には美樹の勤務部署の看護師が数名座っていた。
「行かなくていいの?」
「まだ時間あるし。それより、琴世先輩の噂って聞いてる?」美樹が小声になる。
「え?...知らない。本人のいるウチの病棟でそんな話はしないんじゃない?それに、琴世さんと仲が良い私にそんな噂話をして来る人なんていないし」
「相手の先生を知ってるスタッフも少なくなって来てるけど、琴世さんの事をよく知りもしない人達は事実とは違う勝手なことを言ってる」
「だろうね....でも、それは覚悟の上でしょ。」
「病院でも辛いけど、向うの先生の方はどうなってるか知ってる?」
「離婚?」と美樹に首を傾げて見せる。
「何も聴いてないよ。だから、そのままなんじゃない?」
「ふうーん...考えただけで胃が痛..。あっ私時間だ、じゃあね行くわ」
そう言って美樹は同じ部署のグループの元へ去って行ってしまった。
――― 胃が痛いか...私もこれからを考えると胃が痛いよぉ。
諦めて席を立ち帰ることにした。
歩き慣れた廊下だが脚が床に張り付いたように重い。エレベーターを待つ間、窓の外を見ると青空のいい天気だった。宮下を家に入れた日も、こんな青空だったなぁ...とぼんやり考えているとエレベーターの開く音がして、乗り込もうとした一美の前に宮下が立っていた。
ここは最上階なので降りる筈の宮下だったが、一美を乗せ扉を閉め一緒にエレベーターで降りた。
「今日...だよな..」
「...うん」
「大丈夫か..」
「..何が?」
くすり..と一美が笑う。自分の夫と会うのに、大丈夫か?とは如何いう心配だ。一美に笑われて宮下も自分の言った言葉に笑えて来た。もっと大切な何かを話さなくちゃ、目的の階に着いてしまうか誰かが乗って来てしまう、そう考えても二人とも言葉が出て来なかった。
柔らかな時間は直に終わってしまう、一階に着いてしまい一美がエレベーターを出て行く。何か言わなくては。大切な何かを。
「清水!」
宮下は一美を呼び止めた。人気のない土曜の朝の廊下に響かない程度の声で呼ばれた名前は、旧姓の「清水」。宮下は仕事中は皆に合わせて「山崎」と呼んでいるが、二人きりの時は「清水」と呼んでいるのだった。夫が家を出て行ってしまって間もなく、宮下と再会し「清水」と呼ばれ始めてから「清水一美」という独立した自分を感じたり、呼ばれる度に本当に「清水」に近づいて行くような妙な気になっていた。
そして、今日こんな日にまた「清水」と呼ばれて一美は脚がピタリと止まり、また一歩「清水」に近づいた気がした。そして、振り返ろうとした時だった
「一美!」
全身がビクン..と硬直する。初めて名前で呼ばれたのだ。「清水」や「山崎」なんてものに囚われず一人の「一美」として宮下に呼ばれた。それだけで、凄い勇気を貰えた。凄く嬉しかった。
一美はゆっくりと振り返り、涙で歪んだ景色に映る宮下に向かって
「うん。私は大丈夫だから。ありがとう」
震える声で小さく笑って言った。
「何かあったら...俺の処に来ていいからな」
ありがとう...と頷いて、一美は帰途についた。




