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二人の横を意味深な笑みで通り過ぎたのは、山崎慶司。一美の夫で数ヶ月前から理由も分からず自宅に寄らなくなった男である。
「...慶司...」
横を通り過ぎただけの僅かな、ほんの数秒だけだったが長く感じた。口角を上げただけの慶司の顔が、その一瞬に一美の全てを理解したと言っているかのようだった。
慶司がマンションから出て行くのを二人は無言で見送ったが、一美の心臓は息苦しいほど激しく鳴っていた。
「清水…?知り合いか..?」
凍りついた表情の一美に聞こえてはいない。
宮下が言い終わらないうちに、一美は立ち上がって慶司の後を追っていた。
――― 説明しなくちゃ。宮下君と居る処を見て何か誤解してる。そうじゃないのに、この前の事も説明しなくちゃ。
何時もの習慣で駐車場方向へ走り追いかけ行くが、心臓は激しく打ち足が絡まり上手く走れない。転がるように走り駐車場の出口へ回った一美の前に白い車が急ブレーキをかけて停まる。息を切らしながら運転席を睨むように車の前に立ちはだかった。
「今日は行かせない。今日こそは話しましょう、もう駄目でも構わない!でも、このままじゃ..」
息を切らしながら車に向かって叫ぶ。
そこへ後を追いかけて来た宮下が状況を飲み込めずに少し距離を置いて足を止ると、車の中の男から鋭い眼で睨まれた。今まで見たことも無い一美の取り乱した姿と、自分に向けられた男の関係が分からないまま宮下は、車の窓を叩きながら叫ぶ一美の肩を両手で掴み
「落ち着け!清水。車から離れるんだ」
「離して!私、この人と大事な話しあるんだから!」
宮下の手から逃げるように暴れる一美を抱き込み車から離すと、それを見計らったように車が前に動いた。
「危ない!!]
一美を抱き込んだまま車から離れようとしてその場に転がった。至近距離に人が居るのに車を出すなんて、何て危険な事をするんだと怒鳴ろうとして宮下が顔を上げ車の男を確かめると、運転席の窓が下ろされ
「その邪魔な男が居ない時になら、話し合う。連絡する」
地面に転がった二人を見降ろし、言い捨てた男の車は駐車場を出て行った。
一美は言葉も無く、それを見送った。話し合う――確かにそう言っていた、それが聞けただけで一歩前進した気がして満足だった。
「..清水..何処か怪我してないか?」
「...え?」
宮下の存在に改めて気が付いた。
「今の...誰?」
「あ...ごめん。恥ずかしいとこ見せちゃった」
服の汚れを叩き落としながら立ち上がったが、一美の顔は車が居なくなった方向を向いていた。溜息をついて振り返れば、心配してるのか怒ってるのか分からない表情をした宮下の眼が説明しろと言っていた。
――― あんな醜態見せておいて、言い訳じみた嘘をついても仕方ない。ここまで巻き込んじゃったんだし
「あれ…は、あの人は…。私の夫。」
苦笑して見れば宮下の表情は動かず、驚いてるのか予想通りだったのか読めない。
しかし、一美の胸の中は以外にもスッキリしていた。たった一言、―― あれは夫 ―― とだけ言ったのに今まで閊えていたいた重たい物が一瞬に消えていた。
言葉を選んでいるのか、一美にかける言葉を探してるのか、何も言わない宮下を誘導するように
「盗聴器探しに行こう。私なら大丈夫だから」
「...ああ..」
――― 話し合ってくれるって言ってた。何か誤解があっただけで、話せば分かる。元に戻れなくても現状からは抜け出せそう。何よりも、今は身体が軽い。




