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悪いのは琴世では無い。
自分を悩まし苦しめているのは夫であって、他の誰でもない。
眠れない夜が続き精神が不安定になり、段々と膨らむ妄想が自分を苦しめているのを一美は自覚していた。誰かを責めるつもりは無いのに、ついイライラとしてしまい些細なことに反応して琴世にあんな言い方をしてしまった。
責めるべきは他でもない『夫』なのだ。
『あの時は御免なさい』
たった一言が言えないまま、翌日は琴世と二人の深夜勤務だった。深夜勤務とは真夜中の十二時過ぎから翌朝九時過ぎに日勤者と交代して勤務が終わる。
会話は最小限でぎこちない雰囲気で勤務時間は過ぎて行く。
真夜中の静かな病棟で二人きり、時折聞こえる人工呼吸器が空気を送り込むプシューという音のみ。今夜に限って、不眠で起きて来る患者もいなかった。
夜中は然程忙しくもないのに、一美は今夜やらなくてもいい仕事まで見つけだし一人で忙しくしていた。そうしてないと、琴世と仕事以外の話をしてしまうか..あの時の一美の異常な言動についての話を訊かれてしまいそうだったからだ。
しかし、そんな一美の行動を琴世は冷静に見ていた。
自分を避けるために、忙しいふりをしているのはお見通しだったのだ。
それと、最近の一美が研修、勉強会や出張に積極的なことが琴世には心配だった。月に各四回程の新夜勤と準夜勤をこなし他に院外や地方での研修に積極的に参加している私生活が気になっていた。
新人時代から院内での委員会や勉強会への参加が多かったが、最近特に目立つ気がしていて、今は独身で好きなだけ仕事に時間を避ける身では無いはずなのに....と琴世は感じていた。
朝、日勤の看護師達が出勤して来る前に宮下が、ジーンズにポロシャツといった私服の上に白衣を着てナースステーションへ入って来た。
深夜勤務明けの今日は日曜日。とは言え宮下にはまるっきりの休みではない、朝に軽く病室を診て回ったり、夜勤の看護師から患者の状態報告を聞いて必要な指示を出す為に出勤する。
宮下は、一美と琴世が今朝の夜勤者だったのを知ると
――― やったァ、この二人が相手だと今朝の仕事は早く片付くな。早く終わったら二人を朝食に誘おうかな…。
などと考えながら指示を書いたカルテを次々と積み上げていったが、どうにも二人が無口なことに居心地の悪さを感じ一美と琴世の表情をチラチラと見比べた。
何か言いたげな表情の宮下と視線があった琴世は―――この同級生の男になら、意地を張らずに話すかも…と考え、『後で話したい』と合図を送った。
宮下は、ナースステーションの中に流れる妙な雰囲気から、琴世に了解したと目で送ったが、自分の仕事に集中していた一美には気づかれることはなかった。
日勤のスタッフと引き継ぎが終わり、一晩中の緊張感から開放された。
琴世と八時間以上も一緒にいて、こんなに会話が無かったことなどない、素直に謝れない自分が嫌になり、早くここから逃げたくて深夜勤務が終ると、朝食に誘う宮下に、疲れたから帰ると返事をして一美は一人でエレベーターに乗って更衣室へ行ってしまった。
――― どうかしてる私。宮下君は関係ないのに、普通に接することが出来ない。
最近の一美は、自分の中だけで処理しきなくなった心の歪みが、外に漏れ出すのをどうにも止められない。自分には助けが必要な状態なのを分かってはいても、素直になれない自分と弱みを見せられない自分に苦しめられていた。
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何処かで朝食を食べながら先程琴世が『後で話そう』と言っていた話を聴こうかと、考えながらながら職員玄関を出ると、既に琴世が待っていた。
笑顔の琴世に誘導され付いて行くと、職員玄関前の通りから路地を曲がった所に、通りに後ろを向けて一台の車が停まっていた。
琴世は運転席にいる人物に話しかけてから、宮下を促し一緒に後部座席に乗り込んだ。
「朝食は今度でもいい?」
「え?あ…構いませんが…あの…」
と、困った顔で運転席の男性を見る宮下に琴世は、笑顔で頷いてみせた。
運転席には30代後半か40代初め位の男性が座っており、宮下はルームミラー越しに会釈をした。
宮下は過去の琴世の不倫の噂を知らない。その相手の医師とも仕事をしたこともないので、今運転席にいる男性については『琴世の彼氏』なんだと認識した。
琴世は宮下に、先日焼肉屋で起きた一美の出来事を話した。但し、自分のプライベートに関する部分は伏せて。
それと、最近の一美の様子がおかしい事等も話し、何か知らないか?と、宮下に訊いて来た。
「どうして..僕に訊くんですか?」
「何となく..ってか、この前の様子から考えて、私達には言えない様な事で悩んでると思うのよ。」
「付き合いの長い友達なのにですか?」
「私達が....女だから?...一美は私達の間で一番先に結婚して、仕事と家庭を両立して充実してる人生を見せてくれていたの。結婚しても仕事が出来る先輩として後輩の見本みたいだったの。私の勝手な想像だけど..それだから、カッコ悪い...ってか、情けない姿を見せる事に抵抗があるんじゃないかな...?って」
結婚をして、家庭と仕事を充実させイキイキとしている姿に、清水らしい..と思わず笑ってしまったが、それだけではない清水も宮下は知っていた。
この前、見舞いに行った一美のマンションで見た出来ごとは、充実した家庭とは少し違う姿かな?と考えていた。
「私達に言えないなら、宮下先生には言えるんじゃないかな..?『宮下君』になら?」
普段一美が、仕事とそれ以外の時で呼び方を変えていたのを知っていて、敢えて『宮下君』としてお願いしてみた。
「さりげなく..それとなく訊いてみて..ね?」
「じゃ.。僕に出来る範囲で、ですよ」
琴世との話が終わり宮下は、運転席で無言で座っていた男性にミラー越しに挨拶をして、車を降りた。
天気の良い日曜日なのに予定が入って無い宮下は、携帯の画面を眺めながら
――― これから会えないか?なんて、日曜日の人妻に電話するのも変だし...
今日は自宅で専門医の試験の勉強をしようかと考えていた宮下だったが、琴世からの頼まれことが、自分でも気になっていたのと、天気の良い日に部屋に引き籠る事に迷っていた。
***
一美はのんびりと地下鉄を降りて自宅へ向かって歩いていた。
ポカポカと天気の良い日曜日、自宅に帰るって寝るだけは勿体ない、でも明るい日差しの中で寝るのも気持ちが良くて割りと好きだった。
その時、携帯が鳴った。画面には宮下の名前が表示されてて、面倒だな..と思いながら電話に出た。
「夜勤明けで眠たい私ですが、何用でしょうか」
「....怒ってる?」
「眠いだけです」
「お腹空いてないか?」
「私、もうマンションの前です」
「....日曜日だしな、独りじゃないしな...ごめん。邪魔だな俺」
何か言い隠した様子の宮下が気になったが、一美は電話をしながら玄関前まで歩き着いてしまった。
「あああ..残念でした、私は家に着いてしまいましたぁ。私はこれから誰にも邪魔されずに昼寝をしますぅ」
「ねえ、下見て。」
――― え?下?
一美は携帯を耳に当てながらマンションの廊下から下を見た。
「宮下くん!なんで、そこに居るの?」
マンションの下で宮下が手を振っていた。
「俺、腹空いてんだけど。朝飯に行くなんて無理か?」
「.....私、疲れてもう駄目。行きたくない。...お腹は空いてるけど....」
「そっか...じゃ俺も帰って勉強でもするか。」
チョッとガッカリしたような返事か来た。
「え?天気がいい日曜日に?勉強家だねぇ」
マンションの下に居る宮下を見降ろしながら、一美は笑った。
「コンビニでも寄って、帰るわ。じゃな..日曜日の家庭を邪魔しちゃいけないなかったな」
―――― 何なのよ。さっきから、何度も日曜の我が家の心配をして。
一番触れて欲しく無いところを、何度も言われて少しだけ言い返したくなって来て、
「主人は日曜出勤してるので留守です!なんなら、私が作ったのでも良かったら、食べてく?」
――― 夫が留守にしてる言い訳が上手くなったと、自分でも感心する。
「いいのか?ついてるなァ、清水の手料理だなんて。小6の調理実習以来か?」
嬉しそうに電話を切ってエレベーターに向かった宮下を見送り、一美は先に鍵を開け自宅に入った。
一人暮らしが長くなり気楽になったか所為なのか、それとも、宮下に対しては子供の頃の感情の慣れがあったのか、深く考えもせず自宅に招き入れてしまった。
この行動が監視されてる事も知らずに。




