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急に感情的な発言をして一美が店を出て行ってしまい、琴世、朋子と香は茫然と見送るしかなかった。
「一美..アレどうしちゃったの? 朋子何か知ってる?」
「...よく分からないけど...旦那と何かあったのかな?」
「...そんな感じだね...」
琴世と朋子は一美が立ち去った方向を見ながら言った。
「一美先輩と御主人なんて、仲が良いじゃないですか!先月だったかな?日勤が終わる時間に病院に迎えに来てましたよ、残念ながらその日は日勤じゃ無かったけど」
香が、ビールを飲みながら言った。この状況で一人平然と肉を焼いていたのだ。
「一美の旦那に会ったの?」
「はい。携帯に電話したけど繋がらなかったから、てっきり勤務中だと思って終わりそうな時間に車で迎えに来たって言ってましたよ。」
「え?それって...自分の奥さんのシフトを把握してなかったってこと?」
琴世は、経験からそれを不審に思った。
琴世と朋子のパートナーは、二人とも当直や非常勤で他所の病院での勤務等があり不規則な生活を送っていた。それに加えて彼女二人も日勤・準夜勤・新夜勤の勤務をしている為、お互いのシフトを把握したり、パートナーと自分の勤務を合わせるように夜勤や休みの希望を出して、擦違いを極力防ぐ様に気を使っていた。それは、琴世と朋子みたいな『医師と看護師』の関係だけではなく、夜勤をしている看護師ならだ誰もがやっている事だと琴世は考えていた。
だから、一美の夫が妻の勤務を知らずに迎えに来た事を琴世は不思議に感じたのだった。
「何だか、ウッカリ間違えたみたいなこと言ってましたよ。だから私、持ってた勤務表を見て教えたんです。で、あの日、来月分の勤務表が出来た日だったんですよね、それで一美先輩の来月の勤務を教えてって言われて..教えちゃいましたよ、先輩の分だけ...何か不味かったですかね?」
香は、先輩の夫だという事で、特に深く考えず疑うこともなく教えたようだった。
最初は不思議に思っていた琴世だったが、『ウッカリ』なら仕方ないか...そういう事もあるか...香の説明を信じた。
「あの...一美先輩...琴世さんに怒ってましたね?お二人の話を聞いて怒ったんですよね...?」
「「...」」
「何..話してたか訊いてもいいですか?」
興味津津の笑顔で香は身を乗り出して来た。
誤魔化しは出来ないと覚悟した朋子は、話すしかないと覚悟して話そうとした。その時だった、琴世に膝をトントンと叩かれ話しだそうとした言葉を一瞬飲み込んだ、と同時に琴世が話しだした。
「私のプライベートなことよ。」
「琴世さんの?」
「私が...昔噂になった先生と一緒に暮らしてる..って聞いたら怒りだしたの」
「あの...」
香が聞きにくそうにしていたので琴世から切り出した
「あの先生よ。他の病院に移ったけど離婚してなくて、あれからズーっと私と暮らしてるの」
どう?驚いた?と笑顔で琴世は言う。
「はぁ..あの..一美先輩は奥様の味方みたいな発言をしていた様な....」
「世の中の『妻』の座に居る人たちにとって、私は敵だよね」
琴世と香のやり取りを聞いていた朋子は、昔は噂に耐え下を向いていた琴世が簡単に笑顔で不倫を告白出来るのか不思議だった。
――― きっと、この二人は事実婚で生きて行く事に決めたんだ。世間の目や親や社会的な評価なんか、吹っ切れたんだ。凄いと言うか、強いと言うか...この先また、もっと辛い事が待ってるかも知れないのに...立ち向かうと決めたんだ...
朋子がボーっとしてる間に、香は琴世の説明に納得し話題が変わっていた。
結局、朋子は自身の退職や町顕との事についての話をすることは出来なかった、ではなく、琴世が話しをさせなかったのだ。まだ、先の話なら噂を広げるような事はしない方が良い、と気を使ってくれたのだ。
*****
思わず興奮して店を飛び出して来てしまった一美は、
――― なんで、あんな事言っちゃたんだろ...。あんな、信じられない位に感情的になって、何て事言っちゃったんだろ...。皆に私のメンタル的に不安定だって気付かれたかな?
地下鉄の車内で揺られ、漸く落ち着きを取り戻し冷静に考えられるようになっていた。
琴世の告白を聴いて、琴世とその相手に医師を責めるつもりはなかった、今までも時折だが当時の噂を知っている職員の好奇の目が向けられていた時も、一美達は琴世を擁護して来たのだ。その二人が今、一緒に暮らし幸せで落ち着いた生活をしているのだ、静観してあげるべきだったのに。
だけど、今夜は如何してか相手の医師の妻の気持ちでしか琴世を見る事が出来なかった自分がいた。その医師の妻の気持ちでは無い。『夫が帰って来なくなってしまった妻』の気持ちで、琴世を見てしまったのだ。
――― 明日..日勤で琴世さんとどんな顔して合えばいいのかな..。恥ずかしい事しちゃったなぁ..。
明日、素直に謝ったら許してくれるかな?それとも、逆に私に何かあったのかと訊かれるかな..。
地下鉄を降りて夜風に当たりながら歩くうちに、琴世にすまない事をしたと反省出来るまでになっていた。
一美は自宅に着いたが、やはり誰もいない暗いままの部屋だった。
ただ、変わった事と言えば、最近気付いたのだが、夫宛ての郵便物が来なくなっていた。ポストには一美宛の物だけ。何時の間にか仕事に使っていた資料やスーツなども減っていた。
それに気付いた一美は、少しづつ...夫の存在が遠ざかって行ってしまう...寂しさよりも、このままでは、もっと大切な何かが消えゆく恐怖を感じていた。
季節的には寒さを感じる筈がないのに、寒さを感じた。それは、体感的な寒さでは無く、広い..何も無い暗い空間に一人で裸で置き捨てられた様な..心の寒さ..人の一番奥深くが孤独に震えるような寒さだった。
――― 一人は嫌。もう..一人きりは....




