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夫が家出しました  作者: 籠子
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朝方肌寒くて目が覚めた。

部屋の中が寒々としている。

何時も隣にあった夫の温もりはない。

 夫が家に帰らなくなって一カ月になる。


 まだ起きるには少し早いがベッドから出てコーヒーをいれる。

夫が家を出て行ってから夜はあまり眠れていないが、不思議と疲れてはいない。

寝つきが悪いが寝起きはスッキリしている。ゆっくりとコーヒーを飲んで大きな溜息をつくと、テーブルの上にたまっている夫宛ての郵便物に目がいく。


 夫が居ないのは、単身赴任でも出張でもない。

 初めのうちは「残業で遅くなるから、カプセルホテルに泊まります」のメールで三日に一度の外泊。その外泊も一泊から徐々に増え、三連泊、四連泊になり、外泊メールの来る回数が徐々に減り、何時の間にか一カ月の外泊になっているのである。


 こんなに長期間ホテル暮らし? 他に部屋を借りてるの?彼女の部屋?


 この場合、彼女の部屋を疑うのが無難だろうが、それまで浮気を疑うような行動が全く無かった。

いや、怪しい行動はあったのかもしれないが仕事が忙しくて一美は気がつかなかったか。


 まぁ、考えても仕方ないので取り合えず仕事に行く事にしよう。



 

 「山崎先輩!新しい先生に会いました?ふふふ、今度のはイケメンですよ」

看護学校時代の後輩の吉田香が朝から楽しげに話しかけて来る。

 山崎一美の職場は病院、この場合「先生」とは医師で、一美が勤務する病院は一年毎に若手の医師が大学から交代で来る。今は、その交代の季節だった。

 一美の頭の中は帰ってこない夫を如何しようか考えていて、若い看護師達が楽しみにしている新しい医師は正直どうでもよかった。だから、香が話す新しい医師の名前や年齢や歓迎会の事も全く耳に入ってなかった。


 朝の申し送りが終わり、さあ今日も気持ちを切り替えてえ業務に集中しよう!と、自分に気合を入れた。

 多忙を極める日勤業務は、一美をプライベートの不安や心配や悩みから一時的に開放してくれる。

ミスはあってはいけない。今は仕事以外は一切考えない!そう、自分に言い聞かせる。

 

 日勤の業務が始まって間もなく、数人の医師がナースステーションに入って来た。

回診が始まると、チームリーダーの一美はテキパキと患者の状態を報告し指示を受ける。

 見慣れない顔の医師がいた、あれが香の話していた医師か...と思ったが、気にせず自分の仕事を続けた。


 「一美先輩!あの先生チョッと感じ良かったでしょ?患者さんへの声掛けも優しいし、笑った顔もまあまあだったでしょ」香が話しかけて来た。

 「あ、ごめん。全然見てなかった」

 だって、夫の方が背も高いし顔も小さくて少しだけカッコいいもん。負けたのは年齢と将来性だけだし...あ、結構しっかり見てたね私。



 帰宅すると午後8時を過ぎていた。

真暗なリビングの電気を点けて、テーブルにコンビニで買ってきたビールを置こうとした時

「!」


今朝テーブルにあった夫宛ての郵便物が消えていた。


 帰って来てるの? それなのに何故、部屋の電気が点いてないの?


嬉しい気持ちと怖い気持ちで、恐る恐る寝室のドアを開けてみたが、そこに夫の姿はなく。

静かな家の中には、人が居る気配が無かった。

他に変わったところは無いか確かめるが、クローゼットのスーツも本も彼の貴重品も其のままだった。


私の居ない時間に来てそれだけ持って出たのね..


 一美は携帯の画面を見ながらビールを飲んでいた。

夕食はサラダとビール。食欲は無いが職業柄、一応夕食を摂らなくてはと考えてのサラダと、眠れないので寝酒にビールである。


 夫の行動に何か反応を示した方がいいのかな?

 それとも、帰りを黙って待つのがいいのかな?

 そっとしておいた方が帰りやすいかな?

 あまりにも間を空け過ぎて私にメールも出来なくなってる?

 私から連絡するのを待ってる?


 色々な事を悶々と考えてるから、いくら飲んでも酔えないし眠れない。

最近酒量が増しているのを自覚している。


 ほんのり酔いが回ったところで

悩んでも始まらない!電話は無理でもメールしよう、メールだメール。


相手を刺激しないように、優しく可愛く責めずに追い詰めず、聞きたい事や言いたい事は山ほどあるけど、抑えて。

書いては消し、書いては悩んで作り変えして、やっと出来たのが


『帰って来たのね、一緒に夕食摂りたかった』


30分近く悩んで出来たのが、これだ。我ながら情けない分だが、これ以上は良い文が出て来ないので、気持ちが変わらないうちに送信する。

 一美は悩み疲れて、そのままソファで眠ってしまった。


次の日も、早朝に目が覚めてしまった一美だったが、夫からの返信は無かった。


 今日は夕方から深夜までのシフトだったので、こんなに早く起きる必要は無かったのだが、目が覚めてしまったのだ。最近、睡眠不足なのを感じてはいるが疲労感はなく、早朝に目が覚めてしまう。、このままでは何時か仕事中に取り返しのつかないミスを起こしてしまう、と考えて昼寝をするが、やはり眠れない。



 午後3時。夫からの返信は来なかったが出勤する。

 

今夜の夜勤のパートナーは40代前半のシングルマザー樫尾靖子さん。料上手で若い看護師達は彼女からレシピを教わったりもするので『樫尾母さん』と呼ばれている。温厚な人柄で、若いスタッフの仕事やプライベートの悩みの聞き役で、彼女と話すと涙を流しながら苦しい胸の内を吐きだす患者さんや家族が少なくない。


 消灯時間を過ぎて一段落ついたころ、樫尾母さんが

「山崎さん、痩せた?何だか最近やつれて見えるわよ」とゆっくりとした口調で話しながら、私の前の椅子に座りながらコーヒーカップを差し出してきた。


今夜は静かだ。

入院患者さんは今のところ、何故か落ち着いている。何かの医療機器の作動音だけが聞こえる。

窓の外は夜空。ここは14階なので地上の明かりは気にならない。

向かいのビルに点いてる明かりも僅かになった。

悪い言い方をすると、暇だったのだ。


樫尾母さんから受け取ったコーヒーカップを両手で包むと、コーヒーの香りと手に伝わる暖かさに心が落ち着く。

カップに入った黒い液体がゆったりと揺れるのを、眺める。何も考えずに眺める。

深い、深い黒い液体の奥に自分を沈めていく。仕事の緊張の糸が切れかけて、考えない様にしていたことを思い出してしまった。


夜勤には魔物が住んでいるではないだろうか


思わず、樫尾母さん、実は私ね..と口から出そうになりながら顔を上げると、『大丈夫よ、聞いてあげる』スマイルが。


あっ..その一瞬、出そうになった言葉を飲み込んだ。


あ、危なかった。


この人は、患者の悩みを聞き出すプロだった。危うく吐露するところだったぞ。

危険だ。現在の私の精神状態でこの人と二人きり、この雰囲気は、危険だ。


その時だった。

ナースステーション前のエレベータが開く音がして、白衣を着た若い医師がナースステーションに入って来た。


「あら?宮下先生。当直?」

コーヒー飲むでしょ?と樫尾母さんが立ち上がる。

「ありがとうございます。病棟は変わりないですか?」と、例の若手医師がステーション内を見渡しながら座った。


た、助かった。

大きく息を吐くと、一美を見ている宮下と目が合った。



「...山崎さんって、結婚してるんですね?」


え!?

業務以外の初会話がそれか。いくら結婚指輪してても、いきなりその話題する?


「旧姓、何?」


続けたいんだ、この話題。

樫尾母さん、早くコーヒー持って戻ってきてよ。


「もしかして、旧姓は清水さんじゃない?」


「....」

当りです。何故わかった?


この先生何者?宮下?宮下雅弘?宮下、みやした....。

「!! 宮下?まさか...学級委員長?」

「清水だよね。この前から、面影あるなぁって見てたんだ」


宮下雅弘。小6時代のクラスメイトで、当時は、かなりポッチャリしてたので、全く気付きませんでした。

痩せて程好くカッコいいじゃない。医者になってたんだ、実家も病院だしね。


懐かしい話をしいると、宮下は救急車の到着で呼ばれて去ってしまった。

「今夜は安静だと思ってたのになぁ、呼ばれちゃった。」


深夜2時。

今夜は暖かく懐かしい気持ちで帰路についた。

同級生と仕事するのか...医師と看護師か、変な再開。自然と笑顔になる。

玄関を入ると、人気のない、また真っ暗な部屋だった。気持ちが一気に現実に引き戻される。


シャワーを浴びようとして、ランドリーボックスに自分の物ではない服が目に入った。


夫の服である。



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