七、奥能登の山神
修学旅行から帰ってきてから一週間と少し経ち、七月に入ったものの日本海側の天気は優れないままだ。
けれど、目前まで迫ってきた期末テストと夏休みの影響か、それともクラス全員が夏服になったためか、放課後の教室の中はなんとなく明るく、浮足立ったような雰囲気に見える。
隣の席で教科書や筆記用具を片付けていたアキも、少しばかり浮かれた表情で俺に話しかけてきた。
「のう、オリコさんや」
「何なん」
その呼び方は“お利口さん”みたいで微妙だぞ。
「今年も夏祭りの手伝い、来るよね」
「ああ、そっか、そうだな」
アキの実家は神社の関係者で、能登島の夏祭りには俺もアキも毎年駆り出されている。本番の夜は離れた場所から見ているだけだけれど、あの雰囲気は嫌いじゃない。
海の向こう側とはいえ、自転車でも帰れる距離に実家があるわけだし、旅行の予定が入っているわけでもない。
「まあ、その前に期末だぜ。赤点取ったら祭りどころじゃないぞ」
「うええ」
手を止めてがっくりとうなだれるアキを置いて、掃除のために机を運び始める。まあ、中間テストのときのような事件が起きなければ、きっと大丈夫だろう。やれば出来る子のはずだ。滅多にやらないけど。
いつまでたっても動こうとしないアキのところまで戻って、襟首を掴んで無理矢理椅子から立ち上がらせる。
「ほら、邪魔だからさっさと出てけ。成績優秀な先輩がいるんだから、部室行って教えて貰え」
「あいよーう……」
アキは挨拶もおざなりに、肩を落としたまま教室から出ていく。
大体、俺だって他人の心配をしている場合ではないのだ。
○
教室の掃除を手早く終わらせて、スポーツバッグを担いで廊下に出る。まだ生徒の姿がちらほら見える廊下を歩きつつ、携帯電話をポケットから出して耳に当てる。
(夏祭りとは何であるか、オリトよ)
「向田の火祭りな。島の神社ででっかい松明を燃やすんだよ」
(ほう?)
左手はバッグから飛び出ている木刀の柄に触れている。口に出さずに会話するのが難しいと部室でぼやいたとき、とりあえずこうしておけば携帯電話で話しているように見えるだろう、という先輩方からの提案だった。
「遠くから帰ってくる人もいるし、神社ではそろそろ準備始めてるんじゃないかな」
(聞いてはみたが、我にはあまり関係無さそうであるな)
「さよか」
あれからクロに関しての進展は全くなく、こうして時々どうでもいい会話をする日々が続いている。クロがはっきりと覚えている記憶は土産物屋で俺が触ってから先のものだけだったので、いつからあの場所に置かれていたのかもわからない状態だ。
階段の手前で木刀から手を離し、ポケットに携帯電話を戻す。
そのまま階段を下りて行こうとしたとき、踊り場からこちらを見上げる女子と目が合った。茶色がかった短い髪に、気の強そうな顔立ち。鞄と一緒に、帯で縛った白い道着を持っているということは、運動部なのかもしれない。
確か、隣のクラスの同級生だったかな、と思いながら階段を下りていくと、彼女の方から声をかけてきた。
「縁部君、これから同好会?」
「そうだけど」
入学してから三ヶ月の間、彼女と会話したことは無いはずだ。こっちは名前を知らないけれど、相手は俺の名前を知っている。
踊り場で立ち止まって返事を待つ。何か言いたそうにしているものの、どう切り出したものかと考えているように見える。
ということは、十中八九、伝奇同好会が絡んだ話なんだろうと予想できた。間違っても告白なんかじゃない。断言できる。
「とりあえず、歩きながらでいいかな」
「あ、うん、そね」
「ってか、俺よりアキ、じゃねえ兼塚の方が話しやすいんじゃねえの」
歩き始めてすぐに、ふと浮かんだ疑問を口にする。階段を一段飛ばしで駆け下りていた相手の女子は、手を横に振って否定した。
「そんなことないって。兼塚さんより縁部君の方が話しやすい感じ」
それはつまり、男として見られてないってことじゃないのか。
俺の表情と沈黙から機嫌の悪化を察したのか、彼女はさらに首を振った。
「いやいや、縁部君てば女子の間で人気者デスヨ、ホント。いろんなランキングで常連じゃないの」
「ランキング?」
「“和倉高校なんてもランキング”。学校のサイトから行けるはずだけど、知らないんだ」
「ネットはあんま見ないんだよ」
私は先輩から聞いたんだけどね、と続く話を適当に聞きつつ、玄関で靴を履き替えて外に出る。
「確か“お持ち帰りしたい男子”ランキングではトップだったかな」
「いや、別に聞いてないって」
「ちなみに“優しそうで優しくない少し優しい男子”にも入ってたかも」
「長いし意味分からんし」
しかし一体、誰が主催しているんだろう。プライバシーだとかセキュリティだとかは大丈夫なんかな。
「誰が誰に投票したとかって、なんか問題になりそうだけど」
「その辺はちゃんと分からないようにしてるって。それに、基本いい評価の方のランキングしかやらないから」
「へえ。っと、足元気をつけろよ」
昼まで降っていた雨のせいでぬかるんだ地面の上を、水溜りを避けながら先導して歩く。
「うん。それ、“少し優しい”っぽいじゃない」
「そうかあ?」
基準がよくわからん。
そろそろ部室に到着してしまうんだけど、本題どころかそれ以前の話にもなっていない気がする。
「ってかさ。名前、まだ聞いてないぜ」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
わずかに首を傾げた相手に無言で頷きを返す。彼女は苦笑を浮かべながら、誤魔化すように正拳突きのポーズをとった。
「に、仁谷更紗。空手部期待の新人なんだぜッ」
突き出された勢いで振り回された道着が、俺と彼女の間でぐるぐると回っていた。
○
“伝奇伝承研究同好会”と書かれたプレートが少し斜めに貼り付けられた引き戸をがたりと開けて、中に足を踏み入れる。
「入りまーすよー」
「お、お邪魔しまーす」
俺の後から、ゆっくりと部室に入ってきた仁谷が、中にいた三人に注目されて硬直する。
本を読んでいたらしい阿倍野先輩は、俺の方を見て何か思いついたように、細い目をさらに細めて微笑んだ。
「おや、縁部クン。今日も違う女の子を連れていますね。羨ましい限りです」
「んなコト言っても誰も勘違いせんですよ」
「ここにいますよ、ひとり」
先輩が指し示す先、部室の左側に顔を向ける。茫然とした表情でこっちを見ているアキが、手に持っていたシャープペンシルを取り落としていた。
「きょ、今日も……?」
「信じるな。ペン拾え。あと口閉じろ、馬鹿っぽいぞ」
思わず出てしまった溜め息に、斜め後ろに立っていた仁谷が噴き出した。顔だけ向けて睨みつけると、片手で拝むように謝られた。
「いやいや、ごめん。でも浮気は良くないよね、兼塚さん」
「浮気……?」
「だから真に受けるなっての」
そもそも彼女いないのに浮気とかどういうことか。
いつも使っている椅子を仁谷に勧めて、部室の片隅に立てかけてある予備の椅子を取りに行く。ついでにアキの頭に手刀をお見舞いしておく。
その間、じっと彼女を観察していた拝島会長は、手に持っていた地方新聞を机に置いて話し始めた。
「入部希望ではなさそうだね。それに、君自身が何か問題を抱えているわけでもないようだ」
「えっと、あー、はい」
「一応、自己紹介しておこうか。僕が会長の拝島で、こっちが副会長のアベノ君」
「仁谷です。えっと……」
「何か気がかりなことがある、ということなら、まずはそれだけを言ってくれたまえ。あとは僕たちから質問しよう」
階段で会ったときと同じように、どう話したものかと悩み始めた仁谷に対して、会長は表情を変えないまま助け船を出した。
仁谷は硬い表情のまま、少しだけ頷く。それでもしばらく考え込んだ後、恐る恐る口を開いた。
「山神様がお怒りだ、って。お婆ちゃんが」
○
仁谷の祖母は、奥能登──能登半島の北の方の村落で夫と暮らしている。
それなりの大きさの古い日本家屋で民宿を営んではいるものの、ここ最近の不景気で元々少なかった客足は長いあいだ途絶えていて、日課の山菜採りもふたりで食べる分だけになっていた。
そんな彼女が異変に気付いたのは、一週間ほど前のことだった。
「その日の朝は珍しく晴れたんで、久しぶりに山のお社までお参りに行ってみたらしいんです」
しかし、山神を祀っていたという崖の上の社に辿り着くことはできなかった。社へと続く山道は、土砂崩れによって通れなくなってしまっていたのだ。
土砂崩れの原因が梅雨の長雨の影響なのか、あるいは崖下で行われていた開発工事のせいだったのかはともかく、危険を感じた祖母はそのまま山を降りることにしたという。
それからまた、何日か雨が続いた。
「それでお社が心配になったみたいで。一昨日、崖の様子を確かめるために、建設会社が工事用に使ってる道をこっそり通ろうとして……」
結局、その日も祖母は目的を果たせなかった。途中で道を塞ぐように積み重なった倒木と、その手前で倒れている怪我人を見つけてしまったからだ。
工事関係者と思われる男の状態は酷く、祖母は慌てて家に戻って救急車を呼び、現場に舞い戻った。そしてそのまま、怪我人に付き添って麓の病院まで行ったらしい。
「ああ、これか。記事にもなっているね」
話を聞きながら新聞をめくっていた会長が、全員に見えるように大きく広げた新聞を差し出した。
横から覗き込んだ阿倍野先輩が、“山中で崩落か”と題された記事の内容を口にする。
「場所は穴水町の山中、怪我人はまだ意識不明、現場の調査は難航中ですか。これだけだと詳しいことは分かりませんね」
「お婆様は、これが“山神様”の仕業だと考えている、ってことで間違いないかい」
会長の質問に、仁谷は首を縦に振る。
「お母さんからの又聞きですけど。崩れるような斜面でもないのに、道路の近くの木だけが薙ぎ倒されていたみたいだ、とか」
電話で話を聞いた母親は勘違いじゃないかと答えていたものの、仁谷は不安に思ったようだ。
「血筋か知らないですけど、お父さんもお婆ちゃんも霊感ある方みたいで」
「霊感って、なんか見えちゃったりとか?」
「なんか取り憑かれちゃったりとか?」
「さすがにそれはないけど。この先はやな感じがするなーって感じで、違う道を通ってみたり」
そりゃ残念。会長も言ってたけど、俺やアキの能力はやっぱり珍しいらしい。
「どうしようか悩んでたら、部活の先輩が“伝奇同好会”に行ってみたらって」
「ああ、それで俺に声をかけたんだ」
「そゆこと」
思案する会長の様子を窺いながら、仁谷は軽く頷いた。
誰も話さないまま、沈黙が少し続いた後、会長が口を開く。
「お婆様の民宿には、四人くらい泊まれたりするのかな」
「正月とか家族で行ったりしてるんで、大丈夫だと思いますけど」
「ちなみに今週末は空いている?」
「それは聞いてみなきゃですけど……もしかして行くんですか」
仁谷の問い返しを、会長は当然じゃないかと肯定した。注目する俺たちを見回しながら、にやりと笑みを浮かべる。
「こんなネタ、そうそうあるもんじゃないよ。金曜までに事前調査を終わらせて、土曜の授業が終わったらお邪魔させてもらうよ。勉強合宿のついでに、フィールドワークといこうじゃないか」
こうなった会長は止められない。見た感じ先輩も乗り気のようだ。
まあ、俺も少し面白そうだとは思ってるし、一点を除いて異論はないんだけれど。一応、駄目元で聞いてみよう。
「……フィールドワークだけ参加とか有りっすか?」
「もちろん、却下するよ」
そんなわけで、そういうことになったのだった。