六、《魔剣》スヴァルト(仮)
クロに対抗するように姿勢を正した拝島会長は、右手の人差し指を黒い木刀に向ける。
「自分が《魔剣》である、というのは確かなんだよね」
「うむ。たとえ銘を忘れていようと、それは確かである」
「《魔剣》としての使命だとか、果たすべき役割だとかも覚えていないかな」
「使命、であるか」
会長の問いかけに対して、クロは少し考える素振りを見せた後、顔を上げた。
「使命に関してはわからぬ……だが、“主の望むままに”。これが我の《魔剣》としての役割であろうか」
「主とは、持ち主とか使い手のことかな。例えば今なら、アキ君が主になる?」
「誰であれ、我を持ち、我を振るう者が主である。だが、この小娘については判断が難しい。小娘と我は一体となっている故に」
ふむ、と考え込む会長の左側、辞典を調べつつ話を聞いていた阿倍野先輩が手を止めた。
「そういうことなら、“選定の剣”の線は除外しても良さそうですね」
「何すか、それ」
「簡単に言ってしまうと、使い手を選ぶ剣になるのかな。アーサー王に授けられたエクスカリバーみたいな感じですが、分かりますか」
まあ、なんとなく。黙って頷くと、先輩は言葉を続けた。
「ちなみに縁部クンじゃなくても、誰でもこの木刀を買える状況だったんですよね」
「あー、そっすね。木刀自体あんまり売れてないっつーか、見向きもされてない感じだったけど。買えないってことはなかったんじゃないかな」
「では“グラム”の線はなし、と」
その言葉を聞いて、むむ、とクロが首を傾げた。メガネが蛍光灯の光を反射する。それは、好物の甘味の話を耳にしたときのアキの仕草と似ていた。
「“グラム”とな。なんとなくだが、それでも構わないような気がするぞ」
「そうかあ? 何か軽そうな名前だぜ」
「重厚な名ではないか、オリトよ。我も主を選んだ方が良いかもしれぬなあ」
言ってろ。
「しかし、アレは《魔剣》というより《神剣》ですからね。恐らく違うと思いますよ」
「む、そうであるか……」
残念そうに呟くクロを嗜めるように、先輩は真面目な表情で口を開いた。
「そもそも伝承に名を残しているかどうかも分からない状況ですし、違う名前を安易に受け入れるのは止めておいた方がいいですね。自己矛盾によって自分を見失ってしまいかねませんよ」
「そ、そうであるか」
「最悪の場合、消滅してしまうでしょうし。そうなったら勿体ないじゃないですか」
「むむ……ん? 勿体ない?」
「まあ、“クロ”という名前によって存在が安定しているようですから、デメリットばかりではありませんが」
クロの困惑を無視しつつ、先輩はノートに単語を書き込んだ。書き写されたルーン文字の上に、ふりがなを振るように書かれたアルファベットは、どうやら英語ではないようだ。
「解読できたんすか」
「はっきり読めた部分だけですけどね。あまり期待に沿えるような内容では」
「いいから、早く教えぬか」
右手で長机を叩き、腰を上げて顔を寄せるクロに対して、先輩は慌てて答えを返す。
「“SVARTR”。古ノルド語です。ドイツ語ではシュヴァルツ。意味としては“黒”ですね。これ、縁部クンが付けた方の名前でしょう?」
○
パイプ椅子に腰を落としたクロは、長机の上に視線を落とし、肩を震わせつつ、木刀から黒い瘴気のような気配を立ち上らせている。
「つまり、消滅を恐れた自我が本能的に“クロ”という名前を自分のモノとすることで、自身の安定を図ったということかい」
「恐らくはそうでしょうね」
「べ、別にこの名前が気に入ったわけじゃないんだからね! って奴っすか」
「それはちょっと違うのではないかと」
違うらしい。口では嫌がっていても体は正直だな、とかそういう感じだろうか。
「でも良かったな、クロ。消えちゃう心配は無いみたいだぞ」
「ちっとも良かないわい!」
顔を上げてこっちを睨んできたクロは、少し涙目だった。
「我が知りたいのは本来の銘に、本来の記憶だ。このままクロクロ呼ばれていたら本当に“クロ”になってしまうわ」
「もうなってるじゃないか」
「認めんぞ。大体、むかし飼っていた猫の名前と一緒とはどういうことであるか」
「買ってたっつーか、ウチに住み着いてた感じだったな。いつの間にか居なくなっちゃっててさ。って、アキから聞いたのか」
「その通りである。だが、そんなことは聞いておらん。何だその無駄知識は」
「いや、だってお前から言い出したんじゃんかよ」
俺とクロのやりとりを黙って眺めていた会長が、そういえば、と口を開く。
「記憶といえば、“オージン”については何か思い出せたかい」
「いいや、やはりはっきりせぬな。あれはみすぼらしい農夫であったような、そも人ならぬ化生であったような」
そう言いながら首をひねるクロに対して、会長も同じように首を傾けた。
「確か、一昨日はさっぱり思い出せないと言ってなかったかな」
「そうであっただろうか」
「俺も覚えてるぜ。今みたいに具体的な単語なんて出てこなかったけど、それも忘れちゃったとかか?」
「むむ……」
考え込むクロに対して、阿倍野先輩がメモをとる手を止めて顔を上げた。
「《土蜘蛛》を倒したとき、その力が木刀に吸い込まれていったんでしたっけ」
「クロはそう言ってたっすけど」
「もしかすると、そのせいかもしれませんね」
先輩の言葉に、全員から疑問の視線が集中する。そのせいって、どのせいだろうか。
「力を吸収したことで“オージン”に関する記憶がわずかに戻ったとか。それによって前後の記憶が混乱しているのかもしれません」
再び勢いよく立ちあがったクロは、身を乗り出して先輩に問いかける。
「力が戻れば記憶も戻ると考えてよいのであるか」
「あ、あくまで可能性ですけどね」
「力を取り戻す方法は他にないのか」
「さて、自分にはちょっと……」
助けを求めるような先輩の視線を受けて、拝島会長が下唇に指を当てた。
「どこかで祀ってもらうのが一番安全で確実なんだろうけど、名前が分からないことにはそれも難しいか」
そこまで言ったところで、会長は何かを思いついたように口を閉ざし、口の端をわずかに上げる。
「そうだねえ。僕の代わりに悪霊と戦ってくれるなら、その分だけ力も取り戻せるかもしれないね」
○
それからしばらくの間、修学旅行はどうだったとか、梅雨明けの時期だとか、他愛も無い会話が続けられた。
木刀はというと、会長に対する返事を保留にしてスポーツバッグの中に戻っている。
先輩たちが興味を持つような事件が起きない限り、同好会としての活動はほとんど無い。部室にいる間の時間は、雑談や読書、テスト前の詰め込み勉強などで占められている。
今日の所はクロについての進展も無いだろうし、先輩の助けを借りるような宿題も出ていないし。そんなわけで、一時間ほど部室で過ごした後、俺とアキは家に帰る事にした。
「んじゃ、お先っす」
「お疲れさま。気をつけて帰りたまえ」
「うっす」
駐輪場へと速足で向かうアキの後ろを歩きながら、バッグに収められた木刀の柄に手を置く。
(どうにも胡散臭いのであるが……あの女、本当に信用できるのか)
「何だよ。せっかく手助けしてくれるってんだから、好意は素直に受け取っておけよ」
(あの女、我らに何か隠しておるぞ)
「そりゃそうだろ」
中途半端な時期に転入してきて近所の悪霊を根こそぎ退治なんてするような会長に、秘密が無い方がおかしいっての。
(……どちらにせよ。主が我を使うというのなら、それに従うまでだが)
「“主の望むままに”だっけか。《魔剣》も大変だな」
(いいや。我はあくまで剣であるからな。使い手を導くことはあれど、操ることは無い)
「とか言って、記憶が戻った途端に暴走するとか止めてくれよ」
(さて、な)
傍から見れば独り言のような会話を続けていると、校舎の角を曲がろうとしていたアキが立ち止まった。つられて立ち止まると、校舎の影から白衣の大男が姿を見せた。
「あ、保国先生だ」
「おう、兼塚。縁部もいるな。後の二人はまだ部室か」
「うっす。見回りっすか」
「お前らが部室棟に移ってくれりゃあ、こっちまで来なくて済むんだがな」
先生はそう言いながら、右手に持ったボールペンで頭を掻いた。左手のボードには、下校確認用のチェックリストが挟まれている。
学校から認可されていない伝奇同好会であっても、そこに生徒がいる以上は巡回する必要があるってことなんだろう。他の先生ほどではないけれど、保国先生も面倒くさそうな表情だった。
「だったら、保国先生が顧問になって下さいよー。あそこちょっと寒いし、雨の日はジメジメするし」
「そいつは御免だな。お前らの校外活動まで面倒見てられん」
俺たちに背を向けた先生は、校舎から体育館へと通じている通用口の施錠を確かめて、チェックリストに丸をつけた。
「そういや、いつもの万年筆じゃないっすね」
「ああ。一昨日ので、ちょっと機嫌損ねちまってなァ。療養中なんだわ」
それは修学旅行のパンフレットに書いていたのが原因ということだろうか。先生は「一点モノでな。門外漢が手入れするのも怖いから、知り合いに頼んでな」とか何とか聞いてもいない説明を始めたけれど、そこまで興味を持っているわけじゃない。
「それじゃ、お先に失礼しまっす」
「しまーす」
「お、おう。寄り道するなよ」
軽く礼をして自転車置き場へと歩き始めた俺たちの背後から、「そうだ、縁部」と先生の声がかけられる。
立ち止まって振り返ると、先生は右手のボールペンでスポーツバッグを指し示していた。
「何すか?」
「うるさく言うつもりはないんだが。人のいるところで物騒なモノ、振り回すんじゃないぞ」
「分かってるっすよ」
「うむ。怪我人が出て困るのは俺だからな」
じゃあな、と手を振りながら、今度こそ校舎裏へと歩いていく先生を黙って見送る。
先生の姿が校舎の向こうに消えたところで、左手を木刀の上に置いた。
「お前が《魔剣》だって気付いたとか、無いよな」
(そこまではわからぬ。だが、少なくとも彼奴からはあの女のような妖しい気配は感じなかったな)
アキが何度も世話になってるから他の先生よりは親しく話しているけど、面倒見のいい保健室の先生ってこと以外、あんまり知らないんだよな。
「ってか、会長が妖しいって何だよ」
(言葉にするのは難しいが……あの女は“白”であろうか。我とは確かに相性が悪そうであった)
「白、ねえ」
よくわからなかったので、話を切り上げてアキの後を追うことにする。
暗くなってきた空の下、自転車置き場から自分の自転車を引っ張り出して校庭の端を走り、正門から外に出た。
前を走るアキの鼻歌が、湿った空気に乗って漏れ聞こえてくる。音程を外し過ぎていて、何の曲だかさっぱり分からない。
下宿先のアパートまでまっすぐ帰れば十五分。けれど、今日は途中で進路変更しなきゃならないのを思い出した。
信号待ちで止まったアキを追い越し、鼻歌を遮って声をかける。
「わりぃ、忘れてた。今日バイトだったわ」
「あれ? 月曜日は休みじゃないの」
「修学旅行で金曜休んだから、その替わり」
なるほど、と納得するアキ。
「じゃあ、晩御飯は無しだね?」
「ああ。おばさんがもう用意してたら悪いけど。また明日な」
交差点を右に曲がって、バイト先のコンビニへと続く道を走る。遠くに灯り始めた温泉街の光を目指す。
他人に見えないものが見えたり、《魔剣》を手に入れたからって、まだ高校一年生の学生生活が劇的に変化するなんてことは、どうやら起きないようだった。