伍、伝奇同好会について
ことの起こりは去年の二学期までさかのぼる。それは俺やアキがまだ中学生だった頃の話で、阿倍野先輩から伝え聞いただけなのだけど。
夏休みが終わってすぐに和倉高校へと転入してきた拝島先輩は、七不思議を依代として高校に巣食っていた歪んだ“想い”を力技で一掃したらしい。そして彼女は、そのときに知識面でサポートした阿倍野先輩を無理矢理引き入れて、伝奇同好会を勝手に創設した。
それから約半年、いくつかの怪奇現象を解明したり、あるいは有耶無耶のまま終息させたりと、伝奇同好会の活動は学校の内外を問わず行われた。それに伴って、拝島会長と伝奇同好会の噂は、生徒はおろか教師の間にまで広がっていった。
そんなわけで、俺が入学した頃には、伝奇同好会は七不思議に代わる新たな不思議として和倉高校に君臨していたのだった。
○
週が明けて月曜日の授業は、相変わらず冴えない曇天と修学旅行の疲れもあって、だらけた空気のまま終わりを告げた。
まあ、どんな空気であっても隣の馬鹿は居眠りするんだが。
「アキ、起きろ」
「……ごはんできたら、起こしておくれ……」
ぐんにゃりと机に突っ伏し、ポニーテールをタコの足のように広げているアキは、ぴくりとも動かないまま低い声で応える。
どんだけ寝るつもりだ。ここはお前の家じゃないぞ。
「掃除の邪魔になるだろ。ってか、当番なんだから掃除しろよ」
「ぐえ」
襟を掴んで引っ張り上げる。息を詰まらせたアキは、抗議の視線を俺に向けつつも、しぶしぶ重い腰を上げた。
「んじゃ、先に部室行ってるからな」
「あいよーう」
夢遊病者のようにふらふらと動き始めたアキをクラスメイトに差し出して、木刀が入ったスポーツバッグを肩にかける。教科書とノートが入った鞄を手に持って、少しだけ騒がしい廊下へと出た。
廊下の窓からは、薄曇りの空と静かな内海──七尾湾が広がっているのが見える。海の向こうには、去年まで住んでいた能登島があり、手前の海岸沿いには海風よけの松林が東西に長く伸びている。
窓際に歩み寄ってさらに手前を見下ろすと、学校の敷地を囲むブロック塀と、我らが伝奇研究会の本拠地である古びた物置が視界に入ってくる。物置の前には、日本人形のような長い黒髪の上級生、拝島会長の姿があった。
鞄の中から扉の鍵を取り出そうとしている会長に声をかけようか迷っていると、手を止めて顔を上げた彼女と目が合ってしまう。会長は、よく通る声でこちらに呼びかけてきた。
「さっさと降りて来たまえ。その気配は朝から気になって仕方ない」
「あー、了解っす」
会長とのやりとりを聞いていた周囲の生徒からの注目の視線を浴びながら、階段に向かって移動する。階段を降りるときに、バッグから落ちないように支えた木刀から疑問の声が伝わってきた。
(あの女、我に気付いておったか?)
「会長は“怪異センサー”だからなー」
俺のように“見る”ことはできなくても、会長は気配を敏感に感じ取ることができるらしい。部室からでも校内のわずかな異変を察知できるというから、クロの存在はお見通しだったんじゃないかと思う。
「そういや、言ってなかったけどな」
(ふむ?)
「会長には逆らわない方がいいぜ。わりと情け無用なところがあるから」
(折角の手掛かりを無碍に扱うつもりは毛頭無いが。我が気を使わねばならぬほど強いのであるか)
「気をつけないと、さっくり封印されて海に捨てられちゃうかもな」
(むう……)
実際のところは、いくら会長でも“さっくり”とはいかないだろうけれど。これくらい脅しておけば少しは大人しくなるんじゃないかな、と期待してみる。
下駄箱で靴を履き替えた後、グラウンドを見ながら校舎沿いに歩いていく。修学旅行に行く前は長雨のせいでぬかるんでいた地面も、何日か雨が止んでくれているおかげで今日は歩きやすい。
自転車置き場から出てきた帰宅部のクラスメイトと挨拶を交わし、校舎裏へと回り込む。ゴミ置き場と古い焼却炉の向こう側に部室が見えたところで、後ろから走り寄ってきた誰かに肩を叩かれた。
立ち止まって横を向くと、伝奇同好会のもうひとりの上級生、阿倍野先輩が笑顔で片手を上げていた。笑顔は爽やかなんだけれど、狐を思わせる顔つきのせいか、なんとなく腹黒さを感じてしまう。実際はどうなのかは、知り合ってからふた月程度ではまだ何とも言えない。
「無事なようで、何よりですよ」
「っと、ちわっす」
スポーツバッグからはみ出した木刀をちらりと見ると、先輩は再び歩き始めた。俺もその後についていく。
「それが、例のアレですか」
「アレっす」
「一応、昨日のうちに少しばかり調べてはみましたが、やはり現物を見ないことには何とも言えないですしね」
「なんかわざわざすんません。こんな木刀のために」
「いえいえ。いい機会ですから、いろいろ試してみたいですねー」
何かを指折り数える右手といい、なんだか言動が怪しい気がする。クロは別にどうなっても構わないけど、俺まで付き合わされそうな。
「ずいぶん乗り気なんすね」
「ちゃんとした意志疎通が可能な“人ならぬモノ”との接触なんて、一介の高校生にはなかなかできることじゃありませんからね。これを逃すなんてできませんよ」
「はあ」
そんなものだろうか、と生返事を返してしまうと、先輩の言葉にさらに熱が入ってしまった。
「縁部クンはいろいろ“見える”からいいですよね。自分なんか霊感が皆無ですから。水を入れたコップに葉っぱを浮かべても、全然変化無いですしね」
それは何か違う奴のような。何だっけ。
「ってか、“見える”っつっても面倒なだけっすよ。うっかり目が合っただけで粘着されたりとか。先輩たちが居なかったら、中間テストの結果がどうなってたやら」
「何とも勿体ない物言いですねえ……」
恨めしそうな目で見られても、実際そんなもんなのだから仕方ない。先輩は少しだけ肩をすくめると、開いていた引き戸から部室へと入っていった。
○
入口とその両側にある曇りガラスの窓から差し込む外の光が、部室の中を照らしている。向かい側の壁面にはステンレス製の棚が並んでいて、埃を被った掃除用具や教材の合間に、新しめのダンボール箱やクリアファイルが置かれている。
部屋の中央には折り畳み式の長机がある。首を右に向ければパイプ椅子に座り、腕を組んだまま動かない拝島会長が目に入る。その後ろを阿倍野先輩が通り抜け、奥の席に座ったところで、会長が口を開いた。
「アキ君は元気かい」
「いつも通り寝てたっすよ。掃除終わったら来るんじゃないかと」
「大事なくて良かった。では、さっそく見せて貰うとしようかな」
先輩ふたりの視線が、スポーツバッグに突き刺さった黒い木刀へと注がれる。急かされるままに、鞄とスポーツバッグを手前のパイプ椅子の横に置いて、木刀を引っ張り出した。
そのまま長机の上に置いた木刀に、阿倍野先輩が顔を近付ける。
「これは……」
「え、もう何か分かったんすか」
それはさすがに無いだろうと思った通り、先輩は「いいえ」と首を横に振った。
「どう見ても普通の木刀ですがね、そうじゃなくて。縁部クン、これ本当に九百八十円で買ったんですか」
「黒漆塗の直刀。材質は分からないけど、普通に買ったら福沢諭吉とお別れする必要がありそうだが」
先輩方の見立てだと、十倍以上の価値があるってことか。家宝にするべきだろうか。
「まあ、確かにこいつだけ何か違ったんすけど。店の人も覚えが無いみたいな感じで」
「なぜ紛れ込んでいたのか、その辺りも気になるところだねえ」
「ちょっと触ってみてもいいでしょうか」
我慢できなくなったのか、阿倍野先輩がじわじわと手を伸ばす。大丈夫だろうか、どうしたものかと右を見る。
「いいんじゃないか。オリト君もアキ君も、体調を崩してはいないようだし」それにどうせアベノ君だし、と小声で呟いたような気がした。
「それでは」
口を挟む間もなく、先輩は木刀を掴み、持ち上げた。その表情がわずかに曇る。
「おや、結構重いものですね……しかし、塗りも丁寧ですし、やはり安物ではありませんよ」
「アベノ君は鑑定士になればいいのにねえ」
「嫌ですよ。自分はまだ、陰陽師か祓魔師になる夢を捨ててませんから」
「そうは言ってもねえ。君の場合は動機が不純だし」
「ってか、声が聞こえたりとか、身体が勝手に動いたりとかは無いっすか」
ふたりの淡々としたやり取りを遮って尋ねたものの、先輩はまた首を横に振った。
「いえ、全然」
「何しろ“霊感ゼロ”だからね。知識はあっても適性が皆無だよね」
「聞いたり操られたり、してみたいもんですねえ、まったく」
ぶつぶつ呟きながらも、木刀を捧げるように両手で持って、いろんな角度から観察を続けている。そして、柄に刻まれている文字に気がついたところで動きが止まった。しばらく注視した後、先輩は木刀を長机の上に戻すと、鞄から筆記用具を取り出し始めた。
「読めそうっすか」
「予想通りルーン文字のようですが、かすれている部分が多いんで難しそうですね。まあ、少し待っていてください」
文字をノートに書き写し始めたその横で、会長が組んでいた腕を解いて俺を手招きしてきた。
「なんすか?」
「本人の話も聞いておきたいんだけれども」
パイプ椅子ごと移動して尋ねてみると、会長の手は木刀を指差した。
「でも、こいつホント何も覚えてないっすよ」
「オリト君はそれなりに対話しているだろうけれど、僕たちは全然だからね。視点を変えれば何か分かるかもしれないし」
「そうですよ。《黒小人》や《土蜘蛛》を撃退したときの話も詳しく聞きたいですね」
言われてみれば、一昨日のことは電話とメールでしか話していなかったか。事後報告も適当だった気がする。
「だったら、会長が直に触って聞いた方がいいんじゃないすか」
「ふむ……いや、今はやめておこうかな」
何故だろう。会長ならクロの声も聞けるんじゃないかと思ったんだが。
「僕とは相性が悪そうだし、用心するに越したことはないからね。それに、もうすぐアキ君が来るんだろう?」
「まあ、来るっすけど」
「それなら、話を聞くのは全員が揃ってからにするとしようか」
それだけ言うと、会長は再び腕を組んで、パイプ椅子の背もたれに身体を預けた。
○
(つまるところ、このふたりは学業の合間に怪物退治を繰り返しているのであるか)
「怪物っつーとちょっと違う気もするけど、まあそんな感じかな」
(この男が怪しい事件の下調べを行って、この女が実際に戦り合うわけか。さて、得物は何であろう?)
「俺の時は御札を使ってたぜ。さすがに会長でも凶器を持ち歩いたりは……しないっすよね」
「うん? さすがにそんな機会は滅多に無いよ」
「完全否定はしないんすね……」
アキが来るまで暇になった俺は、木刀に手を伸ばして、改めてクロに先輩たちと伝奇同好会についての説明をしていた。その間、阿倍野先輩は分厚い辞典や携帯電話を使って解読を進めており、会長の方は黙ってクロを観察しているようだった。
(……む、小娘が来たようだぞ)
「そか」
椅子から立ち上がって外に顔を向けると、誰かが駆けてくる足音が聞こえてくる。だから走るなってのに。
「遅くなりましたー。って、なに、なに?」
「いいから、ほら」
「うん?」
勢いよく部室に入ってきたアキの背中を押して移動させ、椅子に座らせた。持っていた鞄を取り上げて、かわりに木刀を押しつける。反射的に受け取ったアキの身体が一瞬だけ固まり、メガネの奥の目つきが鋭くなった。
「あっさり交代したな」
「我もいささか拍子抜けである」
クロはそう言うと、左手に持ち替えた木刀を床に突き立てた。背筋を伸ばし、その視線は正面に座る会長を見据えている。
「さて。名乗りを上げられぬこの身が恨めしいが、よろしく頼むぞ」
「こちらこそよろしく頼むよ、“クロ”君」
「……オリトよ。この憤りはどこに向ければ良いのであろうな」
もう諦めたらいいんじゃないかな。