参、《黒小人》と《魔剣》
保国先生がバスへと戻っていった後、俺はアキが目を覚ますまで旅行のパンフレットを読んで時間を潰していた。
駐車場から出て行ったバスは、あと何箇所か史跡を巡ってから宿に向かう予定で、その後は夕食と風呂、就寝。明日は日曜日で、朝食後すぐに地元へと出発し、学校で解散と。
「オリコー?」
「んー」
のそりと動く音と小さな声に顔を動かすと、ベンチに横になったままこちらを見上げるアキと目が合った。俺の顔を見て、硬かった表情が少し和らいだ気がする。
「お腹空いた。まんじゅう」
「お土産だっつったろ馬鹿」
いつも通りのアキだ、はやくなんとかしないと。アキは目を閉じると、独り言を呟き始めた。
「お土産買って、駐車場まで走って……また取り憑かれちゃった、と」
「ああ。怪我は無いけど、先に旅館に行ってろってさ」
「そっか」
パンフレットを丸めてスポーツバッグのポケットに突っ込む。立ち上がった勢いで深呼吸してしまって、独特の臭いを再認識することになった。
「ここ鹿臭いし、動けるならさっさと移動しようぜ」
「んー」
起き上がろうとして身体を捻ったアキが、その途中で動きを止める。そして、すぐに元の姿勢に戻って、枕がわりにしていたスポーツバッグにまた頭を預けた。
「まだ気分悪いか?」
「えーっと」
アキは苦笑する。その表情は、ぼんやりしていて先生から聞かれたことがさっぱり分からない、何て答えたら良いのやら、ってときの奴だ。
「なんか、右手、動かないみたい」
○
タクシーで移動することおよそ十分。郊外の山際に建つ旅館は、築何十年も経っていそうな古い本館と、その奥に建つホテルのような外見の別館がアンバランスな雰囲気を漂わせている。
どうやら保国先生から連絡が入っていたらしく、旅館に着いてすぐに出てきた従業員の男性が、部屋へと案内してくれた。途中の廊下は、行きかう従業員たちで慌ただしかった。これから来るはずの同級生たちを出迎える準備中、だろうか。
案内された部屋は別館の一番奥だった。体調不良になった生徒のための予備の部屋だという従業員の話を聞きつつ、アキを先に部屋に入らせる。
「薬やタオルが必要でしたら、フロントにお伝えください」
「あ、はい、どもっす」
「ゆっくりお休みくださいませ」
お辞儀をする従業員にこちらも軽く会釈をして、そっとドアを閉める。
靴を脱ぎ、鞄を持ち直して部屋に入る。既に敷かれていた布団の上で、アキが座っていた。俺に気付いたアキは、髪ゴムを弄っていた左手を止めて、こっちを見た。
「オリコ、ごめんね」
「いいって」
荷物を置いて、アキの側に座る。右腕が動かないことを除けば特に問題なかったので、ひとまずタクシーで移動したのだが。
「まだ、右手動かないか」
「……うん」
あの“黒いの”が無理矢理動かそうとしたアキの右腕は、今のところ回復する気配を見せない。
取り憑かれた後遺症によって、一時的に身体が動かしにくくなる、ということは何度かあったけれど、今回のように完全に動かないのは初めてらしい。
何だってアキがこんな目に遭わなきゃならないのか。拝島会長は気をつけろと言ったけど、こんなのどうしろって言うんだ。
「……オリコ」
って、俺まで沈んでいる場合じゃないな。俺たちの手に負えないこの状況には、アキの方が困っているだろう。
「ま、大丈夫だろ。先輩たちなら何とかしてくれるって」
そう言ってすぐに、ジャージのポケットに入れていた携帯電話が震えた。取り出してみると、“会長”からの着信だった。
立ち上がり、通話ボタンを押す。スピーカーから、会長の声が聞こえてくる。
『今、大丈夫かな』
身振りでアキを布団に寝かせて、邪魔にならないように窓の方に移動してふすまを閉める。
「はい、オッケっす」
『すまないね。教諭に用事を頼まれていて、気付くのが遅れた』
それでも、メールを送ってから三十分も経っていない。感謝すればこそ、だろう。
『メールで大体の状況は把握した。最悪ではないが、それなりに悪いとみえる』
「……ええ」
“黒いの”が襲ってきたこと、アキの右手のこと、それから《魔剣》のこと。
タクシーの中で送った支離滅裂なメールの内容を、会長はちゃんと解読してくれたらしい。
『まずは、いくつか質問させてくれ。僕がそっちに行ければ一番いいんだろうけど、アベノ君が検索したところによると、支度をしていたら今夜中に到着できないようだしね』
明日の午前中にはバスで学校まで帰る予定だから、すれ違いになってしまうか。
会長の質問に答える形でメールの内容を補足していく。一通り話が終わった後、アキの現状を伝える。
「アキの右手、まだ動かないみたいなんですけど」
『ふむ……歪んだ“想い”が心の中に残留すると、呪いとなって肉体的、精神的な悪影響を引き起こす。時間が経っても回復の兆しが見えないのなら、こちらで祓う準備をしておく必要があるかな』
“黒いの”が狙っていたのは俺のようだけど、アキはそのとばっちりを受けたような形だ。
基本的に“見る”ことしかできない俺には、呪いの祓い方なんて見当もつかない。
『呪いそのものはそう心配しなくていい。君たちが戻ってくるまでに、準備を整えておく』
「お願いします」
『それよりも心配すべきなのは、悪霊の……ああ、うん、わかったよ。いつもながら細かいね君は……おっと、すまない。アベノ君が言うには、《黒小人》と呼ぶべきらしい。その《黒小人》のお仲間が、その呪いに引き寄せられてやってくる可能性だ』
「どういうことすか?」
『方向性の似通った“想い”は引かれ合って結合し、より大きく、純粋になっていくことがある』
それを聞いて、急いでふすまを開き、部屋の中を見渡す。
『呪いが重なれば、それだけ定着してしまって、祓うのが難しくなる。君の“炎憑き”と同じように、後遺症が残るかもしれない。アキ君にはこれ以上、触れさせてはいけないよ』
部屋の片隅、畳の床から染み出してくる《黒小人》らしき人影。それを見つけた瞬間、俺の体は動いていた。
ゆっくりと動き始めたそいつとアキの間に割り込んで、携帯電話に話しかける。
「触れさせちゃ駄目って、どうすれば──」
問いかける間もあればこそ。そいつは金槌を振り上げ、飛びかかってきた。
とっさに空いている左手を差し出して受け止めようとするものの、《黒小人》が振り下ろした得物は俺の左手をすり抜けてしまう。
強烈な眩暈と共に、甲高い哄笑が脳内に響き渡る。俺の左手が意志に反して垂れ下がり、その代償のように《黒小人》が消えていく。
これが呪いなのか。痛くは無いものの、左手は全く言うことを聞かない。
「オリコ、何なん?」
アキの声に振り向く。メガネをかけ直し、上体を起こして、心配そうな顔で俺を見ているアキ。その向こう側の壁から、また別の《黒小人》が出てくるのが見える。
「俺の後ろに隠れてろッ」
アキは慌てて布団から飛び出すと、よろめきながらこちらにやってくる。
『──オリト君、一昨日渡したお守りを構えたまえ。少々心もとないが、悪霊を封じる依代程度にはなる!』
「鞄の中っすよ!」
荷物は後ろにまとめて置いてある。少しずつ近づいてくる《黒小人》から目を離してでも、お守りを取り出すべきか。
「アキ、鞄を取ってくれ」
「う、うん」
俺自身も少しずつ後ろに下がりながら、指示を出す。片手しか動かない状態で上手く取り出せるかどうか。
「オリコ!」
どさり、と俺の横にスポーツバッグが置かれる。そちらを見た俺の目に、見慣れない“武器”の姿が入ってくる。
無造作に入れられ、柄をタオルで巻かれた状態の、ついさっき土産物屋で買ったそれ。
「アキはポケットからお守り出してくれ。俺は、こいつで!」
携帯電話を捨ててタオルを引き剥がし、露わになった木刀に手を伸ばす。
《魔剣》だってんなら、何とかしてみせろッ──
○
無尽の荒野。冷たい風が吹くその場所に、俺は一人立っている。
俺の左腕はジャージの袖ごと石化していて、右手に持つ黒い木刀がそれを見咎める。
『良い様ではないか、オリトよ』
「うっせ」
いきなりだったんだよ。ちょっと地元を離れるだけでこんなに大変なことになるとは思わなかった。
「それより、今の状況はわかってるよな」
『無論である。《魔剣》たるもの、常に主の動向を注視しておらずにどうするか』
他にすることが無かったんだよな。
相変わらず偉そうな物言いだけれど、“こっち側”に引き込んでくれたおかげで、多少は考える時間ができた。
色の無い世界の中で、思考を口にする。
「相手は《黒小人》。どれだけ集まってくるか分からない」
『我を振るうが良かろう。我に斬れぬものなしと思え』
「触っただけで左手がこんな状態なんだけど?」
『我の力と比べれば、程度の低い呪いであろうが。そのようなもの、消し去ってくれよう』
記憶も無いのに、大した自信だな。
そう突っ込もうとした瞬間、左腕が色を取り戻した。生身でもないのに、痺れていた部位に一気に血が通うような感覚に思わず呻き声が出る。
「ッてェ……」
『さあ、これで戦えよう?』
「っつーか。クロ、お前やっぱ呪われてるんじゃねえのか」
俺の言葉に、右手の木刀は困惑したように震える。
『覚えておらぬと言っておろう。それとも主には、呪いを見極める力があると?』
「そんなのねえって」
『まあ、良いではないか。《魔剣》たるもの、呪いのひとつやふたつ、持っているのが品格というものだ』
品格ときたもんだ。
もうこいつは廃棄処分した方がいいんじゃないか? この調子だと、簡単に叩き折れるような奴じゃない気もするが。
『それより、そろそろ戻らねば危険であるぞ』
けれど、今は少なくとも、こいつに頼らないとマズそうだ。
○
スポーツバッグから木刀を引き抜いて、動くようになった左手を添える。右足を《黒小人》の方に進め、上体を捻って横薙ぎに振り切った。
確かな手応えと共に、木刀を通して悲鳴が聞こえてくる。見れば、黒い影は跡形も無く消えている。ちゃんと斬れたのか。
「おおッ!」
(気を抜くでない。また寄ってきておるぞ)
「ど、どこから!?」
(待て──上だ)
見上げれば、天井に黒い染み。その真下には、左手でスポーツバッグを探るアキがいる。
「……アキ、そのまま屈んでろ」
「は、はえ?」
言われるままに、動きを止めるアキ。天井を睨んだまま、向き直って木刀を斜め下に構える。
天井の染みは大きくなっていき、逆さになった人影が次第に姿を見せ始める。
(今だ)
「──ッ」
頭の中で告げる声に従って、落ちてくる《黒小人》に向かって木刀を振り上げた。実体のないはずのモノの重さが両手にかかると同時に、黒い人影は形を失い、木刀へと吸い込まれていく。
「……クロ、他には?」
(おらぬな。我に恐れをなしたか)
しばらく周囲を警戒して、異変が無いことを確かめる。
畳の上に転がっていた携帯電話を拾って、繋がったままの通話相手に話しかける。
「会長、お待たせしました」
『ふむ。さすがの僕にも、何がどうなっているのかさっぱりだね』
「《黒小人》はとりあえず撃退できました。しばらく大丈夫そうなんですけど、試したいことがあるんで一度切ってもいいすか」
『では、僕たちは待機しておこう。頑張りたまえよ』
それだけ言い残して、通話は終了した。
携帯電話をポケットに戻してから、スポーツバッグの横でうずくまったままのアキに声をかける。
「アキ、もう動いていいぞ」
「ほんと?」
「ああ」
アキは体を起こして、ほっと息を吐く。その左手には、会長から渡されたお守りが握られていた。
俺はアキと向き合うように座って、木刀を正面に構えて問いかける。
「なあ、クロ。アキの右手も治せないか」
(心の内に根付いた呪い、外から断ち切るのは容易ではないな)
「俺のはあっさり消せたじゃないかよ」
(それは内面で繋がっていたからであるが)
「むむ……」
アキの右手をこのまま放っておくわけにはいかない。《黒小人》が襲ってこないように寝ずの番をする、というのは体力的にも、状況的にも難しい。保国先生も担任もいい顔をしないだろう。
「どうすれば、同じように呪いを消せるんだ」
(そやつに我を持たせればよかろう)
「いいのか?」
(何であれ、主の望むように、である)
また品格とやらか? まあ、アキをどうこうするつもりは無さそうだし、背に腹は代えられない。
木刀との会話に口を挟むことなく、黙ってこちらを窺っていたアキの前に、木刀を横向きにして置く。
「アキ。こいつを持ってくれ。右手が治るかもしれない」
「……うん」
アキは持っていたお守りを俺に手渡して、左手を木刀に伸ばした。
人差し指が木刀に触れたとき、アキの全身がぴくり、とわずかに震える。その手がゆっくりと木刀を掴み、持ち上げる。
「どうだ?」
俺の呼びかけに、アキは顔を上げた。長い髪が顔にかかっていて、その表情は良く分からない。
アキの右手が持ち上がり、ゆっくりと開閉する。どうやら上手くいったらしい。
「良かった。治ったんだな」
「ん……」
アキは首を傾げて、左右を見回した。視界を遮るものに気付いたのか、右手で顔に掛かっている髪を払いのける。
その顔を見て、俺は何故か違和感と既視感を受けた。見慣れているはずのアキの顔が、別人のような、それでいてどこかで会ったような。
どうしてこうなったのか。自らの現状を理解できない。そんな戸惑いの表情を浮かべながら、アキの口は言葉を紡ぎ出した。
「──解せぬ」