壱、メイチカ・マヨイジ
金沢で特急に乗り換えてから、たっぷり三時間。いい感じに揺られ続けてすっかり寝入っていた私は、いつもの様に織人に叩き起こされた。慌てて立ち上がり、おぼつかない足取りで名古屋駅のホームへと降り立ってみれば。
「うっわ、あっつー」
「サウナじゃんねこれ。何度あるのかな」
湿気たっぷり、不快指数満点の生ぬるい空気に包まれて、思わず仁谷さんと愚痴をこぼし合う。気付いたら私の荷物まで持っていたオリコはといえば、平気そうな顔で広いホームを見回していた。
オリコの横では、エーコ先輩が今にも何かやらかしそうな雰囲気を漂わせている。何かオーラが見える気がする。髪を上げている私やショートにしている仁谷さんと違って、先輩の長い黒髪は確かに暑そうだった。
事前に印刷してあったらしい乗り換え案内と電光掲示板を交互に見ていた阿倍野先輩が、こちらを振り返る。暑さに絶賛敗北中の女性陣を見ても、先輩は「ああ、やっぱり」と肩をすくめただけだった。
「早いところ、涼しい場所に避難した方が良さそうですね」
「ああ……ぜひそうしてくれたまえ」
歩き始めた先輩たちに続いて階段を降り、連絡通路を通って改札から外に出る。賑わう広場の中央に立つ、待ち合わせ場所らしい金色の時計を見上げれば、そろそろ正午という頃合いだった。
まだ昼前なのにこの暑さなのか、と改めて先行きに不安を覚える。
「三重ってさ、もっと南の方なんだよねー」
「ここよりは涼しいと思うぜ。海もあるし」
「それはどうかなあ」
オリコが呆れたように突っ込んでくるけれど、さすがに太平洋側は暑いんじゃなかろうか。などと話しながら、私たちは地下へと通じるエスカレーターを降りていく。
再び振り返った阿倍野先輩が「折角ですし、昼飯は名物にでもしましょうか」と提案すると、オリコが真っ先に右手を挙げた。
「名古屋っつったら味噌じゃないすか」
「いいや、熱々のうどんは勘弁してもらいたいねえ」
「それじゃあ、ういろう!」
「それお昼ご飯じゃないからね」
後ろから仁谷さんに肩を叩かれ、真面目な顔で諭されてしまう。確かに、甘いものは別腹だった。
他に食べ物あっただろうか、とあれこれ話しながら地下通路を歩いているうちに、少し開けた場所に辿り着く。通路が四方に延びていて、気をつけないと迷いそうだ。
「こっちはレストラン街みたいですよ」
阿倍野先輩が指し示した方には、年季を感じさせる地下街が見えている。頭上の赤い看板によれば、この先は大きなビルの地下フロアになっているらしい。のだけれど、
「……何で『大名古屋』なんだろ」
「なんかすげえ、って感じを出したかったんじゃ?」
ビルの名前に「大」をつけるセンスは、ちょっとよく分からなかった。
地下街の入り口にあった案内図を眺めながらの相談では結論が出ず、私たちは当てもなく地下街へと足を踏み入れる。
「ってか、昼だってのに結構あちこち閉まってるな」
「言われてみればそうかも?」
電気がついていなかったり、シャッターが下りていたり。仁谷さんが見つけたの張り紙には、その理由が書かれていた。
「ビルの建て替えがあって、来月には閉鎖されちゃうみたい」
「なるほど。移転とか廃業とか、そんな感じですか」
不景気だからだろうかと思っていたら、そうじゃなかったらしい。とはいえ微妙なタイミングだったのは確かで、歯抜けになった地下街を冷やかしながらしばらく歩いて、ようやく名物らしい雰囲気のメニューが書かれた看板へと辿り着いた。
「あんかけスパゲティ、ですか……」
「ちゃんと冷たいのもあるみたいじゃないか」
「しかしどうなんすか、これ」
「えー? これくらいインパクトあった方がいいですよ?」
渋る男性陣に対して、エーコ先輩と仁谷さんは大層乗り気であり、さっさと店内に入っていってしまう。
残された私たちは顔を見合わせて、大人しく後に続くことにした。
○
「冷製カレースパ、どうでしたー?」
「うん、まあ。それなりだったかな」
早めの昼食の後、エーコ先輩と私は地下街のお手洗いに立ち寄っていた。
私が頼んだ奴はただただ熱くて胡椒辛かった印象しか残ってなかったのだけど、先輩の反応は満更でもないようだった。
「もうちょっと辛くても良かったね」
「そういうの苦手だと思ってましたけど」
「いいや、そうでもないよ。あんまり熱いのは駄目だし、好き嫌いが激しいのは間違ってない」
そういえば、期末のテスト前に行った奥能登ではあまり箸が進んでいなかったっけ。山菜ご飯はイマイチだったんだろうか。
先輩は苦笑いしながら、ポーチにハンカチを仕舞い込む。
「自炊しないひとり暮らしだからさ。子供舌という奴なんだろうねえ」
何でもそつなくこなせる感じなのに、意外な一面を告白されてしまった。
地下街を戻りつつ、先輩は私に羨むような視線を向けてくる。
「その点、アキ君は料理が出来ていいな。僕もご相伴に預かりたいものだよ」
「まだまだ練習中ですよー。エーコ先輩もお弁当作ったらどうです?」
「センスが欠片も無くてね」
練習したことはあるんだよ、と先輩は肩をすくめて前を向く。先輩の歩みが止まったのは、その直後だった。
「……油断した」
小さな舌打ち。厳しい表情で前後を見回す先輩につられて、私も背後を振り返る。
地下街の十字路。四方にまっすぐに延びる通路は、閉まったシャッターが両側にずらりと並んでいて、ずっと先まで続いている。辺りは静かで人の気配もなく、私もようやく違和感に気づくことができた。
「ええと」
前を向く。照明の光は少し暗くなったような気がする上に、あちこちで不規則に点滅している。暗がりへと続く通路には、どこにも横道なんて見当たらなかった。
これは一体、何がどうなっているんだろう。
○
エーコ先輩と私の足音だけが、長い通路に響いている。シャッターの閉まった地下街は、何百歩も休まず足を動かし続けているというのに、終わる気配を見せていない。
鞄から取り出した私の携帯電話は、液晶画面が真っ黒になっていて、どこを触っても無反応。他の人たちとは連絡がとれず、時間もよく分からない。
「やはり、普通に直進していても……抜け出せそうにない、と」
そう言いながらも、先輩の足は止まらない。ときどき左右を見たり、後ろを振り返ったりして、どこかに綻び──先輩と私が入り込んでしまった、この幻の空間から抜け出すための隙間が無いか、ずっと探しているのだ。
「オリト君の『魔剣』と、アベノ君の『白尾』。どっちも留守番というのは失敗だったな」
エーコ先輩が所属しているという「協会」にバレたくないからと、クロちゃんとウシュカは能登島の神社に預けてしまっている。どちらかでも同行していれば、私たちの状況に気づいて何とかしてくれたかもしれないけれど。
「しょうがないですよ。こんなの予想外でしたし」
「それでも、用心するに越したことは無かったかな」
「エーコ先輩のパワーじゃ出られないんですか」
「無理、ではないんだけれど」
ううん、と腕を組んで悩む素振り。
「僕が使うのは基本、相手の動きを封じたり、閉じ込めたりするものだから。呪符も無しに力技で脱出するとなると、コストの方が半端無くてねえ」
「コストっていうと?」
「カミサマに巫女の血肉を捧げるのさ。軽ければ貧血程度だけれど、今回はどうだろう。内臓の不調が出るようだと、今後の予定がちょっと狂ってしまうかなあ」
「最後の手段にしましょう」
本当にどうしようもなくなるまでは、頼らないことにしよう。そう考えている最中に、エーコ先輩の左手が私の前を遮るように差し出された。
先輩に合わせて足を止め、何があったかと目を凝らしてみる。薄暗い通路の先にはいつの間にか、天井の照明とは別の光が見えていた。
「開いてる店ですか?」
「僕たちを誘ってるんだろう。随分と古臭い化かし方だけれど、峠の茶屋のつもりかな」
しばらく考え込んでいたエーコ先輩が、心配そうな表情で私を見つめてくる。
「いいかい、アキ君。何を出されても口に入れちゃあいけないよ」
「さすがにこんな状況で食べたりしないですって」
「さてどうだろうねえ。気付いたら口の周り泥だらけ、なんてことになっていても、僕は知らないからね」
何にしても、行ってみないことには何も始まらない。疑うように呟きつつも、先輩は再び歩き始めた。
○
歩いても歩いても光に近づいていけない、なんてことはさすがになく、私たちはシャッターが開いている場所へと無事に到着した。
良くも悪くも昔ながらの雰囲気をかもし出している喫茶店の入り口には、小さな看板が置かれている。
モーニングセットらしきイラストはわかるものの、文字の方はかすれていて、はっきり読み取ることができない。サンドイッチにサラダ、目玉焼き、デザートがついて、値段はさて──
「アーキーくーん?」
「大丈夫です、見てただけです、お昼さっき食べたじゃないですか」
エーコ先輩に肩を叩かれて、膝をしゃっきり伸ばす。読めない看板から視線を上げると、ちりん、とベルの鳴る音と共に茶色のドアが開いていくのが見えた。
「いらっしゃいませ。おふたり様ですか」
幼い声が耳に届く。
内側からドアを開けたのは、おかっぱ頭の子供だった。整った顔立ち、白いシャツに黒のベストは給仕の服装だろうか。小首をかしげて答えを待つ仕草は愛らしい。見た感じ、十歳くらいの少年に見えるのだけれど、実際はどうなんだろう。
そんなことを考えている間に、エーコ先輩と私は店内へと案内されていく。
わずかに漂うコーヒーの香り。小さなテーブル席に向かい合って座ると、少年はメニューを置き、軽く会釈して立ち去っていく。
周りの様子を確かめる。ジャズだか何だか、小さな音量で音楽が流れている中、私たち以外に何人も客がいるように思える。けれど、他のテーブルはぼんやりとしていてよく見えない。
細長いメニューを開いて眺めていたエーコ先輩は、首を振ってそれをテーブルの上に置いた。色々と書かれているはずの中身は、灰色に霞んで読むことができなかった。
「認識を誤魔化されているなあ。ディテールは気にしてないのか、そこまでの知識が無いのか」
「ええと、どうしましょう」
あからさまに怪しいのは給仕の少年だろう。入り口の方でにこにこと立っている姿からは、敵意は感じられないのだけど。
「お話、してみます?」
「あまり刺激しないようにね。場を乱されれば、豹変するかもしれない」
頷いて、片手を挙げる。すぐに気付いた少年が、伝票を片手に小走りでやってくる。店員は他に居ないんだろうか。
「お決まりになりましたか」
にこやかに尋ねてくる少年からは、やっぱり私たちをどうにかしよう、という様子は見られなかった。
「私たち、ここから出たいんですけど」
「今来たばかりで、注文もまだですよ?」
……ああ、確かにそれもそうだった。ここまで来ておいて何も注文しないなんて、私もどうかしていた。
慌ててメニューを手に取ろうとしたところで、反対側から伸ばされた手に邪魔されてしまう。
「エーコ先輩、メニュー見せてくださいよ」
「済まないけれど、もう少し考えさせてくれないかな」
「はい、かしこまりました。どうぞごゆっくり」
お寛ぎ下さい、と親切に言い残して、少年は離れていった。そういうことなら、お言葉に甘えてゆっくり決めればいいか、と考えながらエーコ先輩の方を見れば、何だか困ったような表情を私に向けていた。
「先輩?」
「思考が流されてるんじゃないかな、アキ君」
目の前に、先輩の手がすっと差し出される。その親指と中指が動いて、ぱちん、と音を立てた。不意打ちに驚いて瞬き一回、二回三回。
それで、私は一体、何を考えていたんだっけ?
「……助かりました。ええと、こう、いい感じにふわっと、なってました。なんかずっとここに居てもいいかなーって」
「アキ君は取り憑かれ慣れているから耐性がある方だけれど、影響も受けやすいよね」
ぎゅっと目を閉じて、両手で頬を叩く。意識をしっかり保とうじゃあないか。
私がそうしている間も、周りを気にしていたエーコ先輩の表情は厳しくなっていく。こつこつとテーブルを叩く人差し指の動きが止まったところで、恐る恐る声をかけてみる。
「何かわかりました?」
「おおよその状況は把握できた。先客としてここに取り込まれた人たちの中に、かなり衰弱している人がいるようだ。あまり時間をかける訳にはいかないな」
「ってことは、力技で脱出しかないですね……」
長居は無用なら仕方ないと思ったものの、先輩は厳しい表情のまま、また腕を組んだ。
「いや、僕たちふたりだけならそれで構わなかったんだけれど。派手にやると他の人を巻き込みかねない。なるべくなら穏便に済ませたい」
「穏便にって、どうするんですか」
脱出するための抜け道は無いようだから、このぼんやりとした喫茶店を何とかするしかないと思うのだけど。
エーコ先輩は右手の人差し指を少しだけ動かして、私の後ろを指し示す。
「レジの横に置物があるのは見えるかい」
振り返って、入口の方を覗き込む。これまた古めかしい、くすんだ色のレジの横に、確かに小さな金色の置物があるみたいだ。右手で眼鏡を傾け、目を細めて見てみれば、それはどうやらネズミのようだった。
ぼんやりとした店の中、その置物だけが鮮やかで、何だか存在感があった。
「商売繁盛か……金運のお守りなのかな。アレが元凶だったりですか」
「恐らくは。最悪、あいつを潰しさえすればみんな目が覚めるんだろうけれど、僕ひとりではちょっと骨が折れそうだ」
だからね、と声を潜めて、先輩は少しだけこちらに顔を寄せてくる。
この合宿の前、ドーナツ屋でエーコ先輩に言った言葉を思い出す。私にも手伝えることがあるんだったら、やってみよう。そんなことを考えながら、エーコ先輩の次の言葉を待っていた、のだけれど。
「──アキ君に、あいつを鎮めてもらおうと思うんだ」
さすがにいきなりそれは、ハードル高すぎなんじゃないだろうか。




