拾弐、目覚めれば星空の下
スカイツリーの天望回廊を模した空間の中で、窓の外の暗闇を眺めながら思案する。
どうやら、神田明神で気を失ったときと同じように、自分はまた精神世界に嵌り込んでしまっているようだった。
まあ、それはさておき。
小学校の高学年の頃、自分は高い熱を出して、長いあいだ寝込んだことがあったらしい。そのときの記憶は非常に曖昧で、それ以前のこともほとんど覚えていない。
同じ時期に能登への転居があったために、そこで交友関係が完全にリセットされてしまっているのだ。
「なので、むかし貴女と出会っているとしたら、寝込んだときか、それより前だろうと考えたわけです」
「そういう話をしている場合では、ないと思うのだが」
そう応えた彼女は、狐耳バージョンの拝島会長ではなく、白い獣の姿で肩の上にいる。彼女もまだ本調子でなないらしい。
この空間が無ければ、二度と目覚めぬ闇の底に落ちるがまま、という状況である。彼女の発言も当然のことなのだけれど、今回は強い味方がついていた。
「ホヤ子さんが戻ってくるまで、どうせ暇でしょう」
窓の外では、灰色の大蛇と狗頭の翼人が空中大決戦を繰り広げていた。
パズズの羽ばたきから発生した紅色の熱風が、ホヤウ・カムイの鱗に触れる直前に霧散する。お返しにと吹きつけられた暗緑色の毒霧を、パズズは距離を離して回避した。大蛇は翼を羽ばたかせ、逃すまいと迫っていく。
熱風の余波が天望回廊の窓を震わせ、びりびりと音を鳴らしてくる。
とてもではないが、目の前の戦いに飛び入り参加する気にはなれない。肩の上の白イタチも、同意見だったようだ。
「確かに、私たちが心配してどうにかなるものでもない、か」
「かなり押してるように見えますが、決着にはもう少しかかりそうですねえ」
この空間を維持しつつ、パズズの呪いから自分を護ってくれているホヤ子さんには頭が上がらない。
とはいえ、窓から見えているのは熱病を運ぶ風神と、悪臭と毒を振りまく蛇神である。この絵面では一体どちらが味方やら、と思わなくもない。
「それはそれとして、さきほどの話に戻りますよ」
「君の場合、ここで黙っていてもまたこちら側に来るだろうしな」
やれやれといった雰囲気で首を振った彼女は、手摺りの上に飛び降りて、こちらを見上げてきた。
「君の推測した通り、私は君が子供の頃に出会っている。あの頃の君は、もう少し可愛げがあったものだが」
「やはり、そうですか」
急いで考えを巡らせる。事前に会長と相談する時間が欲しかったのだけれど、そうも言っていられない。
「いくつか、聞いてもいいでしょうか」
「私に答えられることは少ないと思うが」
「構いません」
まず、ひとつめ。以前に彼女と会っているのだとしたら。
「貴方と会ったとき、自分に霊感があったということでしょうか」
「その認識で間違いない。今と違って、君は至って健常だった」
これまでずっと、霊感が無いのは生まれつきの体質だと思っていたのだけれど、そうではなかったらしい。
だとすると、今の自分が『健常』ではなくなった原因は何だったのか。
「熱を出して寝込んだことで、霊感が無くなったとか」
「半分正解だな。君が高熱に倒れたのは、魂魄を分かつ外法の餌食になったためだから、順番が逆だ」
「外法、ですか」
なぜそんな術の対象になってしまったのか、理由が気になるところだ。けれど、それよりも先に確かめるべきことがあった。
「それでは、貴女は何故、ここにいるんです?」
問いかけの意味を考えていたのか。彼女は首を傾げてしばらく沈黙し、やがて再びこちらを向いた。
「何のために、ということならば。君の魂が阿迦奢の海に落ちてしまわなうよう、こちら側で見守っている、と答えよう。そうしていなければ、君はおそらく生ける屍になってしまうだろう」
魂を失った生ける屍、それは僵尸という奴だろうか。実際どんなものだかは知らないけれど、ぞっとしない話である。
それにしても、彼女はどうして自分にそこまでしてくれるのだろう。今の話を額面通りに受け止めれば、何年もこっちに留まり続けているということになる、はずだ。
考えているうちに疑問が表情に出ていたのか、彼女はわずかに頷いた。
「恐らく覚えていないだろうが、これは君への恩返しのようなものだ。だから、君が気にする必要はない」
誰かに強制されたわけではなく、望んでここにいるのさ、と彼女は事もなげに呟いた。
○
ひときわ大きな咆哮が響き渡って、白イタチともども窓の外へと目を向ける。二対の翼をもがれ、底の見えない深淵へと逆さに墜ちていくパズズを、ホヤウ・カムイは赤い瞳で悠然と見下ろしていた。
相手の姿が暗闇に消えていったのを見届けた後、灰色の蛇もまた姿を薄れさせていく。それに合わせて、天望回廊の中にアカリ女史の姿が現れた。
「終わったようですね。お疲れ様です」
「ま、相性が良かった、っつー感じかね? 大物だったけどさ、熱いのはどーんと来いだし、病気とか屁でもないし」
はー、と何気なく吐かれた緑色の息から距離をとって、ホヤ子さんへと問いかける。
「彼女からもう少し話を聞きたいんですが」
「駄ァ目だっての」
「そこを、なんとか」
「こっちに居るだけでアタシら全員の負担になってんだからさー。また完治が遠のくぞ」
さっさと戻るぞ、と眉根を寄せて拒絶される。取りつく島もないとはこのことか。
しかしながら、ホヤ子さんに頼れるのもこれが最後かもしれないのだ。どうにかして助力を得ておきたい。
「でしたら、せめてあっち側でも彼女と接触できるようになったりしませんかね」
「お前、割と図々しいよな。アタシってば優しいから別に構やしないけどさ」
こちらをひと睨みしつつも、腕を組んで思案していたホヤ子さんの視線が、毒の吐息を避けて自分の肩に飛び乗っていた白イタチに向けられた。
「鞘姫の式神、一匹くらいなら貰っちまっても問題ねえか……」
それはウシュカのことだろうか。式神を使って何をするつもりなのか。ホヤ子さんはこちらに視線を戻し、いまいち自信なさげに肩をすくめた。
「向こう側の式神とこいつの間に経路を作ってやれば、簡単な意志疎通くらいはできるようになるんじゃねーか、って思うんだけどさァ」
人差し指を額に当てて、やったことねえしなー、相性の問題がなー、とぶつぶつと呟くホヤ子さんを脇に置いて、白イタチの方を窺ってみる。
「私は別に、必要としていないのだが」
「そうおっしゃらず。ずっとこちら側に居ては、お暇でしょうし」
「余計なお世話、要らぬお節介という奴だな、それは」
それだけ言い残して床へと飛び降りた彼女だったものの、すぐ思い直したように顔を上げた。
「しかし、何度もこちらに落ちて来られるのも困りものか」
短い腕を器用に組み、渋々ながらも諦め混じりに了承する声を聞いて、ホヤ子さんは姿勢と表情を改めた。
「上手くいかねーかもだけど、いいよな?」
「お願いします」
「ま、アフターケアばっちりって言っちまったしな。お願いされたぜ」
ホヤ子さんが右手の指を鳴らすと、地響きのような音と共に天望回廊が揺れ始めた。
上の方から少しずつ崩れていく空間の中で、ホヤ子さんの姿が、再び巨大な蛇へと変化した。ホヤ子さんから指示を受けたのか、白イタチはまた自分の肩に飛び乗ってくる。
前回と同様にぐるりと巻きつかれたところで、大事なことを思い出した。首を横に向け、白い獣に問いかける。
「すいません、お名前をうかがっていませんでした」
「こちらに来るときに名は棄てた。君が忘れてしまっているのなら……さて、誰が覚えているやら」
つれない返事が返ってくるのと同時に、天望回廊が完全に消滅する。
それ以上会話を続けることはできず、意識は再び現実へと引き戻されていった。
○
目を開くと、そこはまだ暗い境内の片隅だった。どうやら、賽銭箱の手前に寝かされているらしい。
遠くから聞こえてくる話し声に、顔だけを横に向ける。神社の境内では、シズカさんと山霧委員長、それに見知らぬ数人の男たちが何やら相談をしているようだった。
まだ違和感のある身体を起こそうと試みる。どうやらずっと腹の上に乗っていたらしい白い式神が、小さく鳴き声を上げて走り去っていった。
階段に腰掛けて一息ついたところで、横から声がかけられる。
「動けるか、阿倍野」
「もう少し待って頂ければ、問題無いかと。すみませんでした」
すぐ傍に立っていた保国先生の問いかけに答えつつ、鉄拳制裁を予想して頭を下げる。
修学旅行中だというのに丸一日を単独行動に費やした上に、最後はこの有様だ。徹夜は無いだろうけれど、夜中まで正座で説教は覚悟しよう。
「いや、俺の方こそ、悪かったな」
予想外の反応だった。顔を上げると、先生は珍しく神妙な表情で境内を見回した。吹き荒れた風によって撒き散らされた砂や木刀の破片が、薄暗い中でもあちこちに見て取れる。
「多少は腕に覚えがあったんだが、どうにもならん相手は居るもんだ」
「無理を言って、申し訳ありません」
いいや、と首を振って、保国先生はこちらに顔を戻した。無精髭を撫でながら、思い返すように目を閉じる。
「解っていれば対処できることもあった。せめてもう少し頑丈な得物を用意するべきだったろうし、奴の様子がおかしくなったときもさっさと退くべきだった。まったく、不甲斐無いもんだ」
そうぼやきつつ、先生は携帯電話を取り出した。
○
ホテルに連絡せんとな、と離れて行った先生と入れ替わりに、シズカさんと委員長がやってくる。
「上手くいきましたか」
「どうにかね。いろいろ言いたい事とかあるけど、とりあえず、ありがとう」
頭を下げようとした彼女を制して、現状を確認する。
「向こうの人たちは、一体?」
「『協会』からの応援だって。ハイジマって人からの指示で、水稲荷神社の被害者を治療してから、こっちに来たみたい」
「ああ、なるほど」
会長が手配した人たちなら、信用できるだろう。
スーツ姿の男たちは、どうやら気を失っているらしい茶髪男を担いで、神社の正面に停められたミニバンの方へと向かっている。茶髪男は猿ぐつわを噛まされ、両手を縛られていて、事情を知っていても真っ当な絵面には見えなかった。
「確保した犯人はあっちに引き渡すかわりに、『イペタム』……だった魔剣の方は、こっちで引き続き管理する、ってことになってさ」
「いいんですか、それで」
「こっちに落ち度が無かったわけじゃないし、人手も足りないから。『協会』があいつを締め上げてくれるんなら、任せちゃおうって判断みたい」
首都圏の混乱が収束した後、警察やら何やらの捜査の手が伸びてきたときに、『協会』が関わっていた方が何かと都合がいいらしい。
そんなものかと考えつつ、一気に人気の少なくなった境内に意識を向ける。やはり、彼女はこの場に居ないようだ。
「ホヤ子さんの姿が見当たりませんが」
「あー、っとね」
何とはなしの問いかけに、シズカさんの表情が曇る。
「何か、問題でもありましたか」
「いろいろ無茶しちゃったみたいで、疲れたから先に帰るって」
シズカさんの話によれば、ここに急いで駆けつけるために、アカリ女史の身体にかなりの負担をかけてしまったらしい。その上でパズズを撃退して、さらには個人的なお願いまで聞いてもらっているのだ。これは頭が上がらない。
「おふたりに、お礼を言いそびれてしまいましたねえ」
「代わりに伝えとくよ。あと、この子をお願いね」
白い式神を乗せた右手が差し出される。こちらを見上げた式神は、ひと飛びで頭の上に乗ってきた。
「蛇神様から話は聞いてる。ウシュカが役に立つなら、連れてっちゃって」
「いいんですか」
「家の外のひとに渡すのはホントは駄目なんだけど……何かお礼をしなくちゃって考えてたし、実家に帰れば替わりはいるしね。世話の仕方とかは、あとでメールするよ」
どうにも引っかかる発言に不安になったものの、黙って頷くことにした。ここに来てやっぱり止めます、というのも無いだろう。
○
ホヤ子さんが作った意志疎通のための経路については、しばらく様子を見ないと何とも言えないということで、式神に関する話はひとまず保留になった。
会話が途切れたところで、黙って話を聞いていた山霧委員長が口を開いた。
「なかなか戻ってこないと心配していたら、まさかこんなことに首を突っ込んでいるとはな」
「助かりましたよ、委員長。これで貸し借りなしということで」
委員長は、呆れた様子で首を振った。
「気にするなよ、親友の頼みに貸し借りも無いだろう。いい経験になったしな」
そう言いながら、委員長は視線を動かした。そちらに顔を向ければ、電話が終わったらしい保国先生が近付いてくるところだった。
シズカさんの横で立ち止まった先生が、こちらを見下ろしてくる。大柄な先生と並んでいると、シズカさんの小柄さが際立って見えた。けれど、大型バイクを苦も無く動かせる彼女である。腕力でなら保国先生といい勝負ができるかもしれない。
「そろそろ立てるか?」
「そう、ですね」
先生に促され、太ももに力を込める。途中で多少ふらついたものの、二本の足で問題無く立ち上がることができた。
感覚はかなり戻ってきているし、これなら大丈夫だろう、と頷きを返す。
「だったら、ホテルに戻るぞ。さっさと飯食って風呂入って、明日に備えて寝るがいい」
俺も腹が減った、と先生は腕を組んだ。確かに、汗まみれの砂まみれなこの状態は、早々になんとかしたいところだった。
転ばないようにゆっくりと階段を降りて、シズカさんと顔を見合わせる。
「それじゃ、ひとまずここでお別れだね」
「そのようで。多少なりともお役に立てたのなら幸いですが」
「なーに言ってるのかな。ヒロシ君が居なかったら大変なことになってたかもなのに」
苦笑交じりの言葉を聞きながら、全身の疲労をようやく実感する。自分で思っていた以上に、緊張を強いられていたらしい。
どちらからともなく差し出した右手を結んで、互いに笑顔で腕を振る。
「やっぱり、あくどい顔だね」
「最後まで御挨拶ですよ、まったく」
守護の力が戻ったためか、都心部の電波障害はほぼ解消されたらしいけれど、混乱はまだ続いている。本当の意味で今回の事件が終息するまでには、もう少しかかりそうだ。
しかし、ともあれ。
竜神の刀と熱風の魔神を追って、シズカさんと一緒に東京を走り回った長い一日は、こうして終わりを告げたのだった。
○
──翌日の夜には、また彼女と行動を共にすることになってしまうのだけれど、それはまた別の話、である。




