八、此れに神の名を記す
シズカさんと顔を見合わせる。確かに『イペタム』の呪いが無ければ、自分がここにいる理由はない。結局のところ、自分は修学旅行中の高校生、巻き込まれただけの部外者なのだから。
わずかに思案する素振りを見せた後、彼女はゆっくりと頷いた。
「そうですね。彼の学校にも迷惑をかけていますし、早い方がいいでしょう」
「いえ、しかし」
果たして、彼女たちだけで大丈夫だろうか。せめて悪霊の件がきちんと片付くまでは、一緒に行動した方がいいのではないだろうか。
大口を開けて、丸めたピザをひと飲みにしたホヤ子さんが、テーブルの上に身を乗り出して顔を近づけてくる。
「いい話だってのに、何が不満だ?」
「……自分にも、手伝えることがあるんじゃないかと」
ビールとピザの匂いが入り混じった息を大きく吐いて、彼女は呆れたように体を引き、ソファにもたれかかった。
「アタシは別に学生の本分がどうとか、ガキに関わる資格がどうとか、とやかく言うつもりは無いさ。ぶっちゃけこんだけ巻き込んでおいて、無関係ってのもないさね」
でもよ? と眉を上げ、こちらに人差し指を突きつけて。
「自分がうっかり死にかけたってコト、忘れんじゃねえぞ。ここから先はもう、興味本位だったんです、じゃ済まねえからな」
いかにも不機嫌そうな表情で告げられた言葉には、ほんの少しだけ気遣うような響きが混じっていた。
彼女の言うことはもっともだろう。安全を考えるなら、これ以上深入りするのは止めておいた方がいいに決まっている。
「肝に銘じておきます」
「ふん」
ホヤ子さんは視線を腰のポーチに向けると、その中からトランプケースのような白い箱を取り出した。箱は彼女の手を離れると、テーブルの上に放物線を描き、自分の手元へとやってきた。
「それ持っとけ。せめて自分がどんな状態か把握できないとマズいだろ」
箱の中には、タクシーの中で渡された人形と同じ形の紙束が収まっていた。試しに一枚だけ取り出してみると、全体に細かい皺が現れ、見る間に力なく萎れてしまう。
「本調子には程遠い、ということでしょうか」
「つーか、しおしおじゃねえの。マジで引くんだけど……全治一ヶ月とか、そんくらいの感じかねえ」
蛇神様も呆れる我が身の有様か。これは、一発でも食らったらアウト、くらいの覚悟をしておこう。
○
「そうそう。起きたらヒロシ君に聞こうと思ってたんだけど。これ、何かの手掛かりになるかな」
ホヤ子さんとのやりとりを静かに聞いていたシズカさんが、ふと思い出したように口を開いた。
彼女がテーブルの上に置いたのは、赤い携帯電話だった。茶髪男が悪霊を解放する際に、放り投げたのを回収しておいたのか。
取り上げて液晶画面に触れてみるも、画面は暗いままで反応しない。裏返してみると、電池カバーの中央辺りに、短い引っかき傷がいくつも刻まれているのが見て取れた。
「故意にやらなきゃ、そんな深い傷つかないと思うんだけどさ」
「確かに規則正しいですけれど……これは文字ですか」
ルーンにしてはいささか複雑なそれは、楔形文字だろうか。テーブルの端に置かれていたメモ用紙に文字を書き写しつつ、記憶を探ってみる。
「もしかして、読めちゃったりとか」
「さすがにそこまで記憶力は良くないですよ。最初の一文字だけは覚えていますが」
丸で囲んだ文字の上に、『dingir』と書き足してペンを置く。
「それで、つまり?」
「これは神様の名前ですよ、という印みたいなものです。最低でも、何らかの神霊の加護を得ていたか、その性質にあやかっていたか……」
「私の行動に制限かけてたのも、その力なのかな」
「さて、どうでしょうか」
『イペタム』の悪霊を解放したあのとき、携帯電話を放り投げた後に『コトワリ』を告げていたような気もする。
何にせよ、大鴉が動けない以上、別の対策を考えておいた方がいいだろう。
「そういえば、ヒロシ君さ。学校とか先生とか、連絡しなくても大丈夫なの」
「いえ、それなんですが」
ポケットから自分の携帯電話を取り出し、液晶画面を確かめる。目を覚ましてから何度か確かめているのだけれど、圏外の表示は相変わらずのようだ。時折アンテナが立つ時もあるものの、すぐに消えてしまう。
「この建物、電波入らなかったりしますか」
「そんなことはなかったと思うけど」
脇に置いていたショルダーバッグを覗き込んで、シズカさんは首を傾げた。彼女の携帯電話もまた、圏外ということだろう。
顔を見合わせ、どうしたものかと考え込んでいると、テーブルの向こう側から声がかけられた。
「お前らさ、なーに悩んでんだよ。連絡取りたいんなら、事務所の電話つかえばいいだろ」
「そういえば。そうでした」
相槌を打ち、こちらに目配せして立ち上がったシズカさんの後を追いかける。応接スペースの裏側へと回り込みつつ、携帯電話を操作する。
目当ての番号を見つけて顔を上げると、デスクの片隅に置かれた電話機を見ながら、シズカさんが首を捻っていた。
「どうしました?」
「留守電入ってる。ここの番号って公開してないはずなのに」
実家からかなと呟きながら、シズカさんは電話機を操作し始める。普段使っていないためか、その手つきはたどたどしかった。
しばらくしてスピーカーから聞こえてきた声に、シズカさんと再び顔を見合わせることになった。
『──和倉高校の拝島と申します。そちらに当校の阿倍野が居られましたら、至急連絡するようお伝え願います──』
○
シズカさんに拝島会長の携帯番号を伝え、呼び出し音が鳴り始めた受話器を受け取る。その直後、電話機の液晶表示が通話中に切り替わり、スピーカーから会長の名乗りが聞こえてくる。
「阿倍野です。お待たせしました」
『いいや、問題ないよ。駄目で元々だったんだが、繋がって良かった』
どこか緊張した雰囲気のまま、会長の話はいきなり本題に入った。
『数時間前から、東京都心部の各所で大規模な電波障害が起きているようだ。ニュースにもなっているが、確認できるかい』
シズカさんが首を横に振る。
事務所の片隅に置かれているテレビを指差すと、「地デジ対応してないんだ」とつれない答えが戻ってきた。
「無理みたいですね。携帯も繋がりませんし、どういうことでしょうか」
『原因は不明。季節外れの強風が吹いているという情報もある。これは神霊絡みの案件なんじゃないかという話になっていて、そちらで何か心当たりは無いかと連絡を待っていたのだ』
心当たり、ということならひとつだけある。
「『イペタム』に憑いていた悪霊が行方不明になってます。携帯電話を媒介していましたし、何らかの関連があるかもしれません」
『ふむ、なるほど』
「でもさァ、大規模な電波障害とか、そこまでやらかせるような大物とはとても思えなかったんだけどねえ」
いつの間にか横に立っていたホヤ子さんが、受話機に顔を寄せて口を挟んできた。近付かれると、少々酒臭い。
「とのことですが」
『今のが誰だか、気になるんだがね。まあ、そもそも東京は霊的守護がしっかりしていて……いや、将門の魔方陣がどうとか言っていたじゃないか』
そちらはどうなったんだい、と訊ねられて、慌てて記憶を振りかえる。
「昼過ぎに、神田明神で悪霊が解放されたので、魔方陣を使った儀式もそこで打ち切りかと思っていましたが」
『どうも状況が掴めないが、はっきりさせておいた方がいいな。その辺りに悪霊が付け入る隙があるのかもしれない』
儀式が続けられているとしたら、次はどこだっただろうか。他にもいくつか、確かめなければならないことがあるはずだ。
○
情報のすり合わせが一段落したところで、いつもの忠告が電話機越しに聞こえてきた。
『しかしねえ、アベノ君。君はそろそろ手を引いて、あとは専門家に任せるべきなんじゃないかな』
「この状況でひとり、のうのうとしては居られませんよ」
会長が危惧することも、いちど倒れた今なら十分に理解できる。けれど、事態の全容を把握できていない状態で、女性ふたりに丸投げというわけにもいかない。
「それに、別行動をとる方が危険そうです。携帯では連絡とれませんし」
シズカさんに同行していれば、呪い避けの術がある程度は護ってくれるはずだ。そうに違いない。そう思いたい。
『そうかもしれないが、ねえ』
「安全第一、心がけますよ」
『……仕方ない。僕の方でも対処していくから、無理するんじゃないよ。連絡はそちらから適当に寄こしてくれたまえ』
無事を祈っているからね、という言葉を最後に通話は終了した。
受話器を置いて応接スペースに戻ると、ホヤ子さんが最後に残ったピザ一切れを口に放り込んだところだった。まだかなりの量が残っていたはずが、ぜんぶ平らげてしまったらしい。
「んァ、やっと終わったかよ」
「とりあえず、ですが。まずは神楽坂まで移動して、儀式が続けられているかどうか確かめようかと」
神田明神の次に当たる、筑土八幡神社へ向かうためのルートは調査済みだ。その上で、必要なら儀式を阻止しなければならないだろう。
都内を騒がせている悪霊の方は、ホヤ子さんが別行動で対処することになっている。しっかり酒が入っているように見えるのだけど、大丈夫なんだろうか。
ホヤ子さんは年寄り臭く気合いの声を洩らしながら立ち上がると、応接スペースの片隅へと向かった。立てかけてあったキャリーバッグを倒して、彼女は中を漁り始める。
何事かと近付いてみれば、両手を出すように促され、それぞれに黒い銃と白い弾が乗せられてしまう。
「ほれ、照明弾。あんまり遠くなけりゃ、気付いてやれると思うぜ」
「自分が使ってもいいんですか」
「まー、非常事態だしな。でもほら、アタシも手が離せなかったりするかもだから? あんまり当てにすんなよ?」
気が向いたら助けてやるよ、と肩を叩くと、ホヤ子さんは開けていないビールの缶をコンビニ袋に放り込み始めた。
まだ飲むつもりらしい。助力については、あまり期待しないようにしておこう。
○
太陽は西へと傾き、空は橙色に変化し始めている。それにもかかわらず、暑さは収まる気配を見せていない。
動かない車の間を縫って、緑色のバイクはゆっくりと次の交差点へと進んでいく。
点滅する赤信号。
地元では見慣れたものだけれど、東京のど真ん中でそれは無いだろうに。制御装置に何らかの異常が起きているためか、あちこちの信号機が同じような状態になっている。
必然的に車の流れは滞り、クラクションの音は途切れることがない。遠く聞こえている救急車のサイレンは、目的地に辿り着いた気配を感じさせないまま鳴り続けている。
『──もう裏道で行かない?』
『わかんねえって。ナビがまともに動かねえし──』
追い越した自動車の窓が開いていたらしく、いらついた男女の会話が漏れ聞こえてきた。
交差点に近付くにつれて、混乱した状況が視界に入ってくる。シズカさんは溜め息をつくと、バイクを止めてガードレールに足をかけた。
「右折できますか」
「乗ったままじゃ無理そうね。いちど降りてくれる?」
なるべく大通りを避けて走ってはいるものの、どうしても通らなければいけない場所は出てきてしまう。
大型バイクを押して横断歩道を渡っていくシズカさんの姿を見るのも、これで何度目だろうか。最初は手伝おうとしたのだけれど、逆に危ないからと傍観者であることを強いられている。
平日の夕方、そろそろ仕事を終わらせた会社員が姿を見せ始める時間帯だろう。この先、より酷い状況になることは予想できる。
この混乱こそが、あの茶髪男が狙っていたもの、なんだろうか。
ビルの隙間から見えた夕陽の方から、生温い風が吹き抜けていく。横断歩道を歩きながら、ポケットから取り出したメモ用紙に目を向ける。
さすがに疲れたのか、足を止めてこちらを見たシズカさんが口を開いた。
「何か、わかったの?」
「無線機器の異常を何らかのウイルス的なものと解釈すれば、当てはまりそうなのが」
南西の風を司る悪霊の王。日照りと蝗の主。疫病を運ぶもの。二対四枚の翼を持つ獣頭の魔神。
「中東の神様ですが……結構な大物が力を貸しているってことでしょうか」
「勝ち目ありそう?」
「わかりません。蛇神様ならなんとかしてくれると思いたいですが」
こちらを狙われないことを祈ろう。対抗できそうなのはシズカさんひとりで、自分は力になれそうにない。
他に戦えそうなのは、彼女が大鴉のかわりに営業所から連れてきた、一匹の式神なのだが。
「その、イタチは役に立つんでしょうか」
「ウシュカのこと?」
シズカさんの言葉に合わせて、彼女の胸元から小さな白い獣が顔を出した。ちょっとその場所、替わってもらえませんかね。
「狙った相手に呪いを飛ばしたりとか、簡単なお使いとかはできるよ」
「それはまた、微妙ですねえ」
とはいえ貴重な戦力には違いない。欲を言えば、もう少し手数が欲しいところなのだけれど。
横断歩道を渡り切り、再びバイクは走り始める。日が沈むまでに、目的地に辿り着けるだろうか。




