七、狐火の照らす阿迦奢の岸で
これ以上、大鴉に傷を負わせるのは危険だろう。シズカさんと大鴉、どちらも狙われないようにしなければ。
「ヒロシ君?」
「伏せていてください」
シズカさんに小声で告げて、ゆっくり立ち上がりながら考えを整理する。一時はシズカさんだけで解決できそうな雰囲気だったけれど、そんなに都合のいい話は無いらしい。こうなった以上、アカリ女史の儀式が成功してくれることを祈るばかりだ。
着信音の発生源は複数ある。『イペタム』に憑いていた悪霊が一体ではなかったということだろうか。
そこまで考えたところで、再び風が吹き荒れ始めた。真夏の熱気が揺れ動き、立ち上がった自分の方へと集中して全身を揺さぶってくる。幸いなことに、シズカさんへの追撃よりもこちらを優先してくれているらしい。
数秒の後、再び風が止み、不協和音が響き始めた。ふらついた足に力を入れ直し、茶髪男へと顔を向けると、先程までとは打って変わったにやけ面が口を開いた。
「まだ倒れねえのか? いつまで持つか見ものだけどよ、目的も果たしたことだし、オレはここいらで失礼させて貰うぜ」
「おっと。不用意に動かない方がいいですよ」
わざとらしく残念そうな表情を浮かべた男が、裏手の方から去っていこうとするのに対して、ズボンに差し込んでおいた拳銃を突きつける。
また襲ってきた悪霊の風に、両足を踏ん張り、震える銃を両手で固定する。拙いはったりだとは思うけれど、どうやら相手の気を引くことはできたようだ。
「倒れるまで見守ってて欲しいってか。だったら御望み通りに、だ。その様子じゃ時間の問題だろ」
「少しばかり、空腹が堪えている……だけですよ」
どうにも、上手く身体に力が入らない。意識ははっきりしているのに、手足が思い通りに動いてくれない。いくらなんでも、腹が減っているだけでこうはならないだろう。
幾度目かの突風に煽られて膝が崩れた。受け身を取ろうとした手も碌に動かない。それでも、地面とぶつかった肩はきっちりと痛みを伝えてくる。
横倒しになった視界の中、こちらに背を向けて離れていく男の姿は曖昧で。
「ヒロシ君、しっかりして! 多分、もう少しで──」
懸命に声をかけてきているシズカさんの声も遠く、意識から切り離されていった。
○
ふと気がつけば、小さなプレハブ倉庫の中にいた。
窓から射し込む夕陽によって、橙色と闇色に塗り分けられた空間には、折り畳み式の長机とパイプ椅子が置かれている。
この光景には見覚えがあった。我らが『伝奇同好会』の部室には、半年以上のあいだ入り浸っていたのだから、当然である。
自分の指定席である奥側のパイプ椅子に腰かけて、現実感の薄い風景を観察する。音は無く、季節感も無く、視線を向けていない方は酷くぼんやりとしている。
「夢、でしょうねえ」
「半分正解だな」
聞き覚えがある声が、左側から聞こえてくる。そちらを見れば、長い黒髪の上級生が微笑みを浮かべていた。影になっていてよく見えないその場所で、彼女の瞳だけが存在感を主張している。
「君は無理をし過ぎた。魂の損耗が限界を超えたが故に、意識を失っている状態だ」
「そういうのは感じない体質なんですけれど」
その通り、と彼女は肯定した。影の中で、黒髪の上の尖った耳がゆらゆらと揺れている。人ではない何かが、拝島会長の姿に化けているのか。
「しかし君の体質は、『魂の無痛症』と呼ぶべきものだ。傷つかないのではなく、単に痛みを無視しているだけ。傷ついていることに気付かないだけ。魂と肉体の均衡が崩れてしまえば、精神は手綱を失ってしまう」
会長はそれを察していたから、自分を前に立たせなかったのだろうか。
危険だと、何度も忠告されてはいたのだ。この状況は自業自得だと言われても仕方ない。
「しかし、弱りましたね。早く意識を取り戻さないと、シズカさんが危なかったような」
「それは難しい」
そう言われても、思い返せば一刻を争う事態だったはずだ。悪霊はどうなっているだろうか。
「肉体との繋がりは断たれていて、戻りようがない。この状態が続けば、君に待っているのは『精神の死』だ」
「だったら、なおさら急がないと……」
首を振る彼女の姿に、勢いづいていた言葉が途絶えてしまう。
「限界を超えてしまっているんだ。私がここで引き止めているからこそ、君の精神はまだ存在できている。それも、長くは持たないだろう」
「それ、は」
困る。非常に困る。
「こういう場合、自分の中に秘められた力が覚醒して助かったり」
「しないな」
「円環の真理を体得して、錬金術的ななんやかんやでとか」
「なんやかんや、か。面白い事を云う」
彼女は口元を隠してくつくつと嗤うけど、笑いごとではない。
こんなことならいっそ、何も知らないままの方が良かったんじゃなかろうか。いや、それも困る。
「何故、引き止めたりなんかしたんです? 意味が無いでしょう」
「それは勿論、生き延びるためだ」
外は暗くなってきて、青みがかった夕闇が室内を侵食する。夜が訪れたとき、この部屋は終わるのだろうか。
彼女は右手を長机の上に差し出すと、その指先に小さな炎が灯された。
「話すと長くなるから結論だけ言うが、君と私は一蓮托生なんだ。君には助かって欲しいから、こうして時間稼ぎをしている」
「助かる当てが、あるんですか」
「当然だ。そうでないなら、君とは会わずに消える心算であった」
薄闇の中、光を反射して輝く双眸は、どこか満足そうにこちらを見つめている。
その雰囲気に、以前に会ったことがあるだろうかと記憶を探ってみたものの、それらしき人物はヒットしてこない。
「それで、具体的にはどういう算段で?」
「君と同道していた降魔の娘が、キムントの蛇神、ホヤウ・カムイを喚び降ろしたようだ。火の気配に敏い神霊ゆえ、こんな狐火でも目印にはなるだろう。他力本願などと言うでないぞ」
「言いませんよ」
アカリ女史の儀式が成功したのなら、『イペタム』の悪霊もなんとかなっただろうか。
右手の動きに合わせて揺れ動く青白い炎は、倉庫の壁に彼女の尻尾を映し出す。なるほど、黒髪の狐娘というのは。
「なかなか、いいんじゃないでしょうか。会長の姿はベストな選択かと」
「何を言うかと思えば、随分と余裕が出てきたではないか」
目を細めて、嗜めるような視線を向けてくるのもまた、趣があってよろしい。親指を立てて「いいね!」を送信。視線がより厳しくなった。
「反動ですよ。もうお終いかと思っていましたからね。さすがに肝が冷えました」
「それは何よりだ。君には少しばかり、軽挙妄動を反省して貰うつもりだった」
「以後、気をつけます」
まだ文句を言い足りない表情の彼女に向かって、頭を下げて許しを乞う。
仕方ないな、という溜め息混じりの呟きに、恐る恐る顔を上げたところで、倉庫の扉ががたりと音を立てた。
○
プレハブ倉庫の扉が開き、その先の暗闇からぼさぼさ頭の女性が入ってくる。洒落っ気の無い服装と、疲れたような表情は確かにアカリ女史のものだけれど。
彼女は自分と隣人を交互にじっくり見比べ、「キツネが二匹……?」と首を傾げた後、こちらを指差してきた。
「あー、アンタがヒロシ? でいいわけ?」
「そうですが」
もしかしなくても、彼女は蛇神だろうか。アカリ女史とは明らかに異なる様子に戸惑っていると、彼女は長机越しに手を伸ばし、胸倉を掴んできた。
「よーし、よし。手間かけさせんなよなー。ほら、さっさと帰んぞ」
「いやその、まだこちらの話が」
無遠慮に引っ張る力に抵抗しつつ隣に同意を求めると、彼女は眼を伏せて首を振った。右手の先の狐火は、少し小さくなったように見える。
「もう少し話していたかったが、私もそろそろ限界だ」
「てなわけで、もういいよな。まー、よく長い物には巻かれろ、っつーだろ。アタシの方が、ほら断然長いし? 蛇だけに?」
おっとこいつは上手いこと言っちゃったかな、とでも言いたげな得意顔は、抗う気力を急速に萎えさせた。アカリ女史は大人しい感じだったのに、この落差は何だろう。
「……仕方ありませんね。またの機会にしましょう」
「私としては二度と会わないことを願っているのだが」
「大丈夫ですよ。今度はちゃんと準備してきます」
迷惑そうにこちらを見上げる人影に対して一礼した上で、引っ張られるままに長机を乗り越える。
今の自分では、彼女に何を尋ねるべきかも分からない。だから、色々と調べて、会長にも相談して、命綱をきっちり用意して、いつかまた対面してみせよう。
「ほれ、しっかり掴まってな。間違っても変なトコ触んなよ」
「いやその、触ったりなんか──」
抗議の言葉は最後まで口にできなかった。力任せに抱き寄せられ、すわ役得かと思った瞬間。アカリ女史の姿は、翼を持つ巨大な灰色の蛇へと変化した。
気付けば大蛇は自分の身体に巻きついていて、バランスを崩したところを軽々と持ち上げられてしまう。
それ以上考える暇もあればこそ。勢いよく外の暗闇へと飛び出した蛇神は、虚空を羽ばたき、上へ上へと自分を運んでいった。
○
戻ってきた肉体の感覚に、ああ、そういえばこうだったと納得しつつ、目を開ける。乳白色の無機質な天井の手前に、真剣な表情でこちらを覗き込んでいたシズカさんの顔があった。
「お早うございます。お嬢様」
「えっと、おはよう……大丈夫?」
起き上がれるだろうかと、仰向けの体に力を入れてみる。どこか反応が悪い感じはするものの、上体を起こして周囲を見回すのに苦労はしなかった。
四畳半ほどの小さな部屋。畳の上に布団が敷かれ、どうやらその上に寝かされていたようだ。おそらくは仮眠室か休憩室なのだろう、エアコンの効いた部屋を一通り観察した後、改めて彼女へと頭を下げる。
「お騒がせしました。問題ありません。シズカさんこそ無事で何よりです」
「ありがとね。おかげでネバーモアも死なずに済んだよ」
ほっとしたような口調とその内容に、こちらも安心して顔を上げる。互いに笑顔で向き合ってから、シズカさんはよし、と勢いよく立ち上がった。
「いろいろ説明しないとだし、聞きたいこともあるだろうけどさ。とりあえず腹ごしらえしながら、ってことでいい?」
「ぜひ、その方向でお願いします」
壁に掛かったアナログ時計を信じるなら、午後四時を過ぎたところである。かなりの間、意識を失っていたらしい。空腹もさすがに限界だ。
ドアへと向かう彼女を追って腰を上げると、わずかな違和感が。
「シズカさん、もしかして少し縮みましたか」
「ヒロシ君が少し伸びたんでないの。寝てる間に」
なるほど逆転の発想。ではなくて、どちらも普通に不正解だろう。
シズカさんを見下ろす角度が鋭角になった件について、より現実的な結論を得るべく思案を巡らせる。しかし、どうも血糖値が不足している。
ドアの手前、一段下がった空間に並べられた自分の靴と、その隣の厚底ブーツを見て、空回りしていた思考がようやく解答を導き出した。脳内でブーツあり、なしを対比させて計測。十センチくらいだろうか。
「それ履いていて、よくあれだけ動けましたねえ」
「慣れかなぁ。バイク乗るには必須だしさ」
シズカさんはそう答えながら、立ったまま器用にブーツを履き終え、ドアを開けた。
○
神田駅の近くにある雑居ビルの中に、佐伯警備保障が東京営業所として借りている物件がある。常勤の社員はおらず、普段の鍵の管理や清掃はシズカさんが行っているらしい。
自分が寝ていた仮眠室はその営業所の一室で、そこから出た先は小さな事務室になっていた。
申し訳程度に配されたデスクと、周囲に積まれた段ボール箱を避けて、部屋の片隅の応接スペースへと移動する。
テーブルの上には、事前に注文しておいたらしい宅配ピザとサイドメニューが広げられていて、手前のソファに座ったアカリ女史がこちらをじっと睨んでいた。
「よーやく起きたかよ。待ちくたびれたぜ」
「あれ、まだ居るんですか」
「悪いかよ。とにかくメシにすんぞ」
蛇神が居残っていることは気になるものの、本日一回目となる食事の方が重要である。テーブルを囲んで座り、手を合わせる。
遅い昼食を囲んで食べながら、シズカさんの説明を聞く。他の被害者たちの命に別状はないこと、例の茶髪男には逃げられたこと、騒動を避けて自分をここまで運んだこと。
「全然目ェ覚まさないモンだから、苦労したっての。タクシーの運ちゃんとか、変な目で見てくるしさー」
「はあ」
飲みかけのビールの缶を片手に、アカリ女史に取り憑いたままの蛇神が愚痴を聞かせてくる。何て名前だったか。
「それで、ええと、ホヤウ・カムイ様」
「なーんか、堅ッ苦しいなー。それじゃ呼び難いだろうし、んー、アレだ、『ホヤ子』って呼べば?」
本当にいいんだろうかと思ったものの、あまり口答えしていると切れられかねない雰囲気なので、大人しく従っておく。
「悪霊の方はどうなったんですか」
「あー、それがさァ。でっかいのは粗方とっ捕まえて、がっつりとっちめて箱に突っ込んだんだけど」
小さい霊がいくつか、神域から逃げ出して行方知れずになっているらしい。その後始末のためにわざわざ残ってやっているのだ、とホヤ子さんは言うのだが。
「ほら、アタシってばアフターケアも大事にする方だし? こっち暖かいから、二、三日くらい居てもいいし?」
アキバ近いんだよな? とシズカさんに訊ねる姿からは、どうもやる気を感じられない。というか、これは観光目的なのではなかろうか。
神妙な表情で会話しているシズカさんに、小声で問いかけてみる。
「本当に大丈夫なんですか」
「多分ね。毎回、頼んだことはちゃんとやって貰えてるし。アカリとは波長が合うみたいだから」
神降ろしの代償に、アカリ女史の身体を好きに使うのも毎度のことらしい。
それについては心配していないのだけれど、と彼女は困り顔を見せた。その視線は、ソファの片隅で眠る大鴉に向けられている。
「残りの悪霊を探すのに探知の術を使えればいいんだけど、ネバーモアのサポートがないと厳しいんだよね」
「あの化け鴉は安静にさせとけよ。心配しなくても、後は大した悪さも出来ねえ雑魚だけだから、アタシが追っかけてしばき倒しとく」
まったく面倒かけさせやがって、と愚痴を付け足した上で、ホヤ子さんはこちらに人差し指を向けた。
「だからアレだ、メシ食ったらこいつ帰してやれ。もう呪いは消えてるはずだろ?」




