六、神域に風は舞い踊る
トランクの中にキャリーバッグを安置した後、アカリ女史に続いてタクシーの後部座席へと乗り込む。久々に感じるエアコンの涼しさが、汗を冷やし、体温を奪っていく。バスを出るとき、タオルだけでも持っていれば良かったと後悔がよぎる。
運転手に目的地を告げて一息つくと、隣から小声で話しかけられた。
「名前を覚えるのがどうも苦手で……ヒロシさん、ですよね」
「ええ、合ってますよ」
名字ではなく名前の方で呼ばれたのは、シズカさんが何度も呼んでいたからだろう。
ほっとしたように、ほんの少しだけ表情を和らげたアカリ女史は、ポーチから白い紙切れを取り出した。
「お嬢様から一通り聞いていますけど、本当に体調は問題ありませんか」
「痛いとか苦しいとか、そういうことは無いですね」
腹はかなり減ってきているけれど、これは仕方ない。
運転手から見えないようにこっそりと差し出された白い紙切れを、これは何でしょうかと訊ねながら摘み上げる。
人形を模したその紙は、指が触れた瞬間から息つく間もなく、変化を見せた。
一方の肩口からまっすぐ縦に、うっすらと茶色い線が現れる。それは左右にじわりと広がりつつ、赤黒く変色していく。それと同時に、逆側の腕に当たる部分もまた、同じように変色を始めていた。
見ていて気分の良いものではない。それでも、目の前で起きている現象への興味が上回っている。
視線を横に向けると、アカリ女史は再び困惑した表情になっていた。
「それが、今の貴方の状態、のはずです」
なるほど。これは呪いを視覚化する、身代り人形のようなものなのか。
変色が全体に広がりすっかり黒くなった紙切れを、再び差し出された手に乗せる。それがボロボロに崩れていく様子と、自分の表情とを交互に見て、彼女は呟いた。
「呪いは健在なのに、平気なんですね」
「どうも、昔からそういうモノを全く感じない体質なんですよ」
それが何故なのかは自分にも分からない。
それでも、昔から心霊だの魔術だのといった『不思議な物事』は存在するのだと思っていたし、それは拝島会長に出会って確信へと変わっている。
危なっかしいからアベノ君は遠くで見ていたまえよ、とは会長の言で、つい先程も同じようなことを言われたけれど。
「これはこれで、役に立つんじゃないかと。シズカさんひとりであの男を足止めするのは大変でしょうし」
「それは……助かりますけど」
どこまで信用したものか測りかねている雰囲気のアカリ女史だったものの、戦力不足は懸念だったのだろう。彼女が異議を唱えることはなかった。
○
上野からまっすぐ南へと下り、秋葉原の手前で右折したタクシーは、ほどなくして目的地に到着した。支払いをアカリ女史に任せて先に歩道に降り立ち、周囲を見回してみる。
道路の左側には、白い漆喰の塀が前後に長く続いている。広そうな敷地の中に古そうな瓦屋根の建物が見えているけれど、こちらは湯島聖堂というまったく別の史跡らしい。
反対側に目を向けると、少し先に緑がかった鳥居が立っており、そこから先が神田明神の参道であるとのことだった。背後からついてきていた緑色のバイクは、速度を落とすと大鴉と共に鳥居を抜け、視界から消えていった。
シズカさんを追うべく荷物を下ろし、横断歩道を渡って参道へと急ぐ。スカイツリーや上野ほどではないけれど、この場所も観光客の姿がそれなりに見える。しかし、どうも様子がおかしい。
何やら小声で会話しつつ、参道の向こうを窺う集団がいくつか。彼らと同じく、神社の正面に建つ大きな門へと視線を向ければ、そちらから慌てた様子で離れようとしている人々の姿。門の前には、二台の救急車が赤い回転灯を光らせたまま停まっている。
どうしたものかと迷っていると、こちらに駆け寄ってきたシズカさんの腕に大鴉が止まり、小さく鳴き声を上げた。
「境内の方で、人が倒れてるって。結構な人数みたい」
「見境なし、人目に付くのもお構いなしってことですか」
そうみたいね、とシズカさんは頷いた。状況からして、あの男の仕業だろう。耳を澄ませば熱中症だとかガス漏れだとか、原因を推測しているらしき会話が聞こえてくる。
遠くからサイレンの音が近付いてきているということは、救急車の数はまだ増える可能性がある。
「結界は張ってないんですかね。人払いとか、そういった」
「周りに人が多すぎると難しい術ですし、それよりも手っ取り早く終わらせるつもりかもしれません」
「それよりもさ。『イペタム』の気配はあるけど、アイツまだここにいるのかな」
シズカさんの疑問に対して、大鴉が一声鳴いて飛び上がる。偵察してくる、ということか。
自身も門の方へと歩き出した彼女の後を、自分とアカリ女史は追いかける。タイル張りの路面にキャリーバッグが引っかかり、がたがたと揺れて進みにくい。中身は大丈夫なんだろうか。
「アカリは『ヌサ』の準備を。ヒロシ君にも手伝ってもらって」
返事を待たずに、シズカさんは歩調を速めて離れていく。彼女が先行して注意を引きつけている間に、気付かれないように妖刀を鎮める儀式を進める手筈になっているけれど、被害者が増えたせいか少し焦っているように感じられる。
これ以上進むと相手に気付かれるからだろうか、救急車の手前でアカリ女史が立ち止まる。キャリーバッグを横に寝かせると、彼女はしゃがみ込んでダイヤルロックを外し始めた。
周りから注目を浴びているのではないかと思ったものの、こちらを気にする視線は無いようだ。
「ヌサというと、神主が振り回してたりする白い奴ですかね」
榊の枝の先に紙垂を取り付けた、お祓いだか祈祷だかの際に使う道具がそんな名前だったような。
そう思って聞いたのだが、アカリ女史は「いいえ」と首を横に振った。
「祭壇のことです。携帯用にいろいろとアレンジしていますけれど」
蓋が開かれたバッグの中、その半分ほどを占めていたのは、細長い木箱だった。アカリ女史に指示されるままにそれを慎重に運んで地面に置くと、彼女はその中から木の棒やら小さな器やらを取り出し始めた。
他に何か使えそうなものは無いかと再びキャリーバッグを覗き込む。すると何やら、物騒な代物が視界へと入ってきた。
「ちょっと聞いてもいいですか」
「なんでしょうか」
「ええと、この、これ。本物じゃないですよね」
形状は紛れもなく拳銃だった。詳しく知らないので何とも言えないのだけれど、少し銃身が短いように思える。
要領を得ない指示語だけでも何についての質問かを理解できたのか、アカリ女史は準備を進める手を休めることなく、言葉だけを返してきた。
「……弾は入っていませんから、安全ですよ」
つまり、入ってたら危険なんですかね。
触らぬ神に祟りなし。無造作に放り込まれたと思しき黒い銃から半歩離れると、アカリ女史がこちらに顔を向け、わずかに口角を上げた。
「冗談です。信号弾を打ち上げるための銃ですから、人に向けて撃っても打撲で済みます」
「それも冗談だといいんですが」
小さく舌を出されても困るというか。
結局は煙だとか火だとか出るものなんだろうし、二次的な被害の方が大きいんじゃなかろうか。そもそも何故こんなものがキャリーバッグの中に収められているのか。そちらの方が気になったものの、今はそれどころではないと思い直す。
アカリ女史は配置を終えた祭壇に向き直り、ペットボトルから器に液体を注ぎ始めていた。
「他に手伝えることは?」
「いえ、私の方は大丈夫です。お嬢様の方をお願いします」
すぐに戻ってこないということは、シズカさんは件の人物を見つけたのかもしれない。自分にできることは多くないし、手数を増やしておくのも手だろうか。
「この銃、持って行ってもいいですかね」
「弾は渡せませんけど」
「脅しに使うかもってだけですから、問題ありませんよ」
交渉終了。キャリーバッグに手を伸ばし、拳銃を持ち上げてみる。思いのほか軽かったことに拍子抜けしつつ、それを後ろ手に隠して歩き始める。
門の脇に隠れ、顔だけ出して境内を覗き込むと、遠くにシズカさんと茶髪男の姿を見つけることができた。
○
拝殿へと続く広い参道のそこかしこで、参拝客が倒れ伏してる。手前の方には、救急隊員らしき姿の被害者も見て取れる。全部で数十人はいるのではないだろうか。
そんな中、参道の途中で対峙するふたりは、それぞれの得物を手に戦いを繰り広げていた。
上段から振り下ろされた男の右腕は、空中で何かにぶつかったように軌道を変える。
シズカさんの持つ黒い羽根ペンもやはり、男が持つ赤い携帯電話と同様に『魔剣』の類なのだろう。彼女に向かって繰り返される不可視の攻撃を、同じく見えない何かが受け止め、弾き返している。
苦々しげな男の表情とは対照的に、シズカさんの方には余裕がありそうだ。何やら話しているようだけれど、ここからでは聞きとれない。
もう少し近付くべきか、と境内へと足を踏み入れる。羽ばたきの音を聴いて見上げれば、上空を大鴉が旋回していた。事前に立てた作戦が通用していればいいのだが。
「──糞が、何で効かねえ!」
「もういい加減、諦めて『イペタム』を渡しなさいな。ほら、早く」
どうやら、上手くいっているらしい。男の動きが鈍いのは、シズカさんの使った術がうまく成功したためか。
倒れている人を踏まないように避けて、ふたりの方へと接近していく。茶髪の男はこちらに気付いたのか、シズカさんを牽制しつつ数歩後退した。
荒くなった呼吸を整えながら、男はこちらを睨みつけている。幾分か傾いた太陽はこちらの背後にあって、さぞかし眩しいことだろう。
シズカさんは一瞬だけこちらに顔を向け、「大丈夫だったのに」と不満そうに呟いた。
「キツネ野郎、てめえは確かに斬ったはずだぜ」
「ご期待に沿えず申し訳ありません。残念ながら五体満足ですよ」
忌々しげな舌打ち。男は赤い携帯電話を弄びながら、シズカさんへと視線を戻した。
「後が面倒だからさっさと片付けてやろうと思ったのによ。予定が狂っちまうな」
「これで二対一ってわけだけど、まだやる気?」
左手を腰に当ててふんぞり返ってはいるものの、相手を見上げるその姿はいまいち締まらない。それを見て、茶髪男は頬を引きつらせた。
「『コトワリ』が効かねえくらいで、勝ったつもりかよチビ」
「へえ。肝心の『イペタム』も満足に扱えないのに、言うじゃないの」
「……潰す」
ぱきり、と男が握っていた携帯電話から音が聞こえてきた。その右腕は小刻みに震えている。
「てめえは、きっちり潰してやる。佐伯の術師ひとり殺ったところで、計画は大して狂いやしねえ」
「計画、ですか?」
思わず漏れた一言に対して、男の左手がこちらを指差した。
「キツネ野郎も逃がしゃしねえぞ。『鞘』の術だか何だか知らねえが、これで『イペタム』を封じたつもりなら大間違いだ」
茶髪男が大きく息を吸う。
次の行動を制止することは、自分にもシズカさんにもできなかった。
「ウェン・カムイよ、人喰いの悪霊よ、惜しいがここで解放してやる! 思う存分、暴れやがれ!」
叫びと共に、男は赤い携帯電話を中空に放り投げた。
○
反射的に携帯電話の行方を追い、それが宙を舞う様を見上げていると、静かだった境内に小さな不協和音が響き渡った。
何が起きたかと周囲に目を向ける。見た感じ何も変化は無いものの、音の発生源は理解できた。シズカさんも状況を把握したのか、小さく口を開いた。
「携帯が、鳴ってる?」
倒れている人が持っていたらしき携帯電話が、地面の上で震えながらメロディを奏でている。
あちこちから聞こえてくる音を聞いて、『イペタム』の伝承を思い出す。木箱に納められた妖刀が、血を求めてカタカタと音を立てる。やがて妖刀は夜毎に木箱を抜けだし、人を襲い始め──
「間違っても、オレは『攻撃するな』よ」
茶髪男の言葉を皮切りに音は途絶え、周囲に風が吹き始めた。
そういえば。確か、スカイツリーでも同じような出来事があったはずで。
「シズカさん、伏せて!」
「え、え?」
彼女が指示を行動に移そうとするよりも、突風の襲来が早かった。吹き荒れる風の中、身をすくめたシズカさんを押し倒し、その上に覆い被さる。
数秒か、十数秒か。どれだけの時間そうしていたのか。風が止み、背後でどさり、と何かが落ちた音がした。
「ああ、そうかそうか、なるほどなァ。あれこれ使い魔に『肩代わり』させてた、と。そういう寸法かよ」
「……ネバーモア」
顔を上げて振り向けば、血塗れの大鴉と、散らばる黒い羽根。か細い鳴き声が、シズカさんの呼びかけに弱々しく応える。
すぐ近くから、遠くから、また不協和音が響き始めていた。




