四、コトワリの使い手
スカイツリーの駐車場を出た後、シズカさんが操るバイクは隅田川を渡り、広い国道を南西へと向かっている。信号待ちで停まっている間に空を見上げると、ちょうど大鴉が頭上を追い越していくところだった。
しかし、まだ午前中だというのに相当な熱気だ。降り注ぐ太陽光と、アスファルトの照り返しに、自動車の排気まで加わって、先が思いやられる状況になっている。
視線を正面に戻せば、ビル街の交差点を車が行き交っているのが見える。東京の交通量を体感しつつさらに下を見ると、小柄な運転手の姿がようやく目に入ってくる。それにしても、こうして二人乗りしていると、やはり。
「なんともアンバランスですねえ」
ノーマルでは手も足も届かないし少々重いからと、バイクにはかなり手を加えているらしい。それでも傍目には危うさが付きまとっていて、女性が運転する乗り物に同乗するのが二回目ということも相まって、実際に走り始める前は不安を抱いていたのだが。
「何か言った?」
「いえ。安全運転、大変結構ですよ」
首を巡らせた彼女に手を振って、まったく問題ないことを伝える。シズカさんの走りは丁寧で、彼女の背後から腰に手を回していなければならない点を含めても、総じて快適と言えた。
「あと少しで着くけど、何か気付いたらすぐ知らせてね」
「ええ、わかりました」
霊感ゼロの自分が異変を察知するのは無理なのだけれど、それをわざわざ告げる必要は無いだろう。シズカさんの行動は使い魔の大鴉に頼るところが大きいようだし、知識面でなら少しは役に立てるはずだ。
信号が青に変わる。再び走り始めたバイクは高速道路の下を抜け、丸の内方面へと進んでいく。
○
速度を落としたバイクの上から、横を向いて目的地らしき場所を観察する。
反対車線のさらに向こう側、三方をオフィスビルに囲まれた小さな空間は、一見するとただの緑地のようだった。立ち並ぶ木々の手前に立てられた幟が無かったら、存在に気付かずに通り過ぎてしまうかもしれない。
遠目からでは奥の様子を窺うことができず、それはシズカさんも同じだったようで、彼女は再びバイクを加速させた。
バイクは皇居の手前で折り返し、首塚から少し離れた場所で停止した。エンジンが止まるのとほぼ同時に、大鴉がガードレールの上に舞い降りてくる。細い足場に器用に止まった大鴉は、ぐるりと周囲を見渡してから、鋭く一声鳴いた。
「どうかしましたか」
「魔除けだか人払いだかの結界があって、近付けなかったみたい」
また結界のお出ましである。
歩道の先を見つめるシズカさんにつられて、自分も首塚の方に目を向けてみる。平日の午前中であっても、忙しそうに行き交う人の姿が見えるのは、さすがは都会といったところだけれど。
片手で促されるまま歩道に降り、ヘルメットを外しながら彼女に問いかけてみる。
「確かに出入りする人はいませんけど、この雰囲気は普段と違うんですかね。いまいち判断つかないんですが」
「私も来るのは初めてだし、詳しくは知らないよ。でもさあ、いかにも良からぬことを企んでますって感じじゃないの」
「はあ」
スカイツリーの上で結界を張っていた人物は、自分の事を棚に上げて主観を述べている。
小柄な体のどこにそんな力があるのか、余裕のある様子でバイクを押して歩道へと移動させると、彼女は腕を組んでこちらを見上げてきた。
「ヒロシ君の言う通り、あそこで儀式を行ってたって可能性はありそうね」
「現在進行形かもしれませんよ……それで、どうしますか」
「どうしようか、ネバーモア」
シズカさんへの問いかけは、そのまま大鴉へと振り向けられた。大鴉は器用に首を振り、翼を少しだけ持ち上げて呆れた様子を表現してから、鳴き声を上げる。
「事態が悪化する前に片付けた方がいいだろう、って。こっちが『鷹の目』を使ったのは気付かれてるから、何か仕掛けられてるかもだけど」
「だったら、自分が様子を見てきましょう」
「え、ちょっと、ヒロシ君?」
「大丈夫ですから、後からついてきて下さい」
慌てて止めようとするシズカさんと大鴉を逆に制して、歩道を歩き始める。
何が仕掛けられていようが、魔術的なものなら無視できる。一時期は拝島先輩の盾にされていたこともあって、効果は実証済みだ。
途中で振り向くと、ヘルメットを脱いだシズカさんはショルダーバッグの中を漁りながらこちらに向かっていた。厚底ブーツを履いているためか、随分と不安定な走りに見える。
「シズカさん、速いですって」
「し、素人に任せられるわけねーべー」
彼女にしたらそうだろうなあ、とは思うものの、追いつかれては元も子もない。こちらも速足で移動する。首塚の正面の石段で一旦立ち止まり、オフィスビルと木立の影になって薄暗くなっている空間を窺うと、奥の方に人影がひとつ。
石段を登って敷地に足を踏み入れ、人影へと近づいていくと、その姿がはっきり見えてくる。薄い水色の半袖シャツに紺色のズボン、制帽を被った男の姿は、どこかの警備員のようだった。
右手にあるらしい首塚の方を見ていた男は、近付いてくる自分の気配に気付いたのか、驚いたように肩を揺らした。
○
警備員風の男はこちらに向き直り、左手を頭の後ろにやって困った表情を見せた。中年と呼ぶには少しばかり若く見え、茶色がかった長髪が軽薄そうな雰囲気を漂わせている。
姿勢を正した相手はこちらをまっすぐに見据えて、申し訳なさそうに口を開く。
「いや、すいません。今ちょっと立て込んでて、立入禁止、なんですよ。出直して貰えますか」
「そうなんですか? 看板とか特に無かったですけど」
返事をしつつ振り向いて、シズカさんの動向を確かめる。さすがに結界に飛び込むのを躊躇したのか、彼女は石段の手前に隠れるようにして、こちらの様子を窺っているようだ。
視線を戻すと、男は相変わらずの低姿勢でこちらを見つめている。
「ええ、急だったものでして。申し訳ありませんが、あと二時間ばかりは、近付かないで頂けないかと」
「修学旅行の自由研究で、ちょっと見学するだけなんですけど」
ここで引き下がっては意味が無い。もう少し粘れないかとお願いを口にしてみる。
愛想笑いを向け合うこと数秒。男は右手に持っていた赤い携帯電話に視線を向け、それからぐるりと周囲を見回した。舌打ちと共に再びこちらに向けられた顔からは困ったような表情が消え、心なしか視線が鋭くなっていた。
「『人払い』も『コトワリ』も効いてねえってか。半分済ませる前に邪魔が入るとか、思ったより優秀じゃねえか」
男は姿勢を正すと、右手をゆっくりと持ち上げた。まさかスマートフォンを鈍器にするつもりではないだろうが、意味の無い行動とは思えない。
さっさと次に行かねえとな、と呟きながら、男は一歩、踏み込んでくる。
「あのですね。ちょっと、よく分からないんですが……」
「無関係なら運が悪かったと思っとけ。ま、大人しく斬られてくれや」
男はさらに近付いてきて、右手を振り下ろした。その拳はこちらにまでは届いていない。けれど、例えばその手に刀が握られていたなら、無事では済まない距離だった。
『ダーインスレイヴ』に斬られた被害者の話を思い出す。相手の攻撃が効いた振りをするべく、数歩下がって片膝をつく。顔を伏せたまま様子を窺うと、ゆっくりと近付いてくる男の足の向こう側に、倒れている人の姿が見えた。あれは、誰だろうか。
「ヒロシ君!」
「なんだよ、仲間が居やがったか」
背後から駆け寄ってくるシズカさんの足音に、横を通り過ぎていく男が面倒臭そうに舌打ちした。
さて、どうするべきだろう。奥の方で倒れている人物は後回しにするとして。男が持つ携帯電話が『イペタム』だとしたら、何とかして奪取するのが最善か。
「白き御柱に恐み申す! 刃納めし鞘よ、箱よ──」
「そこのチビ、それ以上『誦むな』。あとオレに『近付くな』。死にたくなかったらな」
考えを行動に移すまでの間にも、状況は進行していく。静かに立ち上がって振り向けば、睨み合うふたりの姿が見える。
男は右手の携帯電話をシズカさんに向け、道路の方へとまっすぐに歩いていく。それを避けるように距離を取りつつ、シズカさんはショルダーバッグから黒い羽根ペンを取り出した。
「何て術よ、それ」
「ちゃんと効いてるな。ってコトは、キツネ野郎が特別なだけか」
羽根ペンを構えるシズカさんを見据えたまま、男は歩みを止めることなく進み続ける。彼女の方はといえば、ショルダーバッグに左手を突っ込んで別の何かを探しているように見えた。
「その『手を動かすな』。見逃してやるってんだから、『追ってくるな』よ?」
「むむ……」
「おっと、キツネ野郎も動くなよ。このチビがどうなってもいいってんなら別だが」
シズカさんが手を止めたのを見届けた後、こちらの動きに気付いているのかいないのか、男は振り向くことなく言葉を続ける。この状況では、不意をついて携帯電話を奪い取るのは難しそうだ。
仕方なしに、黙って状況を見守っていると、男と睨み合っていたシズカさんが口を開いた。
「『イペタム』を盗み出して、何をする気なの?」
「話すわけねえだろ、チビ。いいからお家に帰んな」
それだけ言い残して、男はシズカさんから視線を逸らして石段を飛び降り、歩道を走り去っていった。
○
怪しげな男が姿を消してすぐ。立ち上がった自分は、駆け寄ってきたシズカさんに襟首を掴まれた。強引に顔を引き寄せられ、至近距離で大声をお見舞いされてしまう。
「今度こそばっちり『呪い』を受けたハズなのに、なして動けるの!」
「そう言われましても、体質としか、ですね」
「もう、どういう身体してるのかなあ」
諦めたような呟きと共に、首にかかっていた力から解放される。シズカさんの方こそ大丈夫なのか、あの警備員風の男が何をしたのか、こちらにも聞きたいことは多々あるけれど、いま一番に急を要することといえば。
首塚の方に向き直って、人が倒れているのを再確認する。走って近付いてみれば、それはスーツ姿の中年男性だった。傍らにはコンビニ袋が落ちている。
「これは、生きてますかね」
「わかんない。『イペタム』に斬られたせいなら衰弱しているだけだとは思うけど、放置しちゃマズそう」
ショルダーバッグから携帯電話を取り出して、シズカさんは救急車を呼び始めた。倒れている男性をシズカさんに任せて周囲を調べると、あちこちに真新しい御札が貼り付けられていることにようやく気付くことができた。
これが『人払い』の結界なのか、それとも儀式のために必要だったのかは分からないが、手掛かりにはなるだろう。屈みこんで携帯電話のカメラで撮影し、描かれている図柄を確かめる。
大きい黒丸の八方を、小さい黒丸が囲んでいる紋様。修学旅行前に、自由行動の内容を決める際の山霧委員長との会話でも、この紋は話題に上がっていた筈だ。
「『九曜紋』ですか」
「ヒロシ君、知ってるの?」
連絡を終えたらしいシズカさんが横から顔を覗かせる。
「確か、平将門が掲げていた紋ですね。詳しくは知りませんが、先程の人物が仕掛けたもので間違いないでしょう」
記憶を掘り起こして話しながら、首塚の土台から剥がした御札を手渡すと、彼女はなるほど、と頷いた。
御札をバッグに仕舞い込んだシズカさんは、こちらを見上げて困り顔を見せる。
「相手は結構な使い手みたい。ちゃっちゃと封印して解決できれば良かったんだけど」
「それは仕方ないでしょう。『断り』だか『理』だか知りませんが、動きを封じられたのは痛かったですね」
自分には効かなかったようだけど、と考えていると、シズカさんがまた襟首を掴んできた。
「なして分かるの。キミ、やっぱり素人じゃないでしょう」
「いやその、行動を禁止する術じゃないかと、推理しただけですから」
彼女の腕をタップしてなんとか離してもらい、ネクタイを整えて一息つく。見た目に反して強い力である。
納得いかない表情のシズカさんだったものの、彼女の口から追及の言葉が出る前に、歩道の方から大鴉の鳴き声が聞こえてきた。それを聞いて、シズカさんは残念そうに肩を落とした。
「上手くいかなかったか。地下に入っちゃったみたいね」
「ああ、なるほど。尾行していましたか」
「『鷹の目』も警戒されてるだろうし、これは一旦、上野に移動して体勢を立て直すしかないかな」
その前に結界をどうにかしないとなあ、とぼやきながら、彼女は歩道に向かって歩き始めた。
「この人はどうするんです?」
「応急処置ができればいいんだけど、そっち系の術は全然知らないんだ。付き添い求められても困るし、薄情かもだけど放置するしかないでしょう」
そういうことなら、この場に残っていても出来ることは無さそうだ。むしろ早めに移動した方がいいかもしれない。
御札の写真を拝島先輩に送信し、首塚に向かって一礼してからシズカさんの後に続く。
男の行き先も推測できなくは無いけれど、記憶が不確かだ。どこかで委員長にも連絡しなければならないだろう。
今後どうするべきかを考えながら歩道に出る。また少しばかり強くなった真夏の日射しが、再び頭上から襲いかかってきた。




