参、天上からの帰路
延々と長く続く非常階段を降りつつ、保国先生と委員長に対する状況説明のメールを打ち終えた。しかし、どうやらこの中は圏外のようで、外に出ないことには送信できそうになかった。
すぐにシズカさんからの説明を聞けるかと思っていたのだけれど、自分に対してどこまでの情報を開示するべきかで彼女と大鴉の間で意見の違いがあったらしい。少し離れた背後からは、ひとりと一匹が小声で相談している。一匹の方の言葉は理解できないので、盗み聞きの努力は早々に放棄した。
携帯電話をポケットに戻し、どうしたものかと思案する。
自分が受けているという呪いについては、それほど疑ってはいない。嘘をついてまで自分を同行させる意味は無いだろう。シズカさんの勘違いという線もあるけれど、貴重な体験ができるかもしれない機会は大事にしたい。
「そうだ、ヒロシ君」
「何でしょう?」
足を止めずに振り返ると、シズカさんは急ぎ足で距離を縮めてきた。ふむ。背は低くても、スタイルは悪くないんじゃないか、と思う。
「もう少しで天望デッキだから、メール書けたなら一度そこから出て送ってもらえるかな」
「わかりました。しかし、セキュリティとか大丈夫なんですか」
今更な話だが、きちんと確かめておきたい。普通だったら直ちに警備員が飛んでくるような行動を、今とっているのではなかろうか。
シズカさんは大鴉の方をちらりと見た後、すぐに「ま、いいか」と呟いた。
「非常階段の利用については、警備会社に話を通してあるから大丈夫」
「話を、ですか」
それだけの権限は持っている、ということだろうか。もしくは、彼女が属している組織の力なのかもしれない。何にしても無計画な行動ではないようだ。
などと考えていると、沈黙を疑念と受け取ったのか、シズカさんが再び口を開いた。
「最新の防犯設備とか電子機器とか、騙す方法はあるんだけど、今回は使ってないから安心していいよ」
「その情報はむしろ、不安にしかならないですよ」
「体調を悪くさせたり、病気にしたりする呪いの応用みたいな感じでね」
「詳しい説明は求めていなかったんですが」
まるで前科があるような言い方である。大鴉も非難めいた声を上げているけれど、当の本人は意に介していない様子だ。
「やるのはどうしても必要なとき、緊急事態だけだってば。今だって、業務用のエレベーターを拝借すればすぐ地上なのに、こうして我慢してるんだから」
「ああ、その手がありましたか」
「他に乗客がいなければ結界も張れるしね。天望デッキから乗っちゃおうか?」
冗談か本気か判断できないが、シズカさんは満面の笑みを浮かべている。だったら笑顔で応えよう。
「自分は構いませんよ」
「うっわ、ヒロシ君てば悪そうな顔じゃないの」
「そこまで引くほどですかね?」
大げさに身を退いてはいるが、シズカさんの表情は笑顔のままだ。果たしてどこまで本気の発言なのやら。
彼女の右腕の上では、大鴉が翼を広げ、説教らしき鳴き声を上げ始めていた。
○
保国先生と委員長に対してメールを送信できたことを確認した後、天望デッキから再び非常階段へと舞い戻る。縦に細長い空間は涼しくはないものの、おそらく外よりは過ごしやすい温度を保っているはずだ。
階段に座って『魔劍大鑑』を開いていたシズカさんは、こちらを見上げると軽く頷いて立ち上がった。
「どうだった?」
「大きな騒ぎにはなっていないですね。空調設備の点検は入るようですけれど」
天望回廊への入場は制限されていたが、すぐに再開する見込みのようだった。安心した様子を見せたシズカさんは、「それにしても」と首を傾げた。
「早かったじゃない」
「ひとまず別行動をとることだけ、メールで伝えておきました」
「そんなんで大丈夫なの」
疑わしげな視線で見上げられるのは何度目だろう。胡散臭さで言えば、目の前の小柄な女性の方が上を行っていると思うのだけれど。
「ええ、まあ。なんとか誤魔化してくれるかと」
有無を言わさぬ流れだったとはいえ、保国先生からは説教を受けることになるだろう。それはそれとして、と先のことを頭の片隅に追いやって、下り階段へと一歩を踏み出す。地上までの距離や段数も、なるべく意識しないようにしないと気が滅入るばかりだ。
後をついてくるシズカさんの足音を聞きながら、連絡を取るべきもうひとりの相手について思案する。拝島会長の判断力は当てにしたいところだが、もう少し背後の女性から話を聞いた上での方がいいだろう。
「シズカさんこそ、大丈夫なんですか」
「連絡したいのはやまやまなんだけど、向こうが携帯持ってないんだよね」
「はあ、なるほど」
移動中ということだろうか、古風な人もいたものである。あるいは、携帯電話を使わなくても通信できる手段を持っているのかもしれない。
「もしかして、式神を送り合ったりとかしてるんですか?」
「あー、あいつらは駄目かなー」
背後からの微妙な反応に振り向くと、シズカさんは頬をかきながら苦笑いを浮かべていた。
「あいつらって融通効かない上に気紛れだから、通信には向いてないんじゃないかな」
「いや、そもそも使役してるんですか」
使い魔や式神が実際どんなものなのか、詳しく聞いておきたい。拝島会長からは「僕に聞かれてもねえ。生憎と専門外だから」とつれない返事しか貰えなかったのだ。
果たして自分にも見えるモノなのだろうか。もしそうなら、ぜひ見せて貰えないだろうか。
「イタチ一匹だけだけどね。ほら、ヒロシ君、足が止まってるよ」
「あっと、すいません。後にした方がいいですかね」
左手で早く行けと促され、ひとまず前に向き直る。
いろいろと訊ねてはみたいけれど、それより先に、確かめておかなければならないことがあるのだった。
○
自分がメールを送っている間に話がまとまっていたのか、シズカさんの説明はすぐに始められた。
「私たちの目的は『イペタム』を見つけ出して、もういちど封印すること。最近までうちの実家が管理していた刀なんだけど、少し前に盗み出されちゃったみたいで──」
東京で一人暮らしをしていた彼女には、その頃の実家の騒動は伝わっていなかった。妖刀の行方を調べるために様々な手段を用いたらしいが、結果は芳しくなかったようだ。
「それが昨日になって、東京あたりで封印が解かれたのを感知した人がいてね。実家経由で私に連絡が来ちゃって」
「緊急事態ということですか」
こちらの問いかけに対して、シズカさんは少し迷ったように小さく唸った。
「そうでもない、かな。捜索を私ひとりに任せたってことは、それほど脅威じゃないと判断したってことだから」
「にしては、さっきの突風はどうなんでしょうかね」
物理的にあれだけの現象を引き起こせる妖刀だとしたら、十分に脅威だろう。実感は無いのだけれども、どうやら強い呪いも持っているようだし。
踊り場でちらりと見上げると、シズカさんも微妙に納得いかないといった表情をしていた。
「ヒロシ君の言う通り、そこが変なんだよね。ネバーモアに見てもらったんだけど、『大鑑』の記述でも『イペタム』の品格って大したことないんだ」
「品格、ときましたか」
「私も詳しくは知らないんだけど、要はどれだけ強力かっていう格付けかな」
なるほど。実際に相対した人物が書いたものなら、ある程度は信用できそうではある。あまり知られていない伝承である『イペタム』の格が低いというのも、これまでの経験上、納得できる話だ。
しかし、自分は短期間で力を増していった魔剣の存在を知っている。木刀に万年筆と、およそ魔剣らしくない外見ではあったけれど。
「例えば、人を襲って力をつけたということはないですかね。血を求めて飛び回った刀なわけですし」
「どうかな、ネバーモア?」
大鴉の鳴き声を聞きながら、シズカさんはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「えーと。『あれだけ強力になるためには、相当な人数から糧を得なければならないはずだ』って、まあ、そうなのかな。『だが、封印が解けてから一晩では困難だろうし、それらしい事件も報道されていない』と」
声色を変えて通訳してくれる辺り、方向性はともかく親切な人である。
「何らかの儀式を行ったとか、誰かの力を借りているとか」
「『その可能性は否定できない。しかしその場合、対象の脅威度を見直す必要がある』……んー、実は結構ヤバい相手だったり?」
「かもしれませんね」
シズカさんの術者としての能力は高そうだけれど、彼女ひとりで大丈夫なんだろうか。どうも慣れていない雰囲気があるし、伝奇伝承に関する知識はもしかすると自分の方が上かもしれない。
「実家の方からの応援はないんですか」
「ひとりこっちに移動中で、昼過ぎに上野駅で待ち合わせ。封印のための道具一式を持ってくる手筈になってるよ」
「上野、となると……確か、山手線の右上の方ですよね」
ここを出たらまず上野に向かうことになるのだろうか。修学旅行前にいろいろ書き込んでおいた地図は鞄ごとバスに置いてきてしまっていて、位置関係がいまいち分からない。携帯電話も、この中では位置情報を取得できないだろう。
どうしたものかと考え込んでいると、背後から大鴉の鳴き声が聞こえてきた。
「あー、そっか。ヒロシ君、マップ見る? 小さいけど」
「あるならぜひとも」
鞄を漁り始めたシズカさんは、しばらくして緑色の地図帳を取り出して、こちらに差し出してきた。
朝の記憶を頼りに広域マップからスカイツリーを探し出し、そこから浅草を挟んで西側に上野駅があることを確かめる。地下鉄に乗って数駅、距離にして三キロ強。
「結構近いですね。となると、昼過ぎまではまだ時間がありそうですが」
「落ち合う前にもう少し情報を集めたいかな。とりあえず、『イペタム』の反応があった場所を確かめておきたい」
「どこですかね?」
階段の踊り場で立ち止まり、振り返って訊ねると、シズカさんは少しだけ思案してから場所を告げた。
「一番大きかったのは、皇居の手前、大手町のオフィス街の辺りだけど、見つかるかな」
「ああ、大手町なら分かりますよ。事前に調べてましたし」
代わりに探そうかと差し出された手を制して、地図帳のページをめくっていく。
千代田区は大手町。東京駅の西側に位置していて、自由行動のときに行っておきたかった場所のひとつだった。結局、班の他のメンバーに却下されてしまったのだが。
「これはもしかすると、チャンスかもしれませんね」
「何がチャンスなのかな」
「いえ、ちょっと行きたかった場所がありまして」
段差の上から顔を近づけて地図を覗き込んでくる彼女に対して、その場所を指で示してみる。
「一丁目二番一号、有名なオカルトスポットですよ」
「……反応があったのもこの辺なんだけど、関係あったりする?」
「さて、どうでしょうか」
顔を上げると、シズカさんと目が合った。思ったより近いことに気付いて、一歩下がって改めて考える。
はるばる京都から飛んできた、平将門の首級が落ちた場所。
『将門の首塚』に、アイヌの妖刀が何の用事だろうか。
○
薄暗い階段をさらに降り続けること十数分。シズカさんが終着点の扉をそっと開いて外の様子を窺った。
手招きされて、シズカさんに続いて扉を潜り抜ける。通路の先には団体ロビーが見えていて、ようやく地上へと辿り着けたことを実感できた。
「それじゃあ、行こうか」
「それは構いませんけど、また『イペタム』に襲われたりとかしませんかね」
「気付かれないように中を通ったわけだし、こっちからまた術を仕掛けたりしない限りは大丈夫だと思うよ」
同意する大鴉の鳴き声に頷いてから、シズカさんは言葉を続けた。
「一応、呪い避けだけは維持していくから、あんまり離れないようにね」
「了解しました」
朝も見た壁画の前を通り過ぎ、タクシー乗り場の方へと向かう彼女の後についていく。
団体客の行列を横目に見ながら自動ドアを抜け、施設内のロータリーへと出ると、生温い外気とエンジン音が全身を包み込んできた。
「地下鉄で行くのかと思っていたんですが、タクシーですか?」
「どっちも外れ。ネバーモアは外で待ってて」
シズカさんの言葉を受けて飛び立った大鴉を見送りつつ、バスやタクシーが出入りするロータリーを迂回して進んでいく。案内表示によると、その先はバイクの駐車場となっている。
シズカさんの方を見れば、ジャケットのポケットから小さな鍵を取り出したところだった。
「ヒロシ君、二人乗りの経験あるかな」
「一応、スクーターならありますけど。シズカさんの方こそ、どうなんです」
「私はまあ、何回も後ろに乗っけてるし」
問題無い、といった様子で彼女は歩いていく。何台かのバイクが停められている駐車場で、シズカさんはその中の一台へと近づいていった。
黒と緑で塗り分けられた流線型のカウルは、いかにも速さを重視した造りに見える。その内側に見え隠れする内燃機関やその他のパーツも、その印象を裏付けている。
「もしかして、そいつに、乗ってきたんですか」
「スクーターとはちょっと違うかもだけど、最初はゆっくり走るから。頑張って慣れてね」
立ち止まったシズカさんの目の前には、小柄な彼女にはおよそ似つかわしくない大型のバイクが鎮座していた。




