弐、『魔劍大鑑』
目の前の女性は、確かに『結界』と言った。
スカイツリーの展望台は朝から観光客で賑わっていて、その中でぽっかりと空いた無人の空間が『結界』なのだろうと推測できる。人払いか認識阻害か、あるいはそれに類する効果を持つものなのか、少なくとも素人ができるような技ではない。彼女は恐らく、拝島会長の同類だ。
正直なところ興味を引かれてはいるのだけれど、相手の素性がはっきりしないことには迂闊に行動できない。女性はこちらに向き直って、左手でショルダーバッグの中を探りながら睨んできた。
「結界を壊さずに入ってきてんのに、一般人なわけ無いでしょうに」
大鴉も同意するように鳴き声を上げる。
確かに。結界の影響を受けないくらい鈍感なのは、普通じゃないとは思う。思わず苦笑を洩らしかけた口元を引き締めて、真面目な返答を心がける。
「しかし、そう言われましても。見ての通り、修学旅行中のごく普通の男子高校生なんですが」
「その落ち着いた態度にスカしたキツネ顔。普通じゃないって言ってんのよ」
「いやその……困りましたね。どうしたら信じて貰えるんでしょうか」
顔は関係無いんじゃないですかね。とは思ったものの、口に出さないでおく。女性はこちらからの問いかけに、僅かに眉根を寄せた。
何度か思案するように厚底ブーツのつま先を上下させた後、彼女は右腕を少し持ち上げ、その上の大鴉に顔を寄せた。
「ネバーモア、こういう場合どうしたらええの」
小声の質問に対して、大鴉の鳴き声が答える。心なしか呆れたような調子の声に、女性はふんふんと頷きを返す。
それを何度か繰り返した後、「なるほど」という言葉と共に、バッグから引き出された左手がこちらに向けられた。
その手には黒い羽根ペンが握られていて、木刀を構えた後輩の姿を少しだけ連想してしまう。
「じゃあ、キミ、名前と学校を言ってみなさい」
「阿倍野博、和倉高校二年です」
「アベノ、ヒロシ、ね。ワクラ高校?」
「はい。能登半島の中ほどの、和倉温泉の近くですけど……能登はわかりますか」
「日本海側のどっかだよね、確か。最近聞いたことあんだけども」
地理には疎いのか、いまいち理解の色が見えない彼女に補足説明をしたものの、答えは芳しくなかった。それでも、その視線からは警戒が薄れているように見えた。
こちらに向けられていた羽根ペンをバッグに戻したのを見て、ずっと上げ続けていた両手を下ろしながら尋ねてみる。
「学生証も見ますか」
「いらないいらない。相手が嘘ついてるか分かるお呪いがあるって言ったら、信じる?」
「ええ、まあ。信じますけど」
仮にも伝奇同好会の一員であるからして。だとしても、それが自分に効くのかどうかは別の話だ。
あっさり答えたのが悪かったのか、目の前の女性は少しばかり困惑しているらしい。
「キミさ、やっぱり一般人じゃないでしょ」
それだけ言って再びバッグの中を漁り始めた女性は、こちらをちらちらと見ながら大鴉と小声で会話していた。
「面倒臭いべ」とか「無関係だべ」とか漏れ聞こえてくるやり取りの後、彼女は軽く溜め息をついた。
「ヒロシ君。時間あるなら、私の用事が済むまで待っててくれるかな。何かこいつが聞きたいことあるみたいでさ」
「構いませんよ」
申し訳なさそうに尋ねてきた彼女に対して、手を振って問題無いことをアピールする。
すんなり解放とはいかないだろうと思っていたし、彼女がこれから何をするのか気になる身としては、逆に願ってもない申し出だ。
とりあえず、後で委員長にメールを送っておかなければ。
「それで、そちらは何とお呼びすれば?」
「私はシズカ。こっちは使い魔のネバーモア。本業は大学生だけど、今は見ての通り野暮用の真っ最中かな」
本当はやりたくないんだけどね、と彼女は不機嫌そうに呟いた。
○
シズカさんが取り出したのは、一冊の和綴じの書物だった。変色の度合いからしてかなり年期の入った代物は、表紙に書かれた題字からして達筆過ぎて読み取れそうになかった。
果たしてこれは何だろうか。上から覗き込んでいると、書物のページを慎重にめくりながらシズカさんが口を開いた。
「『魔劍大鑑』。ご先祖様が封じてきた魔剣、妖刀の記録帳ってとこ」
「読めるんですか」
「全然。歴史も古文も駄目だから。ネバーモアは読めるみたいだけど」
天望回廊の手摺りに飛び移って外を眺めていた大鴉が、首だけこちらに向けて一声鳴いた。
「何度言われても、後を継ぐ気は無いからね」
顔を上げずに答えたシズカさんは、栞が挟まれたページを開いた状態で、書物を前に差し出した。説明書きは読めないものの、そのページには一振りの刀と鞘、細長い箱の絵が描かれているようだった。
「しかし、何でまたこんなものを」
「探知の術の媒介にね。本当ならもっと関わりの強い物を用意するらしいんだけど、私が持ってるのはこれだけだから」
そういえば、何かを探すために天望回廊までやってきたような雰囲気だった。
わざわざこんな場所で結界を張ってまで、一体何を探そうというのか。彼女は最初に何と言っていただろう。そう、確か。
「つまり、魔剣『イペタム』ですか。探し物は」
「知ってるんだ?」
意外そうに顔を上げたシズカさんと目が合って、いつの間にか近付き過ぎていたことに気付く。二、三歩下がりながら、身振りを交えて説明する。
「あー、アイヌに伝わる妖刀ですね。言い伝えでは、その刀身に血を浴びるまで鞘に収まることがなかったとか、勝手に木箱から抜け出して、血を求めて飛び回っただとか」
吸血剣という性質だけ見れば、保国先生が持っていた『ダーインスレイヴ』が近いのかもしれない。けれど、こちらは村の宝物として扱われていて、デンマーク王ホグニのような特定の所有者が活躍したという伝承は見当たらなかった。
「知名度は低いはずなんだけど、詳しいね」
「ええ、まあ。魔剣絡みではいろいろとありまして」
イペタムについても、『黒い木刀』の正体を調査しているときに、これは外れだろうと思いつつ念のために調べていたのだ。
納得したのかしていないのか、ふうん、とだけ呟いてシズカさんは前を向いた。
「人も増えてきたし、さっさとやっちゃわないと。ネバーモア、結界の維持はお願いね」
目を閉じた彼女の邪魔をしないように、もう一歩下がって様子を窺う。開かれた彼女の口から、よく通る声が流れ出る。
「──請うは我。天地を望む此れなる地、我が魂において願うは、いと高き天より見下ろす《神鷹の眼》。書に記されし血吸いの宝刀を見出す力を与え給え。白き御柱に恐み申す──」
澄んだ声で紡がれる言葉は、祝詞のようなそうでないような、不思議な調子で流れていく。術がきちんと効果を発揮するかどうか、霊感が無い自分にはさっぱり分からないのだけれど、今のところ順調な様子に見える。
「──接続完了、と」
その言葉と共に、彼女の目が開かれる。すぐに窓の外、都心の方に顔を向け、視線を目まぐるしく動かしながら、シズカさんは「ありゃ」と呟いた。
「どうかしましたか」
「反応がぼんやりしてるんだけど。条件付けが甘かったべ?」
目を細めた彼女は、気を抜くと方言が出るのか、時折不安定なイントネーションで説明を始める。
「皇居の手前くらいに大きい反応がひとつ。その周りにふわふわしたのが、ふたつ、みっつ、なんか集まってきてるんだけど」
彼女の声は焦りを含んで大きくなってきているものの、自分には状況が把握できない。それはどうやら大鴉も同じようで、シズカさんに向かって一声、問いかけを発していた。
「『詳しく』って言われても。えっと、小さいのがひとつ、向かって来てる感じで……もしかして、こっちに気付いて攻撃してきた?」
シズカさんの物騒な台詞に、反射的に飛び上がる大鴉。彼女自身も一歩下がり、両手で上体を庇うようにして屈み込んだ。
「キミも伏せて!」
急な展開に止まっていた思考が、彼女の呼びかけで動き始める。どうせ自分は影響を受けないだろうという消極的な考えと、つい先日、奥能登で見た『崖を両断する力』が、万が一、スカイツリーに向けられたらという想像がせめぎ合って、迷った挙句に身体は動かない。
猶予はほんの数瞬で、採るべき行動が定まる前に、天望回廊に突風が吹き荒れた。
○
本来なら有り得ない屋内の強風に、周囲の観光客たちは騒然とする。自分にも感じられるこれは、間違いなく現実に吹いている風だ。
騒ぎに気を取られて視線を彷徨わせていると、左腕を引く力と名前を呼ぶ声に意識を戻された。顔を向ければ、シズカさんの右手が自分の手首を掴んでいる。
「結界を破られた。追撃が来る前に移動する」
頷く間もなく彼女は歩き始め、仕方なく歩調を合わせて後をついていく。風は既に止んでいて、周囲の人々が見せている戸惑いの反応さえなければ、まるで幻だったかのようだ。
ネバーモアはどうしたのかと周囲を見回せば、通路の先の方を器用に飛んでいく大鴉の姿があった。大鴉にはまた別の術がかけられているのか、誰にも気付かれている様子はない。
代わりに、外の景色を眺めることなく通路を急ぐ自分たちには、何事かと視線が向けられているようだった。
「とりあえずエレベーターですか」
「この状況じゃ危険かな。結界を使わずに狭い箱の中とか、狙って下さいって言ってるようなものだし」
小声の質問を、シズカさんは左手を小さく振って否定した。ジャケットの袖がすっぱりと切れて、ひらひらと揺れている。先程の風によるものだとしたら、危険度は高そうだ。
怪我は無いんだろうかとか、この先どうするんだろうかと考えている間に、天望回廊の終点へと辿り着いてしまう。この先は最上階フロアで、天望デッキへと戻るためのエレベーターでしか降りられない筈だ。
立ち止まったシズカさんは、軽く溜め息をついて。
「帰りは楽できると思ったけんども、また中を通るしかないかな。ネバーモア、結界を張り直そう」
「中、ですか?」
彼女は黙って頷き、左手を上げて何かを指し示す。目を向けてみれば、その先には白と緑の小さな表示灯があった。
○
踊り場に設置された蛍光灯以外に光源は無く、灰色のコンクリートに囲まれた無機質な空間は実際以上に閉塞感を漂わせている。厚い壁に囲まれ、外部の音が届かない空間で、階段を降り始めたシズカさんを追いかけつつ声をかける。
「また、って言ってましたよね。もしかしてここを登ってきたんですか」
「あんまり人が来ないうちに済ませるつもりだったから。でも、思ったより時間かかっちゃってさ」
スカイツリーの中心に立つ心柱、大樹の幹に当たる部分は内部が空洞になっていて、地上から天望回廊までを結ぶ非常階段が設置されていた。
なるほど、エレベーターに乗らずとも下まで行けるのは理解できたのだが。
「四百五十メートルって、ビルだとだいたい百階くらいの高さなわけ。逆算して五十分くらいあれば行けるかな、と思ったんだけど」
「百階とか、無理でしょう」
うんざりである。階段の隙間から下を覗き込めば、延々と続く薄暗い空間に眩暈を覚える。
さすがにこれ以上、彼女に付き合うのは勘弁願いたい。
「途中で天望デッキにも繋がっているんですよね。自分はそこからエレベーター使いますんで──」
「ヒロシ君」
踊り場で立ち止まったシズカさんが、厳しい表情をこちらに向けた。さすがに飛んで降りるのは無理なのか、彼女の右腕には大鴉が止まっている。
「はい、なんでしょう」
「あのときキミが一番やられてた筈なんだけど、何とも無いわけ?」
そう聞かれて、改めて自身の状態を確かめてみる。外傷なし、精神的消耗なし、そろそろ小腹が空いてきた模様。少なくとも、天望回廊での一幕による不調は無さそうである。
「ええ、まあ。鈍いんですよね」
「鈍いとか、そげなレベルの話じゃないんだけど。何で動けるんだろ」
呆れたように突っ込みを入れてきたシズカさんは、「それはともかく」と言葉を続ける。
「ヒロシ君に十分な耐性があるのは把握した。けれど、気付いてないみたいだから言っとく」
厳しい顔を崩さないまま、彼女は言葉を続けた。
「術なんか使わなくても感じ取れるくらい、ヒロシ君は『呪い』を受けちゃってる。このまま放置しておいたら、キミが大丈夫でも周りの人たちに被害が及ぶよ」
「ああ……それは、ちょっと困りますね」
『呪い』と聞いて、地元で出遭ったいくつかの事件を思い出す。大抵は拝島先輩が対処していて、自分はただ傍観するだけの解説役だったものの、『呪い』による悪影響は理解しているつもりだ。
特に今回は、物理的な現象まで引き起こすような魔剣が相手のようだし、用心するに越したことは無い。
「巻き込んじゃったのは申し訳ないけれど、『呪い』を解除できるまでは一緒に行動してくれないかな」
シズカさんは真剣にこちらを見上げている。身長差に階段の段差が加わって、かなり大変そうに見える。
そんな状況じゃないとは分かっていても、つい苦笑が漏れてしまう。
「ヒロシ君?」
「いえ、すいません……仕方ありませんね。自分も協力しますから、何故『イペタム』を探しているのかとか、いろいろ教えてくださいよ」
「長くなるけど、いいの?」
「ええ、まあ」
地上に辿り着くまで、時間はたっぷりあるわけだし。




