壱、天望回廊で鴉は鳴いて
大きなフロントガラスから射し込んできた朝日の光に、まどろんでいた意識が覚醒していくのを感じる。運転手の居眠り防止だか、速度超過の防止だかのために加工された路面の上で、観光バスは小刻みに揺れている。
眠りを妨げる太陽光から顔を背け、上体を起こしてカーテンの端を少し持ち上げた。反対車線のさらに先、フェンスの隙間の向こう側に、高速道路に沿うように流れる幅の広い川が見え隠れしている。あれは、東京湾へと続いている川のひとつだろうか。
「起きたか、阿倍野」
通路側の座席からかけられた小さな声に振り向く。どうやら先に目を覚まし、ガイドブックの地図を見ていたらしい山霧委員長が、眼鏡を外してレンズを拭いているところだった。
小声で挨拶を返し、腰を浮かせて薄暗い後方を眺めてみれば、同級生たちはまだほとんどが寝ているように見える。
「それで、今どの辺りですかね」
「もう二十三区内だぞ」
クラス委員長の人差し指が、地図上の一点を指し示した。高速道路を表す緑色の線が、荒川と記された川沿いに引かれている。現在位置を指していた指はそのまま高速道路を辿っていき、『向島』と書かれた料金所で止められた。
「あと少しだな。渋滞に巻き込まれなかったからか、予定より早く着くらしい。とはいえ、こんな早朝では開いている店も無さそうだけどな」
「バスから出られるなら大歓迎ですよ」
「俺は冷えた車内の方がいい。東京は熱帯夜だの猛暑だの、大変そうだ」
「同意はしますけど。今からそんなこと言ってたら三日間もたないでしょうに」
うんざりとした表情になりつつ地図を眺める委員長は置いておいて、再びカーテンを持ち上げる。荒川の向こう側にあるはずの鉄塔を探して視線を彷徨わせると、それらしき細長い建造物が朝日を受けて白く照らされているのが見えた。本日最初の目的地、スカイツリーはひときわ高く、存在を主張している。
ポケットから携帯電話を取り出して撮影を試みていると、珍しく浮いた調子の委員長の声が耳に入ってきた。
「ああ、しかし近くに神社があるじゃないか。牛嶋神社、か」
「もしかして、御朱印もらえたらとか考えてます?」
御朱印帳を持ち歩き、休みのたびに寺社仏閣を巡るという渋い趣味を持つ委員長のことだ。それも有り得るだろうと聞いてみたものの、「いいや」と否定されてしまう。
「さすがに早朝からそんな厚かましいことはできないが。どうやら珍しい鳥居があるようだし、神紋も見てみたい」
「神紋、ですか」
賽銭箱や屋根瓦に描かれていたりする、家紋の神社版のことだっただろうか。そちらはあまり詳しくないのだけれど、委員長の心の琴線には触れるものがあるらしい。旅行の予定表を睨みつけ、ぶつぶつと呟いている。
「ツリー見学中の自由時間では、やはり心許ないな……朝食前に行ってもいいか交渉すべきか」
さっきまで外に出たくないと言っていたのに、いやはや現金なものだった。
○
通勤途中のサラリーマンの間を縫うように、山霧委員長は必死に前を走っている。その後を追いかけつつ、携帯電話で時刻を確かめる。
七時五十分。集合時間には間に合うものの、残念ながら展望台見学の前に朝食を食べるだけの余裕は無さそうだ。
赤信号を前に立ち止まり、眼前に高くそびえ立つスカイツリーを見上げていると、隣で膝に手をついて息を整えていた委員長が話しかけてきた。弓道部に所属している割には、体力の無い男である。
「だ、大丈夫か」
「それはこっちの台詞でしょう。この貸しは大きいですよ」
「ああ……すまんな」
およそ一時間前、委員長の熱弁に折れた担任が条件として提示してきたのは、『ひとりで行動しないこと』だった。普段の行いの賜物とも言うべき許可ではあったものの、仕出しの朝食が届く前、寝起きの状態でわざわざ同行を申し出るような奇特なクラスメイトなど居るわけもなく。
期待を込めた委員長の視線を全員が華麗に避け、静寂に支配されたバスの中、「じゃあ、阿倍野と行ってきます」といきなり腕を引っ張られ、牛嶋神社まで無理矢理に連れて行かれたのだ。
「二、三枚写真を撮るだけだと言っていたのに、その十倍はシャッター切ってたじゃないですか」
「興が乗ってしまってな。つい、出来心という奴だ」
上体を起こし、仕方ないだろうとばかりに肩をすくめてはいるものの、委員長の表情に余裕は無いし、せっかく着替えた制服が汗だくでは様にならない。
「しかし、おかげで剣片喰の神紋を拝めた。阿倍野もいい写真を撮れただろう?」
「逆光気味でしたけどね」
「それになんだ、雰囲気が良かった。やはり神社はいいな」
「その辺は自分には全然わかりませんけどね」
背後を振り返れば、まっすぐ続く細い道の先に小さく鳥居が見える。
雰囲気はともかく、神社の鳥居とスカイツリーを収めた写真は、確かにいい話のネタになるとは思う。さながら巨大な御神木といったところだったし、きちんと撮れているか後で確認しておかないと──
「阿倍野、青だぞ」
委員長の呼びかけに、急いで前に向き直って足を進める。
ツリーの下に広がる巨大な複合施設の横を走り、敷地のほぼ中央にある団体用ロビーを目指す。七尾の駅前にある商業施設と比べて数倍の広さはあるであろう建造物に地域格差を感じつつ、タクシーの出入口を通り過ぎて建物の中へと入ると、ひんやりとした空気が身体を包み込んできた。
隣で委員長が、盛大にくしゃみをした。
○
バスの前に集合していたクラスの面々に合流させられたため、やはり朝食を食べることは叶わなかった。流されるままに広い団体ロビーへと移動し、ツリーが描かれた壁画の前で集合写真を撮影する。
撮影用の台から降り、展望デッキに昇るためのエレベーターに向かって歩き始めたところで、どこからか養護教諭の声が聞こえてきた。
「山霧に阿倍野、ちょっといいか」
周囲を見回すと、すぐに保国先生の大柄な姿を発見できた。さすがに普段の白衣姿ではなく、白いシャツを着ている先生は、こちらを手招きしている。
委員長と共に壁際へと近づいていくと、先生は手に持っていた紙パックの飲み物を手渡してきた。
「野菜ジュースですか」
「お前ら、朝食の時間に戻ってこなかったからな。何か腹に入れておかんと、調子が出んだろう」
「わざわざありがとうございます」
頭を下げた委員長に対して、先生は感心した様子で顎に手を当て、無精髭を撫でながらこちらに顔を向けてきた。
「伝奇同好会の連中もなあ、これくらい殊勝ならいいんだが」
「気をつけた方がいいですよ。委員長のそれは、いざというときに我儘を通すための手段ですから」
「酷い言い草だな」
委員長と先生からの非難の視線は無視して、ジュースにストローを差し込みつつエレベーターに向かう。どうやら自分たちが殿のようだし、後ろから別の団体がやってきそうな雰囲気だし。
隅田川を中心に描かれた巨大な壁画を横目に進み、行列の最後尾で立ち止まると、先生が再び声をかけてきた。
「伝奇同好会といえば、阿倍野から見てスカイツリーはどうなんだ」
「どうって、伝奇的にってことですか」
「これだけ目立つんなら、いかにも何かありそうだろう」
保国先生の口からそんな言葉が出るとは、染まってきたか。そう思いつつ振り向くと、先生は顎に手を当てたまま「信じちゃおらんが、暇潰しにな」と付け加えた。
旅行前に少しばかり調べていた内容を、首をひねりながら思い返してみる。
「オカルト系の与太話ならいくつかありますけどね。フリーメイソンやらレイラインやら」
「どっちも知らんな」
「大した話じゃないですよ。ツリーの高さに獣の数字が隠されているとか、この塔は地脈に打ち込まれた楔なんだとか、傍証も無しに結論を出しているものばかりで。場所にちなんで業平天神を絡ませたりしていたら、まだ面白いかと思うんですが」
「なるほど、わからん」
眉根を寄せて小さく首を振る先生のかわりに、委員長が話題に食いついてきた。
「天神といったら神社だろうが。近くにあったのなら、何故それを先に言わない」
「いえ、現存はしていないですって」
「なんだ、そうなのか……」
心底残念そうに呟いて、委員長は再び前を向いてしまう。本当に現金なものである。
「それはそれとして。嘘でもハッタリでも、歴史や伝承を盛り込んで捻ってもらえないと伝奇的には微妙じゃないですか」
「いや、もういいぞ阿倍野」
片手で話を遮られてしまったので、大人しく野菜ジュースに口をつける。
行列の様子からして、展望デッキに上がれるのはもう少し先のようだった。
○
スカイツリーにはふたつの展望台が存在する。事前予約で入場できるのは地上三百五十メートルの『天望デッキ』までで、そこからさらに百メートル上に位置する『天望回廊』に上がるためには当日券を買う必要がある。学校側もそこまでの手配はせず、希望する生徒は自腹で、とのお達しが事前にあった。
結構な値段がするとはいえ、ここまで来ておいて最上層に行かずに済ませるような人は少数派のようだった。急いでチケットのカウンターに並び、専用エレベーターに乗ってようやく辿り着いた『天望回廊』でも、多くの観光客が街並みを眺めていた。
「平日の朝一番でこれか」
「夏休みだからじゃないですか。親子連れも多いですし」
保国先生と山霧委員長の会話を聞きつつ、外周の手摺りに近付いてガラスの向こう側を見下ろしてみる。
見渡す限りの市街地と住宅地、視界の片隅には隅田川と高速道路。遠くに見えるのが荒川で、目を凝らせば埼玉辺りまで見通せるのかもしれないのだが。
「これは土地勘が無いと、あまり楽しめませんね」
「西側に回れば都心部が見えるだろう。とりあえずそっちまで行こう」
『天望回廊』は反時計回りに続く通路で、最上層までゆるやかな登りになっている。委員長の言葉に従って、フロアの外周を順路に沿ってゆっくり移動しながら、ついさっき参拝してきた牛嶋神社が見えないかと目を凝らしてみる。
隅田川沿いの緑地らしき場所に、神社の屋根を見つけたような気がしたとき、ふと奇妙な感覚に襲われて足が止まった。
それは、周囲から人の気配が薄れていくような感覚だった。
伝奇同好会に所属して一年。その間に十分理解したことなのだが、自分には『霊感』というものがまるで備わっていないらしい。普通の人間がなんとなく嫌な気配や重苦しい雰囲気を感じて、避けて歩くような場所であっても何も感じることは無いし、悪霊やら妖怪やら、霊的な存在からの影響を受けることも全くない。
だから今感じている違和感は、そういったものとは関係ない、現実の状況によるものだろう。
顔を前に向けてみると、その原因がはっきりする。
観光客で賑わっている『天望回廊』の一角がぽっかりと無人になっていて、自分はそこに立ち入っていた。先行していた先生や委員長の姿を探すと、外周側を避けるようにして通路を先に進んでいくのが見える。ふたりや周囲の人々の表情に、この状況に対する違和感を感じている様子は見受けられない。
距離にして五メートルほど、立ち入り禁止のロープが張られたようなその空間は、正確には無人ではなかった。その中心では小柄な女性がひとり、都心の方をじっと見据えて立っていた。
長袖のジャケットにジーンズ、厚底のブーツを履いたその姿は、この時期かなり暑そうだった。髪は短く切り揃えられていて、出るところが出ていなければ少年のようにも見える。
しかし、それよりも気になったのは、彼女の右腕の上に止まり、じっとこちらを見つめている大きなカラスだった。
大鴉と見つめ合うこと数秒、窓の外を眺めたまま、女性が口を開く。
「それで、『イペタム』だっけ。本当にここからなら探せるの?」
周囲の状況に変化は無く、彼女の問いかけに答える者はいなかった。しばらくして彼女は「聞いてる?」と右腕の上に顔を向け、その流れで大鴉が見ている方向──こちらへと視線を動かした。
温厚そうな顔立ちに驚きの表情を浮かべた彼女は、慌てた様子で再び大鴉に声をかける。
「ネバーモア、結界は」
大鴉が短く鳴き声を上げると、彼女の表情はより硬いものになった。
「『正常』って。したっけこの子は……」
「通りすがりの一般人ですよ」
ひとまず弁明。敵意がないことを示すために両手を上げ、疑わしげな視線を見つめ返しながら思案する。
はてさて、どうすればこの状況を穏便に切り抜けられるだろう。




