拾、妖精郷は何処にあらん
感じたのは暖かい風。聴こえたのは鳥の声と葉ずれの音。
見えたのは、深い森の中にひっそりと建つ小さな社。その正面で、俺と“狛犬”は相対する。
ああ、なるほど。これは“鬼門さま”の昔の姿か。
雲ひとつない青空の下、周囲を見回す俺に対して、白い守護獣は毛を逆立てる。一層大きく見えるそいつは頭の上の一本角を煌めかせ、唸りを上げる。
『粛慎の民よ、疾く逝ね。此れよりは大和の地なり』
「アシハセ?」
俺を排除しようとする意志は伝わってきたが、それでも理解できない言葉はある。大和とは、大和朝廷のことだろうか。
“狛犬”は俺の問いかけには答えない。前足を振り上げ、薙ぎ払うように振り下ろしてくる。
(ここまで、であるな)
クロの言葉に無言で同意して、右手の木刀を振り上げる。世界を切り裂く一閃が、視界を白く染めていった。
○
安全装置が働いたためか停止したショベルカーから、気を失った男を引っ張り出して離れた場所まで引きずっていく。
倒木の方を窺うと、上体を起こして首を振っている仁谷の様子が見えて、安堵の声が出てしまう。
「大丈夫か、仁谷」
「なんとかね。痛くて動けないけどさ」
こんなじゃ受け身も取れなかったし、と言いながら、仁谷は無線機を操作し始めた。
「こちら仁谷。会長、応答願います、どうぞ……駄目かな」
「壊れた?」
「どうかな。そんなにやわじゃないと思うし、もう移動したんじゃない?」
無線機からは何の音も聞こえてこない。“狛犬”一匹で終わりってことは無いだろうし、向こうの様子が気になる。
正直こんな危ないことはやってられないけれど、他にも巻き込まれた人がいるかもしれないと思うと放ってはおけない。
(オリトよ。同じモノがもう一匹、この先におるようだ)
「ああ、もう。行けるか、クロ」
(当然であろう。我は常に万全。こやつの守護の力、悪くない心地である)
やけに力が漲っている感じがすると思ったら、やっぱり吸収してたのか。何か思い出したか、後で聞かないとな。
「私はここで待ってるね」
「わかった。すぐ戻るからな」
手を振る仁谷と気絶したままの男を置いて、道の先へと走り始める。
「ってかさ、さっき思いっきり硬いの叩いちゃったけどさ」
(あれはさすがに欠けてしまうかと……いや、問題無い)
悪かったよ。次は気をつけるよ。でもホント頑丈なのな。
○
緩やかな坂を登り切ると、切り開かれた空き地が広がっていた。そこは学校のグラウンドほどの広さで、近くには建設会社のものらしい小型のワゴン車が停められている。
奥の方、切り立った崖の近くにはプレハブ小屋が建っている。そのすぐ横には、上から崩れ落ちてきたらしい大量の土砂と瓦礫が山を作っていた。
どちらも気にはなる。けれど、今注目するべきなのは空き地の中央だ。
(見えておるな?)
「ああ、ちゃんと見えてる」
左側には、長い黒髪を揺らす拝島会長。両手には呪符を持ち、その口は呪言を唱え続けているように見える。
右側には、黄金色の守護獣を纏った整地機械。今まさに、会長の方に向き直ったところらしい。
両者の距離は十メートルほど、だろうか。周囲を見ればあちこちの地面が抉れており、ブルドーザーがかなり暴れ回っていたことがわかる。
「ってか、何でもありだな、もう!」
俺の声を聞いて、会長がちらりとこちらを見る。すぐに視線を戻した彼女は、右手の呪符をブルドーザーに向かって投げつける。
呪符はまっすぐに飛んでいき、“狛犬”の胸元へと貼りついた。その場所を中心に、“狛犬”の表面が凍りつくように白く染まっていく。
「もしかして出番なし、かな」
「いいえ。残念ながらアレは時間稼ぎにしかならないようです。できれば会長のサポートを」
道路脇の茂みを掻きわけて、阿倍野先輩が姿を見せる。その背後にはアキの姿もあった。
“狛犬”はもう全身が白くなって、動きが止まっているように見えるのだけれど。
「あの威力で時間稼ぎっすか」
「どう見えているかわかりませんが、同じことを何度も繰り返してますよ。相性が悪いんですかね。あの呪符も、一分と持たないでしょう」
「今のうちに運転手を引っ張り出すとか」
「最初に試しましたが、残念ながらドアが開きませんでした……兼塚クン、最後はここです」
先輩はアキの方に向き直り、何も無い足元を指し示す。髪や服に絡みついた枝葉を振り払うこともせずに駆けてきたアキは、へたり込みながらも手に持っていた呪符を地面へと置き、その上に重石を乗せた。呪符の位置を確かめ、よし、と先輩は顔を上げる。
「会長、準備できました!」
「御苦労! オリト君、動けるならこっちへ。僕ひとりだと骨が折れそうだ」
呼ばれるままに、“狛犬”の横へと回り込んだ会長へと接近する。会長の服は汚れておらず、傷も負ってはいないようだけれど、少し消耗している感じだった。
(オリトよ、奴が動き出しそうであるぞ)
存在しないはずの熱気を感じ、視線を動かす。クロの指摘の通り、“狛犬”の色は戻りつつあった。呪符はといえば、端から茶色に変色を始めている。
「来てくれて助かった。最後の仕上げだ」
「うっす」
「今からアレを引き剥がすから、叩き斬ってくれたまえ。ここから先、僕は動けなくなる」
正直よく分からないけど、詳しく聞いてる時間は無い。呪符を焼き尽くし、再び動き始めた“狛犬”に対して、会長は左手に持った呪符を構えた。
「請うは我。贄は我が血肉、我が魂。象成すは深淵に眠る海神の御手。いざや、《奏でよ》」
力ある言葉が響き渡り、周囲にいくつもの細い光の柱が立ち上る。それらの下には恐らく、先輩とアキが配置した呪符があるのだろう。
白く輝く光は枝分かれして、天地に円陣を描き、方陣を描き、見る間に重なって弾け消えた。
急に気圧が増したような息苦しさと、立ち眩みにでもなったような視界の歪みを感じて、身体がふらついてしまう。
重石を持ってプールの底に立たされているみたいな感覚に、倒れてしまわないように足を広げ、膝を曲げて正面を見据える。
ぞろり、と。
“狛犬”の周囲の何も無い空間から、蛸を思わせる無数の触手が現れる。しかしその色は、深海の暗い青。
それらすべてが競うように“狛犬”へと伸び、絡みつき、空中へと吊り上げる。
歯を食いしばり、何かに耐えるような表情の会長がゆっくりと左手を動かすと、それに合わせて触手も移動する。
やがて、“狛犬”は大地へと縛り付けられた。そこは重機よりも手前の、数秒も走れば届く距離。会長に視線で促され、木刀を握り直して一歩を踏み出す。
かろうじて自由が残っている頭を動かし、“狛犬”がこちらを睨みつけた。開いた口から熱気が吐き出され、その奥に炎の揺らめきが見え始める。
(彼奴、火を吹くつもりであるか)
火は勘弁して欲しい。それが現実のものなら、だけれど。
水のように濃厚な空気の中、足を止めようとする理性を無視して真っ直ぐに走る。
距離を半分まで縮めたところで“狛犬”が吹き付けてきた炎は俺を包み込み、俺の精神を焼き尽くそうとする。
でもそれは無意味だ。そこはもう、既に燃えているのだから。
○
まだ能登島に住んでいた小学生の頃。古い祭器が見せた炎は俺の精神と混ざり合って、俺は“炎憑き”になった。
それ以来、俺は火に対する本能的な警戒心を失って、気を抜くとふらふらと焚き火やかまどに近付いて、手を伸ばしてしまうようになった。かといって指先から炎を出せるとか、それっぽい能力を手に入れたわけでもなく、普通に生活する分にはただ不便になっただけだった。
それでもまあ、こんな限られた状況でなら、役に立たないこともない。“実体のない炎に対する完全耐性”と、ゲーム風に言うならそんな感じだろうか。こんなものに何らかのポイントが消費されているんだとしたら、別の能力に振り直しさせて欲しいけれど。
無駄な考えを振り払い、炎の息吹を突っ切って、“狛犬”の眉間へとクロを突き付ける。
確かな手応えと“狛犬”の断末魔。黄金色の守護獣は形を失い、黒い木刀へと吸い込まれていった。
後に残った青色の触手も、役目を終えて溶けるように消えていく。
「会長!」
阿倍野先輩の声に振り向くと、彼は倒れそうになった会長を横から支えていた。会長は脇腹を押さえながら、顔を上げて俺の方を見つめる。
「いや、僕は大丈夫だ……運転手を、早く」
そうだった。“狛犬”を倒した今、取り憑かれていた運転手は意識を失ったまま、まだブルドーザーの中にいる。
会長へと近づこうとした足を止めたのと、背後でキャタピラが動き始める音が聞こえてきたのは同時だった。
急いで振り返る。重機はこちらを向いておらず、ゆっくりと俺の横を通り過ぎようとしていた。運転席を見ると、前屈みに倒れた運転手が、レバーに寄りかかっているようだった。
このままだと、ブルドーザーは林に突っ込んでいってしまう。その先は谷底まで続く斜面だ。悪霊相手ならともかく、動いている重機を止める手段を俺たちは持っていない。
これは、どうしようもない。
少しずつ進んでいくブルドーザーを見ながら木刀を握る右手に力を入れたとき、頭の中に声が響く。
(今の我であれば、止められるやもしれぬ)
「……マジかよ?」
(精々、あれの片脚を断ち切る程度の力であるが)
どうだろうか。キャタピラひとつ潰せば進めなくなるとは思うけれども。
そう考えつつも、俺の足はブルドーザーに近付くために動いている。ここまで来て、やれることやらずに終われるか。
(ただし、機会は一度切りだ。間違っても狙いを外すでないぞ)
「こんなでかい的、外すかっての」
跳ねる砂利が顔に当たるのを左手で防ぎながら、重機の斜め前へ。音を立てて近付いてくるキャタピラは威圧的で、恐怖を感じるけれども下がるわけにはいかない。
「オリコ!」
心配そうなアキの声を耳にしつつ、黒い木刀を上段に構える。
(我が銘は未だ戻らず。だが、神をも斬った記憶の欠片は、取り戻したぞ!)
「そいつは、良かったよッ」
勢いよく振り下ろした木刀から光が溢れだす。両手に手応えはなく、光の中、結果を確かめることができずに意識が薄れていく。
誰かが身体を引っ張る感覚が、気を失う直前に伝わってきた。
○
石造りの部屋の中、一段高い位置に据えられた椅子を離れ、小さな窓に歩み寄るのは、毛皮のマントと王冠を身に付けた壮観な男だった。
その手には抜き身の剣が握られている。黄金で装飾され、白銀に輝く刃を持つ剣には、刃こぼれどころか曇りひとつ見られない。
目を細めて小窓の外を眺めると、男は諦めたように首を振った。
「なんとも逃げ足の速いことか。あの忌々しい男に狙われては、俺の命運も今日限り、ということであろうな」
『我が身に呪いさえ無ければ、このようなことには……』
「いいや、剣よ。お前の呪いが神をも動かしたのだとしたら、オージンも道化ということさ」
男は軽く笑った後、振り返って椅子に向かって歩みを進めていく。
『主の望みを叶えるのが我が使命。それを何度、呪いに妨げられたことか』
「ままならぬものよな」
『賢き王よ。黒小人どもの呪いを打ち消す術は無いものか』
王と呼ばれた男は、立ち止まって黙考する。
「妖精郷の祝福なら、あるいは」
『それは、何処に?』
「この大地から渡るのなら、虹の橋を見つけねばなるまい」
男は剣を鞘に収め、玉座らしき椅子に座って言葉を続けた。
「俺ならば、東を目指すであろうな。太陽の出る方角であれば、光の神の下に辿り着けるやもしれぬ」
○
地面に倒れ込んだ衝撃で、意識が一気に現実に引き戻された。今のはクロの記憶か。
どうやら右手は木刀から手を離してはおらず、目を開けば俺と一緒に倒れた先輩の姿が見える。
「助けたいのはわかりますが、いきなり木刀で突っ込むなんて無茶で……」
そう言いながら起き上った先輩は、ブルドーザーの方に顔を向け、信じられないものを見たような表情になった。
エンジンが止まったのか、周囲は静かになっている。どうやら上手くいったらしい、と安堵しつつ、腕に力を入れて身体を起こす。
片側のキャタピラの後部が、斜めにすっぱりと断ち切られている。視線を動かすと、その前後の地面に地割れのような隙間ができていた。五センチほどの隙間はどこまで続いているのか、立ち上がって目を凝らす。
地面に刻まれた黒い線を追って少しずつ顔を上げていく。正面の崖の上から一際大きな石ががらりと落ち、砂煙を上げるのが見えた。
「縁部クン、死神の力にでも目覚めましたか」
いや、それはないはずだ。犯人はおそらく。
「聞いていいか、クロちゃん」
(……すまぬ。馴染まぬうちに力を解放した故、加減を誤ったようだ)




