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虚空の鍵

作者: kanna24

「人が足りんのだ」

その場の居心地の悪さを具現化したような言葉を耳にして、マリーはわずかに表情を曇らせた。

委譲式の場でそんなことを言ったって仕方ないだろうに。

もう散々今回のことで言い争いをしてきたマリーにとって、今更そんなやり取りを耳にしてもうんざりするだけなのだ。

部屋の隅で、数人の巡察官と査察官との間で感情的にも思えるやりとりが行われている。

それが終わるまで待つことも、この形式的な式典の一つなのだろう。

マリーには苛立ちと不満しかなかったが、享受しなくてはならなかった。

喜ばしいことが、一つだけあったからだ。

そんな不毛な会話も、間もなく代官が現れると打ち切られた。

結局は派閥や人脈における争いらしい。

「マリエヌベル・リヴァイオス」

「はい」

代官の呼びかけに答えると、マリーは代官の前へと足を進めた。

代官の横に並ぶ人の中に居る、指導官でありマリーを推挙したレニキス東方巡察官が小さく頷いた。

「本日付を持って、マリエヌベル・リヴァイオスを特別巡察官に任じ、別に定める任務においてのみその権限を貸し与える。王国の法に従うことを誓約せよ。もってその身に加護を与え、全うせるに助力を与えるものなり」

代官が法の権威を示す魔法の杖を掲げ、マリーの目前に差し出した。

東方執政官の代官はケルニコル・リンデシオン公爵で、その煌びやかな装束は執政官以上の権威を醸し出し、マリーは恭しく差し出された杖に誓約をした。

それによってマリーには巡察官としての制約が科される。

上位者の命令に背いたり、従わない場合には、魔術行使が制限されたり、魔力干渉能力を奪われることもある。

その一方で、巡察官が使命を全うする上で、その身を守り、能力を高めるために与えられるものもあった。

侍従が膳のような台を持ってマリーの前に進み出る。

そこに、小さな銀のナイフと、指輪が二つあった。

侍従たる魔術師が契約の魔術を始める。

マリーは銀のナイフを手にすると、左手の手首を浅く切った。

二つの指輪を染めるように、多量の血が流れ落ちる。

しかし、侍従がマリーへの使用権限を与えると、自然と血は止まって生々しい傷跡だけが残された。

指輪に付いた血も、吸い取られたように、あるいは蒸発でもしてしまったかのように、すっかり消えてなくなっていた。

侍従に促され、マリーは指輪を手にした。

一つは召喚の指輪で、いかなる場所においても魔力の供給が得られる「王国の森」と呼ばれる神樹とを中継する指輪だ。

もう一つは干渉や行使を高める支援魔法具だが、自分の実世界における居場所を特定するうつつの指輪である。

これは自分がどこに居るのかを示すとともに、上位者が指輪の使用者がどこにいるかを知らしめるものでもある。

いずれも、その場ではめる。

これは杖に対する誓約が解かれる時にのみ外す事が出来る。

それ以外では、死ぬか任務を解かれる時しかないが、任務が解かれるのは反逆者を示し、いずれにしてもその時には誓約によって命が奪われることになる。

侍従が頷いて下がると、代官が別の侍従から受け取った一振りの剣を、マリーに差し出した。

「此度の任命に際し、守護ある魔術の片端を下賜する」

マリーは、一際緊張の面持ちで、その差し出された剣を受け取った。

それこそがマリーの欲していたもので、この為にこそ茶番や形式めいたものにも耐えられたし、受け入れられたのだ。

細身で若干短め。軽いが澄んだ感じのする気持ちの良い重さを感じる。

それはそれほど古いものではないが、守護者精霊を持つ魔法剣である。


委譲式が終わると、直接の上司になる東方巡察官府高等査察官のエレグリー・ツイドールから任務が告げられた。

「君の任務は、一級犯罪者の錬金術師ランギス・トリオールを追うことにある。捕縛が目的ではあるが、生死は問わない。巡察官権限は、当該犯罪者におけるものと、一等巡察官ならびに代官権限を有する領主、および太守の要請によるものに限られる。代官府か巡察官事務所には必ず出頭し、拘束事項を受領するように。都市部に於ける魔術行使には許可が要ることを忘れるな」

今までは巡察官に付いての行動が多かったが、今後は基本的に一人になる。

巡察官と巡察官補では、冠称が付いているかどうかしか違いがないが、権限は極めて大きく違い、基本的に上司の命令以外を聞かなくても良い。

特別巡察官はその任務が限定されていたり活動が制限されるが、その目的を達するためならば一般巡察官の服務規程に従わなくても良いことになっている。

つまり、格上の一等巡察官や査察官であっても、任務上の件に関しては優位的権限があり、それが妨げられるような命令には従わなくても良いとされている。

また、東方執政官指定犯罪者を追って中央や西方へ行ったとしても、そこでの制約や命令にももちろん従わなくて良かった。

実際に犯罪者が行政区域を越えて逃げる事例は多発したが、指定した行政官の権限による追跡に制限はなく、むしろそれに協力することが取り決められていた。

もっとも、慣習としては尊重しなくてはならない。

その辺りを、査察官に次いでレニキスが言い含めた。

指導官のレニキス東方巡察官は、まだ慣例や権限に疎いマリーを案じる一方で、王国と魔術師の今後のことも案じていた。

下級貴族で官職を持たないリヴァイオス家にとって、マリーは「目を見張る」とまでは言えないものの、魔術師としての素質は高かった。

当初は当然のように魔法戦士として生きるつもりだったが、その潜在能力を見抜いたレニキスによって引き立てられたのだ。

優秀な魔術師を埋もれさせることなく王国の体制保持に活用する。

そのためならば位階にとらわれない登用も辞さないと言うのが、世俗派の現実主義団体に属するレニキスの見解だった。

もちろんそこまでは言わない。

言わば特別巡察官という経験で、マリーに箔をつけさせようというのが意図だった。

だから、これで失敗をするようなことがあってはならないし、もちろん命を落とすことがあってもならない。

マリーはしかし、巡察官就任を断っていた。

レニキスとはその説得と拒絶とで一月近く交渉が続き、最後はマリーが折れた形となった。

その決め手となったものが魔法剣であった。

基本的に自弁である魔法剣だが、そもそもが守護(守護者精霊)を持つ魔法剣など多くはない。

それを下賜されるという希望が通ったことに、マリー自身が驚いたのだったが、それは願ったり適ったりであったから、それ以外のことは甘んじて受けなくてはならなくなった。

早々に執政官府を辞去すると、剣と装具一式を携えて官舎へと戻り、併設教練場へと向かった。

所有者制限は下賜の際に盗難や転売を防ぐために行われるが、使用者としての剣との契約は本人がしなくてはならない。

認められないと剣に使われる担い手にしかなれない。

無論、マリーが求めるのは、剣の能力を全て従え、使うことのできる魔剣の使い手だ。

マリーは契約用の魔法陣を組むと、その中に剣を安置した。

血結晶という血を魔力で固めた宝石を一緒に床に置き、解放をする。

宝石は溶けて血溜りのようになり、流れて剣へと触れた。

魔法陣を起動させる。

「我が証をもって魔術の片端に連なる魔法剣バイエロットよ。その守護せし精霊よ。我が声に応えてその真なるを示せ」

マリーの呼び声に魔剣の魔力が反応し、使用者としての契約を果たす。

が、

「?」

剣はそれ以上の反応を示すことなく、変わらずそこにあった。


魔法具製造の錬金術師ゼロス・パッカルスは、魔力干渉能力が減退する中で、それを補う支援魔法具ではなく、今まさに失われ行く魔力そのものを保持し、かつ活用し得る新たな魔法具が必要であると考えていた。

それには、より人間化していく魔術師ではなく、人為精霊の魔術師化による技術と能力の継承が必要との認識をしていた。

しかし、自我の強い人に近い人為精霊は、その礎となる魂の影響があって個体差があり安定しなかった。

かと言って、魔法具に依存する守護者精霊は、その基礎的魔力(構成魔力)を超えての習熟には限界があった。

また、魔法具に依存することはその性質に限界が生じ、行動に制約が科せられる。

では、人の体を礎にすれば良いかと言えば、肉体の理(本能)の限界を脱することが出来ず、また影響を受けることにも変わりがなかった。

一番良いのはホムンクルスだが、それだと逆に魔力依存が強すぎて活動に影響が出る。

仮に、いずれ魔術行使や魔力干渉を行うことが出来なくなっても、人が魔力を完全に必要としなくなることはないだろう。

それは、人の魂が、この実世界の理とは相容れない存在であるからだ。

であれば、魔術を継承するのに、必ずしも人である必要はない。

ゼロスは人為精霊の魔術師化という研究に没頭し、その一つの実験的魔法具が、一連のゼロスの魔剣である。

何故魔剣であるのかには訳があった。

そもそもゼロスは、魔術師用と人間用の魔法具を別に作っていて、魔剣は魔力干渉能力が低い人間用であった。

ゼロスはその後、魔力圧縮実験に失敗して死んだが、生み出された守護を持つ魔法剣は6振りあった。

それらは虚空の鍵と呼ばれ、その中の一振りがバイエロットである。


みすぼらしい格好をした気の強い人間の娘が、巡察官官舎を訪れて小さな騒動を巻き起こしていた時、マリーは学院の出先機関である学院事務所に出向いていた。

魔剣バイエロットの出自や経歴を調べるためだ。

もっとも、担当に出た事務官は、苦情を言われる立場ではなかったため、余り親切とは言えなかった。

巡察官相手であれば尚更ではあったが、マリーに言わせればそれどころではなかった。

居るべき守護者精霊が存在しなければ、約束を反故にされたのと同じこと。

しかし、結局登録された情報以上のものは得られなかった。

代官府に訴え出るわけにもいかず、巡察官事務所にレニキスを訪ねた際に、官舎にマリーを訪ねて人間が来ていることを告げられた。

もちろん覚えは無かった。

が、その人間の少女はぞんざいな態度でマリーに面会を求め、それを断られると無視をして入り込もうとして拘束されているという。

通常であればそのまま処分されかねなかったが、マリーの名を正確に告げていたため、巡察官権限の裁量における保留事項として留め置かれ、指示を仰いでいるとのことだった。

既に特定生物収監施設に移送されているとの事で、不在のレニキスへの相談も叶わず、マリーはその足で施設へと向かった。

施設は魔法使いと目される人間や捕獲された魔法生物などを一時的に拘禁する場所で、王国研究施設内にある。

それは被験体や処分される生物が居るところであって、マリーには全く縁の無いところだった。

一旦入れば研究施設に向かうきりで、外へと出てくることがまず無い。

精神的にも感情的にも、好ましいところには思われなかった。

であったから、手続きも事務的に過ぎた。

まるでマリーの所有物を拾得し、それを引き渡されるようなものだった。

椅子も何も無い倉庫のような部屋で引き合わされた時、その少女は非常に不機嫌な顔をしてマリーを睨み付けた。

「ところで、あなた誰?」

マリーの問い掛けは至極当然だったが、それを聞いた少女は眉間に青筋を浮かべて、

「自分の契約した精霊ぐらい分かれ!」

と怒鳴った。

怒鳴りつけられて、ようやくマリーは得心がいった。

「あなたがバイエロットなのね。道理で剣に居ないと思ったら・・・」

と言ったところで、

「私の名はユリーシャよ」

とその少女は気炎を揚げる様に名を告げてふんぞり返った。

その余りの高飛車な態度に、同席した魔術師が驚いた。

それまで関心が無かったが、人間だろうと精霊だろうと、主にそのような態度で逆らうことなど有り得なかったからだ。

それは、その存在が危険であることを疑わせ、必要であれば強制収監される恐れがある。

もちろんその程度の分別はあったから、マリーは慌ててその少女、ユリーシャを連れ出した。


正直言って、持て余しているのは事実だ。

ユリーシャは、施設を出るなりひったくるようにバイエロットを奪い取り、それを胸に抱えて睨み付けた。

話そうにも、呼び掛けただけで嫌悪感をあらわにして、

「安置場所へ連れて行け」

と言ったきり、口をつぐんでしまった。

安置場所とは自分の居場所、拠点や陣地のことだろう。

以降、マリーの背後を10フィートほど離れて付いて来た。

それはまだ良い。

問題はその見た目だ。

人間は自治(という放置)を持って暮らしているものと、王国の庇護下で都市部に暮らしているものが居たが、都市部の人間は言わば不法居留民で、その大部が貧困層である。

結界都市(太守である魔術師の結界下にあって、都市への進入や内部での魔術行使を制限、あるいは禁止できる魔術都市)チューリアにはおよそ8000人ほどの人間が居るが、魔術師に取り立てられているのはそのうちの数十人足らずでしかない。

それ以外の人間はぼろ布をまとって農場で働かされている農奴に過ぎず、魔術師からは無視されたような存在だ。

ユリーシャは、見たところではそうした人間の一人のようだった。

だからマリーは、ユリーシャがバイエロットの守護者精霊であると言うことを俄かには信じ難いと感じてはいたが、どうやら間違いではないらしい。

それは、所有者と使用者の二重の制限を受けている魔法剣を、何らペナルティーを受けずに抱えていられるだけで分かる。

マリーは岐路で立ち止まった。

そしてユリーシャを顧みると、

「その格好では官舎に入れないけど、もう少しどうにかならないの?」

と聞いた。

存在がいかなるものかが良く分からなかったので、もし魔術によらない固定的な服が必要であれば、戻る前に調達しなければならない。

「これでは不味いのか? ・・・だから入れなかったのか」

二言目は論点がずれてはいたが、ユリーシャは薄汚れた服、というよりも布をその場で取り始めた。

「何やってんの!?」

人目は無いとは言え、マリーは道端で全裸になったユリーシャにマントを巻こうとして制された。

魔力干渉が生じ、ユリーシャが服を纏う。

ただしそれは幻影で、作ったというよりも隠されただけに過ぎなかったが、人間とはいえ精霊と称してもおかしくはない能力ではあった。

とは言え、不安さは隠しようもなく、取りあえず安堵のため息を吐いたマリーは、ユリーシャの手に魔剣がないことに気が付いて目を丸くした。

「ちょっと剣はどうしたの?」

その声にユリーシャは不可解そうな顔をして、

「どうして自分の剣のことも知らない? これが私の魔力じゃないか」

と言い放った。

マリーは自分の任務に就く前に、まずは自分の剣の守護者精霊とじっくりと話し合わなければならないと悟った。


官舎に戻るなり、レニキス巡察官からの呼び出しがあったと告げられた。

とにかく自室へとユリーシャを連れて行き、

「私は仕事で出るから部屋に居て。出なければ中では自由にしていて良いわ。食べ物もいくらかあるから好きにして」

と言って中へ入るように促した。

ごねるかと思ったが、ユリーシャはそれには特に反感を示さず素直に従った。

中を一通り見回すと、肩越しに振り返ってマリーを見る。

「散らかさないでよ」

様子の変化をいぶかしんで、マリーはそんな言葉を残して扉を閉めた。

官舎内も管理が成されているので、マリーの所有物であるユリーシャは既に管理下にある。

マリーも少しは安心して気が抜けて、とりあえずレニキスの元へと急いだ。

東方巡察官府チューリア分署は官舎に隣接している。

もう夕刻で人はまばらだったが、レニキス巡察官事務室にはまだ人が居て、それも慌しげであった。

「お呼びだそうですが何か?」

マリーが伺うとレニキスは、

「私に何か用があったのではなかったのか?」

と逆に問うた。

「はい。いえ、もう解決いたしました」

マリーがそう答えると、頷いてそれを問い質すことはなかった。

「ところで、ランギス・トリオールの追跡はどうなった?」

「はい。既に広域捜索の申請を行い、これまでに発覚した事案を整理して、行動予測と対応策を準備中です。明後日には報告に上がり、追跡を開始します」

しかし、レニキスは満足そうな表情をしなかった。

「その件だが、実はちょっと厄介なことが起こってな。まずそちらを手伝ってもらいたい」

それを聞いて、マリーは事務所の様子がおかしかったのはそのせいかと合点がいった。

「何事かあったのですか?」

「魔術実験で生み出した実験体が逃げ出した。耕作地区で人間を食い殺し、居住地に逃げ込んで大きな騒動になっている。今のところ魔術師の犠牲者はいないが、狙われる可能性が高い」

そうした事件は特に珍しいものではない。

だが、マリーは日頃慌てる様子など見せないレニキスの態度に奇妙なものを感じた。

「それにしては随分と深刻そうですが」

危険性はあっても、人間の居住地であれば今すぐ魔術師が狙われる可能性は低い。

「魔法体現認定の搾取生物なのだ。しかも吸血種ではない。生物から魔力を奪おうとする性質がある。魔術師を狙ってくるに違いないのだ」

リンデシオン公爵の代官府がある都市ロフェスタとは違い、チューリアはコロビス伯爵領との境に位置する都市で、魔法騎士団の配兵はなく、太守の雇った魔法戦士が警備目的に居るだけだ。

その代わり、チューリアに高等査察官エレグリー・ツイドールが事務所を構えている。

代官からの干渉を受けないようにするためで、チューリア太守と高等査察官は同列であった。

そしてその事務所は高等査察官と数名の査察官、十数名の東方巡察官、その補佐や警護に当たる巡察官補(魔法戦士)がほぼ同数居る。

「しかし、残っているのは多くはない。居る者は全員使う」

レニキスはそう言って、マリーにも加わるように命じた。

そこには、言外に巡察官になっての最初の活動に期待しているというレニキスの思いが含まれていた。


事態が事態ではあるが、しかし、マリーは魔法剣バイエロットとその守護者精霊であるユリーシャと未だ強固な関係を築けているわけではない。

それ以前に、良く分かってはいないのが問題だ。

部屋へと戻ると、ユリーシャはベッドに全裸で横たわっていた。

覗き込むと、バイエロットを抱えて眠っている。

起こそうかとも思ったが、どうにも気が引ける思いがして、とりあえず自分の準備と用件を済ませることにした。

食事をした形跡があったが、何やら試行錯誤をした痕跡もあり、その不慣れさにマリーは落ち着かない気持ちになった。

持っていく荷物は少なく、必要なものは全て巡察官府の事務室に置いてあるので、片付けをするくらいしかすることはない。

改めてベッドに戻ると、マリーは先ほどと同じ格好で眠り込むユリーシャをしげしげと眺めた。

ユリーシャは人間だろう。

覚醒して精霊になるということも無い事はない。

本体は自我を持つ魔力体や精神体であり、人間が元から有する魂による霊体とさして変わりない。

様はそれが人為的なものか否かの違いだけであるが、それによる制約や可能性はかなり違う。

また、それが魔力による実体化、あるいは受肉であるか、肉体を有するかでも変わってくる。

が、それ以上に制約を受けるのが人間の覚醒によるものだ。

元からある魂が剣の魔力を受けて守護者精霊であることを覚醒する。

これは剣による人間の支配であるが、その利点は何だろう?

マリーが感じる不安は、これが魔術師、いや魔法戦士にとって有用であるかどうかにあって、元から人間である守護者精霊など、足手まといにしか思えないからだ。

少なくとも、見た目ではマリーよりも明らかに年下であり、体格も華奢で、気は強そうではあったが賢明さは余り期待できそうにはなかった。

と、ユリーシャは突然目覚めると、その格好のまま横目で覗き込むマリーをねめつけた。

「何故起こさない?」

「急ぐことがないからよ」

マリーがベッドを離れると、ユリーシャは身を起こしてまぶたを擦った。

「それより服はどうしたの?」

同性とは言え、全裸の少女がいると落ち着かない。

どうしてその辺りを気にしないのか、守護者精霊とは言え元は人間なのだから、恥ずかしいとか、少なくとも相手に気を使うという気持ちぐらいはあるだろう。

というよりも、人間にはそうした感情はないのだろうか?

まともに食事も取れない程度で、本当に能力を発揮し、任務が遂行できるのだろうか?

余り人間と接したことのないマリーにとって、そんな理解しがたい部分が持て余し気味に感じる要因なのだろう。

いや、もはやそんなことも言っていられない。

「一緒にお風呂に入りましょ」

マリーはとりあえず見かけからどうにかするようにした。


抗ったりするかと思いきや、ユリーシャは不思議そうにしておとなしくマリーのいうことを聞いていた。

ただ、

「年は?」

「分からない」

「お風呂は入ったことないの?」

「水浴びる」

と万事こんな調子で、一向に意思が疎通しそうにない。

マリーは認識を共有するのを諦めた。

ユリーシャは間違いなく人間としての認識力しか有していない。

お風呂から上がると、マリーは自分の私服を与えた。

「とりあえずそれを着ていて」

炎の性質を持つ風が室温を保つので、髪も梳く程度で勝手に乾く。

マリーはようやくユリーシャと相対した。

「まずはそうね、私も良くは分かっていなかったから、それで気分を悪くしたのなら謝るわ」

そう言って頭を下げる。

しかし、その意味が理解出来たのか出来ないのか、特に感銘を受けた様子もなく、むしろ少しだけ表情を厳しくした。

「でもね、私にはこの剣のことが分からないの。霊視で起源を探ったり出来ないし、しても無駄でしょうしね。あなたは・・・」

「ユリーシャ!」

ユリーシャはマリーの言葉を遮って訂正を求めた。

マリーは突然のことに驚いたが、

「ユリーシャは・・・」

と言い直した。

本意は分からないが、ユリーシャは既にマリーの守護者精霊としての意識を有している。

意識的に、他人行儀であるか、壁のようなものを感じたのだろう。

「私のことを知って訪ねて来たんでしょう?」

ユリーシャは初めに会った時のような表情で、

「どうして魔術師なの?」

と言った。

マリーは面を食らって答えに窮した。

「バイエロットは人間が持つ剣よ。どうして魔術師なの?」

マリーは急速に血の気が引くのを自覚した。

バイエロットは人間用の魔法剣で、その守護者精霊は人間から生まれる。

その意味が持つ決定的な事実に、マリーは力が抜けて座り込むと、ユリーシャを放っておいて深いため息をついた。

これではその特質を十分に使いこなせることは出来ない。

いや、守護を持つのは本当だし、魔法剣としてもその能力は遥かに高い。

しかし、マリーの対するは基本的に魔術師なのだ。

意気消沈した様子を見せるマリーに対し、ユリーシャは苛立ったように

「分かったのなら契約して」

と言って急かした。

「私は魔法戦士よ? 魔術師の側に立つ者なのよ? 私と契約をして従うと言うの?」

マリーは魔法剣の守護者としてのユリーシャの使命と合致しないことを告げた。

しかし、

「何を言ってるの? バイエロットを使うんでしょ? 私の能力は剣の能力でもあるのよ。マリエヌベル・リヴァイオスが契約をしなければ意味がない」

とユリーシャは言った。

「私が使用者で良いの?」

と再度問うと、

「使いこなせるかどうかは、マリエヌベル・リヴァイオス次第だ」

と返す。

どうやら、ユリーシャは魔術師が使用者であることに不機嫌なのではないらしかった。

「いえ、取りあえず不便はあるけど、今はそれを問題にしているときではないわ。でも、あな・・・ユリーシャは魔術師に使われるのが嫌だったのではないの?」

それを聞いて、ユリーシャはあからさまに顔色を変えると、

「マリエヌベル・リヴァイオスが、私を分からないどころか気付きもしなかったからだ!」

と言い放って顔を背けた。

それが単なる思い違いだったことに気が付いて、ようやくマリーは不安感を払拭させた。

いずれにしても、マリーに選択肢は残されてはいなかった。

明日には、バイエロットとの初任務に就かなくてはならなかったからだ。


翌朝、マリーは巡察官の装いで官舎を出た。

ユリーシャにはとりあえず、マリーが巡察官補時代の服を多少直して着せた。

一回りほど大きくて合ってはいないが、本来の任務に出る時に新調しようと思った。

ユリーシャは存在としては人間が基本体であって、剣の魔力に頼らないようにするには服を与えるしかない。

そもそも食事も必要とするので不便極まりないが、そのおかげで魔力依存(消費)は驚くほど少ないし、食事はいずれにしてもマリー自身も取らなくてはならない。

しかも、剣自体が魔力を蓄積していくため、マリーの能力程度には十分な供給量を有していた。

問題はユリーシャ自身の能力だが、

「マリエヌベル・リヴァイオスを守ることが役目」

と言い切っていて、属性や結界の固定、防御や抵抗に対する対応に関しては自信を見せていた。

「それは現場で見せてもらうわ。それより、その呼び方を何とかして。私のことはマリーで良いわ。ユリーシャは・・・ユリーシャでも良いけど、ユリー?、それだと私と被るわね。ユーリかしら?」

ユリーシャは呼び名にはあまり興味もなさそうで、

「なんでも良い」

と言うだけだった。

もしかしたらどうでも良いという意味だったかもしれないが、確かに存在として共有や疎通を確かにする上で、名を呼ぶことは極めて大事なことではある。

ユリーシャが拘ったのは、存在としての確証が、名前を呼ばれることであり、そうマリーが認識することにあった。

もちろん、それを確定させるためにも、従者契約は絶対に必要なのだ。

それが転じてマリーへの怒りとなったことを理解して、マリーはユリーシャに対する認識を若干修正した。

それはともかくとして、マリーは今更バイエロットを手放す気はなかった。

実戦ではあるが、これはランギス・トリオールを追う前にして、良い訓練になる。

その能力を見極め、欠点が露呈すれば、決して望みが生まれないこともないではないか。

マリーはユリーシャを連れてレニキスの事務室を訪れると、

「よく来てくれた」

と礼を持って迎えられた。

マリーは特別巡察官であって、守護を持つ魔法具を有することで、その格で遇されることになる。

既に東方巡察官が2名、巡察官補が3名集まっていた。

「では任務を告げる」

そう言って巡察官だけを隣室に招き、魔法陣を囲んだ。

魔法陣の中央に、肩を落として背を少し丸めた男の幻影がある。

「魔力練成術師スイルの実験体だ。接触による魔力吸収能力がある。つまり、触れられれば魔力干渉が不可能になる。それと、昨日も言ったが魔法体現認定の実験体だ。接触による発火、人間の精神操作などが確認されている。狡猾で知能を有するから対応を誤るな」

巡察官の一人が舌打ちをした。

「またスイルか!? あの男一人にどれだけ迷惑をかけられているんだ?」

思いは皆同じだったが、それを戒める者がいないのと同時に、追従する者もいなかった。

「今のところ魔術師に犠牲は出ていない。監視にも引っかかっていないところを見ると、未だ人間の居住地に潜んでいるだろう。出てくるのを待つのでは時間がかかるし、例え人間でも被害が多くなれば問題でもある。こちらから討伐に出向き、今日中に仕留めるというのが方針だ」

全員が険しい表情でレニキスの指示を受け、不承不承という感じで頷く。

作戦は、巡察官と巡察官補がペアとなり、2組が人間の居住地に入って捜索をし、実験体を追い詰める。

挟み撃ちにしたら外で待機する2組を呼び入れる。

もし追い立てられて外に出ようとした場合、待機する2組がそれ捕捉をし、中の2組が合流する。

「決して無理はするな。必ず2組以上で事に当たれ」

中に入る2組のうち、一方をマリーたちが請け負った。

マリーは巡察官補とではなくユリーシャと組む。

不安が無いわけではなかったが、バイエロットを使うのはマリー自身であり、相手が魔術師ではないので深刻なものではない。

部屋の外で待たされていたユリーシャは、バイエロットを抱えて少し沈んだような表情をしておとなしく待っていた。

巡察官補らからは少し距離をおかれていたが、見た目は少女で人間ということもあり、扱いに困ってのことだろうと推察できた。

もっとも、ユリーシャ自身はそれを意識したようではなかった。

マリーに気が付くと、気を緩めたような困ったような顔をして、自分から出迎えに寄って来た。


人間の居住地を監視しているチューリアの警備兵は、未だ実験体が中にいることを確認していた。

一時は騒乱状態にあったが、実験体が活動を潜めたことで今は小康状態を保っている。

人間が20人前後殺されたらしいが、幸いこれまでに魔術師の被害は出ていなかった。

マリーはこれまで、人間の被害というものを差ほど気にしたことは無かった。

被害の規模である程度の対策を測ることはあったが、人間は多くいたし、その存在がマリーにとって気に掛かるようなものでもなかった。

しかし今、隣にいるユリーシャは人間だ。

守護者精霊とは、つまるところ剣が宿す意思であって、その意思を有する魔力体が顕在した場所が、人間だっただけのことだ。

聞けば人間の記憶はそのままらしい。

そして覚醒するまでどんな生活をしていたかと言えば、物心付いたときには既に日々の食事に事欠く有様で、粗末な小屋に十数人も押し込まれて横になるだけで精一杯という劣悪な環境の中、親と一緒に農場で働いていたとのことだった。

そうしたものがマリーに想像以上の理解をもたらすことは無かったが、少なくとも今後、人間に対する意識は変わることだろう。

農場は日が昇ると作業が始まり、その管理を魔術師に委ねられた人間が行っていた。

魔術師が関わる部分はほとんど無く、マリーも居住地がどのようなところかは良く知らない。

みすぼらしい人間の男女が農場へ向かうのと入れ違いに、マリーとユリーシャはレニキスの指示に従って中へと向かう。

今頃は反対側からもう一組も入っているはずだ。

結界都市であるから、もし逃げ出すとすれば、後は警備兵が見張る中央部とを隔てる壁を乗り越えるしかない。

「被害が減ったのは実験体が一時の混乱から立ち直ったからよ」

マリーは、居住地の出口で立ち止まると、そこから農場へと向かう人間たちの群れを監視した。

歩いている人間たちは一様にうつむき加減で、時折マリーらを見るが、マリーが顔を向けるとそれを避けるようにまた顔を伏せた。

数千人の人間がいて、それを管理する魔術師はいない。

物珍しいのだろうとマリーはそれを気にすることも無く、実験体が紛れ込んでいないかだけに注視した。

しばらく眺めていると当然、人間の流れの中から、一組の男女が何事かを叫びながらこちらへ向かってきた。

マリーは警戒して身構えたが、襲い掛かってくるというような様子ではない。

男女の目的も、どうもマリーではなくユリーシャのようだった。

だが、ユリーシャはそれを煩わしそうに顔をしかめるだけで応じようとはしない。

そうこうするうち、数人の男女が慌てたように現れて、必死に、そして恐れおののいた様子で、その男女を取り押さえると引きずるようにしてまた人間の流れの中へと消えていった。

「何なの?」

「私の親」

マリーの言葉に、ユリーシャが明確に、簡潔に、そして感情を含めずに答えた。

「親!?」

驚くことではなかったが、マリーは驚いた。

そして続けて疑問を言葉にしようとして、そこで思いとどまった。

当たり前のことをすっかり失念していたからなのだが、ユリーシャの反応は、無視と言うよりも明らかに忌避するような態度だった。

マリーには人間たちの言葉は理解出来なかったし、ユリーシャはマリーの理解出来る言葉で話していた。

そこに、ユリーシャの変化と、守護者精霊としての意識が垣間見られた。

マリーはユリーシャの親という男女を目で追ったが、既に人間の流れの中に紛れて見失っていた。

「・・・どうして私に言わなかったの?」

マリーは人間の監視を緩めずに問い質す。

「必要ない」

そう言われてしまえばその通りだ。

ユリーシャは既に人間ではなく守護者精霊であり、存在としては、記憶は残っていてもバイエロットの守護者精霊であることが優先される。

人間にだって親はいる。当たり前だ。

マリーはそう自分を納得させて、それ以上口にはしなかった。


結局、農場へと向かう人間の中に実験体はいなかった。

それをレニキスへと告げて、マリーはユリーシャを連れて宿舎地区へと入った。

もう一組は既に検索を始めており、こちら側に追い立てられてくる可能性がある。

「向こうは一軒一軒調べてくるから、こちらは魔力検索だけで、基本的にはここで待ち構えるわよ」

マリーはバイエロットを掲げると、それを触媒に魔力干渉をし、探知の魔術で周囲を捜索する。

全員が農場へ行っているわけではなく、予想以上に人間が残っているようだ。

だが、絶対的な魔力量は隠しようが無い。

とは言え、

「これだけ広いと、私の範囲を超えてしまう」

と、マリーは感知への限界を感じた。

「魔力を抑える、なんて芸当が出来るとは思えないけど、」

マリーがそんな懸念を感じた時、通話の耳飾りが反応をした。

「見つけたぞ。人間を数体操って盾にしている。妨害は排除したが逃げ出した。南3号地区から北1号地区へ向かってる」

「ユリーシャ、見つけたわ。行くわよ?」

何ら感傷めいたものを感じた様子も無く、ユリーシャはマリーの呼び掛けに頷いた。

マリーらの居る西4号地区からはまだかなりの距離がある。

マリーはユリーシャを腰に抱くようにして、視界範囲内で跳躍する。

2回ほど跳んで、マリーは魔力を解放する。

「真っ直ぐ境界に向かっている」

追っている巡察官から報告が入る。

魔力干渉には癖があり、知られていれば場所や身元もすぐ分かる。

「掴んだわ。このまま合流ね?」

「出来れば人間居住区で抑えたいが、参集を優先する」

答えはレニキス巡察官からあった。

が、

「そちらに向かったぞ!」

と言う鋭い声が上がった。

境界に向かわずこちらに向かってくる?

路地から広い通りに出たところで、その実験体と遭遇した。

「居たわ」

マリーがバイエロットを構える。

「我が守護せしバイエロットよ、我が主に伝えよ、我が血を持って贖いて悪風を祓え!」

その後ろでは、ユリーシャがバイエロットの魔力でマリーの抵抗力を上げた。

その効力は確かにマリーの不安を和らげ、ユリーシャへの認識をまた一つ改めさせた。

実験体は一見人間にしか見えないが、顔は青白く瞳は濁っていて無表情。

マリーに相対して、様子を伺っている。

「戦う気か?」

逃げ出すようではない。

マリーは、こちらに向かってきたのは逃げるためではなかったのではないかと感じていた。

こっちなら勝てると言うことか?

周囲の家から人間が現れる。

7人・・・全員が視点が定まらず、操られている様子だった。

実験体は動かず、人間だけが囲みを縮めるように近付いて来る。

と、実験体の背後から、追ってきた巡察官らが姿を見せた。

「ユーリ、魔力を奪って人間を解放して」

マリーはそう叫ぶとそのまま剣を振るって魔力干渉をし、防御の無い実験体を炎陣下に置く。

直後、ユリーシャの乱暴な魔力の収奪に晒され、マリーの魔術が一瞬効力を低下させた。

巡察官が魔力の衝撃でその場に押し付けようとしたが、実験体は一番近くにいた人間を巻き込んで焚き木とした。

他の人間を解放させる代わりに、人間一人を魔力の壁にしてこちらの魔術の影響を逃がすらしい。

「賢しいな」

捕まった人間が燃え尽きるまで待とうかとも考えたが、実験体はマリーの方に、しかもユリーシャを目掛けて予想以上の俊敏さで向かってきた。

開いた方の左手で掴みかかろうとするのを、マリーは魔剣でいなした。

が、その瞬間急速に魔力が失われた。

「何?」

間を開く。

「気を付けろ、魔力を奪ったぞ」

巡察官の警告に、マリーは咄嗟にユリーシャを横目で確認した。

しかし視界に居ない。

「なんだ? にんげんじゃない」

実験体はそんなことを口にした。

その瞳はもはや人という存在ではなかったが、人以上ではあるようだった。

「ユーリ、返事をしなさい!」

ユリーシャはどうやら人間と同じように意識を失って倒れているようだ。

おそらく剣の魔力が奪われた際、ユーリもその影響で意識を失ったらしい。

精霊として昏倒したが、実験体は人間として昏倒したと思ったのか?

だが、窮地に陥ることは無かった。

すぐレニキスらが合流し、実験体は魔力や魔術とは関わりの無い、人間が使うような武器で止めを刺された。

それを成したのはもちろん魔術師ではなく、魔法戦士である巡察官補だった。

「精霊は大丈夫か?」

レニキスが気にしてそう尋ねたが、

「急な魔力消費で驚いたのでしょう」

とだけマリーは答えた。

マリーも、まさか人間であるという制約が、こんな形で影響すると思わなかった。

存在が肉体の比重の方が高かったため、実験体は人間と認識したのだろうか?

これはマリーの負荷を引き受けたことの影響もあっただろうが、にしても、魔剣から直接ユリーシャの魔力を奪うとは思いもしなかった。

ユリーシャの構成魔力の変調が無いのを確認して、レニキスの了解を受けて任務から外れた。

そして意識が戻るのを待つ間に、実験体は回収されていった。

それにしても、この実験体が、今後の王国にとって非常に厄介なものであったことも分かった。

これを、人間に組する魔術師らが敵対する魔術師を駆逐するために使うとすれば、それに対抗できるのは魔術師ではなくやはり魔法戦士か人間であろう。

いや、魔術師が使うとも限らない。

スイルの思惑がどこにあるのかは不明だが、王国も、学院も、どうして放置しておくのかマリーには理解できなかった。

それは、マリーが追うことになるランギス・トリオールも、同様の実験や魔法生物を生み出していたからだ。

もっとも、直接的に魔術師を狙うスイルとは異なり、ランギスは魔力干渉能力を有する人間からそれを奪い、魔法具や魔法生物を作り出すという手法の違いがある。

だが、だからこそ余計に不可解でもあった。

スイルの方が、より危険ではないのか?

それを決めている、その元なるところが違えているのだろう。

神秘派にしても世俗派にしても、その最奥にあるものが世情で言われているような単純なものでないことは、今ではマリーも知っていた。

隠されているのではなく、周りが勝手にそう思い込み、あるいは簡潔にする上で、敢えて神秘派と世俗派の対立を煽っている。

レニキスはそのことを教えてくれた。

でもマリーには、それを利用しようとするものか、煩わしいと感じているのか、という違いが見出せなかった。


まもなくして、パッチリという音が似つかわしいほど、ユリーシャは突然目を見開いた。

人間の宿舎の軒先で横になっていたユリーシャは、覚醒するなり魔力干渉を行い、バイエロットもそれに反応した。

防衛本能らしいが、魔剣の使い手であるマリーが得る魔力とはまた違うもののようだ。

もし、この肉体が失われた時、バイエロットの守護者精霊とはどうなってしまうのだろう?

ユリーシャは上半身だけ起こしてマリーを見ると、僅かに眉根を寄せて傍で立って眺めていたマリーに渋い表情をして見せた。

「言うほど頼りにならなかったわね」

「分かってる」

マリーの挑発には乗らず、ユリーシャはそうとだけ答えて顔を背けた。

本人としても不本意だったらしい。

とは言え、それはマリーも同じであり、さらに言えばもっと気をつける責任がマリーにはあった。

もちろん、ユリーシャを責めるつもりは無かったが、これで学べるところがあったのなら、その動機が悔しさでも怒りでも良かった。

「動けるのなら戻りましょ。今日のことはもう済んだこと。私たちの任務は明日からなんだから」

「分かってる!」

ユリーシャは負け惜しみでそう声を張ると、荒っぽい仕草で立ち上がった。


「魔剣から魔力を吸われた様だが、大事にならず良かったな」

「良かった、ですか?」

翌日、出立の挨拶に訪れた際、レニキス巡察官からそう言われた。

「存在としての礎が人間であったことで、保全が優先的に成されたのだろう? 元が精神体であれば、守護者精霊であっても魔力として奪われる。魔法具からその魔力を奪うとなれば、命を奪われるのと変わりないのだからな」

それは、これから追うランギスと対する時に注意するようにという忠告だった。

「まだ使いこなせていないことは良く承知しています」

巡察官は望んでのことではなかった。

気負いが無い分、焦りも無かったから、マリーはそう答えられた。

本体が人間であったことで助かったのであれば、それは当初懸念していた不利でもなかったということになる。

「足取りは追いますが、今すぐにランギスに対することは無理でしょう。対策と訓練を怠らないように気を付けます」

レニキスはそれに頷きを返し、

「私が薦めたことでもある。無理はするな。工房を襲う際には必ず現地の巡察官の応援を求めろ。それと、ロフェスタに行くのなら守衛隊のブランネルを訪ねろ。私の名前を出せば会えるはずだ。ランギスを追っている討伐隊のことが聴けるかも知れぬし、特定犯罪者の件で何か得られるかも知れん」

と指導してくれた。

「分かりました。それでは必ず任務を完遂して参ります」

マリーの敬礼にレニキスが返礼をする。

それにしても、ほんの二月前まで巡察官補だったマリーは、魔法騎士ではなく、一躍巡察官となった。

決して自分の能力が低いとは思わなかったが、反面自分をこういった任務に就けざるを得ないことに、一抹の不安を感じてもいた。

もちろんマリーはその期待に応えたいとは思ったが、この魔術師の世界に終わりが近付いている事の不安は覆い隠しきれなかった。


「ランギス・トリオールの直接の罪状は、上位儀式の未通告、ならびにその強行と、巡察官に対する傷害だ」

「おかしな話だな」

事務官の説明を明確に切って捨てた。

「そうだろうな。しかし、執政官の布告に基いている。どこからか、あるいは誰からかの強い推しがあったんだろうよ」

このところの事件では、反体制派と呼ばれる魔術師や魔法戦士が際立ってきた。

それは世界的な流れのようにも思われたが、どうにも作為的なものが含まれているように感じられた。

「追われるだけの事情はある・・・が、それにしても釈然とはせぬな」

気が済んだか? というようなアピールをして、事務官はファイルを閉じた。

「ここ1年では何人なのだ?」

「そうだな、合議認定でないのは22件だが、一級となると7件だな。先週、そのランギス・トリオールに対する特別巡察官も任命されたよ。残念だったな」

それを聞いて、表情を曇らせる。

「仕組まれているのではなかろうな?」

事務官が退室した後も、しばらく思索にふけった。


潜伏していると思われるオックレイル地方へと行く前に、マリーたちはロフェスタへと立ち寄った。

いでたちは立派だが、ユリーシャは新調した服がどうにも落ち着きが悪いようで、不機嫌な表情で時折服の端を引っ張っては納得のいかない顔をしていた。

「まだ気に入らないの?」

マリーは呆れたようにそう言った。

もう聞くというよりも、諦めろという意味だったが、

「あっちの方が良い」

と、ユリーシャは街中で出会う女性を指差しては文句を言っていた。

そうは言っても、巡察官の従者で魔剣の守護者精霊に、普通の女性の格好をさせるわけにもいかない。

「用が済んだら脱いでも良いわ」

マリーはそう言うと、その用のある建物の前で指で示した。

そこはロフェスタの魔術学院事務室のある建物だ。

「外で待ってて良いか?」

ユリーシャが気の進まないような顔で聞いてきた。

ここは魔術師であっても何かしらの圧力や不安感を抱かせる場所だ。

感覚的に苦手意識が働いたのかもしれない。

「そうね、あまり遠くまで離れなければ良いわ」

ロフェスタの学院事務室のある地域は、魔術師や人間が混在している中央地区で、魔術師の居住地や代官(行政)府は上手地区、人間の居住地は下手地区にある。

魔術的結界が限られた地区だけにしかないので、ユリーシャを捕まえるのにさほど苦労は必要とはしない。

「はい、預けておくわ」

マリーは用心のため、バイエロットを不可解そうなユリーシャに預けた。

「自分の身は自分で守りなさい」

「大丈夫だ」

ユリーシャは一転不機嫌な表情をしてつき返してきた。

「どのみち学院守衛に会うのに武装は出来ないわ。付いて来ないのなら持っていて」

言い含めるようにマリーが言うと、不承不承に持ち直して、不慣れな手つきで剣帯へと付けた。

「終わったら知らせるから」

それ以上の注意はせず、ユリーシャをその場に残してマリーは背を向けて建物の中へと入った。

知らないことは多いが、街中での常識はわきまえている様だ。

お金の使い方はチューリアを出る前に教えたが、余り欲しい物も無いようですぐ返したがるほどだ。

今は必要性と緊急性を言い含めて持たせているが、

「まるで子供がいるみたいだ」

とマリーは苦笑した。

いや、数日前までは顔をしかめていた。

苦笑しつつも受け入れられたのは、ユリーシャが使い手であるマリーを何よりもまず第一に考えていることと、人間としての無知や制約のせいだった。

足を引っ張るかもしれないが、今後の活動や立場においては、ユリーシャの存在がどれほどマリーを助けることになるだろう。

既にその効果は現れていた。

巡察官に仕立て上げられているという自覚はあったし、それを承知で表面的な扱いがされているこの現実を、マリーは虚飾に満ちたものと感じていた。

それでも自分の任務を遂行することを強く心に誓うのは、きっとこの世界に影響を与えることができるはずだという思いからだった。

利用されてるのだとしても、形だけしかなくとも、期待されていなくとも、最終的に事を成せさえすれば良い。

ユリーシャだけが、信じられるし、頼れる唯一の相手なのだ。

それは、守衛監のブランネルに会って、より強く感じることになった。


巡察官と守衛隊の確執や縄張り争いは今に始まったものでもない。

巡察官が学院事務室を訪れるということは、敵地に乗り込むのと同じことだ、と言われていた。

実際には共同して任務に当たったり、情報や人員で融通を利かせることも無いことはなかったが、もちろん現場に限ってのことだ。

レニキスとブランネルも、そうした関係にあったと聞いていた。

だからと言って、仲が良いというものではないのは先に述べたとおり。

マリーは守衛の任務が優先ということでしばらく待たされることになった。

ようやく通された応接室に待っていたのは、まさに戦闘屋と称される典型的な守衛である厳しい無骨な中年の男で、どちらかと言うと優男なレニキスとは対称的な人物だった。

守衛監とは、拡大する守衛隊を管理する役務であり、巡察官で言う査察官に相当するが、より実戦的でその点で言えば適任そうな印象だ。

そしてその印象に違わず、その会談は一方的だった。

まるでこちらの意見など聞く気もなく、ランギスの居場所は特定しているが現在は監視対象であって教えられない、もし捕縛するのであればランギスに付いている守衛が防護することなどを告げ、

「罪状は承知している。しかし、今はトーラシオン家に連なる者に請われて魔術実験を行っており、守衛隊ではそちらの監視を重視している」

と言って、マリーの任務など知ったことではないといった態度だった。

呆気にとられて怒りも湧かず、無駄に抗議する気も無くなって、マリーは礼儀の良さだけを印象に残して退出した。

無駄ではなかった、と思うしかない。

重要な情報ではあった。

これほど簡単に手に入ったという点では、確かにレニキスの言うとおりだった。

その反面、何やらすっきりとしない思いが強くなった。

もちろんそれは、情報の不確かさということではない。

「簡単にランギスを捕まえて終わり、と言うことではないか」

ブランネルの話では、今すぐ法を犯すということはないようだ。

それに、守衛が付いているということは、最悪な事態も今のところは大丈夫だろう。

一級犯罪者指定自体、釈然としないことがある。

その辺りから調べた方が良いのではないか? とマリーは思った。

その方が自分の思う結末に近い気がした。

建物を出る。

風が心地よく、空気も澄んでいる気がした。

そんな気も結局は自分の気持ち次第なのだが、都合よく考えなければ到底やってはいられない。

「で、あの娘はどこいったのかしら?」

日が暮れる前に今晩泊まる官舎に入りたかったが、通りにユリーシャの姿はない。

それでも、バイエロットの所有者であるから、マリーにはすぐ居場所が特定できた。

通りに平行した用水路が一段低いところを流れている。

上からひょいっと覗くと、ユリーシャが人間の子供数人と、水路に何やら舟のようなものを流している。

「ま、元が元だから変ではないけれど」

マリーはそう言いながらも、その光景に違和感を感じていた。

それが何なのかは明確ではなかったが。

「ユリーシャ」

驚かさないように、マリーは優しく名を呼んだ。

それに応じて、ユリーシャが素早くこちらに顔を向ける。

「戻るわよ。楽な格好したいでしょ?」

少し気が引けた。

しかし、

「分かった」

とユリーシャは言って、子供たちとの友誼を冷たく振り切るように、素っ気無く上がってきた。

ユリーシャには感情的な感傷はなかったかもしれないが、少なくともマリーにはそう見えた。

「? 大丈夫だったのか?」

マリーの気持ちを察したのか、ユリーシャは表情を厳しくした。

「何もなかったわよ。良いことも悪いこともね」

そんなことを軽く返しながら、マリーは思った。

もう、こんな余計な体験はさせない方が良いと・・・。


東方執政官府のある都市サリュークは、異界都市、精霊界都市などと呼ばれる高度結界都市である。

平衡制御塔という都市の魔力や精霊力を統一管理下に置く塔が6つあり、中央時計塔を中心とした結界管理塔も9つある。

そうした複合多重結界下にあって、都市内の儀式や実験はおろか、魔術行使すら許されない。

これは王都や西方執政官府のある都市アルバザード(新都市)も同様で、都市環境と上位規定下における魔術は、太守、管理者、都市評議会の了承と監視下においてのみ許される。

また、人間が入ることは基本的に不可能で、魔術師でさえ許された者以外は入ることができない。

当然それは巡察官であってもだ。

マリーとユリーシャは、転移門の門衛に足止めをされ、サリューク律と呼ばれる制約下におかれた。

魔法剣であっても武装は許されず、抵抗はしなかったもののユリーシャは非常に不安げだった。

「ここでは安心よ。一応決まりだし、ユーリのせいではないわ」

ユリーシャが何やら自分の責任のように感じているのを気遣って、マリーはそう慰めた。

人間であっても、やはり精霊として影響を受けるのだろうか?

マリーはすぐ巡察官府へと向かい、ランギス・トリオールの一級犯罪者指定の経緯と、その命令執行者を調べることにした。

目的は巡察官府訴追認定局の調査官室と記録書庫である。

「ランギス・トリオールの直接の罪状は、上位儀式の未通告、ならびにその強行と、巡察官に対する傷害となっている」

応対に出た事務官は、手馴れた様子で探し出すとマリーにそう告げた。

「それだけなのですか?」

一級犯罪者と言えば、世界への影響や喪失に関わるような神儀式などの強行やその未遂、あるいは都市への攻撃、上位貴族や指定官職に対する殺傷害によるものとされる。

「累計罪ではないようだが、おそらくは上位儀式の数だろう。認定されているのは31件だな。それと、ダイゼニフ特命巡察官が重傷を負っている。そのせいだろう」

「ダイゼニフ? 特命という事はランギスを追っていたのではないですね?」

マリーの質問に、事務官は渋い表情となった。

「それはこれでは分からんな。公示されているなら分かるかもしれんが、執政官の特命であれば可能性は低い。直接聞く手もあるが・・・」

そこまで口にして、続きを事務官は表情で表した。

無駄だろう。

これは世界の危機などではない。

マリーは謝辞を述べると、その確認された上位儀式31件の記録を見せてもらってから退出した。

「待たせたわね」

ユリーシャは、待合室で魔力鍛錬用の子供のおもちゃでおとなしく遊んでいた。

人間の時にはもちろんなかったものなので、興味は尽きないようだ。

「もう行くのか?」

「まだ良いわよ、遊んでいて」

マリーは、ユリーシャが何やら難しい顔をして単純な水晶と木で作られたそのおもちゃを遊んでいるのを、しばらく眺めていた。

ユリーシャとの連携はまだまだだ。

今強行しても、遂行は覚束ないだろう。

犯罪の重大性はともかくとして、その内容は知っておく必要がありそうだ。

上位儀式31件中の25件が確認された結界都市ダッサルに行ってみよう。

それと、見習いの時の教導官であった魔術師マルソスが、評議員として今王都にいる。

魔法剣についてももう少し理解が必要だし、意見も聞いておきたい。

マリーは一旦王都へ行ってから、東方へ戻ることに決めた。


もちろん、王都に入るにも制約は多い。

何のためなのだろう?

無論、安全や安定のためだ。

結界都市においては、基本的に魔力は管理下におかれ、魔術師が魔術を行使することは許されない。

マリーは巡察官になるまで、そんなことに疑問を感じたことはなかった。

王都の結界は更に強固で、そもそも直接入ることが許されない。

王都は結界都市ではあるが妖精界そのものなので、まさしく異界都市の名に相応しい世界に唯一の幻想都市である。

行くにはその窓口であり門である、都市ローファンを通らなければならない。

ローファンの街の中心部にある転移門からでしか入れないのだ。

そのため、特にこの結界都市ローファンは、境界都市、門前都市と呼ばれている。

また、王都防備を担当する鎮守府が置かれ、中央魔法騎士団から守衛大隊(王都防備隊)が駐屯して守ってもいた。

一方、王都内には近衛府があって、そちらでは王都警備隊と呼ばれる巡察官らが担当した。

マリーはローファンに着いてまず、面会の約束を取り付けなくてはならなかった。

その後、返答と身元調査で数日足止めされ、許可が下りると今度は武具や魔法具を預け、サリュークの時と同様に制約を科せられる。

「あなたの守護者精霊ですが、基本体が人間であると王都では強い影響を受けます。帯同はお勧めしませんが?」

「そうですね、どうせ魔法剣も持ち込めないのでしょう? ならここに居た方が良いんじゃないかしら?」

返答はユリーシャに宛てたものだ。

「行っても意味は無い。でも、残っても意味は無い。同じだ」

答えは決まっていた。

マリーは分かっていたが、それが頑固だからということではない。

守護を持つ魔法剣の使用者であるということの意味を、マリーは分かってきた。

自分が求めたものではあったが、マリーは実際に手にするまで、その意味が分かっていなかった。

マリーは、何かに気付き始めていた。

しかし、そこにはまだ達しない。

その手にするものが何であるのか、それがいつになるのか、分かりようもない。

転移門の門衛は魔法騎士で、武具防具から装具一式の一切合財が魔法具という、対魔術戦に特化した魔法戦士だ。

「あの剣も魔法剣なのよ?」

マリーが何気なく、軽い気持ちでそう言うと、

「一緒には居られないのだな」

と変わらぬ表情でユリーシャは呟いた。

「どういう意味?」

「意味? そのままだ」

こういったときには問答にならない。

マリーは感覚的に、悲しんでいるのだろうと感じた。

転移門に集まったのは20人ほど。

門はあちら側からしか開かれない。

日に二度、決められた時間だけ開き、人や物が行き来する。

そこには人を制限するという目的があったが、妖精界という異界が実世界に過度の影響を与えないようにも思われた。

無論、中に入る者にも言えることだ。

そのため、そうした能力を持つ者か、王都の管理人に認められた者以外が滞在できるのは、1週間が限度だと言われていた。


王都へ来るのは二度目だ。

5年ほど前のことで、その時には巡察官補候補生としてだった。

そして王都の魔力に呑まれ、自分を保つので精一杯だった。

自分が魔術師として十分な能力を持つことに気がついたのはその時だ。

「変わらないわ」

この王都の独特の魔力に、マリーは懐かしさよりも違和感を強くした。

ここはやはり違うところだ。

そう思うのが、自分が至らないせいではないか、という疑問でもある。

それとは異なる点で、ユリーシャは初めての王都に不安を隠せないでいた。

連れて来なければ良かったか?

でも、マリーは不思議と、そう強くは思わなかった。

自分の礎たる存在が、確かに強化されているからだ。

ただ、その分ユリーシャに無理を強いているのかもしれない。

長居をする気はなかったが、出来るだけ早く出よう。

王国評議会議場はさほど遠くはなかったが、それに倍する手間がかかってマルソスには会えた。

だが、

「指導した生徒であれば弟子も同じ。調べてやるのは構わんが、明後日まで待て」

と言われてしまった。

これまでも時間は多くかかってきたわけだが、

「魔力干渉能力者が減って、単純な魔術の検査や付与が出来ないのだ」

と、マリーは暗澹たる気持ちになった。

いずれは秩序ある魔術師が減って、突然変異的な人間の魔法使いとで覇権を巡って争うようになる。

そんなことを主張するグループもいた。

頑なに何かから守ろうとしていることと現実の差が、どこかで破綻しているのだ。

ユリーシャを見る。

人間である守護者精霊は、その境界に居るのではないか?

人間用の魔法剣というのは、それ自体が矛盾している。

そこに宿る精霊がユリーシャのような形になったことに、マリーは同情にも似た悲しさを感じた。

「具合良くないようね。宿舎に戻りましょ」

ユリーシャは虚勢を張ったりはしなかった。

この濃い魔力に中てられたのだろうと思ったが、

「ここは変」

と呟いた。

「変?」

「変。頭や体の中を探られているみたいだ」

そうユリーシャは言って嫌そうな顔をした。

そんなものだろうか?

ここは妖精界であるから、ユリーシャの言う事をそれほど気にはならなかった。

明日は一日空くから、図書館と研究所へ行ってみようとマリーは思った。


翌日、ユリーシャは熱を出した。

「依り代が変調をきたすなんてね。取りあえず安静にしてて。ここにはバイエロットは無いのだから、自力で安定させるしかないのよ」

さすがに納得しがたいようだったが、体の不調だけは隠しようもなく、ベッドの中で唸るしかなかった。

マリーは、この知識の中心地である王国記録図書館で調べたいことがあった。

錬金術師ゼロス・パッカルスと、その生み出された魔法剣バイエロット、そして守護者精霊ユリーシャ。

一級犯罪者とされる錬金術師ランギス・トリオール。

使命感からか単なる興味からなのか、マリーはちりちりとした熱さに似た痛みを、頭に感じていた。


「ご自分で調べられますか?」

図書館の管理者である女性の精霊がそう言って示したのは、一冊の魔導書だった。

「えぇ」

そう要領も分からずに答える。

「では、案内はこちらで」

差し出された本を取りあえず受け取ると、すぐ隣に少女がいた。

その揺らぎのない自然さに、マリーは感覚的に出し抜かれた格好になった。

「魔導書エルクの書の守護者精霊です。魔導書の検索をする魔導書です」

気がつくと、手にしたはずの本が無くなっていた。

本が本体である精霊という事か。

「違います」

明確に、目の前の少女は否定した。

「わが主の意識はすでにこのエルクの書と連結しています。今見えているのは幻覚です」

「この施設内は異界ですから」

とは管理者の言。

「隠し事は出来ません。知識の悪用はそれだけで世界の喪失につながる可能性が高いものです」

そう、管理者は先ほどの注意事項を繰り返した。

「膨大な魔導書と知識を導くには、エルクの書と繋がっていた方が早くて正確なのです」

エルクの書の精霊はそう言いながら奥へと促した。

「見られないものというものもあるの?」

「はい。制限がかかっているものがあります。そちらに付いては、魔導書や特定の知識には認識阻害や隔離措置がされているのですぐ分かります。そして、閲覧されたものは全て記録されます。ここで得られるものは善でもなく、悪でもなく、知識ですから、偽りやまやかしは通用しません」

そんなことをさらっと、しかし非常に強い意志を持って、優しく微笑みながら言った。

そうして書庫区画の一般閲覧用の個室へと連れて行かれた。

「では、まず何から調べましょうか?」

マリーは余り期待しないことにして、精霊に意識を委ねた。


知るという事。

それは、言い換えれば責任を負うということだ。

以前、武装巡察隊に属してある任務についた時、その隊長はこんなことを言った。

「任務を遂行しようとする時、相手のことを知り過ぎない方が良い。迷いが生じたり、手心を加えてしまう可能性があるからだ」

それの何が悪いのか。

相手のことを理解するのは、判断をする材料や対策を練る上で重要なことのはずだ。

そう思ってきたし、そのために今行動をしているのだ。

特に、巡察官は基本的に単独で行動し、判断も対応も一人でしなくてはならない。

だが、実際に巡察官になって、それだけではないことも分かってきた。

それは知識を得て、様々な準備や対策をもって備えるというものだけではない。

そこには良いとも悪いとも言えない恐ろしさがあった。

虚構と事実。

図書館で得た知識は、紛うことなき真実だ。

では、今あるものは? 今聞かされていることは? 今知っていることは?

それは隠されているのでも、騙されているのでもない。

なら、現実は絶対に正しくて嘘偽りのない真実なのだろうか?

そんな馬鹿なことはなかったし、それでは救われないではないか。

マリーが戻ると、ユリーシャはベッドで丸まる様にして寝ていた。

「精霊が私を感知しないで寝ていて良いのかしら」

そこで寝ているのは人間の少女で、そのことに間違いはなかった。

でも、この現実は真実ではない。

私は、錬金術師ゼロス・パッカルスではない。

私は、魔法剣バイエロットの創造者ではない。

「ただ、魔剣の使い手に過ぎない」

そう言葉にして、厳しく、また冷たく、目の前の守護者精霊を見る。

だが、それも長くは続かず、マリーは表情を緩めるとユリーシャの顔にかかる髪を掻き揚げてあげた。


「先に一つ聞いておきたいのだが、世俗派と神秘派とでここ数年、騒がしくしているのは知っておろう。お前は今後、王国がどうなるか、どうあるべきか、いかに考えておる?」

それほど意外な質問ではなかったが、マリーは即答できなかった。

マルソスは厳しい人物ではあったが、必要の無いときにそのような厳しい顔をする人物ではなかった。

「私が知っていることは、将来的に王国の体制が維持できなくなる可能性がある、ということだけです。私自身はどちらの側にも身をおいた覚えはありません」

マルソス導師は、満足げではなかったが頷いた。

「事はそう簡単なことではない。お前が知っているものはその表側だけだ。だが、知らぬのならそれで良い。お前は魔術師だ。最終的に自分で決めるのであればそれで良い」

それが突き放したものでないことは直ぐに分かった。

だが、

「それでは良いか悪いか判断できないではありませんか」

とマリーは訴えた。

それこそがマルソスに聞きたいことなのだ。

「言ったはずだぞ、リヴァイオス。教えてはやるが判断は自らせよ」

その歯切れの悪さに、マリーは推察せなければならなかった。

マリーの求めに応じて調べ、答えるということは、ある種自分の旗幟を鮮明にすることだった。

疑われている、ということは無いだろうが、王国の状態の深刻さが、マルソスが評議員をしてそう言わしめているのだろう。

「端的に言えば、世俗派の現実主義と、神秘派の協調理解者らが結託をしている、ということが幾つかの例から察せられる」

マルソスはそう言ったきり、口をつぐんだ。

「・・・それだけ、ですか?」

マリーは失望を隠さずそう問うた。

「簡単ではないと言ったであろう? そもそも、世俗派だの神秘派だのと区別し、意図的にたきつけているのは、誰あろうそれを望んでもいない輩なのだ。そうした意思の一つが、お前のやっておることなのだ。合理の行かぬものだろうが、幻想と現実がともに存在するとなればそれも道理」

そう言って、マルソスは一つの指輪を差し出した。

「幾つかの情報が入っておる。ほとんどは王国の現状を表したものだ。それと、その表側に名を出している者、特にお前に直接関係がある者も何人か示しておる。ただ、言っておくが使い道を誤るでないぞ。少なくとも王国では罪を問うておるわけではないからな」

マリーは深く頷いて指輪を受け取った。

そこにはマルソス自身の意思も含まれていたが、敢えてマリーは言及しなかった。

マリー自身も、マルソスを評価しなければならなかった。

何らかの目的や意思が、それに含まれていないとも限らないからであった。

マルソス自身がそれに言及していた。

これ以上、迷惑をかけることは出来ない。

マリーはそう考え、指輪を受け取ったことで満足することにした。


「ところで・・・」

そう言ってマルソスは初めて、マリーの背後にいる存在を気にかけた。

ユリーシャも帯同していたが、それまでは完全に無視をしていた。

「お前も、いとわぬ事とは思うが、いらぬ苦労を背負うたものよな。図書館へは行ったのか?」

「はい」

表情だけで伝わる。

「ならば知っておろう。皮肉と言おうか、好都合と見るべきか、一つの鍵であり、良い標となるだろうよ」

マルソスは席を立った。

「先を視ることはわしには出来ん。再び、あいまみえんよう願っておる。そう願って叶わぬ事の方が多いからな」

「導師もお元気で」

マリーはそうとだけ答えて、背を向けたマルソスに頭を下げた。

マルソスは、王国の評議会でこうした暗闘に、まさに立ち向かっているのだろう。

そして、その下や裏で、マリーらが探り、戦い、正さんとしているに違いない。

その考え方で言えば、ランギスは覆そうとしている、ということになるのだろうか。

マリーはしかし、自分がランギス側にいるような気がしてならない。

得た知識には嘘も偽りも無い、厳然たるそのままが記されていた。

ただ、記録は過去しか示さない。

マリーは今後の王国に、いや魔術師に、良かれと思うことに従って、事を成すことを求められているのだった。

名に実が伴うというのは、こういうことを言うのだろう。

マルソスは退出し、評議会議場応接室に残されたマリーはそのまま佇んでいた。

「用は済んだのだろう? 早く出よう」

ユリーシャがそう言って、マリーの服の袖を引っ張って促した。

マルソスが言う先を暗示するものがユリーシャだとしたら、とりあえずマリーには一つだけ出来ることがあった。


突然道行く男女がマリーらの行く手を塞いだ。

白いドレスが質素だが、高貴さを漂わせる女性が、非常に不愉快そうな顔をして、正面に立っていた。

そしてその見下すような侮蔑的な視線は、行きずりではなく、明らかにマリーらを認めていた。

見覚えはもちろん無かったし、そんな態度をとられるいわれも無かった。

もっとも、女性が連れている人も普通ではなかった。

巡察官を示す風体の男、同じく学院守衛の女、そして魔術支援者の女。

御付としてなら、これほどまとまりが無いのも珍しかった。

「何用でしょうか?」

取りあえず表面的には不機嫌さを隠したマリーの問いに、その女性はわずかにも表情を変えることなく、

「その精霊はユーリと言うの? 人間のためなどの精霊が、どうしてこの王都に居られるのかしら?」

と言って、暗にマリーを責めた。

「ユーリは魔法剣の守護者精霊です。私が正式に認められ帯同しております」

「そんなことは聞いていないわ」

にべも無くマリーの説明を一蹴した。

付いている3人は、それをただ見ているだけだ。

「人間は王都ではまともではいられないのよ。何の狙いか知らないけれど、影響が起こらないうちに出てお行きなさい」

一方的にそう言われても、マリーには納得できなかった。

「何が仰りたいのでしょう? 私には何に対してお怒りになられているのか分かりませんが」

「お気になさらなくて結構よ」

後ろで黙って見守っていた王国の正式な支援者用の長衣を着た女性が、初めて口を挟んだ。

「ただの八つ当たりですから」

それは言外に、この件が言い掛かりであると言っていた。

「違うわよ。逆恨みでしょう」

守衛の女性が訂正をしたが、支援者の女性のような暖かいものではなく、抑揚の無い冷たい言い方だった。

「どっちだって良いわよ」

だが目の前の女性はそんなことを気にした様子も無く、あくまでも自分の主張を貫き通した。

「それぐらいで気もお済みになりましたでしょう?」

しかし、支援者の女性がそう言ってたしなめた。

「私は私怨で言っているのではないわよ!?」

それでも、女性は収まりそうに無い様子を見せた。

だが、

「シア様、いい加減になさいませ」

と守衛の女性が言って、半ば強引に、その場から連れ出していく。

「こら、離しなさい! 自分で歩くわよ」

そんな声を残して立ち去るその後を、支援者の女性がにこやかに微笑みながら会釈をして付いていく。

と、

「すまない。もちろん先に止めるべきなのだが、あの方は行わずには収められる方ではないのだ。許されよ」

巡察官である男性がそう詫びた。

一等巡察官かと思えば、少し徽章やデザインが異なる。

「あの方はいずこのお方なのでしょう?」

男性は一瞬押し黙った。

「この王都の管理者なのだ。実権があるのではないから、あまり気にされぬようにな」

男性はそう告げて後を追っていった。

「あれがアークシオンの末姫・・・」

驚いたと言うよりも、たちの悪い冗談のようだった。

今の男性は、王都として供した妖精界の王へと巡察官府から送られた補佐官なのだ。

話には聞いていたが、まさかこんな係わり合いになるとは予想もしていなかった。

そして、言っている意味も分からなかった。

唐突ではあったが、すっきりとはしないものが残った。

それはマルソスとの会話の流れが、管理者との話に何となく繋がっていた感じがしたからだ。

何かを示唆したかったのか、とも考えて、それが穿ちすぎているように思えて苦笑した。

ユリーシャは、その場で強張ったままマリーにしがみつく様にして立っていた。

恐れを抱いたと言うよりも、魔力的な威圧が精霊であるユリーシャに影響を与えたのだろう。

「さ、門の開放まで時間が無いわ。行くわよ?」

ユリーシャはマリーほどには切り替えられないようで、消えていくその背を恨みがましいような顔をして眺めていた。


「学院事務所からの件はどういたしましょう?」

レニキスはにらみ付ける様な厳しい顔をして、

「任務上必要なことと考える。しかし、衝突したことは不幸な出来事であり、犠牲者には謹んでお悔やみを申し上げるとともに、負傷者に対しても厚くお詫び申し上げる。そう伝えよ」

とはき捨てるように告げた。

事務官が退出すると補佐官へ、

「呼び出しには応じたのか?」

と尋ねた。

「は、明日には戻るそうです」

「で、何と言っている?」

レニキスはまるで補佐官を咎めるような厳しさで聞いた。

「あの場所は未だ実験を支援しているものであり、破壊は任務上当然のことであって、衝突は本意ではなかったと言っています」

そう聞いて、レニキスは眉間にしわを寄せた。

必要にしても稚拙であり、拙速な思慮を欠く行動だったとしか言いようがない。

マリーがそういった行動をとるとは予想だにしておらず、巡察官への登用やこの任務に当てたことなども含め、レニキス自身への責任や非難などは避けられないだろう。

事は繊細であって、荒立てたり先鋭化させることが一番戒められるべきことだ。

しかも、そこは優先されるべき場所であるようには思われない。

レニキスが思う以上に重要であるか、秘密を暴いたのかしたのだろうか?

しかし、そうであれば事前に報告があっただろうし、通告もなされたはずだ。

レニキスはしかし、そう常識的には考えなかった。


昨日、学院事務所の理事から、苦情というには厳しい内容が通告された。

封印指定とされていた工房をマリーらが襲撃し、その場にいた守衛と戦闘になって死傷させた挙句、工房を破壊したのだ。

その工房はランギス・トリオールを含めた数人の錬金術師の工房で、ある実験のために作られたがその実験結果が学院の封印指定を受け、現在は学院の管理下にあった。

マリーらはどこかに報告することなく突然現れ、工房を監視する守衛の制止を自力で排除して破壊した。

守衛3名のうち、1名が死亡して2人が負傷ということで、学院では守衛部を通して巡察官府に抗議をし、大問題となっていた。

公表されずに済んだのは、マリーの任務が非公然のものであり、学院の内通者の助力を得て押さえ込んでいたからだ。

レニキスの危惧とは、マリーが真意に近づいたか、それを察したのではないか、ということだ。

その事実はいずれ知ることになろうが、この行動がそれを理解してではなく反発からだとしたら、これまで薄氷を踏む思いで行ってきたことが水泡に帰す可能性もある。

それだけは許されないことだ。

だが、そう考えたとき、レニキスは余りの問題の多さに改めて気付かされた。

そもそも神秘派と世俗派とは、魔術師としてのあり方に対する考え方の僅かな違いの差でしかなかった。

この実世界は、魔力(幻想)を消費しつつ物質(現実)を生み出し続ける世界だ。

その行き着く先がどうなるのかはわからない。

しかし、魔力が失われ続けることだけは間違いない。

それは、魔力干渉を行うことのできる魔術師が減っていくことも示していた。

そうした時、魔術師は魔力をもってする新世界の創造や神の座への到達を求めるのか、来るべき日に備え人間たちを導く立場としていくのか、選択を迫られるだろう。

もちろん、単純にはそれだけで済まない。

神秘派には王国にも人間にもかかわろうとしない孤高の魔術師がいたり、研究や実験を急ぐ余りに法を犯したり被害を与えたり、魔術師や人を用いた禁忌を犯す魔術師がいた。

また、世俗派にも危険な魔術師や協力をしない魔術師を討伐したり、王国へと公然と反旗を翻す魔術師がいるなどした。

それぞれに強硬派や穏健派、また協調派などがあって、王国の存在基盤を大きく揺るがしていた。

そうしたことが許されるのも王国という枠があるからであって、これが失われれば秩序は失われ、この世界そのものが失われかねない結果にもなりかねない。

時に武断的な処置をとり、あるいは危険を承知で取り込むなどといった綱渡り的な維持政策を採り続けることが、王国の世俗派における体制維持派の至上命令であった。

「人選を誤ったか」

レニキスはそう考えて、僅かに後悔をしたが、今更失敗を取り返せるものではない。

何より、それがバイエロットとユリーシャの影響であろうとは、思いも至らなかった。


マリーがレニキスに事前に報告もせず、また許可を得ようともせずにその工房を襲撃したのには当然理由があった。

その工房に名を連ねる錬金術師に、レニキスと関連のある名があった。

それはマルソスから得た情報で知ったもので、マリーは、レニキスが何らかの関わりか事情を知っているのではないか、と疑ったのだ。

ただ、衝突が偶発的であったのは本当のことで、更に言えばその責任は守衛隊の方にこそあった。

学院はこの工房を使用する意図を持って確保していた。

最初から守衛は敵対的であって、マリーらの主張はおろか話すら聞く気は無く、食い下がるマリーらに実力を行使した。

もっとも、結果的には守衛3人がかりでマリーとユリーシャには敵わず、返り討ちになった。

しかし、返ってそこで守衛が高圧的に応じたことが、マリーの疑惑を更に深めた。

当初は調査目的であったが、工房の破壊を優先したのにはそうした理由もあった。

ある種の思い込みが、マリーに一つの確信と結論を抱かせた。

しかもそれはきわめて急がれたもので、誤解や思い込みが全く無かったとは言い切れなかった。

レニキスに呼び出されたマリーは、一連の不祥事について詫びた。

抗弁しなかったのは責任を痛感したからではない。

この件が表沙汰にならない方が都合が良かったからだ。

レニキスは二度と勝手なことをしないように釘を刺しただけで、特にマリーを問い質すようなことをしなかった。


王国体制派の世俗派魔術師には、体制維持を優先する過激な一派と、現状維持を主張する穏健派がいた。

レニキスが属する体制維持派は、積極的に維持に有効と思われる施策や対応を取ってきた。

その一つに、危険な儀式や実験を行う魔術師、その多くは神秘派の魔術師であったが、それらを排除するというものがあった。

その中で、世俗派体制維持派に協調を示す魔術師には、逆に便宜を図ったり容認することで、取り込むことに成功していた。

ランギスはそうした魔術師の一人であった。

しかし、それはもはや過去のこと。

今は学院側に寝返り、神秘派の中でも特に密儀を主催する一派と何らかの協調関係にあると思われた。

マリーの役割はそうした部分を露見させ、学院側に打撃を与えるとともに、特にランギスの罪を問うことで学院を牽制して、体制派の活動を容易たらしめようというものだった。

即ち、やりすぎては困るがそれなりの力量が求められる役割であった。

だが、図りすぎた結果、マリーをそうした思考に至らせたことに、レニキスは気付けなかった。

マリーはレニキスが思う以上に機知に富み、下手な思想や信念を持たなかったことが、返って想像だにしない行動力を発揮した。

翌月、ランギスに近い錬金術師数名を審問し、ランギスの実験場数ヶ所を完全破壊した。

そのこと自体はそれほど問題にはならなかった。

更にその翌月、ランギスの協同研究者で逃走中だった二級犯罪者ゼルエック・ブランベルを捕らえて処刑した。

この件は事前に報告があり、ランギスとの共同実験を継続中であったことを理由に処刑したことも知らせた。

ゼルエックは複数の人間を魔術装置化して従えており、そうした魔術装置開発のほかに精霊化実験も行っていた。

また、ゼロス・パッカルスとの関わりもあった。

このこともマルソスの情報にあった。

マリーは図らずも、ランギスを追う過程でその実情と疑問を知ることになった。

と同時に、自分の関わっている件が、単にランギス一人の問題でないことも分かってきた。

しかし、ランギスを追うのは任務でもあり都合が良く、またそれに必要な権限も有している。

マリーは今、自分のすべきことがまずランギス・トリオールを捕らえ、真実を明かすことにあると思っていた。


マリーは人間に特に思い入れがあったわけでは無いし、また肩入れする気も無かった。

魔術師と人間は、姿は似ていたがその本質はまるで異なる。

言うなれば存在としてのあり方も大きく違っていて、マリーには人間を尊重しようなどという考えは、これまで一切無かった。

しかし、ユリーシャは人間だった。

守護者精霊とは物は言い様で、実際には魔術装置であったことに、マリーは言い知れぬ不快感を感じていた。

それは、魔術師として連結しているユリーシャに、支援者としての素養が余り無いからだった。

つまり、使い捨てなのだ。

魔法剣バイエロットが主体となり、魔術行使用の装置としての守護者精霊が、自らが焼き切れるのを承知で、剣の使い手たる人間を助ける。

魔術師が使えば守護者精霊に負荷がかかり、寿命は自ずと短くなった。

これはマリーが求めた守護を持つ魔法剣ではなかった。

そして事はそれでは済まない。

いずれ魔力干渉能力が減退し、人間が魔術師に代わって世界を席巻した時、この剣の威力が発揮されるのは間違いは無い。

ただ、もっと言えば、その時が来ることを待つ必要は無い。

この剣が、今それを求めることが可能なのだ。

その意味で言えば、この剣は魔術師、いや魔法王国にとって、非常に危険な存在であった。

マリーにとってこの問題は身近であり、また最大の当事者であり、その脅威を誰よりも切実に感じていた。

6振りのうち、バイエロットを除く5振りの所在を調べては見たが、その全てが既に不明となっていた。

むしろバイエロット自身、反体制派の世俗派魔術師からの収奪品であって、それ以前の足取りが掴めなかった。

製造者ゼロス・パッカルスが自ら明らかにしていたことで、これがその製作物であることが判明したのだ。

これは既に、この剣の存在意義を示す目的を持って、使われていたことを証明していた。

ゼロス自身に、どんな意図があったのかはもはや知る由も無い。

魔術師であったから、という理由で説明は十分だろう。


ダッサルという都市は、トリアーナ侯爵領の辺境にある都市で、トリアーナ候の血族であるオルド男爵が太守である。

辺境とは魔法王国としての辺境ではなく、単に地理学的辺境であって、人間が多く棲んでいた。

ダッサルは魔術的結界ではなく丘陵の頂に高い壁で囲まれている言わば城塞都市と言うべきで、人間が入ることは叶わないし、許されていない。

都市の存在事由は、ここに魔力の特異点が存在するためであったが、周辺地域には人間が数万人棲んでいたため、東方にある都市にあって、比較的工房や実験場が多く存在していた。

ランギスが個人で所有していた実験場もここにあり、現在は巡察官府が管理していた。

魔術学院がここを放置しているのは魔術的に価値が無いからであったが、その内容や目的はマリーにはもっとも必要なものだった。

「どうして特別な許可が必要なの!?」

マリーは、足止めをされた外壁門の衛士にそう食ってかかった。

「本来、人間は入れないのだ。守護者精霊だというなら許可が要る。入れるだけでも例外なのだ。許可が要るだけ承知して欲しいものだ」

それは、実験用の人間を入れるのと同じ申請だった。

マリーは納得できなかった。

「魔法剣バイエロットの守護者精霊は、特別巡察官リヴァイオスが正式な許可を持って帯同している。そう太守に伝えなさい!」

ダッサルにある特異点は、特に人間に大きく影響を与えていた。

それは、端的に言えば魂が侵食されるということだ。

魔力的な防御力を持たない人間は、魔力に近い魂に干渉を受け、変容してしまう。

マリーは、ユリーシャが人間ではないと知っていたし、信じてもいた。

影響なんて受けないと、守護者精霊としてはその能力が決して高くは無いと知っていたのに、マリーは信じようとしていた。

中に入ると、マリーらは一路実験場の集中する地区へと向かった。

幸いなのは、実験場で事故があったらしく、こちらに大きな注意が向かなかったことだ。

「目的の場所よりは離れているわね」

マリーは余り関心も無くそう言うと、ユリーシャを促して先を急いだ。

ここがマリーの考えていることに確証を与えれば、ランギスの件はひとまず決着が付く。

マリーの目的は、既にランギスには無い。

「今でなら、ユリーシャも精霊としてもっと完成されたものになるかもしれないわね」

人間としての制約を外せれば、もっとマリーの理想に近くなる。

ランギスの件が終われば、その背後にある事件にも自ずと関わらざるを得ない。

そうなれば、バイエロットとユリーシャの能力がこれまで以上に必要になるに違いない。

何らかの鍵が、ここにはあるはずだ。

学院が興味ないのは当然だ。

世俗と人間に関わる実験や成果など、彼らには必要の無いものだろう。

そのランギスが所有していた実験場は既に廃棄されたもので、封印はされてはいたが監視や警備もされてはいなかった。


おおよそ、人間を百人単位以上使って行われる儀式や実験は、王国に対して通告義務のいる上位儀式と認識される。

単純には言えないが、目安としては数千人であれば高位儀式、1万人以上ともなれば神儀式とされ、申請や審査、監視や報告などといった義務や制約が増える。

であったから、可能な限り面倒を減らそうとして、結果違法な儀式や実験が横行した。

面倒を避けようとするなら、それが例え建前であっても、手続きはなされるべきだ。

世界や秩序を顧みない魔術師は、王国監察局によって厳しく取り締まられた。

一方で、魔術学院は世界の喪失を防ぎつつも、魔術の進歩と神秘の解明のため、一部で王国に反して実験や儀式の強行を擁護するなどしていた。

そうした事例では巡察官と守衛が死傷する衝突が起きるなどしたが、それはあくまでも現場における自己の責務から来たものであって、王国や学院の上層部では交渉や策略としての妥協や取引が行われて最悪の状態にはならないで来た。

時として、その目的のためだけに派遣され、衝突し、死傷した。

マリーはようやく、そうした一環としての自分の責務というものを自覚した。

納得ではない。怒りや不満はない。緩怠も気概も生じない。

ただ、無駄にしたくなかった。

望みはあったし、バイエロットやユリーシャに対する責任もあった。

その過程の一つの目標が、ランギス・トリオールの処断だ。

巡察官府の思惑や学院の目論見を気にすることなく、マリーは自己の責任を全うし、自分たちとその先のことに視点を向けていた。

それはある面、自分の足元をよく見ていなかったということでもあった。


実験場は結界により、巡察官権限を有するもの以外が立ち入れないようになっていた。

「ユーリ、どう?」

ユリーシャが首を横に振る。

街に入ってからのユリーシャは、魔力の特異点の影響を受けて青白い顔をしていた。

元々、魔力行使はできても許容量としては小さい。

人間としての心配よりも、精霊としての影響を心配していた。

本人は、しかし顔色はともかく支障は無いようで

「問題ない」

と言っていた。

干渉にも行使にも問題はないということだ。

実験場においても、それは変わりないようだ。

マリーも、実験場の結界が作動した以外、特に変わった効果や魔力は感じなかった。

広い石造りの平屋で、稼動状態でもない。

中もしばらく使われた様子は無く、マリーはいくつかの部屋で資料と思しき文書や記録魔法具を調査した。

儀式用の生体魔術装置製造の他に、やはり人間の精霊化に関する研究が行われていた。

この当時、神秘派からの世俗派に対する共同研究の申し入れは多く、それは神秘をなす過程における実験が、世俗派にとって必要な使い捨ての魔術装置や人為精霊の製造と関連性が強かったからだ。

ランギス・トリオールやゼロス・パッカルスが特殊なわけではなく、その面で言えば共通点は多かったから、マリーにとっては無駄ではなかった。

とは言え、やはり人間の、と言うよりも肉体の限界を超えることは、やはり不可能のようだった。

魔力干渉能力を有しない人間にとっての魔力は毒でしかなく、ユリーシャの素体となった肉体も、その点では同様だった。

選ばれた理由は魔力干渉の能力ではなく、バイエロットの魔力干渉に相性が良いかどうかでしかない。

魂を糧として肉体を借りて魔術を行使するだけの存在。

人間を精霊化するのではなく、バイエロットの持つ固有精霊を顕在化させる器でしかないのだ。

つまり、ユリーシャは焼き切れるまで精霊として活動し、死ねば他の新たな人間が精霊として現れる。

その魔術式がユリーシャという名称なのだ。

ユリーシャとはその開発の元となった人の名前だった。

であれば、今のユリーシャは人間のユリーシャではないのだろうか?

傍でただじっと待つユリーシャは、複雑な表情をして見守っている。

その言動や行動、記憶や経験は、しかし確かに人間としてのものが基本となっていた。

逆に言えば、以前のユリーシャとしての存在感は感じられなかった。

これまでの経験などを吸収し、自動調整や自己制御として成長するものではないということなのか?

いや、おそらく成長させることはできるのだ。

本体であるユリーシャは、そんな魔術による魔力組成ではない。

もしそうなら、感情や生物的制約などを廃した魔術装置で良いはずだった。

その一点だけで言えば、ランギスとゼロスの求めるところは、相容れないものだったろう。

マリーの見たところでは、ランギスの訴追事由は申告の虚偽によるもので、若干不審さはあったが、それ以外に理由が見当たらなかった。


付け狙われていることは悟っていた。

実験場の結界は今、マリーの管理下にある。

地下の実験室に下りたとき、結界が誰かが侵入したことを知らせてきた。

マリーはその事実に顔をしかめた。

監視であればまだしも、何らかの意図を持って入ったのは間違いない。

マリーに知れることを承知で押し入ったということは、ここで事を起こすのが目的だからだ。

「ユーリ、どうもここで戦うことになるかもしれないわ」

ユリーシャも侵入者を察知したようだが、その表情は晴れない。

「どうしたの?」

ユリーシャは熱にうかされてでもいるような様子で、意識をはっきりと保ててはいなかった。

額に手を当てる。

「熱!? どういうこと? さっきまでは何とも無かったわよ!」

問題ない。

そう言ったユリーシャの言葉はほとんど聞き取れなかった。

地下は魔力が律されており、ユリーシャには上よりも余程良い環境のはずだ。

罠か?

この時機を狙ったのであれば、どこからか仕組まれていたことになる。

ギュッと、マリーの服の袖を握る。

どうにか平静を保とうとしている様子が痛々しかったが、これでは役に立たない。

出入り口は一ヶ所。

そこから、ゆったりと、堂々として男が一人降りてきた。

無言で視線を交わす。

男は壮年で体格の良い、うわついた感じのない堅実そうな顔をしており、腰に帯びる剣や装備、そしてその風体が明らかに並みの戦士ではないことを示していた。

僅かな時間だったと思う。

男は自分から話す気は無いようで、マリーから話し掛けられないのを受けて剣を引き抜いた。

「説明は無いわけね?」

マリーもバイエロットを抜く。

「ここに来たことが貴様の最大の失敗だ。そして最後の失敗になる」

「罠にかけたという事?」

マリーの問い掛けに、男は応じる姿勢を見せた。

「ここ自体が貴様とその精霊にとって死地なのだ。その機会をただ黙って見過ごすことはないだろう」

男がユリーシャを示してそう言った。

「このダッサルが特異点だというのは知っているだろう? 人間に特に強く作用する。その精霊は、元は人間だ」

その突き付けられた事実に、マリーは凍りついた。

分かっていたのはどちらだったのか。

守護者精霊ということか。

人間だということか。

マリーは、いつからか自分の認識が摩り替わっていたことに気が付いた。

人間である欠陥を、その致命的な欠陥を、精霊であるのを前提として克服できるものだと思い違いしていた。

マリーが知った事実は、ユリーシャが精霊である前に人間であるということだったのに。

ユリーシャとの連結は断たれた。

熱によるものか魔力によるものか、ユリーシャは昏倒していた。


「一つ聞かせて。貴方は学院の手先なの? それともロザレス(巡察官府)の手先?」

男は僅かに顔をしかめた。

「もう少し賢い女かと思ったがな。もはやそんな形など意味はないさ」

マリーは、悔しさから歯噛みした。

「真理主義者か」

一般に神秘派や世俗派に類される学院や王国といった組織や枠ではなく、思想や主義に基づいて集まった団体や秘密組織に属する魔術師を真理主義者と言っていた。

中には大規模な実世界への干渉事件を起こした漂白世界と呼ばれた団体などもあった。

「一緒くたにされるのは心外だが、より実を求めるのは当然のことだろう。もっとも、それが答えでもない」

それでも、巡察官府ないし高位の巡察官の関与を否定はしていない。

巡察官以外が干渉したり打ち破れば直ちに通報されて、施設内の魔力へは結界に阻害されて干渉できなくなる。

ただ、実験場に敷設された結界は魔術的なものではなく、施設に付随するものでしかない。

強固でもなく、攻撃的でもない。

男は剣を構えると、この場の属性を変えるべく結界に干渉した。

「我に従えしバイエロットよ。我が声を聞け、深淵にある全てを無に帰す焔の片端をここに現せ!」

マリーが魔剣を中継して男よりも先に属性を変えて魔力を支配下におこうとした。

だが、男の剣はその顕現を許さず、マリーの魔術陣を阻害した。

氷剣!?

属性を礎にしない魔術は干渉と変換に手順を有する。

必然的に魔法戦士は魔術師の魔術行使を妨げる戦い方になる。

ユリーシャの防御がない以上、マリーは加護を得られず魔剣で応じざるを得ない。

魔術で凌駕できなければ、それはマリーに勝ち目がないということに他ならなかった。

剣自体の威力に魔力を載せられなければ、守りが強められないマリーには致命的だ。

もちろん、剣を振るうことにかけては多少なりとも自負するものがあった。

しかし男は、ただ単純に剣技だけでマリーを圧倒した。

一縷の望みすら容易く打ち砕かれていくことに、マリーは絶望的な思いを強くした。

加えて、男には守護聖霊が居り、魔力干渉は守りを強くするのに精一杯で、到底反撃など出来ない。

それでも、

「精霊よりも剣の方にこそ効力があるようだ」

と、男は精霊不在にも関わらずマリーの抵抗が予想以上であったことを認めていた。

剣での応酬はその実魔力の奪い合いであり、バイエロットは奪うことにはそれなりの効果を発揮した。

しかし、男の持つ剣は、それをあっさりと削っていった。

しかも、ユリーシャとは逆に守護聖霊は魔力の影響を強くは受けないため、この場では一番厄介であった。

マリーはこのままでは状況を覆せないことを悟った。

男の計算違いは時間的なものであって、結末自体は変わらないのだ。

マリーはバイエロットを手放し、自身のまとう魔力を剣を中継してそのまま魔力の燃焼へと転化させた。

自分自身にも傷を追う自殺行為ではあったが、状況を五分に持ち込めるかもしれない。

それは男の持つ魔力をも失わせかねないほどのもので、マリーはユリーシャの魂が耐え切れないだろうとも思った。

だが、実験場の全ての魔力が消失するのと引き換えにしてマリーが得たのは、希望でも時間でもなかった。


その瞬間、僅かにマリーの加護を強くしたものが確かにあった。

だが、男の剣は、マリーの胸の中心を正確に捉えていた。

痛みは鋭いものではなく、殴られたかのように重い鈍い痛み。

マリーは息を吐こうとしたが、代わりに熱いものが喉を逆流した。

ビシャリと、足元に大量の喀血をしたが、そこには既に血溜まりがあった。

胸の傷は貫いてはいないがかなり深いようだ。

男はマリーの力が抜ける前に剣を抜くと、刀身の血を払ってその血を持って結界に干渉する。

「悪いがここは封印させてもらう。貴様が魔術を行えるほどの魔力はない。その傷を癒すこともな」

マリーはそれでも、バイエロットを頼りに倒れることはしなかった。

まだ最後にすべきことがあったからだ。

男はそれ以上語ることなく、また一瞥もせずに階段へと消えた。


10フィートも離れていないのに、そこにたどり着くまでにこれほどの苦労が必要だったのか。

重い体を引きずるようにして、マリーは横たわるユリーシャの傍へと歩み寄った。

血の気を失った青白い顔をして、しかしユリーシャの息はまだあった。

最後、あの男の剣を受ける時、ユリーシャはマリーの防御膜を確かに強くした。

効果は余り無かったが、ユリーシャにとっての最後の支援だった。

それがいかに無理をしたものだったかは、バイエロットを介さなかっただけで十分理解した。

まさに命を削ったものだったからだ。

思えば、初任務の時と同じ過ちだった。

たった半年前のことなのに、ひどく懐かしい感じがした。

結局何一つ解決しなかったのか。

人間から遠ざけて干渉や影響を減らそうと思っていた自分が何と無知で浅慮であったことか思い知った時、今の自分の境遇を自嘲して受け入れた。

覗き込むマリーに気付いたわけではないだろう。

ユリーシャが、薄く目を開いた。

その瞬間、バイエロットの剣先が、確かにユリーシャの心臓を貫いた。

全く虚を突かれた表情で、その時何事かを口にしたが、それは言葉としては出てこなかった。

マリーが剣を引き抜くまで、いや脳から血が失われるまで、ユリーシャは口をパクパクと動かしていた。

失血で良く聞き取れなかったが、どうも人間の言葉のようだった。

だが、マリーには理解しようがない。

体と床をおびただしい血に染めて、ユリーシャはまもなく絶命した。

「今までありがとう」

マリーは事を成し、表情を緩めた。

ユリーシャは、人間としては死なない。

その魂は精霊化したため、役目を果たしたユリーシャは、そのまま霧散してしまうだろう。

魔力として失われる前に、精霊として剣に戻る方が良い。

その魂は守護者精霊としてバイエロットに残るはずだ。

ただ、残念なことに、バイエロットを逃す術が無い。

「しばらく眠っててもらいましょう。その間、私が傍に居てあげるわ」

この地下にある悪辣な罠の中で、マリーはユリーシャの遺体を前に、バイエロットを抱いてその時を待った。



おわり

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