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魔女三千里

掲載日:2026/10/17


 魔王は、恐れていた。


数多の戦場を駆け、幾千もの命を奪い、魔族の頂点に君臨してきた男。


その男が、たった一人の人間が遺した言葉に怯えていた。


かつて、世に名を轟かせた預言者がいた。


彼の預言は決して外れることがなく、王侯貴族から名もなき民に至るまで、誰もがその言葉に耳を傾けたという。


そして、その預言者は死の間際、魔王にこう告げた。


「魔王は死ぬ。そして、その息子もまた、この世から姿を消すだろう」


それが、彼の最後の預言だった。


魔族たちは理解できなかった。


なぜ、あれほど恐ろしい魔王が、たかが人間一人の言葉を恐れるのか。


魔王の力は絶対だった。人間の軍勢を幾度となく退け、数々の英雄を葬ってきた。その力を知る者にとって、人間の預言など、取るに足らない戯言でしかなかった。


しかし、魔王だけは違った。


彼には、その言葉を笑い飛ばせない理由があった。


かつて、預言者は自身の妻の死を告げたことがある。


いつ、どのようにして死ぬのか。


その預言は、あまりにも具体的だった。


そして、現実となった。


一日たりとも違わずに。


あの日のことを、魔王は今でも覚えている。


どれほど強大な力を持っていようと、死の運命から妻を救うことはできなかった。


だからこそ、彼は恐れていた。


魔王には、もう一つの悩みがあった。


魔族の衰退である。


かつて大陸にその名を轟かせた魔族は、今や往年の勢いを失いつつあった。


その原因の一つが、人間と他種族との結びつきだった。


かつては人間と距離を置いていた異種族たちが、次々と人間の側につくようになったのだ。


魔族を取り巻く情勢は、年々厳しさを増していた。


それだけではない。


近頃では、魔族の中にさえ、人間との共存を望む者が現れ始めていた。


争いをやめ、互いを認め合い、同じ大地で生きていく。


彼らは、そんな未来を語った。


だが、魔王は知っていた。


人間と魔族は、決して共存できない。


少なくとも、彼はそう信じていた。


たとえ一時の平和が訪れたとしても、いずれどちらかが支配する側となり、もう一方は虐げられる。


力を持つ者が、持たざる者を従える。


それが、この世界の理だった。


そして今、その力の均衡が崩れようとしている。


魔族が衰え、人間が勢力を増していく。


このままでは、いずれ魔族は人間に屈することになるだろう。


それだけは、認めるわけにはいかなかった。


しかし、魔王には時間がなかった。


預言が正しければ、自分は死ぬ。


そして、息子もまた消えてしまう。


魔族の未来と、たった一人の息子。


その両方を守るために、魔王は一つの決断を下した。


二度目の禁術を使うことを。


薄暗い広間に、魔王が一人立っていた。


床には複雑な魔法陣が刻まれ、その溝を黒い光がゆっくりと巡っている。


禁術。


それは、魔王でさえ容易に扱うことのできない魔術だった。


強大な力を得る代わりに、術者は相応の代償を支払わなければならない。


魔王は、その恐ろしさを誰よりも理解していた。


なぜなら、彼はすでに一度、その術を使っていたからだ。


それでも、迷いはなかった。


魔王は魔法陣の中央へと歩みを進める。


そして、代償を捧げた。


自分が愛するものを。


魔法陣が輝き始めた。


床を這う黒い光が幾重にも重なり、やがて広間の中央に人の形を作り出していく。


骨が形を成し、肉がまとわりつき、失われたはずの命が、ほんの一瞬だけこの世に引き戻される。


そこに現れたのは、一人の老人だった。


かつて、魔王が自らの手で殺した預言者。


その男が、再び魔王の前に立っていた。


しかし、蘇ったとはいえ、その姿は生者のものとは程遠かった。


落ち窪んだ眼窩。血の気のない肌。今にも崩れ落ちそうな身体。


預言者は、虚ろな目で魔王を見つめた。


魔王は口を開いた。


「……どうすれば、我が息子は強くなれる」


それは命令でも、脅迫でもなかった。


ただ、一つの問いだった。


預言者の唇が、かすかに動いた。


「……異界へ……」


声はひどく掠れていた。


魔王は眉をひそめる。


「異界、だと?」


「……連れて、行け……」


それだけだった。


問い返す間もなく、預言者の身体に亀裂が走った。


乾いた音とともに、その指先が崩れ始める。


腕が、肩が、そして顔が。


やがて老人の身体は細かな塵となり、暗い広間に散っていった。


あとには、何も残らなかった。


魔王はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


異界。


聞き慣れない言葉ではなかった。


しかし、それがどのような場所なのか、魔王自身にも分からなかった。


そこに何が存在し、何が待ち受けているのか。


それでも、魔王は預言者の言葉に従うことにした。


その言葉に、息子を救うための答えがあるのかもしれない。


その晩、魔王は息子を呼び出した。


広間に現れた少年は、玉座の前で足を止めた。


魔王はしばらく、息子の顔を見つめていた。


亡き妻との間に生まれた、たった一人の子。


その瞳には、いつものように何の感情も浮かんでいなかった。


魔王は静かに口を開いた。


「異界へ行け」


少年は父を見上げた。


「……異界?」


「ああ。そこで学び、強くなってこい」


魔王が告げたのは、それだけだった。


異界で何を学ぶべきなのか。


何を成し遂げればよいのか。


いつ帰ってくればよいのか。


そんなことは、一つも説明しなかった。


いや、説明できなかった。


魔王自身、異界について何も知らなかったのだから。


それでも少年は、何も尋ねなかった。


ただ静かに、父の言葉を受け入れた。


やがて、少年の目の前に奇妙なものが現れた。


黄緑色の液体だった。


それは宙に浮かび、まるで水面のようにゆらゆらと揺れていた。


しかし、ただの液体ではない。


その奥には、こちらの世界とは異なる何かが広がっている。


魔王にも、その先を見通すことはできなかった。


「行け」


少年は頷いた。


そして、ためらうことなく液体へと足を踏み入れた。


足先が沈み、膝が消え、やがて腰までが黄緑色の中に呑み込まれていく。


少年は振り返らなかった。


未知の世界へ向かうというのに、その足取りに迷いはなかった。


魔王は、その姿を見て安堵した。


息子には、欲がない。


何かを手に入れたいという願いも、何かを失いたくないという執着も。


だからこそ、恐れることもない。


そのことを、魔王は誰よりもよく知っていた。


少年の肩が沈み、顔が液体に呑み込まれようとした、そのとき。


魔王は小さく呟いた。


「……強くなれ」


その言葉を息子に向けて口にしたのは、これで二度目だった。


一度目は、ずっと昔。


魔王が初めて禁術を使った、あの日のことだ。



魔王は、かつて息子に強さを与えた。


禁断の魔術によって。


生まれた息子の魔力は弱すぎた。


その代償として差し出したのは、息子の欲望だった。


何かを欲しいと思う心。


何かを成し遂げたいと願う心。


そして、失いたくないと望む心。


魔王はそれらを犠牲にして、息子に強大な力を与えた。


その結果、少年は何も望まなくなった。


母が死んだときも、そうだった。


少年は泣かなかった。


母に生きていてほしいと願うことも、もう一度会いたいと嘆くこともなかった。


ただ、その死を受け入れた。


母は死んだ。


それが事実であるなら、受け入れるしかない。


少年にとっては、それだけのことだった。


魔王は、そんな息子の姿を見ていた。


そして、理解していた。


息子が悲しまない理由を。


自分が、そうしてしまったのだということを。


だからこそ、少年は異界へ向かうことにも恐怖を抱かなかった。


未知の世界に何が待ち受けていようと、そこに何の感情も生まれない。


生きて帰りたいという願いさえ、彼にはなかった。


魔王はそれを知っていた。


知っていながら、息子を送り出した。


息子が強くなることを願って。


少年の姿が完全に消えると、黄緑色の液体はゆっくりと収縮し、やがて何事もなかったかのように消え去った。


広間に静寂が戻った。


魔王はしばらく、息子の消えた場所を見つめていた。


そして、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。


預言者は、異界へ連れて行けと言った。


息子は、その言葉どおり異界へ旅立った。


これで、あの預言を覆せる。


息子は強くなり、やがて戻ってくる。


そうすれば、魔族の未来も守られるはずだ。


魔王は目を閉じた。


長い間、彼を苦しめていた不安が、ようやく薄れていくようだった。


そして、その夜。


魔王は久しぶりに、深い眠りについた。


これですべてが安泰になる。


そう、確信していた。




_________________




地下鉄というものは、相変わらず居心地が悪い。


この国に来て、どれくらいたっただろうか。それなりに何度も利用してきたはずなのに、どうにも慣れなかった。


窓の外に広がるのは、暗闇ばかりだ。


今、自分がどこを走っているのか。地上では雨が降っているのか、それとも晴れているのか。そんな当たり前のことさえ、ここでは分からない。


何より、この閉鎖的な空間が気に入らなかった。


それなのに、周囲の人間たちは平然としている。


新聞を読む者。携帯電話を眺める者。眠っている者までいる。


よくもまあ、こんな場所で落ち着いていられるものだ。


……いや、待てよ。


俺が落ち着かないのは、単に自然が好きだからなのかもしれない。


木々が風に揺れる様子や、空の色が少しずつ変わっていくのを眺めていると、不思議と心が安らぐ。


そう考えると、地下鉄が苦手なのも納得がいく。


自然か。


人間の作ったものに囲まれて暮らすうちに、かえって自然を恋しく思うようになったのだろうか。


そんな、どうでもいいことを考えていたときだった。


「ルシアン! もう行くの?」


聞き覚えのある声に、思わず振り返る。


そこには、息を切らしたヴァレリアが立っていた。


この四年間で、彼女も随分と変わった。


初めの頃はどこか馴染んでいなかった服装も、今ではすっかり英国の街並みに溶け込んでいる。


もっとも、こうして人目も気にせず大声を出すところは、昔から少しも変わっていない。


「ヴァレリア。わざわざ来たのか?」


「当たり前でしょ? 大学の四年間、ずっと一緒だったんだから」


「……そうか」


四年。


口にすると、妙に長く感じる。


この世界に来たばかりの頃は、一日を過ごすだけでも随分と苦労したものだ。


それが今では、四年もの月日が過ぎている。


「それで、用件は?」


「あなた、昨日なんて言った?」


「何の話だ?」


「今日、何時に寮を出るって言った?」


「十八時」


「で、今は何時?」


「十時だな」


「そこよ!」


ヴァレリアは、待ってましたと言わんばかりに指を突きつけてきた。


「まだ八時間もあるじゃない。一緒に過ごしましょ。最後くらい、いいでしょ?」


「別に構わないが……」


「それに、次はいつ会えるか分からないんだし」


その言葉に、返事が詰まった。


彼女と過ごすのが嫌なわけではない。


むしろ、その逆だ。


ヴァレリアは俺にとって、初めて好きになった相手だった。


だからこそ、困る。


これ以上、一緒に過ごしたところで何になるのだろう。


もう答えは分かっている。


それなのに、まだ何かを期待してしまう自分がいる。


できることなら、これ以上傷つきたくはなかった。


「ほら、行くわよ」


「おい、まだ返事を——」


最後まで言わせてもらえなかった。


彼女は俺の腕を掴むと、そのまま強引に歩き始めた。


まったく、昔からこうだ。


人の都合などお構いなしに、自分の思いついたことをすぐ行動に移す。


こういう豪快なところが、俺は少し苦手だった。


けれど。


なりふり構わず、自分の気持ちに正直な彼女のことが、どうしようもなく好きだった。





連れてこられたのは、一軒のカフェだった。


店先に並べられた小さなテーブル。通りに面した大きな窓。扉を開けると、焼き菓子の甘い匂いと、挽きたてのコーヒーの香りが漂ってくる。


見覚えがあるどころではない。


ここは、俺がイギリスに来て初めて訪れたカフェだった。


「懐かしいでしょ?」


ヴァレリアが、どこか得意げに笑う。


「ああ。よく覚えていたな」


「当然よ」


俺は店内を見渡した。


四年前と、ほとんど変わっていない。


あの頃の俺は、この世界について何も知らなかった。


人間の暮らしも、言葉も、社会の仕組みも。


分からないことばかりだった。それなのに何故かこの店に入ってしまった。おどおどした子供が薄い服装で現れたものだから周りは騒然としていた。


そんな俺に最初に手を差し伸べたのが、チャールズ教授だった。


彼は当時、このカフェの客だった。


身元も分からず、行く当てもなく途方に暮れていた俺を見て、捨てられた子供だと思ったらしい。


それからというもの、彼は俺をあちこちへ連れ回した。


役所や病院、それに名前も覚えていないような施設にも、何度となく足を運んだ。


彼が最初にしようとしたのは、俺の身元を明らかにすることだった。


だが、そんなものが分かるはずもない。


何しろ俺は、この世界の人間ではないのだから。


出生記録もなければ、国籍もない。


当然、両親について尋ねられても、まともに答えられるわけがなかった。


イギリスには、Looked After Children という制度上の呼び方がある。


親元で暮らせず、地方自治体の保護下に置かれた子供たちのことだ。


そうした子供の多くは里親家庭で暮らすことになる。


当時、聞いた話では七割ほどだったと思う。


俺も、本来ならそうなるはずだった。


しかし、チャールズ教授は俺を養子として迎え入れた。


彼は妻に先立たれたばかりだった。


今になって思えば、あの決断には様々な感情があったのだろう。


当時の俺には、それがよく分からなかった。


教授は、最初の頃、毎晩のように泣いていた。


夜中に目を覚ますと、隣の部屋から声が聞こえてくることがあった。


大の大人が、誰もいない部屋で一人泣いている。


俺には、それが不思議で仕方なかった。


死んだ者は戻らない。


どれほど悲しんだところで、事実が変わるわけでもない。


そう考えていたからだ。


ところが、ある日を境に、教授は泣かなくなった。


代わりに、俺を叱るようになった。


帰りが遅ければ怒り、食事を残せば注意し、勉強を怠ければ小言を言った。


最初は理解できなかった。


なぜ、俺の行動にそこまで腹を立てるのか。


俺が何をしようと、彼には関係ないはずなのに。


だが、今なら少し分かる。


あれは、愛情だったのだ。


もちろん、当時は別の可能性も考えた。


亡くなった妻に向けられるはずだった愛情が、行き場を失い、たまたま俺に向けられたのではないか、と。


だが、いくら考えても答えは出なかった。


そもそも、人間という生き物は奇妙だ。


身元の分からない子供を、男手一つで育てる。


そんなことをして、彼に何の得があったのだろう。


妻を失った男が、突然子供を連れて暮らし始めれば、周囲から妙な噂を立てられるかもしれない。


研究に費やせる時間も減る。


生活費だって余計にかかる。


面倒なことばかりだ。


それでも、彼は俺を育ててくれた。


学校に通わせ、食事を用意し、時にはくだらない冗談を言って笑わせようとした。


俺が何かを覚えれば、自分のことのように喜んだ。


この国で過ごした四年間、俺は本当に多くのことを学んだ。


歴史や科学、文学、そして人間の社会について。


だが、今になって思う。


愛情にまで理由を求めるのは、案外、馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。





俺は、かつてチャールズ教授が座っていた椅子に腰を下ろした。


向かいにはヴァレリアが座る。


「それで、この後はどうするの?」


注文を済ませるなり、彼女が尋ねてきた。


「とりあえず、ウォータールー駅に行くつもりだ」


「そうじゃなくて」


「違うのか?」


「これから何をするのかって聞いてるの。大学も卒業したんだし」


「ああ……」


少し考えてみる。


しかし、これといって思いつくことはなかった。


「平和に過ごしたいな」


「なにそれ」


ヴァレリアは呆れたように笑った。


彼女の前には紅茶とヴィクトリア・スポンジ・ケーキが置かれている。


紅茶を飲みながら、片手にはケーキを持っている。


器用なものだ。


二刀流、とでも呼ぶべきだろうか。


「逆に、君はどうするんだ?」


「私? 私はとりあえず親のところに戻るわ」


「そうか」


大学の友人たちは、ほとんどが就職先を決めていた。


卒業後の進路を聞かれるたびに、企業名や職業の話が出てくる。


そんな中、俺とヴァレリアだけは、最後まで就職先を決めなかった。


「それがいい。働くにはまだ早すぎる」


「ちょっと! それ、どういう意味よ!」


「大きな物事を成すには、まず親玉から」


ヴァレリアが目を丸くした。


そして、すぐに吹き出した。


「懐かしい! それ、私が前にグループワークで言ったやつじゃない!」


「ああ。いきなりアーサー王の話を持ち出した、とんでもない理論だったな」


「いいじゃない。あれ、結構使えると思うわよ?」


「どこがだ」


「じゃあ、もう一回説明してあげる」


彼女はそう言うと、手に持っていたスポンジケーキを二つに割った。


何を始めるつもりなのだろう。


「いい? 私はアーサー王を倒したいの」


「物騒だな」


「で、こっちがアーサー王」


彼女は大きい方のケーキを持ち上げた。


「こっちが息子のモードレッド」


今度は小さい方を示す。


「さて、私はいつアーサー王を倒すべきでしょう?」


「二人が戦い合っているときだろうな」


「違う!」


「なぜだ?」


「だから、私はアーサー王を倒したいのよ!」


「……なら、アーサー王が死んだときか?」


「正解!」


ヴァレリアは満足そうに頷いた。


「大きな物事を成すには、まず親玉からってことよ」


思わず鼻で笑ってしまった。


「俺も君みたいな、スポンジケーキ並みに柔らかい脳みそが欲しいものだ」


「喧嘩売ってる?」


「そもそも、アーサー王が死んでからでは意味がないだろう」


「分かってないわね」


彼女は人差し指を立てた。


「息子は、いずれアーサー王みたいになるのよ。つまり、第二のアーサー王ってわけ」


「ほう」


「だったら、息子が成長する前に倒せばいい。そうすれば、アーサー王を一対一で倒すチャンスが生まれるでしょ?」


「それなら、息子が先に死ぬのも悪くないな」


「もっと現実的に考えて。年齢って大事なのよ。息子が先に亡くなることは少ないわ」


「……そうか」


頭が痛くなってきた。


彼女の話は、いつもこうだ。


ふざけているようで、本人は至って真面目らしい。


しかも、妙なところで理屈が通っているように聞こえるから厄介だった。


もっとも、今回に限っては、どこまで本気なのかさっぱり分からない。


「それで?」


ヴァレリアが、残りのケーキを皿に戻した。


「あなたは何がしたいの? これからの人生」


「君と過ごしたい」


考えるより先に、言葉が出ていた。


彼女は一瞬だけ黙った。


しかし、すぐにいつもの調子で答えた。


「無理よ。前にも言ったでしょ。私は誰とも過ごせないの」


「その性格じゃ、そうだろうな」


「失礼ね」


彼女も鼻で笑った。


「そういうことじゃなくて、真面目に聞いてるの」


「俺も真面目に答えたつもりだが」


「じゃあ、もう一回。あなたは何がしたいの?」


「だから、平和に過ごしたい」


「分かったわ。職業で答えて」


随分としつこい。


俺は窓の外に目を向けた。


道行く人々の姿を眺めながら、以前読んだ本のことを思い出す。


森の奥に住み、人知れず長い年月を生きる存在。


人間から恐れられ、ときには頼られる。


そんな生き方も、悪くないと思った。


「……魔女、かもな」


ヴァレリアが手を叩いた。


「天才ね!」


「何がだ」


「大学を卒業して魔女になるなんて! エンジニアになるより、よっぽど建設的で自由だわ!」


「褒めているのか、それは」


「もちろんよ」


彼女は笑っている。


俺も少しだけ笑った。


「悪くないだろ、魔女。自然の豊かな場所に住んで、長く生きるんだ」


「それで?」


「長く、平和を味わう」


朝になれば鳥の声で目を覚まし、昼は木々の間を歩き、夜は静かに本を読む。


誰かに命令されることも、争いに巻き込まれることもない。


そんな日々が、何十年、何百年と続く。


想像してみると、随分と魅力的だった。


「でも、魔女って人間を襲うわよ?」


「人間だって人間を襲うだろ」


ヴァレリアの手が止まった。


それまで楽しそうに動いていた口も、静かになる。


「……そうね」


彼女は紅茶の水面に目を落とした。


「魔女、か。いいわね」


少し間を置いて、続ける。


「私も、そうなれたらいいな」


その声は、妙に寂しげだった。


なぜそんな顔をするのか、俺には分からなかった。


ただ、何か言わなければいけないような気がした。


俺はポケットを探り、小さなものを取り出した。


テーブルの上に置く。


金属が木の天板に触れ、かすかな音を立てた。


ビール瓶の蓋だった。


「俺は、これさえあればどこへでも行ける」


「……何それ?」


「魔女でいうところの箒(ほうき)だな」


ヴァレリアは蓋をじっと見つめた。


やがて、何かを思い出したように目を見開く。


「ちょっと待って。それって……」


「ああ」


「まさか、あのときの?」


「そうだ」


「私がべろんべろんに酔っ払って、あなたに『一生持ってなさい』って言ったやつ?」


「よく覚えているな」


「嘘でしょ! 本当に持ってたの?」


彼女は信じられないという顔で、俺と蓋を交互に見た。


「悪くないだろう?」


俺は蓋を指先で転がした。


「これほど思い出の詰まったものも、そうないからな」


「……そうね」


ヴァレリアは懐かしそうに微笑んだ。


「あの夜は楽しかったわね」


「ああ」


「しかも、ちょうどワルプルギスの夜だったのよね」


妙なことまで覚えているものだ。


酔っ払って何を言ったのかさえ曖昧なくせに、そんな細かい日付だけは忘れていないらしい。


「そういえば」


ヴァレリアが、足元に置いていた鞄を持ち上げた。


長く使い込まれた、少しくたびれた鞄だ。


「私からも、もう一つ渡すものがあるの」


「何だ?」


「いいから、ちょっと待って」


彼女は鞄の中をしばらく探り、やがて小さなものを取り出した。


銀色の指輪だった。


飾り気のない、細くて薄い指輪。


光を受けて、控えめに輝いている。


「どう? いいでしょ」


「指輪?」


「そう。お揃いよ」


彼女は自分の小指を見せた。


そこには、同じ形の指輪がはめられていた。


「……どういうつもりだ?」


「何が?」


「付き合ってはくれないのに、こんなものを渡すのか?」


ヴァレリアは呆れたように肩をすくめた。


「ぐちぐち言う男はモテないわよ」


「余計なお世話だ」


「それに、前にも言ったでしょ」


彼女は俺の手を取った。


「どんなに好きな人が現れても、私は誰とも付き合えないの」


その言葉を聞くのは、初めてではなかった。


理由を尋ねたこともある。


けれど、彼女はいつも、それ以上のことを話そうとはしなかった。


そして俺も、無理に聞き出そうとはしなかった。


ヴァレリアは俺の小指に、そっと指輪をはめた。


冷たい金属が肌に触れる。


不思議な感覚だった。


「……また会えたらいいな」


俺がそう言うと、彼女は微笑んだ。


「ええ、そうね」


それから、少しだけ視線を落とした。


「でも、これで会うのは最後よ」


「……そうか」


「なんとなく、そっちのほうがいい気がする」


彼女は窓の外を見た。


通りを歩く人々は、俺たちのことなど気にも留めず、それぞれの目的地へ向かっている。


「きっと、その方がいいエンディングなのよ」


エンディング。


随分と、彼女らしい言い方だった。


俺は目の前のコーヒーを口に運んだ。


いつもより濃い。


苦味が舌に残り、ゆっくりと喉を通っていく。


おそらく、この味は忘れないだろう。


この店の匂いも、窓から差し込む光も。


向かいに座る彼女の姿も。


「でも、最後くらいは笑顔で別れましょう」


ヴァレリアは笑っていた。


いつもと同じ、明るい笑顔だった。


それなのに、俺はどうしていいのか分からなかった。


笑えばいいのだろうか。


それとも、悲しむべきなのだろうか。


何か気の利いた言葉を返すべきなのかもしれない。


しかし、どれも正しいようには思えなかった。


俺は、人間ではない。


人間たちの暮らしを学び、彼らと同じものを食べ、同じ言葉を話すようになった。


チャールズ教授から愛情を教わり、ヴァレリアを好きになった。


それでも、こういうときに何を言えばいいのか、いまだによく分からない。


彼女は笑っている。


だから、俺も笑うべきなのだろう。


そう思った。


けれど、うまく笑えなかった。


しばらく考えた末に、ようやく一つの言葉が浮かんだ。


それは、かつて愛する人間の最後に告げた言葉だった。


「さようなら」




_________________




ヴァレリアと別れたあと、俺は一人で駅へ向かった。


別れ際に彼女が見せた笑顔が、妙に頭に残っていた。


最後くらい笑顔で別れましょう。


そう言われたのに、結局、俺はうまく笑えなかった。


今さら考えても仕方のないことだ。


俺はポケットに手を入れ、冷たい空気の漂う駅構内を歩いた。


指定されたホームには、ほとんど人がいなかった。


電光掲示板には、見慣れた行き先がいくつも並んでいる。けれど、俺が乗る列車の名前は、どこにも表示されていない。


しばらく待っていると、遠くから車輪の軋む音が聞こえてきた。


やがて、暗いトンネルの奥から一両の列車が姿を現した。


真っ黒な列車だった。


窓も、車体も、光を吸い込んでいるかのように黒い。


周囲の照明が当たっているはずなのに、車体の輪郭さえどこか曖昧だった。


列車は音もなく速度を落とし、俺の目の前で停車した。


これが、元の世界へ帰る唯一の方法だった。


ここに辿り着くまで、随分と苦労した。


異界へ来たときは、何も知らなかった。


どうしてここに来たのかも、どうすれば帰れるのかも。


手掛かりらしいものは、ほとんどなかった。


それでも俺は、この世界の歴史を調べ、古い文献を読み、時には人間の伝承にまで手を伸ばした。


だが、どれも役には立たなかった。


そもそも、人間たちは異界の存在をまともに信じていない。


無理もない。


俺だって、ここに来るまでは人間の世界について何も知らなかったのだから。


そんなある日、突然、俺の前に一人の魔族が現れた。


ミゲルと名乗る男だった。


確か、父の側近にいた魔族だ。


幼い頃に何度か顔を見た覚えがあった。


彼は俺を見つけるなり、深々と頭を下げた。


そして、帰還の時が来たと告げた。


しかし、俺は断った。


理由は単純だった。


その頃には、すでにヴァレリアに恋をしていたからだ。


彼女と一緒にいたかった。


大学を卒業するまで、同じ時間を過ごしたかった。


それだけのことだった。


ミゲルはしばらく説得を続けたが、俺が考えを変えないと分かると、帰還の方法だけを伝えて去っていった。


そのときの彼の表情は、今でも何となく覚えている。


困っているような、諦めているような。


そんな顔だった。


今になって思う。


あのとき、ミゲルが来なければよかったのかもしれない。


帰る方法など、知らないままでいた方が幸せだったのかもしれない。


そうすれば俺は、この世界で生き続ける理由を探していたはずだ。


大学を卒業し、仕事を見つけ、チャールズ教授の家に顔を出し、時にはヴァレリアと会う。


そんな未来も、あったのだろうか。


……いや。


考えても仕方がない。


俺は列車の扉を見つめた。


不思議なことに、この世界を去ることへの未練はなかった。


四年間も暮らしたというのに。


好きな人間もできた。


大切な思い出も増えた。


それでも、ここに残りたいとは思わなかった。


きっと、もう分かっているのだろう。


この世界には、俺が求めるものは何も残っていないのだと。


扉が開いた。


俺は一度だけホームを振り返り、それから列車に乗り込んだ。





帰還は、あっけないものだった。


窓の外を眺めているうちに、景色が変わっていた。


気がつけば、そこは俺の生まれた世界だった。


四年ぶりの故郷。


異界では何もしてなかったと言うのに、魔力が随分と増えているような感覚だった。


それ以外に懐かしい、という感情が湧くかと思ったが、そうでもなかった。


空の色も、漂う魔力の気配も、確かに記憶にあるものだった。


しかし、それだけだった。


俺はそのまま魔王城へ向かった。


城が見えてきたとき、思わず足を止めた。


巨大な城壁。


空を突き刺すように伸びた尖塔。


黒ずんだ石造りの外壁には、長い年月を経たような傷が刻まれている。


幼い頃は、この城が世界のすべてだった。


当たり前のように廊下を歩き、当たり前のように部屋で眠っていた。


だが、今になって見ると、随分と薄気味悪い場所だ。


窓は少なく、城壁は高い。


陽の光さえ拒んでいるように見える。


こんな場所に長く住んでいたら、気が滅入りそうだった。


少なくとも、チャールズ教授の家の方がずっと居心地がいい。


あの家には庭があった。


窓を開ければ風が入り、朝には鳥の声が聞こえた。


ここには、そういうものがない。


城門へ近づくと、門番がこちらを見た。


一瞬、槍を握る手に力が入ったように見えたが、俺の顔を確認するなり、その場に姿勢を正した。


「……お帰りなさいませ」


それだけだった。


身分を証明するものを求められることも、帰還の理由を尋ねられることもなかった。


四年も経っているのに、よく覚えているものだ。


俺は軽く頷き、城内へ足を踏み入れた。


広間には、ミゲルが待っていた。


「ルシアン様……!」


俺の姿を見るなり、彼は大きく息を吐いた。


その表情には、はっきりと安堵が浮かんでいた。


魔族にしては、随分と感情の分かりやすい男だ。


「久しぶりだな、ミゲル」


「お待ちしておりました。本当に……お待ちしておりました」


彼は何かを言いかけ、口を閉じた。


そして、少しだけ俯いた。


「父上が……」


その先を聞くまでもなかった。





父は、大きな寝台に横たわっていた。


幼い頃に見た姿とは、随分と違っていた。


かつては広間に立つだけで周囲を圧倒していた男が、今では身体を起こすことさえ難しいらしい。


頬は痩せこけ、呼吸は浅い。


それでも、俺が近づくと、父はゆっくりと目を開いた。


「……帰ってきたか。我が息子よ」


懐かしい声だった。


以前よりも、ずっと弱々しくなっていたが。


「ただいま戻りました」


俺は寝台の傍らに立った。


父の顔を見て、すぐに理解した。


もう長くはない。


こういう姿を見るのは、二度目だった。

あの時は人間だった。


あのときも、身体は少しずつ弱り、やがて動かなくなった。


そして、二度と目を開けることはなかった。


だから、父がこれからどうなるのかも、おおよそ想像がついた。


けれど、不思議と心は動かなかった。


悲しいとも、寂しいとも思わない。


ただ、父が死にかけている。


それだけの事実が、そこにあった。


父は俺を見つめ、震える唇を動かした。


「今こそ……我が魔族が繁栄する時だ」


その声には、かつての威厳がわずかに残っていた。


「我に……それを見せてくれ」


俺は何も答えなかった。


魔族の繁栄。


父は昔から、そのことばかり考えていた。


だが、俺にはよく分からない。


なぜ、それほどまでに繁栄を望むのだろう。


何を手に入れれば満足するのか。


どれほど強くなれば、安心できるのか。


父の願いは、俺には理解できなかった。


だから、返す言葉も見つからなかった。




その晩のことだった。


部屋で一人過ごしていると、突然、扉が激しく叩かれた。


「ルシアン様!」


ミゲルの声だった。


「どうした?」


扉を開けると、彼はひどく青ざめていた。


「大変です! 魔王様の魔力が……!」


それ以上の説明を待たず、俺は廊下へ出た。


ミゲルの後を追い、父の寝室へ向かう。


城内は妙に騒がしかった。


廊下を走る足音。


慌ただしく行き交う使用人たち。


誰もが何かに怯えているようだった。


どうやら、父の魔力に異変が起きているらしい。


しかし、俺にはそれがよく分からなかった。


長い間、魔力に触れない生活を送っていたせいだろうか。


この世界にいた頃なら、少し離れた場所からでも感じ取れたはずの気配が、今ではひどく曖昧だった。


寝室に入ると、父は先ほどと同じように横たわっていた。


ただ、その呼吸はさらに弱くなっていた。


「父上」


声をかけると、父はうっすらと目を開いた。


そして、俺の腕を掴んだ。


驚くほど冷たい手だった。


「……お前が、帰ってきてくれて……よかった」


父は息を整えながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「お前に……我の魔力のすべてを託す」


「……」


「そして、代々の魔王に受け継がれてきた……この指輪も」


父は震える手を持ち上げた。


そこには、一つの指輪があった。


魔王の証。


この城にいた頃、何度か見たことがある。


「すべては……魔族のために……」


父の手から、魔力が流れ込んできた。


熱いとも、冷たいとも違う。


身体の奥へ、何かが静かに染み込んでいくような感覚だった。


膨大な力だった。


父が長い年月をかけて蓄えてきたもの。


それが今、俺の中へ移されていく。


やがて、父の手から力が抜けた。


掌には、指輪が残されていた。


「魔王様……」


隣に立つミゲルが、小さく声を漏らした。


今にも泣き出しそうな顔だった。


俺は受け取った指輪を見つめた。


そして、右手の指にはめた。


左手の小指には、ヴァレリアからもらった銀色の指輪がある。


右手には、父から受け継いだ魔王の指輪。


二つを見比べてみる。


まるで違うものだった。


片方は、何の力も持たない、ただの銀の輪。


もう片方は、魔族の頂点に立つ者だけが受け継ぐ指輪。


それでも、俺にはどちらも同じように重く感じられた。


「……父上?」


呼びかけても、返事はなかった。


父は、もう動かなかった。


こうして、魔王は死んだ。




魔王の死は、瞬く間に魔族全体へと伝わった。


翌日には、各地から有力な魔族たちが城へ集まり始めた。


見覚えのある顔もいれば、初めて見る者もいた。


彼らは俺を見るなり頭を下げ、次々と忠誠を誓った。


父が死んだというのに、悲しむより先に、新たな魔王の話をする者もいた。


もっとも、魔族にとっては、それほど珍しいことではないのかもしれない。


王が死ねば、次の王が必要になる。


ただ、それだけの話だ。


俺が魔王になるための手続きは、すぐに始まった。


とはいえ、やることのほとんどは形式的なものだった。


古い言葉で書かれた誓約を読み上げ、見知らぬ魔族たちの前に立ち、何度も同じような儀式を繰り返す。


一つ終われば、また次がある。


魔王になるというのは、随分と面倒なものらしい。


その儀式は、三日三晩続いた。


そして、最終日。


俺はようやく、すべてが終わったことを知った。


いや。


終わりが訪れた、と言うべきなのかもしれない。


勇者が現れたのだ。





城内には、炎が広がっていた。


壁を這うように燃え上がる焔が、石造りの廊下を赤く照らしている。


床には、何人もの魔族が倒れていた。


血の匂いと焦げた臭いが入り混じり、息をするだけで喉が痛んだ。


その中央に、一人の人間が立っていた。


剣を握り、こちらを見据えている。


勇者。


魔王を討つために現れた、人間たちの希望。


俺は初め、その勇者を迎え撃つつもりだった。


魔王になった以上、そうするのが当然なのだろう。


父から受け継いだ魔力を使えば、少なくとも簡単に負けることはないはずだ。


そう考え、右手に力を込めた。


だが。


その顔を見た瞬間、力が抜けた。


「……ヴァレリア?」


彼女だった。


つい数日前まで、同じカフェで紅茶を飲み、くだらない冗談を言い合っていた女。


俺が初めて恋をした人間。


ヴァレリアが、剣を持って目の前に立っていた。

だが彼女の顔は現実を受け入れられていなさそうだった。


炎が揺れる。


周囲には、倒れた魔族たち、人間の身体が転がっている。


それでも、俺たちはしばらく動かなかった。


ただ、互いを見つめていた。


彼女の指には、銀色の指輪があった。


俺の左手にも、同じ指輪がある。


炎に照らされ、二つの指輪が小さく輝いていた。


運命は残酷だった。


"強くなるためには異界に行け"


これは俺に限った話ではなさそうだ。

だから彼女もあそこに居たのだろう。勇者として力をつけるために。


「……だから、言ったのよ」


ヴァレリアが口を開いた。


その声は、驚くほど冷たかった。


「もう会わない方がいいって」


俺は何も答えなかった。


彼女は続けた。


「これが、いいエンディングなの」


エンディング。


カフェでも、同じ言葉を使っていた。


「ゲームだって、そうでしょ。魔王は最後に必ず死ぬ。そして勇者が凱旋して、物語は終わる」


ヴァレリアは、ゆっくりと剣を持ち上げた。


その切っ先が、俺に向けられる。


「……逃げるなら、今よ」


俺は首を横に振った。


「お互い、立場があることくらい分かっている」


「……」


「俺の首を持って帰れ」


ヴァレリアの表情が歪んだ。


「そうしなければ、君が危ない」


魔王を討つために来た勇者が、魔王を逃がした。


そんなことが知れれば、彼女はどうなるのだろう。


少なくとも、今までどおりの生活は送れないはずだ。


俺は、それを望まなかった。


「なら……!」


ヴァレリアが声を張り上げた。


初めて聞く怒鳴り声だった。


「なら、正々堂々と戦ってよ!」


彼女の手が震えている。


剣先も、小刻みに揺れていた。


「私は……私は!」


そこで言葉が途切れた。


彼女の目から、涙が溢れた。


一粒、また一粒。


頬を伝い、床へ落ちていく。


まるで、周囲で燃え盛る炎を消そうとするかのように。


「私は、あなたを斬れない!」


その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。


彼女は、俺を殺したくないのだ。


勇者としてここに来たのに。


魔王を討つことが、彼女の役目であるはずなのに。


それでも、俺を斬ることができない。


……まったく。


人間というのは、本当に奇妙な生き物だ。


俺は、できるだけ優しい声を出そうとした。


魔族としてではなく。


魔王としてでもなく。


ただ、彼女と四年間を過ごしたルシアンとして。


「大きな物事を成すには、まず親玉から」


ヴァレリアは何も言わなかった。


ただ、涙を流していた。


俺は一歩、彼女に近づいた。


彼女は動かなかった。


もう一歩。


剣の切っ先が、俺の胸に触れる。


そして俺は、その剣を掴んだ。


ヴァレリアが目を見開く。


「……ルシアン?」


俺は、そのまま剣を自分の心臓へと突き立てた。


鋭い痛みが走った。


身体の奥を、冷たいものが貫いていく。


足元がふらついた。


「……何を……」


ヴァレリアの声が震えていた。


俺は彼女を見た。


「俺が魔王で、よかった」


「……何、言ってるの」


「君を傷つけずに済んだから」


その瞬間、膝から力が抜けた。


ヴァレリアが慌てて俺の身体を支える。


「馬鹿なこと言わないで……!」


彼女は剣から手を離し、俺の傷口に触れた。


「お願い……治って……!」


必死な声だった。


どうやら、回復魔法を使おうとしているらしい。


こんな状況だというのに、少しおかしくなった。


「……魔王に回復魔法を使う勇者が、どこにいるんだよ」


「黙って……!」


「これでいいんだ」


「よくない……!」


「これで……」


言葉を続けようとしたが、うまく声が出なかった。


身体が重い。


指先から、少しずつ感覚が失われていく。


ヴァレリアは俺の頭を抱きかかえた。


何かを必死に呟いている。


俺の名前だろうか。


それとも、何か別の言葉だろうか。


もう、よく聞こえなかった。


視界がぼやけていく。


燃え盛る炎も、崩れた城壁も、彼女の顔も。


少しずつ、遠ざかっていく。


そのとき、不意に思い出した。


あの世界で過ごした、四年間のことを。





楽しいことばかりではなかった。


慣れない言葉で授業を受け、理解できない課題に何時間も頭を悩ませた。


チャールズ教授には、何度も勉強をさせられた。


ときには、嫌がらせをしてくる人間もいた。



それでも。


友人たちとパーティーをした。


試験前には、眠い目をこすりながら一緒に勉強した。


近くの国へ旅行に出かけたこともあった。


ヴァレリアとくだらないことで言い争い、彼女の理屈に何度も頭を抱えた。


そして、チャールズ教授と湖畔を歩いた。


水面に映る夕日を眺めながら、人生について話したことがある。


あのとき、教授は何と言っていただろう。


確か、運命についての話だった。


人は、自分の運命を選べるとは限らない。


望まない出来事も起こるし、どれほど努力しても変えられないことがある。


それでも、自分に与えられた人生を愛することはできる。


そんな話をしていた気がする。


当時の俺には、よく分からなかった。


なぜ、望んでもいない運命を愛さなければならないのか。


不幸な出来事まで、受け入れる必要があるのか。


理解できなかった。


だが、今なら少しだけ分かる気がした。


俺は魔族として生まれた。


魔王の息子として育ち、父の命令で異界へ送られた。


自分で選んだわけではない。


そして今、魔王として死のうとしている。


これもまた、自分が望んだ運命ではなかった。


それでも、悪くない人生だったと思う。


少なくとも、あの世界に行かなければ、チャールズ教授にも、ヴァレリアにも出会えなかった。


人間を好きになることもなかっただろう。


誰かと過ごす時間が、こんなにも大切なものだと知ることもなかった。


俺は今、好きだった人の腕の中にいる。


彼女は泣いている。


俺は、もうすぐ死ぬ。


それなのに、不思議と後悔はなかった。


自分の人生を締めくくるには、これ以上ない場所なのかもしれない。


……ああ。


そういえば。


チャールズ教授。


あなたに、まだ伝えていないことがありました。


あなたが言っていたように、俺は自分の運命を愛しました。


この先、あなたにもう一度会えるのかは分かりません。


死んだあとに何があるのかも、俺には分かりません。


けれど。


もし、もう一度同じ人生を歩むことになったとしても。


俺はきっと、あなたに会いに行きます。





_________________






死んで、生まれ変わって。


あれから、いったい何年が経ったのだろう。


数えるのは、とうの昔にやめてしまった。


結局、俺は前世の記憶を残したまま、再びこの世界に生まれてしまった。


それも、また魔族として。


せっかく生まれ変わるのなら、人間になってみたかったものだ。少なくとも、今度こそ普通の家庭に生まれてみたかった。


もっとも、生まれる場所を選べるわけでもない。


こればかりは、どうしようもなかった。


ただ、幸いなことに、今の俺には魔王の息子という肩書きがない。


身分も、地位も、家名さえも持たない。


森で生まれ、妖精たちに囲まれて育った。


朝になれば木漏れ日で目を覚まし、昼は川辺で本を読み、夜には妖精たちのくだらない話に付き合う。


腹が減れば木の実を食べ、眠くなれば眠る。


誰かに命令されることもなければ、魔族の繁栄を背負わされることもない。


実に素晴らしい生活だった。


かつて俺が望んでいたものが、ようやく手に入ったわけだ。


近くには小さな村があった。


森から少し歩けば辿り着ける、ごくありふれた村だ。


最初の頃は魔族であることを警戒されたものの、今では村へ行けば誰もが気軽に声をかけてくれる。


魔女と呼ばれることにも、すっかり慣れた。


どうやら、この百年で世界は随分と変わったらしい。


かつて魔王が死んだあと、統率を失った魔族たちは各地で暴れ回ったという。


それまで絶対的な力によってまとめられていた者たちが、突然その支配を失ったのだ。


当然と言えば、当然なのかもしれない。


だが、争いが永遠に続くことはなかった。


やがて、一部の賢い魔族たちが、人間との共存を選び始めた。


最初は小さな集落からだったらしい。


交易が始まり、互いの土地を行き来するようになり、少しずつ争いが減っていった。


もちろん、今でもすべての魔族と人間が仲良く暮らしているわけではない。


それでも、かつてのように、種族が違うというだけで剣を向けられることは少なくなった。


父が決して実現できないと考えていた世界。


それが、今では当たり前のものになりつつある。


皮肉な話だ。


そして、その平和を築いた人物として、今も語り継がれている英雄がいた。


かつての勇者。


ヴァレリア。


彼女の名前は、今では子供でさえ知っている。



村の広場には、大きな銅像が建っている。


剣を掲げ、遠くを見据える一人の女。


台座には、勇者ヴァレリアの功績が刻まれていた。


俺はその前で足を止めた。


「……こんな顔じゃなかったよな」


思わず、独り言が漏れた。


確かに、立派な銅像ではある。


堂々とした姿勢に、凛々しい顔つき。今にも剣を振り下ろしそうなほど勇ましい。


だが、俺の知っている彼女は、もう少し表情が豊かだった。


笑うときは大きな口を開けて笑い、怒るときは遠慮なく怒鳴った。


それに、こんなに上品な顔をしていただろうか。


少なくとも、スポンジケーキを二つに割ってアーサー王の話を始めるような女には見えない。


百年も経てば、人の顔など正確には伝わらないものなのだろう。


俺は少し笑った。


しかし、一つだけ、見覚えのあるものがあった。


銅像の小指。


そこには、細い指輪がはめられていた。


何の装飾もない、銀色の指輪。


俺はしばらく、それを眺めていた。


顔は違うかもしれない。


けれど、あの指輪だけは、間違いなく彼女のものだった。


「ねえ、ルシアン!」


突然、背後から声をかけられた。


振り返ると、村の少女が立っていた。


まだ幼い、いつも元気な娘だ。


「何を見てるの?」


「……何を見てるんだろうね」


「え?」


少女は首を傾げた。


どうやら、俺の返事が気に入らなかったらしい。


「変なの。それよりさ!」


「何だ?」


「また、あの綺麗な青いお花出して!」


彼女は両手を差し出し、期待に満ちた目で俺を見上げた。


以前、魔法で青い花を咲かせてやったことがある。


それ以来、顔を合わせるたびに同じことを頼まれるようになった。


まったく、一度親切にするとこれだ。


「魔女は忙しいんだよ。あっちに行った」


「嘘つき!」


「失礼な」


「だって、いつもグータラしてるだけじゃん!」


なかなか鋭い。


確かに、ここ最近は昼寝をしているか、本を読んでいるかのどちらかだった気がする。


だが、それの何が悪いのだろう。


「グータラできるっていうのは、一番幸せなことなんだよ」


俺は笑いながら、少女の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「もう! 髪がぐちゃぐちゃになる!」


少女は慌てて俺の手を払いのけた。


そして、頬を膨らませる。


その怒った顔を見て、ふと懐かしい気持ちになった。


彼女に似ている。



「魔女は変わってる人しかいないって聞いたけど、本当にそう!」


「そうか?」


「そうよ! みんなグータラばっかり!」


それだけ言うと、少女は走り出した。


少し離れたところで振り返り、あっかんべーをしてみせる。


そして、そのまま村の通りへ消えていった。


「……元気なものだ」


俺は小さく笑った。


ああいう子供は、きっと長生きする。


根拠はないが、何となくそんな気がした。


再び銅像を見上げる。


ヴァレリアは、相変わらず勇ましい顔で遠くを見つめていた。


「……さようなら」


それだけ告げて、俺は広場をあとにした。




村の外れには、一軒の魔導具屋がある。


村で唯一の店だ。


古びた木製の看板には、今にも消えそうな文字で店の名前が書かれていた。


扉を開けると、鈴が軽い音を立てた。


店内には、杖や魔石、用途の分からない魔導具が所狭しと並んでいる。


埃っぽい匂いがした。


奥からは、陽気な歌声が聞こえてきた。


どうやら店主は、今日も機嫌がいいらしい。


「今日もいい歌声だね」


声をかけると、棚の向こうから小柄な男が顔を出した。


「お? ルシアンじゃねえか!」


店主はにやりと笑った。


「だろ? 今日は特に調子がいいんだよ」


「毎回そう言ってる気がするけど」


「毎日調子がいいってことだ。いいことだろ?」


「それはそうだな」


店主は笑いながら、手に持っていた布を置いた。


「それにしても珍しいな。あんたがうちに来るなんて」


「ちょっと、お別れを言いにね」


「……お別れ?」


店主の動きが止まった。


「何だ、どこか行くのか?」


「ああ」


「へえ。魔女ってのは、一度住み着いた場所には随分と固執するって聞いたんだがな」


「合ってるよ」


「じゃあ、何でだ?」


「俺は少し特殊なんだ」


店主はしばらく俺を見つめ、それから大きく笑った。


「はっ! 魔女なんて、みんな変わってるだろ!」


まったく。


今日だけで、同じようなことを二度も言われてしまった。


そんなに変わっているつもりはないのだが。


店主は奥の棚へ向かうと、そこに並んでいた杖を次々と取り出し始めた。


「ほら、見ていけ」


「何を?」


「杖だよ、杖!」


あっという間に、カウンターの上が杖で埋まった。


長いもの、短いもの、宝石が埋め込まれたもの。


中には、どうやって握るのか分からないような形のものまである。


「餞別だ。好きなのを一本持っていけ」


「金ならあるさ」


「いらねえよ」


「でも——」


「金があるやつは、カエルなんか買わねえだろ」


「……うぅ」


痛いところを突かれた。


確かに以前、随分と安いカエルを買ったことがある。

あの時は……。


「ほら、遠慮すんな」


「じゃあ、ありがたく」


俺はカウンターに並んだ杖を、一つずつ手に取った。


魔力の通り方。


木材の質。


握ったときの感触。


どれも微妙に違う。


こういうものは、見た目だけでは分からない。


「……うーん」


「そんなに悩むものかねえ」


店主は呆れたように腕を組んだ。


「俺には、杖なんて全部同じに見えるが」


「全然違うよ」


「そうか?」


「杖は俺にとって、足みたいなものなんだ」


「足?」


「ああ。これから長い旅をするなら、なおさら慎重に選ばないと」


店主は首を傾げた。


「へえ……俺にはさっぱり分からんが」


そう言いながら、彼は棚の奥を探り始めた。


「だったら、これなんかどうだ?」


差し出されたのは、一本の古びた杖だった。


木目はすっかり色褪せ、持ち手には妙な曲がり方をした装飾が施されている。


随分と奇妙な形だった。


「……変わった杖だな」


「だろ?」


店主は得意げに笑った。


「こいつはな、勇者が生きていた頃の代物なんだよ」


俺は杖を見つめた。


「……百年前のものか」


「ああ。立派なアンティークだろ?」


「随分と長いこと売れ残っていたんだな」


「余計なこと言うな!」


店主は笑いながら、杖を俺に押しつけた。


俺はそれを受け取った。


軽く握ってみる。


古い割には、悪くない。


むしろ、手に馴染む感覚があった。


「……これにするよ」


「お、決まりか?」


「ああ。売れ残りでも、俺はこれがいい」


「だから売れ残りって言うな!」


店主は声を上げて笑った。


俺もつられて笑った。


そして、彼が別の棚に目を向けた隙に、こっそり魔法を使った。


金貨を二枚。


店主のポケットへ、そっと移しておく。


彼が気づくのは、きっと俺が村を出たあとだろう。


「じゃあ、そろそろ行くよ」


「おう」


店主はカウンターに肘をついた。


「また会えたらな」


「ああ。また会えたら」


「……いや」


店主は少し考え、それから言い直した。


「帰ってこいよ」


俺は振り返った。


「ここは、お前の故郷なんだからな」


故郷。


随分と久しぶりに聞く言葉だった。


俺が生まれた森も、この村も、確かに今の俺にとって大切な場所だ。



「ついでに、俺に不死の魔法でもかけてくれよ」


店主は冗談めかして笑った。


「そうすりゃ、いつ帰ってきても店を開けて待ってられるからな!」


「……欲張りだな」


「商売人だからな!」


俺は笑って、杖を肩に担いだ。


「故郷は、変わるものだよ」


店主は何も言わなかった。


ただ、いつものように笑っていた。


俺は店を出た。


背後で、扉の鈴が小さく鳴った。





さて。


別れの挨拶も済ませた。


荷物もまとめた。


あとは、旅に出るだけだ。


村の馬屋へ向かい、一頭の馬を買うことにした。


これから先、どれほどの距離を進むことになるのか分からない。


歩いていくのも悪くないが、さすがに限度がある。

それに箒で飛ぶのにも長距離だと魔力の消費が激しい。何かあった時に魔力がないと大変だ。



馬屋には、まだ若い少年がいた。


俺が馬を選んでいると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「ねえ、魔女なのにどこかへ行くの?」


「ああ」


「魔女って、ずっと同じ場所に住むんじゃないの?」


「そういう魔女もいるね」


「じゃあ、どうして?」


俺は馬の首を軽く撫でた。


「探し物をしに行くんだ」


「探し物?」


「ああ。あるものを探している」


少年は興味津々といった様子で、俺の顔を覗き込んだ。


「それって、いいもの?」


「……そうだな」


少し考えた。


いいもの。


確かに、そうかもしれない。


少なくとも、俺にとっては何より大切なものだった。


「俺にとっては、とても大事なものなんだ」


「へえ」


「一度、なくしてしまったからね」


「そっか……」


少年は少しだけ残念そうな顔をした。


そして、すぐに笑った。


「見つかるといいね!」


「ああ」


俺は頷いた。


それから、何気なく左手を持ち上げた。


小指を見る。


そこには、何もなかった。


かつて、銀色の指輪がはめられていた場所。


俺は左手を下ろし、新しい杖を握り直した。


これから、長い旅が始まる。


どこまで行けば見つかるのか。


そもそも、本当に見つかるのか。


そんなことは、俺にも分からない。


けれど、今度は自分で決めたことだ。


誰かに命令されたわけでも、運命に従ったわけでもない。


ただ、俺がそうしたいと思った。


それだけで十分だった。


俺は馬に乗り、村の出口へ向かった。


「きっと見つけるさ。たとえ三千里かかっても」






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