第五章 死天使アズリエル
皇都アルディアの西方。
魔王城の最奥、円形の軍議室。
石造りの壁に無数の燭台が並び、揺れる炎が四人の将軍たちの影を壁に踊らせていた。
上座に、魔王が座っていた。
その姿形はごく平均的な人間の成人男性とさほど違いはない。
ただ、その目は、深く、暗く、底が見えない。
長い時間をかけて積み重なった憎悪と絶望が、静かに澱んでいた。
「報告せよ」
低い声が、室内に響いた。
斥候長が膝をついた。
「皇都アルディアの守備兵力、およそ三千。玄鉄盾騎士団は城塞都市カルドナにて古竜と交戦、戦力の半数を損耗しております。城壁の修繕も完了していない箇所が複数。今が好機かと」
また同じ言葉だ、と魔王は思った。功を焦る者が好機と呼ぶ時、そこに慎重さはない。
「守護者はどうした」
斥候長の声が、わずかに揺れた。
「……皇都アルディアに常駐しております」
室内に、沈黙が落ちた。
魔王は指を組み、目を細めた。
「そうか」
そう言って、魔王は黙った。
燭台の炎が、風もないのに揺れた。
魔王は辟易としていた。
幾度となく繰り返される軍議ごっこ。
富を求め、名声を欲し、隣の将軍の失脚を願い、自らの手柄やくだらん思いつきを大袈裟に語る。
弱い者には傲慢に、強い者には卑屈に。
つまり、精神性において、人間となんら変わることのない魔王軍の将兵たち。
人間を根絶やしにするために作り上げた最強の魔王軍。
それが結局のところ、人間社会となんら変わる事ない、くだらないものであることに、魔王は絶望し、疲れていた。
「魔王様」
声を上げたのは魔王軍四大将軍の一人、死天使アズリエルだった。
アズリエルは黒いローブを纏っていた。
長身だが、背が丸く、まるで身の丈を持て余しているようだった。
深くかぶったフードの奥に顔はない。あるのは、爛々と光る二つの目だけ。
手に持つ杖は歩行が困難な老人が持つ杖ではなく、魔力を秘めた宝石に彩られた錫杖。
そしてローブの裾から錫杖を握る手は骨。
彼は魔王軍最高位の死霊術師であった。
「よろしいでしょうか」
「言え」
「我が軍の精鋭、霊体部隊と概念魔導士隊を合わせれば、皇都など一夜で落とせます。この一年、進軍を躊躇われておられですが、何をそれほど慎重になる必要がございましょうか」
将軍たちの間に、微かなざわめきが走った。
魔王は答えなかった。
アズリエルは続けた。
「魔王様は以前より、人間を過大評価なさっておられる。確かに守護者とやらは竜を倒した。しかしそれが如何ほどの事でありましょう。我が軍の兵力は、人間どもの比ではありません。戦闘能力、魔力、そして強靭な肉体、高潔な精神、意思において。それに比べれば人間などは数が多いだけの羽虫にございます」
「アズリエル」
魔王の声は静かだった。静かすぎた。
「お前は人間に殺されたことがあるか」
アズリエルの笑みが、一瞬止まった。
「……それは」
「ない、だろう」
魔王は立ち上がった。
その気配だけで、室内の空気が重くなった。
「俺はある。人間に、全てを奪われた。妻も、子も、名誉も、命すらも」
低く、静かな声だった。静かだが、強い怒りを感じられる声色であった。
「たしかに人間一人一人は虫けら同然だ。だが群れる。組織を作る。そして『物語』を作る。これが厄介だ。奴らは物語によって動く。奴らは意味を作る。どんな残虐にも意味を与え、どんな犠牲にも価値を見出す。神の意志だと言えば殺戮が聖戦になる。正義の名の下にと言えば虐殺が英雄譚になる。尤もらしい物語さえあれば、人間はどんな悪行も正義に変える。そして物語はくだらなければくだらないほど強く人間を狂わせる」
魔王は窓の外を見た。遠く、王都の方角に目を向けた。
「我々も人間と同じ性質を持ってはいるが、その『物語』る力において我々は遠く奴らに及ばない。だから、何があろうと決して人間を侮ってはならない」
アズリエルは膝をつきながらも、その目の奥に納得していない色があった。
「……しかし魔王様。このまま動かなければ、軍の士気に関わります。将兵たちは戦いを望んでおります。そして私めも、この手で魔王様の憂いを払いたいと思っております」
魔王はしばらくアズリエルを見ていた。
「お前は俺の心配をしているのか、それとも自分の名声を守りたいのか」
アズリエルの目が、わずかに揺れた。
「……魔王様への忠誠、それのみにございます」
「そうか」
魔王は視線を窓の外に戻した。
「行け、アズリエル。ただし聞け。守護者には正面から当たるな。古竜を素手で討伐した力を恐れよ。まずはお前の魔術で王都を目覚める事なき深き眠りに誘え。兵士ごと、民ごと、眠らせて、それから攻めろ」
「……御意」
「そして」
魔王の声が、一段低くなった。
「いや……お前の好きに戦うがいい。守護者を討ち取ってみせよ、おそらくそれは出来ぬであろうがな」
アズリエルが顔を上げた。
「……それはなぜでございますか」
「あれは俺と同じだ」
魔王は静かに言った。
「同じ場所から来た。同じように理不尽に死んだ。そして蘇り、人を守護ることを選んだ」
しばらくの沈黙。
「人間を決してみくびるな、人間はくだらない、だからこそ恐ろしい。奴らを突き動かす陳腐な物語を見くびればその時はお前が死ぬ」
アズリエルは頭を下げた。その顔に浮かんだ表情を、魔王は見ていなかった。
軍議室を出たアズリエルは、廊下を歩きながら薄く笑った。
要するに、魔王様は人間に怯えておられる。
いくら強くても所詮は元人間であるな。
しかし、あの方が躊躇おうと、もう進軍の許可は得た。
あとはこの手で人間など取るに足らないと証明するまでのことだ。
特に、野蛮人の如く殴る蹴るしか能のない、頑丈なだけの守護者など、どうとでも料理できる。
なんなら私が魔王様を殺してしまっても別に構わない。
なにやら物語がどうのと理屈を捏ねて格好をつけてはいるが、所詮は人間如きに恐れをなしてるだけではないか。
クク……と笑みが溢れた。
錫杖の音だけが、石造りの廊下に響いていた。




